第24話 烈情

 日常は急に戻ってくる。長い休みに慣れきった身体が、それについて来られるか否かは別として。

 澄んだ青色に泳ぐ雲が、まだ唐紅を抱くより前、えんむすびも今夜の営業に備えていた。まだリズムを戻せていない四肢は懸命に、仕込みをひとつずつ終えていく。

 今日は久しぶりに皆が酒席に揃う。そしてきっと、殊更疲れを感じて帰ってくるに違いなかった。


「そういや、葉子さん、心配してたってよ」

「お母さんが?」

 調理場の電気だけが灯る店内に、二人は並んでいた。兼行は均等に切り分けた肉を、一気に包丁に乗せてバットに滑り落としていく。

「昨夜電話があったらしい」

「え、なんでだろう」

「そりゃ、娘が帰らないってんだから」

 少し諌めるような気配を、彼は語尾に乗せていた。それに気付いてか、さや果は遠慮がちに口を尖らせ、串に刺していく肉を摘まむ指先に瞬間、力を込める。若干不満そうな吐息が漏れた。

「…本当そういうところ、そっくりだよ」

 兼行は諦めの苦笑を浮かべる。手元から視線を動かさずに黙々と作業を続けるさや果の表情に、自身の兄の面影を見て、これ以上は突っつくまいと最後の塊に手を付けた。


 ガタッ、カタタタ。

 二人して音のするほうへ顔を向ける。戸が開いて、ローヒールの太い音がひとつ鳴った。

「あけましておめでとうございます」

 まだピークの日の光を連れて入ってきたのは、短い髪を遊ばせた、五十代に差し掛かろうかという女性。

「お母さん!」

「おめでとうございます、どうされたんですか。いつこっちに?」

 兼行は作業を一旦止めて洗い場へ向かった。手を洗いながらも身振りで、さや果の母、葉子に椅子を勧める。

「あら、菜摘ちゃんから聞いてません?」

「ん…もしかして、ゆうべ電話で…」

「はい、その時に…あ、どうも」

 兼行は葉子からコートを受け取ると、昨夜について記憶を辿る。したたかに酔っていた。菜摘が連絡を忘れるようなことはないので、きっと抜けているのは自分のほうだろう。ハンガーを掛けながら、しまったというような顔をする。

「俺としたことが、昨日は大分飲んでまして」

「急にすみません、お宅よりもこちらのほうが駅から近いので、お先にご挨拶だけと思いまして」

 着席しながら葉子も深々と礼をした。

「それでどうしたの、突然」

 さや果も切りの良いところで、母親とカウンター越しに向かい合う。その顔が、葉子には随分能天気に映る。

「どうしたのじゃないでしょ、昨日も連絡したのに返事もしないで」

「えっ?」

 まだまだ文句を言い足りないといった表情の葉子に押されるかたちで、さや果はジーンズの後ろポケットからスマホを抜き出した。良く確認してみると、確かにメッセージが届いていた。通知に埋もれて気が付かなかったのだろう。

「ああ、ごめん…見てなかった」

 あっけらかんとするさや果の様子に、葉子は大きく息をつき眉根を寄せる。そこへコトン、兼行が湯呑みを置いた。咄嗟に愛想笑いに切り替え会釈を交わし、再びさや果の顔を見上げる。

「何かあったのかと思った…昨今は痴情のもつれとか、色々あるから…」

 さや果はスマホをお尻へねじ込む。

「何それ?」

 一口お茶を啜ると、葉子は何とも言えない表情になる。

「…千早くんが来たのよ、年末に」

 ドクン。

「…え」

「さや果の今の住所を、訊かれたの」

 ドクン。

「…教えたの?」

 さや果は、その語尾が震えていることに気付く余裕もなかった。年季の入った鈍い銀の作業台、その上についた手が、ギギ、とわずかに爪を立てる。

「まさか。そっとしておいてほしいって言ったら、すぐ、帰っていったよ」

「…」

 ぐらっと感じていた目眩が冷たく引けていく。まだ心臓はうるさいまま、さや果は薄く息を吐いた。

「そっか。…ごめんね、心配かけて」

「…いいけど。本当に大丈夫?」

「うん」

 一瞬の間も葉子を心配させるだけなので、とりあえず即答する。大丈夫かと訊かれれば、身体がこんな反応をするくらいだ、おそらくまだなのだろう。気持ちの整理はついていないらしい。そしてそれは、相手にも言えることだとほぼ決定づけられた。


