第25話 そろい踏み
触れるはずだった唇の感触を、記憶の内から探し当てる。それでも足りなくて、歯がゆさに下唇を噛んだ。
月明かりに青白く照らされた煉瓦の一つ一つが儚げで、氷の上に立つように感じられた。一歩、また一歩、確かめるように踏みしめて段を下っていく。
靴底にしっかりと硬い手応えを確認しては満足して、また次の足を振り出して。こんな風にしなければいけないと、解っていたのに。いざ目の前にすると、そんなことは全部ふっ飛んでしまった。
濁ったため息が、うざったく顔を殴る。
「千早。十分だけって、自分で言っといて」
「…悪い」
「今、俺らも店まで行こうとしとったとよ」
階段に座る今井の向こうから、心配そうな面持ちで篠塚も顔を覗かせる。李一郎は目を逸らしながら人差し指の背で、噛んだ痕をなぞった。
「…今井たちが来なくても、ちゃんと邪魔は入ったよ」
「は?」
年末、人波を逆に走る李一郎は、あれから駅で今井に捕まった。補色同士の幾何学模様の縁を押し上げながら、今井は多少苦悶の表情を浮かべている。
「なんだよ」
こんなふざけた眼鏡をしているくせに自分より足の速い今井に、李一郎は舌打ちする。
「いくらなんでも、はあ、短絡的すぎやろ…」
お互い雪に汚れた肩で息をしながら、券売機の前で睨み合う。通行人から邪魔だという視線を痛いほど感じて、今井は李一郎の腕を引っ張った。
「おい!」
「俺も行くけん。今すぐやなくてもいいやろ?」
「は?俺もっ…てなんで、お前まで来るんだよ」
肩を乱暴に払うと、すでに滴となった雪が散る。
「あれ、言っとらんかった?」
次第にリズムを取り戻す二人の呼吸は、李一郎だけ再び乱れることになる。
「俺、就職、春からそっちやけん」
「はあ!?」
ちらちらと集まる行き交う視線に、居づらさを感じるのもまた、李一郎だけ。前に、人混みですっ頓狂な声を上げられるのは嫌だって、言っていたのは誰だっけ。
「篠塚さんの一つ後輩になるんよ。同じ会社の」
「マジかよ…」
李一郎はじっとり嫌そうに、横へ目を逸らす。これ見よがしな反応を、今井は寛大にも見逃してやることにした。
「俺もそろそろ家探さないかんけん、行くつもりやったと。妹の成人式のあと、家族で飯食うけん、その後な」
「何勝手に決めてんだよ…」
「お前絶対暴走するやん」
確信を多分に込めた両目で断言されるが、強く反論できない自分にまたいらいらする。
「あのなあ…」
李一郎はだから、小さく不満を漏らすしかできない。
「俺と篠塚さんで、しっかりブレーキ踏んでやるけん」
「要らん!ってか、お前俺のことダシにしたいだけだろ」
「まあまあ。とにかく今は親孝行しようや」
そして引きずられるようにして、李一郎は実家へ強制連行されたのだった。
「…あいつ、お前以上にむかつくわ」
「え、俺むかつかれてたん?」
しれっと笑顔で言ってのける今井の横に、李一郎は返事もしないままどっかり腰を下ろす。川面を睨み付けるその横顔が、相当不機嫌だなと今井は感じた。
「むかつくって、兼行さん?」
「違うよ。…俺より背え低いくせに」
「俺のが高いやん?」
「だからお前じゃない!」
尖った八重歯をむき出しに、今にも噛みつきそうな李一郎を今井が宥める。なおも忌々しそうな眼射しは、黒い川に浮かぶ、先刻の奴の表情に突き刺さっていた。
「で、兼行さん、どうやったと?」
獰猛な獣に怯える篠塚は、それでも今井の影からそろっと関心を寄せる。四つの瞳が一点に集中して、この遊歩道へ刹那的に夜の寂しさが降りてきた。
無言を貫く自分を後ろから突き落とすような風に、李一郎は頬を歪めながらさや果の泣き顔を思い出す。ボソリと呟いた声は、そのまま水底に沈んでいった。
「…難しいこと、訊くなよ」
翌日は土曜だったので、最奥の席はフルメンバーだった。杏平ののろけ話を聴くために、夕方の早い内から集まったというのに、とんでもない展開に一同は目をまあるく、ぱちくりさせる。いじり倒す気満々だった三人は、杏平から滲み出る何かしらのオーラに、わずかに仰け反った。
「美乃梨の言ってたの、的中じゃん」
