第15話 泣き出しそうな晴天

 待ちぼうけの二人、午後一時。

 女は色々と必要な物があるのだからと、美乃梨から待機命令をくらったのだ。自動ドアの横でぼうっと外壁に身を預ける杏平は、桃矢の尋問を受ける羽目になる。

「昨日の夜、なんかあったんでしょ」

 スマホから目は離さずに桃矢は、多少の圧をかける。問い掛けというよりは確認に近かった。

「なんかって…なんだよ」

「こっちが訊いてんだけど」

「…何もないよ、あの後すぐ帰ったし」

「ふうん?」

 納得がいっていないのが、尻上がりの語尾で分かる。杏平は逃れるように空を見上げた。その間、何人もの人が自動ドアを抜けていく。ぽつりぽつりと流れて行く雲を見ているのにも、やがて限界が来る。

「遅いなあ、二人とも」

 自動ドアを一瞥すると、向かいでしゃがみこんでいた桃矢が立ち上がった。

「さや果さんのこと、好きでしょ?」

「…はっ、ええ!?」

 杏平からしてみれば唐突だった。しかし桃矢にとっては当然で、お構い無しに先を続ける。

「オレさ、…杏平さんもだけど、さや果さんとは一昨日初めて会ったばかりだけどさ」

 杏平の横に、同じようにもたれかかって。

「たぶん一筋縄じゃいかないよ」

 思わず杏平は、桃矢のほうを向いた。彼の横顔はここではないどこかを見ている。

「どういう…?」

「美乃梨も似たようなこと言ってたし」

「だから、どういう意味だよ?」

 体ごと詰め寄る。依然として真正面を向いたままの桃矢に、いらだちを覚えた。気持ちを暴かれた上に水を差されたのだから無理もないが、杏平は自分でも余裕が無さ過ぎることを認めていた。

「暁奈さんとあっちの部屋で何か話してたでしょ?」

 同い年くらいの男女が、目の前の通路を横切っていく。後ろをついてくる女性の方を見ることもなく、男性は自分の歩幅で歩いて行ってしまう。

「杏平さんだって、少しは見当ついてるんじゃない?」

 指輪のことだろうか、と杏平はすぐに思い当たった。確かに暁奈にもそれについては言われたが、よく分からないのが正直なところだった。

 さっきまでのさや果の様子にも何もおかしな感じはしなかったし――いや、実を言えば、途中からなんとなくよそよそしい感じはしているが、気のせいだと思いたくて、それを口にしたくない。

「でも、取り乱したのなんかほんの一瞬だったろ」

「だから、一昨日初めて会ったばかりのオレたちに、正直な態度とれると思う?」

 杏平は考えてみた。自分ならどうだろう。例えば、大切にしていたプラモデルを壊されたとして、それが数日前に知り合ったばかりの友人によるものだとしたら。

「…遠慮するかな、やっぱり…」

 また、彼女を少し遠く感じなければならない。こればかりは時間をかけていかないと、どうにもならないのか。

 杏平の肩から力が抜けていく。外壁に受け止められた。冷やっとした、硬い感触。

「でしょ?ただならぬものを感じたもん。暁奈さんもこそこそするし、美乃梨にだって睨まれたし」

 桃矢は、やっと伝わったという実感が持てたのだろう。重たい息を吐ききった。

「でも!オレの持論として、大切なものはいくらあってもいいと思うから」

 言いながら彼は、弾みをつけて背中を起こす。

「一番になればいいだけじゃん。その中でさ」

 振り向いて、やっと杏平の顔を見た。

「杏平さんが本気なら応援するよ、オレ」

 そのテンポにいまいちついていけないままに、杏平は相対する。

「うん?…ありがとう…」

「せっかく同じアパートに住んでるんだから、みんなに幸せになってもらいたいしね!」

 にかっと笑うと、桃矢はすぐ横の自動販売機にスマホをかざした。ホットコーヒーを二つ取り出すと、片方を杏平に手渡す。

「…ああ、ありがとう…」

 ブラックだった。正直なところ微糖派なんだけど、と杏平は思いながらも、奢ってくれるということらしいので素直に受け取っておく。

「でも、杏平さんが本気じゃないなって思ったり、さや果さんが迷惑そうにしてたら、」

 キュパッとプルタブを立てると、桃矢は不敵な笑みを浮かべて、未だに状況をよく飲み込めていない杏平を見据えた。

「オレの二番目になってもらうことにするから」

「なっ!?」

 缶を開けようとしたその手を即座に止めて、杏平は桃矢に猛烈な抗議の視線を放つ。

「それ失礼だろ!さや果さんにも!美乃梨さんにも!」

「これはその約束の証~」

 しかし桃矢にまったく怯む様子はなく、杏平の目の前に缶を掲げると「商談成立、乾杯!」とばかりに、一仕事終えたサラリーマンのつもりでぐっとそれを流し込む。

「ふざけんな!返す!」

「冗談だって、怒んないでよ」

「冗談でも許さん!」

「本当に本気なんだあ、青春だねえ」

「こ、こいつ…ッ」

 土曜の真っ昼間からじゃれあうこの男二人が、すでに成人したいい大人だなんて、道行く人は思いもしなかっただろう。ぽつぽつと向けられる視線には気付く気配もなく、また、女性陣の帰りを待っているのも忘れて、応酬は昼下がりの雑踏に紛れていった。




 その女性陣はと言うと、広い店内をくまなく歩き回っていた。日用品というのは、無いことに気付いて初めて、しまったと頭を抱えるものである。各売り場を見ながら買い忘れのないようにするのが得策だ。

 さらに、女性の買い物には寄り道がつきもの。コンビニでは揃わなかった住居用洗剤のコーナーを巡り終えたところで、二人は立ち止まっていた。ハンドクリームを試しながら香りや使用感で盛り上がっている。

 さや果は、左手の甲に乳白色のクリームを少し取ると、右手ですうっと指先まで伸ばしてみた。ヴァーベナが爽やかに香る。その白い指に指輪の類いはない。

「さや果さん、アクセサリーは着けない派ですか?」

「え?」

 指に向けられた視線に、さや果は左手を抱くような仕草をする。

「うーん、よっぽどおしゃれする時くらいかな、着けるのは。美乃梨ちゃんは?」

「私もそんなところです」

 次はどの香りを試そうかと、品定めしていた美乃梨の目が止まる。パチュンと勢いよく蓋を開けたら、微かに香りが上ってきた。

「これ、よくないですか?」

 そう言って差し出された右手に、さや果は顔を近づける。甘くて切ない香りに、瞳が揺れる。

「金木犀…」

「当たりです!珍しいですよね」

 美乃梨が声を弾けさせても、その耳には届いていないようだった。ぼうっとしたさや果は今、意識を過去に遣っている。

 香りが記憶を呼び起こすのは有名な話だ。

 それは色めく秋の主役。

「…」

 あのマンションから近い、角の大きなお宅から。ふわりふわりと漂って、誘われるように、探しに歩いたっけ。

「…あ」

 大きな大きな金木犀の木。

「っ…」

 思い出してしまった。指輪といい金木犀といい、今日はそういう日なのだろうか。こんなに良い天気の休日なのに。

 さや果は、少し固くなった表情を無理やり笑顔に作りかえた。でも、対面した美乃梨の顔が、上手く騙せていないことを分からせる。

「さや果さん?」

 見本品を棚にそっと戻すと、美乃梨は体ごと向き直る。尻下がりの眉が前髪の隙間から覗いた。

「ごめんね、ちょっと辛いことを…」

 力無い笑いが端から漏れて、さや果の目尻には、押し出されるような一滴が零れずに踏みとどまっている。

「…思い出しちゃって、今朝もだったから…」

 人差し指の爪に乗せて雫を払った。モスグリーンのアイシャドウが指先を汚す。

「だって、起きたらあったの…」

 止まらなくなる。自分自身に戸惑いながらも、肩に感じる美乃梨の温かさに甘えてしまっている。

「なんでだろ…私、酔っぱらったまま、探したの、かな…覚えてないけど…」

 途中で飛んでしまう、不調のレコードのような語り口。そこまで聴いて、美乃梨の手指には少し力がこもった。

「…指輪のことですか…?」

「えっ…」

 顔を上げたさや果は、神妙な面持ちの美乃梨と目が合った。

「どうしてそれを?」

「…」

 先を求める驚きの視線に、美乃梨はゆるやかな笑顔で応える。

「さや果さんは、探してないと思いますよ」

 そしてそっと肩から手を離す。

「昨夜は、急に寝ちゃったので」

「え、そうなの?」

 涙ぐんだ後に来たのは恥ずかしさだった。格好悪くて情けない。さや果の、少し滲んだ目元が熱を持つ。

 ほっとしたのは、この一瞬だけ。

「見つけたのは由井くんです」

 脳天に、刺すような痛み。よりによって、とさや果は思った。思わず指先が唇に触れる。そしてみるみる口を覆い隠していった。

「やっぱり、ちゃんと返してたんですね」

 柑橘に似た清々しい香りが、今はツンと気持ち悪い。

「今朝、手元にあった…」

 視線が移ろう。忙しなく瞬きを繰り返すと、心臓がどくんどくんとうるさいのが分かった。

「でも、どうして…」

「詳しくは分かりませんけど、何も聞いてない…みたいですね」

 下を向いたまま呆然とするさや果に、美乃梨はそれ以上、かける言葉がなかった。


 彼から、どんな顔をして受け取ったというのか。


 知られたくなかった。見られてしまった。さや果は安らぎが失われるのをただ恐れた。




 思ったより化粧は崩れていなかったので、手鏡片手に、指先で目尻を整えるだけで済ませた。それ以前にさや果は化粧ポーチを持って来ていない。美乃梨にそれを言うとコスメコーナーに連れて行かれそうになったが、固辞した。少しとは言え、往来のあるところで身を屈ませながらメイクをするのには抵抗がある。