 ぐちゃぐちゃに詰め込んだ箱の蓋が、弾け飛ばないよう必死に押さえつけているこの腕は、もう限界なのかもしれない。この箱を、開けて、もう一度綺麗に仕舞い直さなければ、ずっと後を付いて回るのだろう。新しい箱は、見えない壁の向こう。すぐそこに、あるのに。

 爪を立てたさや果の掌は、うっすら汗ばんでいた。




 受け持っているクライアントの担当者が軒並み有給中で、仕事初めの今日はほとんどやることが無かった。先輩にも「今日くらい早く帰ったら」と優しく微笑まれたので、杏平はお言葉に甘えることにした。帰りの電車がこんなに混んでいるなんて、初めて知った。酒臭い人なんて一人もいないし。


 閉められた戸から漏れ出る、黄色い光と騒ぐ声。そのほとんどは暁奈のものだ。賑やかさに暖簾が小さくはためいているこの景色は、杏平にとってはまだまだ新鮮なものに感じられた。

「ただいまー…」

 開いた戸の向こうは少し煙い。炭火に燻された美味そうな肉の香りを、 杏平は鼻からいっぱいに吸い込む。

「ええーっ!もおそんな時間!?」

 平日に酔いつぶれていない暁奈を見るのも目新しい。そのすっ頓狂な声に、桃矢と美乃梨は同時に腰を回す。

「おお、めっちゃ早いじゃん杏平さん!」

「あら本当。クビになったの?」

「違います!たまには俺だって早く帰ることくらい!…あります…よ」

 そう言いながらも、これより以前にそんな記憶が無いことは、杏平自身が一番良く知っていた。それが、尻すぼみの抗議によく表れている。

「お帰り杏平くん、早いね」

「お疲れ様です」

 忙しく焼き場で手を動かす兼行の後ろ、煙を掻き分けるように首を伸ばすが期待していた人の姿は見つからない。

「…あの、さや果さんは?」

 他にいたお客は一組だけ、修さんと健さんだ。ビールを掲げる二人に軽く頭を下げながら、目はまだ探していた。休憩中だろうか。

「ああ、お母さんが来てるから、休みにしたよ」

「お母さん?誰の?」

「だから、さや果の」

「…えっ!」

 なぜかそわそわし出す杏平に、兼行はふっと微笑いながら言う。

「まだまだ先だろうよ」

 小さな呟きはパチンとはぜた炭に、良い具合にかき消された。

「え?」

「いや、なんでもないよ」

 タレの壺に数本一挙に突っ込むと、くるりと手首を返して皿へ乗せる。

「だから今日は手伝い、いいから」

「えっ、いや、やりますよ!」

「いいから。二人セットだろ、杏平くんも休み。な」

 炭をいじる兼行の、優しい視線がちらりとだけ向けられる。見透かされたようで、少しドキリと肩が上ずりながらも、杏平は礼を言う。今日はなんだか、甘やかされてばかりだ。

「ゆいちゃーん!早くおいでよ!」

「ついでにビール三つね!」

 呼ぶ声に、リュックを抜きながら応える杏平は、くすぐったくはにかんでいた。




 一月は行くとはよく言ったもので、もう半ばを過ぎる頃。すっかり身体のほうも日常に追い付き、休みへの未練も抜けきっていた。

 今夜もえんむすびは通常営業。さや果が最後のお客を見送って、と言ってももちろん暁奈たちはまだ居るのだが、掃除を始めようとしたその時、店の電話が丁度鳴る。

「お電話ありがとうございます、えんむすびでございます」

「さや果ちゃん?こんばんは、菜摘です」

「あれ、こんばんは。こっちに、どうしたんですか?」

「治賢さん、いる?」

 兼行は営業中、スマホはバックヤードに置いている。今はそのバックヤードにいるはずだが、こちらに掛けたほうが確実に繋がると踏んだのだろう。さや果は店内を見渡しながら、待つように伝える。

