第16話 プロセス

 吐息が白い。雪が降るのを今か今かと待ちわびるこの季節。大きなリュックを右に左にと揺らしながら、杏平は駅からまっすぐのこの道を、ひたすら走っていた。街灯と街灯の間を何秒で抜けられるか。八秒、九秒、そして七秒。提灯の灯りはみるみる近づいてくる。

 戸は開いていた。一瞬顔が明るくなる。お客が誰もいないしるしだ。

「お疲れ様です!」

 敷居を跨げば、ついさっきまで店いっぱいに広がっていたような、談笑の余韻を感じた。

「お帰りなさい!」

 丸皿を重ね終えた白い手を、長角皿へ伸ばしながら振り向く。杏平は、そんなさや果の笑顔に出迎えられた。

「今日は早いね」

「一本、早いのに、乗れたんです」

 肩で息をしながら、杏平は動きに合わせてリュックを下ろす。さや果は彼の乱れた前髪を見てくすりと笑うと、手元の丸皿を一山、カウンターに置いた。冷蔵庫の前で軽く屈んでジョッキを取り出し、注いだ冷水と共に戻ってくる。

「走って帰って来たの?」

 すでに一面薄く露の広がったジョッキを杏平の目の前に差し出した。これぞ命の水。

「ありがとうございます」

 前髪をくしゃくしゃと均す手を、杏平はそのまま冷えた取っ手に向かわせた。喉を鳴らしながら半分を流し込む。

「はい、まあ、運動不足解消というか」

 一秒でも早く帰って来たかったなんて、言えなかった。何故と聞かれても、それを正直に伝えることは、まだ自分にはできないから。

 口の端をくりっと上げて相槌を打つさや果の横顔を、杏平はジョッキの上から窺い見た。もどかしさと情けなさを振り払うように残りを飲み干す。その間にテーブルは見事に整頓され、布巾が最後の一角をなぞるところだった。

 バックヤードの扉が開く。

「おー、おかえり、杏平くん」

「お疲れ様です」

 格子の隙間からチラチラと現れた兼行はダウンジャケットを着込み、もちろん前掛けも外していた。左腕を大きく掲げ、ワンショルダーバッグを頭から被るようにして掛けながら、いつもの席の横を抜けてくる。そこは、今日は誰も座らなかったのではないかと思うくらい、綺麗に片付けられていた。

「じゃああと、頼むわ」

「はい、お疲れ様です!」

「お疲れ様です!」

「お疲れー」

 兼行は一時も立ち止まることなく、そのまま二人を順に一瞥して横切っていく。染み付いた煙草の残り香が、その後をついていった。


 最近では、店の閉店作業はさや果と杏平の役目になっていた。あの歓迎会の翌日だったか、さや果に戸締まりを教える兼行から頼まれたのだ。

「え、俺がですか?」

「バイト代はちゃんと払うよ。あと、まかない付き。レジ締めまではやっとくし、杏平くんは掃除と、表の戸締まりだけしてくれればいいから」

「俺はいいんですけど、人手足りてないんですか?」

「いや、単なるわがまま。家族が起きてるうちに帰っとこうってね」

「え、てことは」

「杏平くん、いつも店が終わる頃に帰ってくるだろ。そっからまかない食べて、あとできるところまでさや果を手伝ってやって欲しいな、と」

「そ…さや果さんと俺だけでやるってことですか?」

「ん?ああ。そういうこと」

「やっ…!あ、はい、お任せください!」

「助かるよ。さや果一人じゃあ、さすがに夜は心細いだろうから。頼んだよ」

 杏平にとってはまさに、願ってもない話だった。


「…」

 兼行の後ろ姿を見送ると、杏平は空のジョッキを握り直した。今宵も、ささやかな二人きりの時間がはじまる。と言っても、さや果はもちろん洗い物や掃除で忙しいし、ここで話をする暇はほとんど無い。