「え?…ああ、一筋縄じゃ、ってアレのこと?」
「それでオレ、前に発破かけたんだけどさ」
「私もここまでとは思ってなかったけど…」
対面でひそひそ交わすカップルに、杏平は一瞥くれてやる。
「聞こえてます!」
「あは、ごめん…」
絶対に譲らないと拳を固くする半面杏平は、あの瞳とやり合うだけの強さとか、自信とか、武器だとか。そういったものが自分のどこにあるだろうと、虚ろな不安に苛まれていた。じんわり力の抜けていくこの手のひらに、何も見出だせない。
自分の知らないところで、あの瞳を受け止めて彼女とあいつは、どれだけ二人の時間を積み重ねてきたのだろう。それすら分からないのに、出会ってふた月程度の自分が太刀打ちできるのか。
そもそも、好き合っていた二人が仲直りすると言うなら、自分の入り込む隙など、無い。それこそ昨夜、奴に無言でそれを示された。高みから。
「…」
暁奈は頬杖をつきつつ壁に預けた上体を、ゆっくり起こす。
「圧倒的な時間の差、あと身長差」
器用に片手で二つの串を交互に食みながら、ともなく呟く。裸になった串は二つとも、鋭利な槍となって杏平に突き刺さった。
「う…やっぱり背は高いほうが良いんですか…」
「人それぞれでしょ、そんなもん。あたし昔、自分より低い人と付き合ってたし」
「さや果さんがどうかってことです…」
杏平はただ、しぼんでいく泡を見つめる。暁奈は多少むっとしながらも、隣の杏平に励ましの目線を送る。
「気にしてたとしたらそもそも、土俵に立ってないんじゃない?」
「え?」
「ゆいちゃんの宣戦布告に、相手は乗っかった。てことは、少なくともライバル認定は済んでるんでしょ」
「…なんかそれ、複雑です…」
杏平は項垂れる。
奴を通して彼女を推し量らなければいけないとは。そういえばまだ恋敵の名前も知らない。彼女にあんな顔をさせた、あいつの顔を頭の中でくしゃくしゃに丸める。それでも、彼女を乱せることが心ならずも羨ましく、強烈に妬ましい。
「…その人の中に居続ける男って、どんな奴なんでしょうか」
ただの山吹色に、情けなく沈みゆく自分の顔。少なくともこれでは、彼女の記憶にいつまでも刻まれるような男とは程遠いと杏平は感じた。ため息に表面は揺らめいて、その輪郭を成さなくなる。
「それだって、人それぞれでしょうよ」
話が話だけに、今はさや果を呼びづらい。彼女のほうも、なるべくこちらを見ないようにしているようだ。いつもならこの段階になる前に、最良のタイミングでおかわりを聞きに来てくれるのにと、暁奈は嘆息する。ジョッキの底に小さくまとまった一雫で喉をなんとか潤した気になって、菜摘が来るのを待つしかない。
「…あたしが思い付くのは、付き合いが長かったとか、数え切れない思い出があるとか、会いたくてももう会えないとか、さ」
美乃梨がそっと、音を立てずにジョッキを置いた。暁奈の、休日仕様の濃いアイシャドウが重く一瞬、揺らぐのに呼応するように。
「…なんか久々に、吸いたくなってきたな」
そう言って暁奈の右手はジッポで火をつける仕草をする。それがなんなくできてしまう。物は失くても、癖は残る。
「暁奈さん、煙草やってたんですか?」
最早首を動かす気力も無い杏平は、目だけを横に、その様をいささか驚き見ていた。暁奈はパチンと、蓋の閉まるまでを演じきると、ふっとひとつ、虚空に吐息。
「昔よ、ずうっと」
空のジョッキの底に、何を見ているのか。しかし誰が分かるよりもすぐに、ローズピンクのルージュがニヤリと三日月を作る。
「ああ!あと、初めての相手とか」
「やっやめてください!そういうのは!」
やっと上げた杏平の顔は、猛抗議の真っ赤な色。それを見て暁奈と桃矢はけらけら笑い、美乃梨は聞こえない振りでビールを含む。
「何よ元気あるじゃないー、てかその反応、もしかして?」
「杏平さんって、まさか?」
「なっ、な…!」
横から前からの下卑た笑みに、たじろぐ杏平が椅子から落ちそうになる瞬間、げほっげほっ、と盛大にむせたのは美乃梨だった。
「けほっ。…もう、まだ外は明るいんですよっ」
