第17話 激励会
やっぱり、見間違いだったのだろう。杏平は結論づけた。
店で馴染みのお客と話し込むさや果はいつも通りよく笑うし、ドリンクカウンターで並べたジョッキに氷を入れる、溢すのも厭わないその可憐な男らしさも平常運転。陰りも矛盾もひとつもない。
結局、あの翌日の飲み比べは、途中から寒さ我慢大会になっていた。だから飲む量はさほど変わらなかったし、さや果の様子もいつもと同じだった。いや、いつもより可愛いかった。寒そうに縮こまる姿か、長い睫毛の下の、恨めしそうにちらちら見てくる瞳か。何がそう感じさせたかは分からないが、とにかくあの晩はふとした節々に悉く可愛いと思ったのだけは確かだった。
「久しぶりにこーして飲んでるってのに」
杏平は、後ろ頭に尖った不満を叩きつけられて意識を戻す。
「ずーっとさやちゃんばっかり」
見れば、杏平の分の砂肝もはつも消えていた。いや、はつならあった。暁奈が半分まで咥え込んでいるのが、それだ。
「俺のなんですけど…」
「進展あったわけ?」
抗議の視線は軽く捻り潰され、取り調べ室で刑事が横にやってきたような圧迫感が代わりにやってくる。前で詰問されるより、横からプレッシャーをかけられるほうが堪える。
「そりゃ、あったでしょ」
当然の確信を持った言葉に、杏平は閉口させられる。桃矢が言いながら手を伸ばしたのは、目の前の、そのもうひとつ前の角皿。
「だから、俺の…」
制するより先に制された。動きを読まれたかと思うほど鮮やかな手口。そうして、ししとうも拐われていってしまった。あまりにも堂々たる犯行に、今度は開いた口が塞がらない。
「まあ、ここ数日、夜には二人きりだったはずですからね」
自然な自信がこもる、美乃梨の補足。まだ半分以上もある山吹色が、彼女の口に少しだけ吸い込まれていく。
「えっ、あたしのいない間に、二人で夜を過ごす関係に!?」
大仰な物言いと、下から覗き込むようにして肯定を促される居心地の悪さに、杏平はたまらずジョッキを叩きつけた。
「店の手伝いをしているだけです!」
夜な夜な、庭で二人だけの晩酌をしているなんて、口が裂けても教えてやらない。言ったが最後、どんなひやかしがさや果と自分に待ち受けているか、充分に想像できるから。
「なによー、なんもないわけ?」
暁奈は口を尖らせて、これ見よがしに面白くないアピール。
「もうイブだよ、杏平さん。どーすんの」
畳み掛けるように桃矢に問われて、杏平はまたさや果の姿を追っていた。
彼女の肘にぶつかってよろめいたのは、狭いレジカウンターの上に置かれた、ささやかなクリスマスツリー。てっぺんの星と、金色の「Merry Christmas」のプレートだけが飾られている、とても簡素なものだった。
慌てて受け止めるさや果に、健さんが声をかける。
「あれ、この前来たときあったっけ?」
「これですか?いえ、一昨日から飾ってます」
そう言って、さや果は忙しい足を止めることなく、焼き場の横から調理場へ入って行ってしまった。
「ああ、クリスマスだもんなあ」
「お前さん、それで孫のプレゼント決まったんか」
「それがまだでねえ。どうしよう、ねえさや果ちゃん」
飲み干したジョッキにため息を入れると、修さんはややトーンを大きくしてさや果のいるほうに呼び掛けた。
「さや果ー!呼んでるぞ!」
兼行が中継する。焼き上がったねぎまがタレの壺に突っ込まれる。飴色が跳ね返って、もっと奥から返事があった。
「はい、お待たせしました」
ねぎまの皿と引き換えに、さや果はジョッキを受け取った。
「ねえ、さや果ちゃんはさ、子供の頃、クリスマスーて、何が欲しかった?」
「この人ね、まーだ孫のプレゼント、決めてないってさ」
「悩んじゃってさあ」
肘をついて、恥ずかしそうに耳の後ろを掻く修さんは、優しいおじいちゃんそのものだ。
「プレゼントですか…」
さや果は少し思案するが、やっぱりこれしか出てこない。求められている回答とは違う気がするが。迷いながら、泡がにわかに底に集まるジョッキを持ち直す。
「うちは、サンタさん制度がなかったんですよね。だから、」
サンタさんに手紙を書いたこともないし、クッキーやミルクを用意したこともない。とりあえずツリーを飾り、チキンとケーキを食べて、寝る前にもうプレゼントが渡される。欲しいものを伝えてあるので、当然中身もすでに知っていた。
嬉しいけど、何かが違う。夜中にサンタさんの後ろ姿を見たとか、サンタさんにメリークリスマスを言ってもらえたとか、そんな友達の話を、どういう顔で聞けばよいのか分からなかった。