「叔父さん」

 バックヤードのドアを開ける。

「だから店では…」

「叔母さんから、お電話です」

「菜摘?なんだ?」

 パソコンの打ち込み作業を中断して、兼行はさや果の横をすり抜けて行く。

「さやちゃあーん!もう終わりい?」

「ラストオーダー、さっき聞いたじゃないですかあ」

「今日俺、眠いやー…試験勉強疲れー…」

「眠いのはいつもでしょ」

 わちゃわちゃとするテーブルをさや果が片付け終わる頃、兼行が慌ててバックヤードへ飛び込んで行った。四人はその、開け放たれたままのドアを見つめる。

「何事…?」

 暁奈が言い終わらぬうちに、どうやったらそうなるのか、ダウンジャケットを上下逆さに、腕を通しながら兼行が血相を変えて飛び出して来た。

「悪い、さや果。菜穂が熱出したって」

 スマホを取り出そうとして鞄が無いことに気付くと、バックヤードにとんぼ返り。

「俺病院連れてってくるから、すまんが!」

「あ、はい!あとはやっておきますから、先に上がってください」

「悪いな!頼んだ!」

「お大事に!」

 言う頃にはもう、戸の向こうの暗闇に兼行は消えていた。一瞬の出来事だった。

「はあ、意外ね~」

「あんな兼行さん、初めて見ました」

「この時期だとインフルかもしんないしね」

 台風のような兼行と、上がり込む冷たい風に、三人の酔いも少し醒まされたようだ。最後の一口を流し込むと、暁奈は少しよろつきながらもしっかり立ち上がる。

「よーし、じゃああたしら、帰るわー」

 それを合図に、美乃梨はコートを取りにレジ裏へ向かう。桃矢はだるそうにジャンパーを羽織った。

「え、でももう由井くんも帰ってきますよ?」

「だからよ」

「…?喧嘩でもしたんですか?」

「あははっ、さや果さん、マジで言ってる~?」

 心底可笑しそうに、桃矢が壁にもたれながら腹を抱える。

「え?」

「そんなわけないでしょ、子供じゃあるまいし」

 美乃梨からコートを受け取り着込むと、暁奈はゆるいウェーブをふわっと取り出す。

「…邪魔者は退散ってことですよ。ご馳走さまでした」

「ええっ?」

 珍しい、美乃梨の悪戯っぽい微笑に、さや果は顔をほんのり赤くしながら狼狽える。それを尻目に三人は、颯爽と去っていく。

「それじゃ、おやすみなさい」

「おやすみ~さや果さん!」

「さやちゃん、…今日も良い夜を!」

 ぺこりと浅く礼をした美乃梨の後ろに、派手に手を振る桃矢と含み笑いの暁奈が続く。語尾にハートマークまでを感じるのは気のせいだろうか、いや、きっとそうではない。間違いなく、からかわれているのだ、杏平とのことを。

「な、なんで急に…」

 クリスマスも、年末年始も、皆いなかったはずなのに。どきどきと熱くなっていく胸と顔を交互に抑えながら、夜との境目の向こうで、三人のはしゃぐ声はやがて聞こえなくなった。




 モップをかけ終え、そろそろ時間だな、と時計を見ながらさや果は思った。それまで調味料の補充でもしておこうと、各テーブルの小瓶を集めに回る。これが意外とよく汚れるので、ついでに綺麗にするための布巾と盆を片手に、最初は塩の小瓶から。真新しい布巾で拭き取っては盆へ乗せる。