 それでも同じ空間にいるだけで杏平は一日の疲れが癒されるようだった。さや果の姿を追いながら頂くまかないの、なんと美味しいことか。

 杏平が会社から帰って来るまではなんだかんだと居座っていた三人だが、今月も半ばに差し掛かるとそれも珍しくなる。暁奈の不在が大きい。この忘年会シーズンにおいて、彼女が毎晩のように飲み歩くのは、いわば自然なことだった。

 そういうわけで、必然的に二人だけになる美乃梨と桃矢は、お決まりのメニューで食事を済ませると、アルコールもほどほどに自室に退いていくのだと言う。いつもの最奥の席がとっくに整えられていたのは、今夜も例に漏れずということなのだろう。

「やっぱり、年末はみんな忙しいんだね」

 そう呟く彼女の横顔は、少し寂しそうに見えた。


 さや果が表へ出ていくと、その足音はじきに不規則なものに変わる。電気が消えて久しい看板を、やっとの思いで入り口まで運んで来たからだ。

「もごっ、俺、やりますから」

 杏平は口一杯に詰め込んだタレ焼き鳥丼をなんとか飲み下す。膝の裏で椅子を弾いて立ち上がり、慌てて外へ向かった。

 急に目の前に現れた杏平に塞がれる格好になり、さや果はその看板を一旦地面に置く。

「あ、大丈夫だよ。ご飯食べてて」

「いえ、こういうのは男の役目ですから」

 少しでも男らしいところを見せようと、杏平は張り切って手を伸ばす。しかし持ち上げる前に、その手はとんぼ返りすることになる。

「タレ、ついてるよ」

「えっ!?」

 さや果は首を傾げて、屈んだ杏平と同じ目線になる。手、腕、胸とわたわた探す様子を掬い上げ見る視線は、そこでピタリと止まった。

「口元」

 ばっと、杏平は急いで拭う。結構な量のカラメル色が、手の甲についた。格好悪い。頼れる男アピールをするどころか、小さな子供みたいなところを見られてしまった。

「す、すみません」

 杏平は俯きながら看板を抱えて、すごすごと店内へ戻っていく。背中からありがとうと聞こえたけれど、退散するのに精一杯だった。


 兼行には、さや果を手伝う代わりにバイト代とまかないまで用意してもらうことになっているが、杏平がやることはほとんどなかった。

 食べ終える頃には、食器洗い機には最後の一回分がすでにセットしてあるし、調理台は綺麗に拭いてある。調味料セットもこまめに補充しているらしく、床のモップ掛けも終わりが見えるところまで済んでいて。

 営業中にできることは終えてあるのと、さや果の手際の良さが光る仕事ぶりだ。杏平は大体いつも、軽く水洗いした自分の食器を食器洗い機に入れて、スイッチを押すくらい。こんなことでバイト代は貰えないなと思った。

「食器、ありがとう」

「いえ、自分の食べたやつですから」

「こっちも終わるよ、鍵締めて帰ろう」

 さや果の部屋へは、店内から入るのみなので、ここで一旦お別れになる。セキュリティ操作をするさや果の横から、外へ出るのは杏平だけ。

「それじゃ。今日もやります?」

「ふふ、うん」

「じゃあ、用意しとくんで」

「ありがとう。私もレモン切っとくね」

 にこにこと手を振るさや果の反対の手が、戸に伸びた。ガタタ、ガタタと、二人の間を隔てていく。ガチャコと鍵が閉まる音までを聞き届けると、再び顔を見合わせる。

 またすぐ後で会うのに、なかなか離れがたく、杏平はさや果が先に身を翻すのを見てから、ようやく爪先をあちらへ向ける。抑えきれずに、エントランスへと走り出した。




 各々の部屋に戻っても、寝る前に少しだけ話をするのがいつの間にか習慣になっていた。開けた窓辺に腰かけて、庭を見つめながらハイボール一杯分だけ。杏平にとっては、店の手伝いの後のこの時間のほうが、目当てなのだった。