「サンタさんに会いたかったです」
嘘でも良いから。
「…」
「…」
もちろんさや果は笑顔で答えたはずだった。しかし、こちらを見上げる二人は何か神妙な面持ちだ。ハッと息が内に戻っていく。
「そうか…そりゃ、わたしらも肝に銘じとかんとね」
「そうだねえ」
ゆるゆると、そろってテーブルに視線を沈めた。皿に寝そべったままのねぎまに染み込み切れずにいたタレが、ぽたん、と千切れるように落っこちた。
なんだかしんみりさせてしまっただろうか。唇に付いたり離れたりと、右手が忙しなく重い空気をかき混ぜようとするも、効果無し。慌てたはずみで、さや果はもうひとつ思い出す。
「あ!あと、あのステッキみたいな、赤白の…」
名前が分からない。
「あれを、子供の頃、ツリーに飾りたいなって」
「ああ、ツリーの飾りかあ」
「それいいんじゃないかい?毎年飾ってもらえるよ」
「この前、愛嬌のあるぬいぐるみの飾り、どっかで見たなあ」
「明日朝イチで行っといでよ」
目標が見えてきてほっとしたのか、修さんはやっとねぎまの串に指をかける。
「そうするよ、ありがとう、さや果ちゃん」
「いいえ。良かったです」
なんとか話はまとまったようだ。二人のふくらんだ頬を見て、さや果も胸を撫で下ろした。テーブルを後にしかけて、あっと振り返る。
「ビール、おかわりでいいですか?」
「ああ、いや、芋のお湯割りにしてもらおうかな」
「はい!銘柄何にしましょう?」
「赤霧まだある?」
「ありますよ」
「じゃあ、頼むよ」
「…」
笑顔で返すさや果を見届けて、杏平はまた横から前から好き放題突っつかれる羽目になる。
「見てるだけじゃ、なんにもなんないよ」
「そうだよ、行動に起こさなきゃ」
「まあ、そういうのは二人のペースで…」
「もういいでしょ、その話は…」
振り切りたくて杏平が傾けたジョッキは、空だった。まったくビールまで、忌々しい。
「そんな呑気なこと言って、横からかっさらわれても知らないよー」
そしてまたひとつ、横から掠め取られる彼のせせり。もう、いいかと投げやりな気分で、杏平はその手を追うこともしなかった。
「かっら!」
「なに、当たり?」
せせりを頬張りながら暁奈が面白がる。
「めっちゃやばい、水!水!」
笑い声の中、小刻みにばたつかせる桃矢の手には、串が一本。指先まで降りてきたししとうがひとつだけ、頼りなくぶら下がっていた。
「ないよ、ビールしか」
神は現行犯を見逃すことはなかった。裁きが下ったのだ。
「人のもん、取るからだろ」
「うーっ…」
涙目で、桃矢は美乃梨のビールを流し込む。その様子を見ていたのか、氷をたくさん詰めたグラスに水を注いで、さや果が小走りでやってきた。
「大丈夫?」
「あー!水ー!」
激辛のししとう、そして炭酸が抜けかけているとはいえ、ビールだ。余計にピリピリと痛かったのだろう。桃矢は氷で舌を冷やすようにゆっくりとそれを飲み込んでいった。
「あー、辛かった。ありがとー!」
「いいえ。皆さん、おかわりは?」
「生!ふたつ?」
「私はもういいです。オレンジジュースにします」
「じゃあひとつ?」
「俺はハイ…」
言いかけて、やめた。やっぱり後の楽しみにしておこうと、杏平はジョッキを渡しながらさや果の目を見た。
「やっぱり、ジンジャーエールで」
さや果はにっこりと受け取る。
「オレも生!」
「じゃあ、オレンジ、ジンジャー、生ふたつね」
指で二を表して、彼女は身を翻していった。それがピースサインのようで、やっぱり可愛いなと、杏平は思う。さや果の揺れる髪と、小ぶりのツリーとを見ながら、最後に残る冷めたしいたけをひとかじりした。
クリスマスはすぐそこ。
もうイブだと、桃矢に言われたのを反芻する。なんだか〆切に追われるような気分になる。イブまでに彼女を作らなきゃとか、そういうニュアンスだ。でも、杏平にとっては、もっと素直に楽しいイベントであって欲しい気持ちのほうが大きかった。
通勤のたびに見かける駅前の、華やぐ巨大なツリーをはじめ、きらびやかに浮かれていく街や、周りの人たちにせり上げられるようにして、自分もまた、高揚する。何の根拠もないのに、何か良いほうへ導いてもらえそうな気がする。そんなマジックがクリスマスにはあるのだと、信じている。
そのためには、行動を起こさないと。鬱陶しくもありがたい、この三人のお節介に報いるためにも。
「お待たせしました!」
さや果のこの笑顔を、もっと見るためにも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます