第26話 第一レーン、柴犬
最上に凛冽とした、冬の寒気が辺りを埋め尽くす。今日のような日は、好んで出かける人も少ないらしい。雪の話し声さえも聞こえてきそうなほど、通りはじっと静かだった。
そこへ、水晶のようになった路面をパタパタと鳴かせながら慎重に、鮮やかなブルーがゆっくり乗り入れる。近所の子供たちがじゃれて引っ掻き荒らした白の上に、それは停まった。
「はー、まさかこんなに積もるとはね!」
運転席のドアを開ければ一瞬で、黒のコートがぽつぽつ白く霞んで染まっていく。爪先だけで雪面を蹴り、彼はエントランスへ駆けて行った。
何やらドアの向こうが騒がしい。杏平は布団から顔を出すも、毛穴をつままれるような寒さに再び引っ込める。手だけを出して、ぺた、ぺたと、スマホを探し当てると即座に引き入れた。
だいたい九時半。昨夜は帰りが遅く、にもかかわらず一人居座っていた李一郎を追い出すのに苦労したのだ。眠い。休みくらい、寝坊したい。
「おうい、杏平くーん!」
聞こえる、うるさい声。身をよじっても誤魔化せない。ダン、ダダンと玄関を叩く騒音が更に、癖を強くして重なってくる。いい加減覚えて欲しい。
「だから!」
頭まですっぽり覆った布団ごと、ベッドを降りるマトリョーシカのようなフォルム。冷たい床から少しでも体温を守るよう、杏平は爪先だけで玄関まで移動する。
「チャイムを鳴らせって!」
勢いよくドアを開けた。
「いつも言ってんだろ!」
しかし空振り。ノリが軽ければ身も軽い、それが彼だった。
「おお!杏平くん、おはよう!」
「朝から、しかもいきなり」
大袈裟に震えてみせる彼は、杏平を押し退けてポイポーイと、履いていたスニーカーで弧を描く。
「ちょっ勝手に!」
リビングに駆け込む彼の、愕然とする声が響いてくるまでに、ほんの数秒もかからなかった。
「え!全然暖かくないじゃん!暖房どこ!仕事して!」
落ち着きなく部屋をうろうろしながら、彼は苦情を申し立てる。散らかし放題の部屋が余計荒れてしまうではないか。杏平は仕方なしに足元に横たわっていたリモコンのスイッチを入れるが、もうすでに彼の興味は別に移っていた。
「うお!庭!しっろ!誰も踏んでないじゃん!」
興奮の赴くまま、窓を一気に開け放つ。
「っふうー!」
カーテンにカーペットに、ふぁふぁふぁふぁっと雪がへばりつく。
「おい!こら、寒いんじゃなかったのか!」
犬のようとも子供のようとも言い難いが、とにかく無邪気に庭を駆け回る姿に、杏平は脱力する他ない。
「杏平くんもほら!休みに寝てばかりなんて、だらしない!」
「眠いの!俺は!」
何やら窓の向こうが騒がしい。さや果は布団を捲り顔を出すも、寒さに晒されながらまた寝てしまいそう。ゆっくり顔を横にして、壁の時計へと焦点の合わない目を向けた。
十時前。昨夜は杏平と李一郎の睨み合いが続き、結局最後まで見届けたのだった。眠い。もう少し、寝かせて。
「おうい、杏平くーん!」
やっぱり聞こえる。あれは今井の声だろうか。二人そんなに、親しかったっけ。
「んん…」
さや果は気乗りしない身体を励まして、不規則に揺らしながら起こす。ドレッサーの椅子に引っ掛けた、長丈の羽織に袖を通した。手ぐしで髪を二、三度掻いてから、冷気に誘われるように窓辺へ足を向ける。萌木色の向こうは予想通りの白。そろそろと窓を開けた。
「…由井くん?」
「はい!」
そして彼女の目は醒める。知らない男の人が、庭を引っ掻き荒らしていたから。
「え?え、どなた?」
返事をした雪まみれのその人は、杏平でないことは明らか。
「わ!さや果さん!すみませんうるさくて!」
ポイポーイと、杏平の被っていた布団は弧を描く。寝癖の体裁を整えたくてくしゃくしゃとかきまぜるが、余計酷くなったように思う。
それを見てその人は、はっはーんと分かりやすく身振りで反応する。そのがやがやした動きが、なんだか今井を見ているようだと、さや果はやっぱり思った。
「うん…?由井くん、この方は?」
「はい!僕も由井くんなんだよね、由井和実、杏平くんの兄です!よろしくね!」