 玄関扉を開けると、その足で浴室へ。半分開けっ放しのアコーディオンドアの隙間をすり抜けた。一杯飲む前に、まずはシャワー。シャツのボタンをひとつ、ふたつと外しながら、鏡に映る姿が見切れていく。カラーボックスから着替えを取り出して、洗濯機の蓋の上に置いた。ハンガーに干されたままのバスタオルを雑に掴んでそのまた上に放る頃には、服はすでに脱ぎ終えて、そのまま床に層を成していた。

 シャワーから勢いよく出る湯を頭から受けながら、今日は何をつまみに出そうかと考える。先日兄から送られた段ボールの中身を頭の中でおさらいしていると、ごしゅごしゅ、髪の上に少しずつ入道雲ができあがってくる。

 あのチョコレートは、ブランデー入りだからちょっとなあ。

 ぱたっ、ぱたっ。

 鯖のオリーブオイル漬けも旨そうだけど、昨日の鰯のやつと被っちゃうしなあ。

 ぱたっ、ぱたっ。

 あ、そう言えばあの大きい袋――白い泡が絞り出されるように、濡れた床に散っていく。

 今日は、あれにしよう。そう決めて、杏平はレバーを上方向に叩く。女性は甘いものが好きだから、きっと気に入ってくれるに違いない。

 作りかけのメレンゲのような泡でいっぱいになった足下を、滝のような湯水が豪快に流していった。


 濡れた髪にドライヤーをあてるが、二分もしないうちにスイッチを切る。まだ湿り気を感じながら、杏平は段ボールからそれを取り出した。

 あとは氷の用意だけだが、まだ早い。当然、女性のほうが入浴時間は長いから――あの針が十を指したらにしよう。今や杏平にも、丁度良い頃合いが分かってきている。

 もう今日も終わるというのに、一日のうちで一番うきうきしていることが、我ながらおかしい。スウェットから勢い良く出てきたその顔には、笑みだけが浮かんでいた。




 カタンッ、カラララ。気が急いているのが、クレセント錠を打ち付ける音に表れていた。さや果が顔を覗かせれば、杏平がすでに座って、こちらに笑顔を向けている。

「ごめんなさい、待たせちゃった?」

 キンと、外気が湯上がりの肌に擦り寄ってきた。

「いえ、俺も丁度今、準備できたところです」

 杏平は氷の入ったグラスを掲げて見せる。

「よかった、じゃあレモン、持ってくるから」

 今日は杏平がグラスの当番だった。ウィスキーも、つまむものも杏平が用意してくれるので、さや果はそれくらいはすると申し出たのだが、気にしないで欲しいと言われたのだった。それでも不満そうにしていたら「じゃあこうしましょう」と、グラスは代わり番こに、レモンと炭酸水はさや果の担当に落ち着くことになった。

 だからさや果の部屋のキッチン脇には、小ぶりの段ボールにレモンがごろごろ、ひしめいている。青果店から持ち帰るのはまあまあに事だった。それでも買うことを決めたのは、レモンなのにレモンイエローよりも山吹色に近い、赤みがかった色合いと艶が、一層美味しそうで魅せられたから、というのが表向きの理由。

 さっと吟味した末にこれと決めたレモンを、くし切りにして小皿に乗せた。小さなペットボトルの炭酸水も一緒に持って窓辺に戻ると、ベッドの横に置いてあるハロゲンヒーターをこちらに向け、スイッチを入れた。

「じゃあ、お願いします」

 差し出されたグラスには、ウィスキーが注がれている。琥珀色の中に浮かび上がる、結晶の模様を避けるようにして、さや果は炭酸水を静かに注いだ。それでも、しゃわわわわーっと細かい泡が、生まれては消えていく。ぷちぷち跳ねるささやかな刺激を指先に感じながら、レモンをひとつ。左手を添えるようにして、一息だけ力を込める。まだ果汁を含んだままに、果肉も皮ごと沈ませていった。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます!」