 一つ終えたところで、背後で店の床を踏む音がした。

 きっと杏平だ。

 さや果は振り返る。でも、あれ、と一瞬、思った。いつもならもっと、

「お帰りなさい、由井くんっ…!」

 敷居を駆け抜けて、乱れた息に懸命に抗って「ただいま」って、元気な声が響くはずなのに。

 ちゃんと、一瞬、そう思ったのに。


「さや果…」


 布巾がぱたりと真下に落ちた。見開いたさや果の両目が捉えたのは、会いたかったけれど、会いたくなかった人。

「なんで…」

 後ずさる脚が触れて、盆がスローモーションで落ちていく。

 カッ、パタタタタララ。

 床に跳ねる震えがおさまると再び、静けさが二人を割る。

「連絡、つかないから」

 薄い氷の上を歩くような足取りで、そうっとゆっくり、さや果のほうへ歩いて来る。それを分かっても、さや果の脚は杭を打たれたように動かなかった。瞳に映る彼の姿が、その赤い髪が、だんだん大きくなっていく。

「…待って…李一郎っ…!」

 弾かれるように身体をひねったときにはもう、遅かった。力一杯右腕を引かれて乱暴に、胸へ、受け止められる。

 心を揺さぶる、彼の匂い。さや果を占領する。これを懐かしいと言うのか、愛しいと言うのか、曖昧に何もかもを分からなくさせようとする。

「離っ…李一郎!」

「いやだ」

 左腕で李一郎の胸を押し剥がそうとしても、大きな右手がさや果のまとめ髪を押さえつける。こんな時に、もろくて儚いものを慈しむように優しくしてやることができるほど、李一郎は成熟していなかった。

 溢れる感情に任せるしかできない。くしゃっと握り締めたさや果の柔らかな黒髪から、パキンと髪留めが弾けた。

 その音にハッと引き戻されたか、やや彼の力がゆるんだ。一瞬だけさや果が上回り、上半身を引き離す。顔なんか見られない。

「…離して」

 李一郎が右手をほどくと、蝶番から真っ二つになった髪留めはまっ逆さま、俯くさや果の頬に髪がまとわりついた。視界が遮られていく。

 このまま全て黒く何も、見えなくなってしまえばいい。

「…」

「…」

 それでも捕まえられたままの右腕は痛いくらいに食い込んで、離す意志など無いと思い知らされる。

「なんで返事、くれなかったの」

「…そっちこそ…」

「…ごめん。俺が悪かった、全部」

 背中にまわされた手は熱くて、焼印のよう。逃げようとすればするほど、強くしるしを押し付けられる。こんなのは卑怯だ。

「…帰って。もう、お店、おしまい、だから」

「さや果っ…」

 ぐっと一層強く、烈しい男の力。か細い腕一本の抵抗など、何の意味も成さない。無理矢理に顔を上げさせられれば、吐息が触れ合いそうなほど近くて、熱情に双眸を縫い留められる。

 地を蹴る忙しない足音が近づいても、今、さや果の耳には届かない。

「やめっ…!」

「ただいまっ!遅くなって…」

「…!」

 息弾む杏平と、乱れた髪越しに視線の衝突。杏平は何が起きているのか、一瞬では理解できない。理解できないけれど、何と呼べば良いのか分からない感情が、ぶわっと急速にせり上がってくるのを感じる。