杏平が口を開くより早く、ものすごく輝く笑顔を見せられて、今日はまだ姿を見せていない朝日かと思う程だ。雪を丁寧に払いながら、和実はさや果のほうへ歩み寄ってくる。
「え、お兄さん?」
「そう!弟がお世話になってます!」
流れる動作の中で握手を求める。
「こら!触るな!」
「いえ、こちらこそ…あ、兼行さや果と申します」
ぺこりと礼をして上体を戻したところで、やっと和実の誘いに気が付いて、さや果は慌てて右手を差し出す。戸惑いの色がまだ拭えずにいるさや果の手を、和実は待ってましたとばかりにもぎ取って、にっこりと握り返した。
「…あれ、前に会ったことある?」
「え?」
「古風なナンパしてんじゃない!」
どどどっと、玄関から自分の靴を持って来て履いて駆け寄って、杏平は和実のすぐ横から吊り上げた両目を向ける。ホールドアップのシグナルを感知して、すぐさま解放。和実は両手を上げた。
「ごめんって!そういうつもりじゃないから!」
そして兄弟は、喧嘩を始める。しかしどうやら攻勢は一方的のようだ。鬼気迫る杏平の追撃を、和実は笑顔のままいとも容易く避けていく。雪飛ぶ光景を、どうしたものかとただ眺めていたさや果は、あっと思い出し声を上げた。
「そうだ、由井くん」
「はい!」
「はい!」
二人して振り返る。倍の気迫にさや果は若干たじろいだ。兄弟は横目で視線を交錯。むっとした杏平に、しかし和実は涼しい顔。
「さや果ちゃん!」
「は、はい!」
文句を言いたげな杏平を片手で制し、和実は不敵な笑みを浮かべる。言いたいことは分かっている。気安く呼ぶなということだろう、と目力だけで推理を披露すると、最早胡散臭さすら感じる笑顔にチェンジ、さや果へと視線を移す。
「僕たちは二人とも、由井くんであるので」
芝居がかった両手をばっと広げる。
「今から下の名前で呼んで欲しい!」
「え?」
「ちょっ…」
杏平はどぎまぎと言葉を失くす。
「杏平くん」
その手は杏平にフォーカスされて、
「和実くん。よろしいかな?」
そして最後は自分の胸へ戻ってくる。
「はあ、お兄さんもですか?」
「もちろん!」
「こら!」
どさくさ紛れの和実のずうずうしさに杏平は、雪を投げつける。ひょいと躱す和実はさや果から全く視線を外していない。その爛々とする目でじっと見つめられると、さや果も数回瞬きする間に頷くしかない。
「…はい、分かりました」
「ええ!?」
杏平は抱えた雪をばっさと落とす。あっさり快諾された。さや果は特段何も感じていないのだろうか。それとは真逆に杏平は、すでにどきどきしているのをいやというほど自覚している。
ファーストネームで呼ばれるのは、初めてではない。初対面のとき一度だけ、幻の「杏平くん」は存在した。でも、あれを日常でやられるとなると。
「よし決まり!兄グッジョーブ!」
自画自賛に酔う和実は、呆けている杏平の横顔に勝利の雪を放った。見事命中するが、杏平のリアクションは皆無。
「それでね、…杏平くん」
杏平は心の臓が破裂するかと思った。その衝撃を吸収しきれない全身が、あちこち軋む。これからは名前を呼ばれるたび生命の危機、とまでは大袈裟かもしれないが、そのくらいの破壊力は確実にある。
ぼたぼたと頬から落下していく雪玉の成れの果てが胴を掠める間にも、どっくどっくと内から叩きつけてくる胸。手を遣りながら噛みしめている。名前を呼ばれるだけでこんな気持ちになるなんて。ぐっと寝間着に寄せた皺が深くなる。本当にこんなことがこの世に起こるのだと、初体験に心が飛んで行かないよう、捕まえておくのに精一杯。
「杏平くん?」
「は、はい!」
だから返事をするのを忘れていた。でもそのお陰でもう一度、甘やかに匂い立つ声に名前を呼んでもらえる。雪に囲まれているのにぽかぽか、熱いくらいだ。
「お店のお湯割りグラス、古くなったから新しくしたいらしいんだけど、明日とか時間あったら下見、手伝ってもらえないかな?」
「もちろん!今日にでも!」
杏平は寒さで縮みきった背筋を一瞬にして伸ばす。意気揚々とした彼と対照的に、さや果は兄弟それぞれの顔を遠慮がちに見比べる。
「でも、今日はせっかくお兄…和実さんも来てるんだし、この天…」
「いいんです、この兄貴は」