 もうひとつ差し出されたグラスは、さや果の分だった。同じようにハイボールを作ると、月に向かって乾杯をする。

「今日もお疲れ様!」

「お疲れ様です!」

 目線より高く掲げたら、そこにあるのはまるで、輪切りのレモン。グラスの縁に月を乗せる。ハイボールというより、スマートなカクテルのようなシルエットだ。

 最初の一口を含む頃にはもう、足先からぞわぞわっと寒さが上ってくるのを感じるのに、寒いの一言が口をつくことは絶対になかった。言ってしまえば、暖かくなるまで止めにしようとか、そうなりそうで嫌だった。日毎に厚着になっていく杏平もさや果も、なんて意地っ張りなんだろうと、互いに可笑しくなる。

「今日は、これです」

 杏平の手に、薄い卵色が見えた。やけに大きい。

「米シフォン…シフォンケーキ?」

 さや果がパッケージを読むのを待って、杏平は袋を開ける。優しい香りがふっと漂う。

「関東出張の土産みたいです。開けたら三日以内に食べないといけなくて」

 分けるというより、ちぎるような感触だった。綿あめのようにふわふわだけど、カステラのようにしっとりとしている。あまり力を入れると潰してしまう、思ったよりずっと繊細な食べ物だと杏平は思った。身を乗り出して、ふんわりと風に揺れる卵色を、さや果に手渡した。

「ありがとう。おいしそうー!…ん!」

 早速さや果は口に運ぶ。見た目からは想像できないくらい、もちもちだった。米粉を使うとこんな風になるのかと、感心が上回る。

「結構甘くないですね」

「うん、美味しい!」

 次いで杏平も味わいながら、二人してしばらく感想を交わした。片手いっぱいのふわふわを、まじまじと見つめるさや果の姿が、なんだか少女のようだった。


 なんでもない話をした。

 会社の先輩にご馳走になったランチが激辛だったこと、常連客の健さんの着ていた服が裏返しだったこと、今日届いた取引先からのお歳暮が三つとも同じ老舗和菓子店の饅頭だったこと、兼行がまたレタスを仕入れ忘れていたこと。

 その日あった取るに足らない話。毎日ともなるとそうそう凝った話題は調達できないが、それがかえって、この安らげるひとときを作ってくれているのかもしれない。気張らなくて良い、自然体の時間。渇いた寒さすら心地よくなってくる。

「…」

 二人はハイボールを傾けた。グラスと入れ違いに幕を開ける、初冬の眺め。

 ここから見る景色はいつも同じはずなのに、毎日違って感じるのを不思議に思うなんて、そこまでは幼くないつもりだけれど。

 このシフォンケーキが減っていく度、月が少しずつ傾いていく。大きくて、だんだん近づいてくるような錯覚さえおぼえる。ぼんやりと放たれる白い光は、少しずつ紺碧の空へ広がっていく。きっと昨日よりも、そして明日のほうが、満ちているのだろう。

「月が、綺麗ですね」

 さや果はドキリとした。丁度月を見ていたからではない。思い浮かんだそばから、かき消すように何度も瞬きをした。それはあまりにも有名な逸話。突然すぎて、咄嗟に反応できない。

「この前さや果さんが酔いつぶれた日も、今日みたいにまんまるで、大きかったんですよ」

 無邪気な杏平の笑顔をみて、きっとそんなつもりではないことを知る。恐らく知らないのだろう、そのフレーズにどんな意味がもたらされているのかも。

 ほっとしたような、残念なような。揺れる天秤は結局均衡を保ったのか。残念だと思う気持ちが少し重く傾きはじめたことに、気付くより先にさや果は、ハイボールで流し込んだ。

「…そうだったの?」

 努めて、平静に。月明かりに暴かれる前に、そっとカーテンに頬を預ける。まだ新しい匂いがする。両手で握りしめられたグラスの氷がカランと鳴いた。それに押し潰されるような琥珀色は限りなく透明で、透けた向こう側の、冬色が切ない。

「…」

 ただ少し遅かった。月からは逃げても、杏平の目には憂えた表情が一瞬のうちに焼き付いた。

 月の話をして悲しそうにするなんて、まるでかぐや姫――そう思った刹那に、杏平の胸に漠然とした不安が染み出してきた。どこにも行かないで欲しい、ずっとここにいて欲しい。そんな寂しそうな顔を見たくないと思ったら、もう口をついていた。