じろりと諌める美乃梨の視線を、二人はこれまたニヤリと躱してみせる。
「何がー?」
「まだ何も言ってないけど、あたしたち」
「ねー!」
「ねー!」
美乃梨の黒目が横に泳ぐ。そして赤い顔は、二つに増えた。
ガタッ、ガタタッ。
「あれ?やっとうよね?」
隙間だけ宵闇を覗かせた戸の向こうに、数人の人影が見える。土曜のこの時間なのにえんむすびには、他にお客はいなかった。店としては待ち望んだ来客。いつもより数段静かな店内にまで、外の声がよく通る。
「ああもう、貸せ」
まだ記憶に新しいその声を、杏平は聞き逃さなかった。ガタタタ、と開ききってまみえた姿を捕捉した瞬間、抑えきれない。
「いらっしゃ…」
「ああー!おまえッ…!」
兼行の声など吹き飛ばす勢いで、立ち上がり絶叫する杏平の元に、派手な眼鏡をかけた長身の男が、生き生きとした笑顔で歩み寄る。
「ああ!君が!そうなん、君がー!」
「な、なんですか、あなた…」
分かりやすく引いて見せる杏平と、眼鏡の男とを見比べて、桃矢がぽつりと呟いた。
「なんだ。気の良さそうな人じゃん、ライバル」
「この人じゃあない!」
杏平がああも大声を出す様子を、これまで兼行は一度も見たことがなかった。それと遮られたショックで、シンクを拭く手も固まっている。
この一連の会話から、迎え損ねた新規のお客を流し見て、それとなく事情を察してみる。弾き出された答えに、彼は即座に身を翻す。
「…」
出鼻をくじかれてしまった昨日の男は不満げな表情で、おろおろする彼女と共にまだ入り口に突っ立っていた。その後ろからやって来たのは、おっとりとした菜摘だ。
「あら。いらっしゃい、三名様?」
外からたった今戻った彼女は、杏平の爆発を知ることもなく、故にまさかこんなことがあろうとは思うはずもなく、いつも通りにお客を招き入れる。
「菜摘さん、そいつはッ…」
そこでバックヤードの扉が開く。何やら怒号が聞こえて、さや果が少し早めに休憩を終えたのだ。それが杏平のものとまでは分からなかったが。
少し慌てた様子で出てくるさや果と店内で鉢合わせた兼行は一歩及ばず、目を伏せ眉間を押さえた。
「何かあったんですか?」
格子をチラチラと流しながら、さや果は苦い顔の兼行の元へ駆け寄る。
「あっ、さや果さん…!」
昨日の今日の気まずさから、杏平の呼ぶ声に少しかたく身を震わせながらも、振り返ろうとする途中。さや果は、その姿を見つけて足を止める。
「李一郎…」
彼の固く引き結んだ口が開くより前に、二人の視線の通り道を遮断したのは、うるさい眼鏡。
「あ!兼行さん久しぶり!覚えとう?俺のことー」
「えっ?…えー、今井、くん?」
「わ!マジで!聞いた千早?俺のこと覚えとうって!」
見せつけるような長いため息を吐き下ろして、李一郎は応じる気配を一切見せない。最後は舌打ちで締め括る。そのやや後ろで黒髪を短く揃えた彼女が口元を覆って青ざめていた。
「ちょっと眼鏡くん。あたしらに分かりやすく説明してもらえる?」
茶色のロングウェーブを跳ね上げて、暁奈は事態を収拾しようと手を挙げる。あちこちに散らばりすぎたおはじきを、好き勝手に飛ばし飛ばされてもう訳が分からない。責任は元凶に取ってもらおう。
「え!美人のおねえさんからのご指名?俺?俺なの?」
「眼鏡で男って、今ここにお兄さんしかいないから…」
面倒臭そうな桃矢にせっつかれて、派手眼鏡は長身を更に伸ばしてわざとらしく喉を鳴らす。
「んんっ。では!えーと、まず、初めまして。俺たちはみんな、兼行さんの高校の同級生で…あっ、俺は今井雄生って言うんですけど」
うるさいのは声だけでなく、身振り手振りも相当なものだった。一拍置いて今井は、杏平をちらりと見やり、にっと笑う。
「ここの…あれ、名前なんて言うと?」
「…由井杏平です」
不本意だけど、とりあえず素直に従った。なんだか誰かさんに似ていて、逆らえないのだ。杏平は小さな反抗心を飲み下す。
「はい!由井くんと、あっちの彼、千早李一郎くんは、兼行さんを獲り合う仲で」
「ちょっ…!!」