さや果の言い終わらぬうちに、足元の雪を蹴散らして、ほんの少しは和実の裾にも一矢報いたかもしれない。あっと両足を順に引き上げ、手でぱんぱんっと叩いてから和実も、にこやかに同調する。
「そう!僕も今日はついでにちょっと寄っただけだから!」
「そうなんですか?」
「うん、予定もあるし、これで失礼するよ!」
ひらりと杏平の部屋に入っていく和実は、目にも止まらぬ速さだったので、さや果と杏平には掛ける言葉もなかった。
「じゃっ!」
最後にぴっと窓から顔だけ出して、どたどたとその物音も、すぐに聞こえなくなる。
「え、ちょっと…」
取り残された、パジャマ姿の二人。びゅおっと風が吹けば、開いたままの窓から雪も入り放題だ。
「わ、もう!閉めてけよ!」
杏平は走り出そうと右足を踏みしめたところで、ぎくしゃくとさや果を見上げる。
「あ、えと、見送ってきます!」
「うん、じゃあ…またあとで」
「はい!」
積雪に背中を擦り付けた柴犬みたい。駆けていくその後ろ姿に、さや果は堪えきれず、ぷすっと笑みを漏らす。そこに折り曲げた指たちを添えると、靴を踏み踏み脱ごうとしている杏平の、心臓をめがけて。
「杏平くん!」
「えっ、あっ、はい!」
どきんっ、と。撃ち抜かれてバランスを崩しながら、杏平が振り向いたら、彼女の屈託なく笑う顔が、真っ白な照り返しでこれ以上無いくらいに澄んでいて。
「雪、いっぱいついてる!」
「え…えっ?」
その顔がふっと横へ流れて、後ろ髪をぽんぽんと触る。その仕草も全部、たまらなく可愛い、から、本当に休まる時がない。杏平は釣られて自分の頭を下から撫で上げると、ひやっとした感触に肩が驚く。
「ふふっ…よく拭いてね!」
しっとりと黒髪の名残を、白い世界に置いていく。さや果が窓の向こうへ帰っても、杏平はひととき、動けなかった。
部屋から出ると、エントランスの奥ではまだ勢いを残した降雪、垣間見える景色も頼りなく、傘を借りればよかったなと、和実は自分の肩越しに閉まったドアを見る。運転席で雪を払うのはまだ抵抗があった。あの車は最近買い換えたばかりなのだ。
諦めてとぼとぼ、エントランスのドアを押したところで、階段を降りてくる話し声に気が付いた。
「あ、こんにちは!」
振り返った和実の笑顔を不思議そうに見返すのは、美乃梨と桃矢だった。
「こんにちは…?」
挨拶に応える美乃梨の横で、桃矢も一応会釈をした。二人の下る足がにわかにスピードを落とす。
「誰だろ?」
「でも下の階は、由井くんの部屋しかないでしょ」
「杏平さんのお客?」
「さあ…」
そこへ、鮮烈な紅がぱっと入り込む。冬の空気がそうさせる褪せた色彩のいつもの景色に、それは大層目を引いた。あんなに派手な傘を差すのは、おそらく暁奈だ。
「ん、あれっ?」
「あ」
エントランスを出ようとはしたものの、やっぱり躊躇していた和実は、暁奈が目の前で歩みを止めたのを見て、自分が入り口を塞いでしまっていることにようやく気付く。慌てて道を譲ろうとするが、暁奈は傘を閉じてぱちっと、その猫目を大きくした。
「ゆいちゃんの、兄くん!」
人好きのする笑顔には見覚えがあった。
「え、あ!…暁奈さん、でしたっけ?」
「そう!さすがねー、覚えてんの。一年ぶり!」
ロング丈のオールインワンについた雪を落としながら暁奈は、一層笑みを華やかにする。
「弟がいつもお世話になってまっす!」
そろそろと階段を降りきった美乃梨と桃矢は、聞き逃せない単語にまじまじと和実を見上げた。
「えっ、由井くんの?」
「お兄ちゃん!?」
「あ、はい!由井和実です。よろしくね!」
風貌は似ているのかもしれないが、何せ杏平はこんな風に、かっと笑ったりしないのでよく分からない。きっと性格は似ていないのだろうと、二人は概ね同じ感想を抱いた。
「春木美乃梨です、いつも由井くんにはお世話になってます」
「御影桃矢です!どうもー」
初対面同士が軽く挨拶を交わしたところで、暁奈はちょいちょいと手招きする。
「今日どしたの?」
「いや、杏平くん、正月帰ってこなかったから様子見に」
「そっか。この時間だと、まだ寝てたんじゃない?」
暁奈は、コンビニの小さなビニール袋を引っ掛けた腕を持ち上げる。スマホを見ると十時をまあまあ過ぎていた。