「さや果さんっ!!」

「えっ!?」

 急に大きな声で名前を呼ぶものだから、物思いごと飛んでいってしまったようだ。ただただ驚きながら、さや果の隠れていた顔が再び仄暗い夜に現れ出る。

「あ…、」

 幻か。確かに沈んで見えたさや果の表情が、今は優しく口角を上げている。次の言葉を待つようにその首が傾いでいた。

「…いや、」

 目を逸らせなくて、脳が急激に圧迫されていく。杏平が思考に使えるメモリはほぼゼロになっていた。

「あっ、さや果さんって、その、お酒弱いんですねえ!」

「えっ?」

 予想とは全く違う話題にさや果は面食らう。

「そんなこと、ないよ?」

「だって、歓迎会のときも一番につぶれて寝てましたよ」

「そ!それは、引っ越しとかお店で疲れてたから!」

「そう、かなあ?」

「そうよ!」

 別にどうでも良いことなのに、弱いと認識されたままでいるのは癪だった。後から考えれば訳の分からない負けず嫌いを発揮することを、さや果は自分でも認めていた。ただ、今現在は自覚できていない。

「じゃあ、飲み比べしてみる?」

「えっ?」

 ここでやっと杏平は、あらぬ方向に導いてしまった自分の過ちに気付く。

「正気ですか?」

「もちろん!」

「だって男と女の人じゃあ…」

「私、これでも学部で一番お酒強いって言われてたんだから!」

「え、はあ…」

「それに由井くん、ほとんど飲んでないんじゃない?」

 さや果は、杏平の持つグラスを目で指した。確かに、むしろ氷が溶けた分、嵩が増しているようにすら思える。

「や、これは…」

 慌てながら杏平は、わざとちびちび飲んでいたことは伏せなければならないと、鈍い思考を巡らせる。

「えーと…」

 先に飲み終わりたくなかったから。少しでも長く、さや果とこうしていたかったから。

「ほらね」

 だから敵うわけがなかった。言えないのは、言い負かされたと同じことだ。惚れた弱みとはこういうことなのかと、杏平は実感する。

「じゃあ、明日ね!」

「ええっ?」

「明日はお仕事、お休みでしょ?」

「はい、そうですけど…」

「じゃあ、決まり!」

「え、ちょっと…」

 待ったをかける、その伸ばされた手にさや果が応じることはなかった。ほんのりとだけ香りを感じる水を最後に飲み干して、その一滴とともに降りてきたレモンに軽くキス。

「じゃあ、おやすみなさい」

 そしてさや果は、杏平とまだなみなみのハイボールを置き去りに、空になったグラスで挨拶してから窓の向こうへ。もこもこに覆われた脚が部屋へ引き入れられるまでを、杏平は見ているしかできなかった。

「おやすみ…なさい…」

 返事をする頃にはもう、窓は閉められていた。地面を四角く浮き出すような部屋の明かりも、さや果のシルエットもろとも、奥の方から徐々に夜色に塗りつぶされていく。

 幕が降りたのだ。シンとする庭に、杏平は一人。月までもが垣根の向こうへ隠れていた。

「…寝るか」

 冷えた指先でグラスをつまむと、重かった。今日はいつにも増して全然口をつけていなかったことに、何とも言えない顔になる。微かに霜の降りたグラスを励ましながら、カラララと小さく響かせる窓越しのため息。ひとつ残った淡く黄色い四角もまた、後を追うように塗りつぶされていくのだった。


 じんわりと温かさを感じるのは、この指先だけではない。もう少しだけ、この温もりを大事に抱えてみたくて。

 ゆっくりと閉めた萌木色のカーテンに額をつけるようにして、さや果はまだそこに立っていた。

「また明日ね」

 聞こえるはずもない呟きを乗せた横顔は、どこかほろ赤く満たされていた。

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