いや、やっぱりだめだ。杏平は思わず飛び出し、今井の口を止めにかかる。と言っても今さら止めさせたところでもう壊滅的に遅くて。泡を食いながら、未だ格子の向こうにいるさや果の表情を窺った。この角度からでは、何も分からない。
そうこうする間にも、調子に乗った今井のまとめ演説は止まらない。
「予想される千早の暴走を止めるために俺は、そこの篠塚智美さんと遠路はるばるやってきたと、そういうわけです」
気の弱そうな彼女は自分が呼ばれたことに気付くと、ハッと肩を立たせて小さくぺこぺこ、お辞儀をしていく。
「では、ここからは質疑応答の時間でーす!」
「調子に乗んな」
ようやく台風の目の一つが口を開いた。李一郎がどす黒い怒気を今井のすぐ背後で解き放つ。
「ええ、俺頼まれただけやし…」
しゅんと眼鏡までをへこませて、今井はそのまま口を閉じた。すると、こんなに静かだったのかと誰もが思うほど、数秒の静寂。
「はいお疲れー。じゃ、ま、飲も!」
歯切れよくそう言って、暁奈はおもむろに立ち上がり美乃梨たちをも立たせると、呆然とする数名の前で、その隣のテーブルを寄せに掛かる。慌てて今井も手伝った。
「いいでしょ、店長?」
「俺はいいけどさ…」
頭を掻きながらやれやれと吐いた兼行を、のほほんとした声が突っついた。
「なあに、どうしたのこれ?」
「聞いてなかったのかよ…痴情が絡まってもつれてんだよ」
「あら大変ねえ、みんなビールでいいの?」
ドリンクカウンターへ入っていく菜摘のにこやかな問い掛けに、代表して答えるのはやっぱり。
「お願いしまーす!!」
「まーっす!」
いつもの暁奈に、新顔のやかましい声が重なる。
「ほら、さやちゃんも!」
格子の向こうから出て来れずにいたさや果は、そうっと顔だけ出したらまず、杏平とばっちり目が合った。お互いの睫毛がどきっと揺れて、へなへなと下に逸らすまで一緒だった。
「ゆいちゃんといつまでもそんな感じじゃあ、あたしらも飲みづらいっての!」
「そーだよー!さや果さん全然こっち来てくんないしー」
そう言って桃矢はてきぱきと、杏平を座らせ、さや果の背を押し、その隣へといざなう。
「えっと…」
遠慮がちに向けられる杏平の視線に気付いて、さや果も数回の瞬きのあと、応える。
「…飲も…っか」
おずおずと向けられるはにかんだ笑顔に、杏平も何かが溶けるように目一杯の笑顔で応じる。
「はい!」
「お!それじゃこっちもー…」
今井が乱暴に李一郎の背中を突き飛ばす。
「いっ!て…」
笑い合う杏平とさや果、そしてそのまた隣に勢いよく手をついたのは、李一郎。
即座に睨み合いを始める杏平と李一郎へ、暁奈と桃矢、今井は豪快な笑いでもって野次を飛ばす。おろおろする篠塚と、やれやれとぼやく美乃梨とが向かい合う。
そして両側からの熱い圧に、さや果はピンと背筋を伸ばす。男たちの火花の導火線上に火種を落とすなんて、無情にも程がある。はらはらと今にも爆発しそう。
その後ろを暁奈は機嫌良く通り過ぎて自席へ戻ると、ぱしぱし掌で横を叩く。
「あたしの隣空いたし、じゃあともみん、ここくるー?」
「え、わ私?あ、はい、ありがとうございます…」
今まで呼ばれたことのないニックネームに戸惑いながら篠塚は、杏平と角を挟んで隣へ。
美乃梨と桃矢は顔を見合わせ頷くと、くっつけた机の向こう側へそのまま並んで腰を落ち着けた。
「ん、あれっ?俺の席無いっちゃけど!?」
「ゆーせーくんは、配膳役!」
「串盛り、上がるぞー」
「ビールも、手伝ってもらえるー?」
「え?あ、はい!喜んで!」
和気あいあいでバチバチを挟んで、目まぐるしいこの夜は更けていく。満席かと思うほどの熱気と盛り上がりの中、さや果にとって休まる心地などしなかった。左右から干上がっていく思いで、とにかく飲んで飲んで、次第にまどろんでいく。
この恋敵顔合わせ会は、閉店時間を少し、いや大分と過ぎても、火花の勢いが衰えることはなかった。薄闇に浮かぶ黄色い明かりはこの日、朝日と初めて対面することに、なるのかもしれない。
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