「うん、叩き起こした!」
清々しい笑顔に容赦の無さを全面に見て、美乃梨と桃矢は未だ掴めない和実の人となりを下からそろっと窺っている。
「昨夜遅くまでバチバチやってたからねえ」
「バチバチ?」
ぱちぱちと目をしばたたかせる和実に、桃矢がニヤリと補足する。
「今ね、女の人、とりあってんの」
「ええ、杏平くんが?」
和実は意外そうに些か上体を反らしてみせるが、すぐにその瞳がくるっと、斜め上に跳ねる。
「その人って、さや果ちゃん?」
「お!あったりー」
桃矢が満面の笑みで拍手する。
「さすが兄くん!察しいいねー!」
「もう、さや果さんにも会われたんですか?」
おお、と感嘆する女性陣を、和実は順番に見やった。
「うん、さっきね。でも杏平くんがライバルと張り合うなんて、想像つかないなあ!」
暁奈は豪快に笑うと、一息だけ唸る。
「ま、ちーちゃんが狼としたら、ゆいちゃんは柴犬って感じね」
「それも豆柴!」
「ちょっと」
たしなめるような美乃梨の視線を、桃矢は舌をちょびっと出して躱す。
「ちーちゃん?」
「さや果さんの元彼だよ。千早さん」
「元サヤ狙ってるのよねー」
「あは、さや果だけに?」
「…ちょっと」
先程より語気強く、というよりも怒気のこもった美乃梨の非難に、桃矢もさすがに肩を竦める。
「へえ、勝ち目あるのかな?」
ダターンと、四人の後方で大きな音。会話は中断され、皆でそちらに注目すると、ドアを開けて出てきたのは杏平だった。
「あれ?」
思いがけずすぐそこにいた和実と、勢揃いの他の面々に目を丸くしつつ、杏平は靴の先をトンとする。
「どうしたんですか、そんなところで変人囲んで」
コートを羽織っただけで寝間着を誤魔化せてもいないまま、杏平は四人のほうへ寄っていく。
「こら杏平くん!皆さんすごく良い人じゃないか!それを、」
「お前だよ」
「ええ!?」
なるほど、なんとなく関係性は見えたぞと、美乃梨と桃矢は横目で意見を一致させる。
「そうだ杏平くん、傘貸してよ」
「え?」
「だってほら、すごい雪」
「さっきあんだけ庭を駆けずり回ってた奴の台詞かよ」
やれやれと回れ右しようとした杏平を、暁奈が止める。
「ああ、いいよ、これ貸したげる」
今しがた使っていた真紅の傘をそのまま、ずいと和実に差し出した。
「え!本当っすかー!あざっす!さすが美人の暁奈さん!」
「いいって。その代わり近いうちまたおいでよね、柴犬の勝ち目、興味あるでしょ?」
「ははっ、了解っす!じゃあ皆さん、また参上しまっすー!」
男性には不釣り合いではという心配をよそに、掲げた傘はよく似合っていた。溶けた粒を振り撒く笑顔は、爽やかスポーツマンのそれだった。
あんなに派手な赤が似合うあたりさすがだなと、口を曲げて杏平は思う。
「気をつけてなー」
杏平の声を合図に、暁奈が軽く手を振ると、美乃梨と桃矢もそれに倣う。あっという間に和実は白の向こうへ消えていった。
皆が手を降ろすと、杏平は不思議そうにポツリと訊いた。
「ドッグレースでも観に行くんですか?」
「ええ?」
「だって、柴犬の勝ち負けとかなんとか…」
桃矢がフフっと、吹き出すのを手の甲で抑えようとしても、間に合っていない。美乃梨が小突く。
「ああ、っはは、あれね、残念だけどゆいちゃんは観れないよ」
「え?」
なぜ桃矢がくっくと笑うのか、暁奈が短く笑い飛ばすのか、杏平にはよく解らない。
「オレ、豆柴に賭けるー!」
「あたしも!」
そう言いながら暁奈は手をひらひらと、階段のほうへ向かっていく。桃矢も美乃梨を促すように、その反対、エントランスへ歩みを始めた。
「んー」
でも美乃梨は少しの間だけ、杏平をじっと見て、
「柴犬…そうね。たしかに豆柴かも…」
「え?」
そのハテナは置いてきぼりに、じゃあ、と頷くように会釈すると、小走りで桃矢を追って行った。
取り残された、パジャマ姿は一人。
「…柴犬、人気だな?」
小首を傾げながら、寒さを思い出したかのように杏平は、自室のドアに吸い込まれていった。
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