「由井、くっ…」

 そんな杏平の表情が、揺らめいて溺れて、見えなくなる。

「さや果さん!…おまえ、何やってんだっ…!」

 怒気を滾らせて叫ぶと、杏平はその腕を払いのけ、さや果から強引に離れさせる。食って掛かりそうな杏平の目付きを、李一郎も負けじと見下ろした。

「なに、さや果、もう彼氏できたの?」

 乾いた唇、鋭い目。

「…何言ってるの…由井くんに、失礼じゃない…」

 さや果は人差し指で右目、左目を拭うと、じわじわと痛みの残る右腕を抱えるようにして、顔を背ける。

「ゆい…?男だよね?」

「当たり前だろ!由井は名字!」

 さや果を背に庇うように、杏平は間に割り入る。押し込まれた李一郎の、気を削がれて不満げな口元からは、負けず嫌いがありありと見て取れる。

「なんだ、そっか。…確かに名字で呼んでるんなら、そんなに深い仲じゃなさそうだ」

 正面から杏平を見据える。頭半分ほどの身長差に歯噛みしたのは杏平のほう。

「なっ…そっちこそ、さや果さんとなんの関係があるんだよ!ストーカーなら警察に…」

「約束してたんだ」

「え?」

 さや果の濡れた睫毛が、跳ね上がる。

「や…!」

 震える唇を、髪が打つ。

「結婚の」

「…!」

 どうして今さら、そんなことを、

「…は」

 彼に。

「…っ」

 さや果が顔を上げたら、上下する杏平の肩の向こうから、真っ直ぐ見つめられた。そんな切ない顔も、昔のような穏やかな声も、今はただずるくて。どうしてなのか分からない熱を持った涙が一粒、二粒、頬を転がり落ちていく度また、杏平の後ろ姿が、歪んでいく。

「ケンカ別れしたけど、…やっぱりさや果のこと好きだから。会いに来た」

 杏平ごと突き抜く、直情な想い。彼がもはや自分を見ていないことに、杏平は気付いていた。誰の視線を手繰り寄せているのか、彼女はそれに応えているのか、確かめるのが怖くて後ろを振り返れないだけだった。

「なに…」

「由井くんは?」

 唐突に、飾らないその瞳が向けられて、杏平は目を見張る。

 本気なのだと。

 さや果はずっと、こうして射抜かれていたのだ。圧倒的な何かに、しっかり立っていなければ持っていかれそうな、こんな瞳に。

「なんでそんなに俺に食って掛かるわけ?」

「そっ…れは…」

「もしかして好きなの?」

 杏平の心臓が大きく波打った。ひゅっと、か細い息遣いを、すぐ後ろで感じる。

 どう答えたって、違う。伝えるべき気持ちは、ここで、この人に言うためのものではないから。

「…」

 一瞬も逸らさず、次第に強くしていく杏平の眼光を受けながら、李一郎は確信した。

「…俺のこと」

「は…はあっ!?」

「悪いけど、俺は女の子しか好きにならないから」

「何言って…」

 すっと刃を収めて和らいだ目に、もてあそばれたことが解ると、杏平の全身は一層の怒りを纏う。

「ふざけんな!」

「じゃあ、時間だし…帰る」

 そう言いながらも李一郎は、わめく杏平の横を抜けてさや果の足元で軽やかに腰を落とす。

「ちょっ…」

「これ、ごめん。…今度、買ってくる」

 拾い上げた、クリップの残骸をテーブルに置いた。さや果は下を向いて小さく一度、首を横に振るだけで何も言わなかった。

「おい…」

「じゃあ、…また」

 そんなさや果を見る眼差しはどうしようもないいとおしさに満ち満ちていて、杏平の反発など意にも介さない。自分とさや果の間に、三人目など要らないのだと。入れるものなら入ってみろと。

 それが先刻の宣戦布告への、返事だった。

「…」

 そして李一郎は無表情で通りすぎざま、杏平に一瞥をぶつけてから、少しだけ屈むようにして店を出て行った。


 賑やかさも暖かさも消え失せた、夜と区別の無い冷たい空間で、割れた髪留めが煌々と照らされる。それを見た杏平の頭をよぎるのは、いつかの記憶の中の暁奈。

 ――そんな呑気なこと言って、横からかっさらわれても知らないよー。

「っ…」

 そんなこと、あってたまるものか。

 こればかりは追わずにいられない。この手を、誰にも渡したくない。

 濡れた頬を隠すさや果の手を見つめる杏平の、二つの瞳は、強い気持ちに奥行きを増した。


 誰にも、拐わせない。


「…」

 杏平は、小さく、頼りなく震えるその肩に、自分のコートをそっと掛け、そのまま大切に両手を添えた。

 この想いの温もりを少しずつでも、移していけるよう。

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