 化粧室に寄ると言う美乃梨より先に、さや果は外で待たせた二人と合流することになった。店を出て左右を見渡すと、自動販売機を背にした桃矢をすぐに見つける。

「桃矢くん」

「あ!やっと帰って来たー」

「ごめんね、お待たせ」

 さや果はさらにきょろきょろと見回すが、見当たらない。その華奢な腕に提げられている買い物袋を、桃矢がさりげなく受け取った。

「あ、ありがとう…由井くんは?」

「ゴミ箱探しに行った」

「え?」

 じっと桃矢に見つめられる。一秒、二秒、三秒ともなると、さや果はいたたまれなくなってくる。

「えっと…どうしたの?」

「さや果さん、泣いた?」

「えっ!」

 鋭い。普段力を抜いているように見えるけれど、見るところは見ている。

 咄嗟にさや果の口から出たのは、使い古された下手な言い訳。

「そん…違うよ、あくびがね」

「あはは、あんなに寝たのにねー」

 しかしすんなり受け入れられたようだ。晴天に相応しく、からっとした笑い声が響く。

「私、そんなにずっと寝てた?」

「えー?…んー、うん」

 桃矢はあからさまに目を逸らす。うんと言うまでの、その紆余曲折が気になる。

「本当?桃矢くんが美乃梨ちゃんに怒られてるところくらいまでは、おぼろげに記憶があるんだけど…」

「そんな余計なところ覚えてんの…」

「ねえ、その後、私どうしたんだろ?」

「え、オレに聞く!?」

「お願い、教えて!」

 下からおそるおそるといった感じで上がってきた、その目をさや果は逃がさなかった。

「まいったなー、言っていいのかな?」

「いいよ」

「いや…うん…」

 襟足の髪を乱暴に掻くと、桃矢は足元に視線を落とした。スニーカーの爪先を地面にとんとんと打ち付けている。そのたび、長い靴紐が踊るように跳ねた。

「だってさ、知らないほうがいいってことも…」

「このままじゃ気になるよ、お願い、知りたいの」

 硬めの前髪を何度も掻き分けては、元に戻るを繰り返す。合間に上目遣いでちらっとさや果を見ると、変わらず真剣な表情だった。じきに桃矢は白旗を揚げることになる。

「えー、本当に覚えてないの?」

 前髪を後ろに押し付けるようにして頭を掻くと、ふうと息を吐いた。

「ブチギレてたこと」

「ブチ…え、私が?誰に?」

 昨夜の鬼の形相が、この目の前の可憐な女の人に本当にできるのかと、桃矢はやっぱり疑問に思う。難しい顔をしながら、やはり視線を逃がすしかなかった。

「たぶん、さや果さんのお父さん」

「え?なんでお父さん…」

「いや、流れでその話になってさ、さや果さん途端に大声でキレだして…」

「え、やだどうしよう、最悪…」

 思っていたより、真実はとんでもないものだった。父とは確かに喧嘩別れしたままだが、それについて話してしまったのか。何故。

 さや果は手を額に当てると、そのまま頬を撫で付けて口元を隠した。ともかく、取り返しのつかない失態を演じたことだけは確かだった。

「大丈夫だよ、さや果さんの怒った顔、かわいかったから。美乃梨と違って!」

 笑って流そうにも、手の奥にある口は笑えていない。

「…その後は?」

「そのまま寝たから、お開き」

「私、自分でベッドに寝たのかな?」

「え、さあ?オレが帰るまで机に伏せてたけど?」

 夜中に起きて、自力でベッドに入ったのだろうか。

「桃矢くん、先に帰ったの?」

「美乃梨もね。眠いなら帰れって、暁奈さんが」

 でも、暁奈は放って帰ろうとはしないはずだと、なんとなくさや果は思った。桃矢の台詞がそれを裏付ける。

「起こされなかった?風邪引くよーって」

「覚えてない…」

 そこで自動ドアが開くのと、小走りで戻ってきた杏平が皆の姿を見つけるのはほぼ同時だった。

「ごめんなさい、待たせて」

「あれ、買い物終わってたんですね」

 美乃梨はともかく、杏平の声はさや果の瞳をふらつかせた。あれから上手く顔を見られない。

「あ、うん、お待たせしました」

 それに今は、指輪のことが拍車をかけている。丁寧にお辞儀をしたのは、顔を見なくて済むのと、彼からの憂えた視線をやり過ごすためだった。


 泣き出しそうな空を見て、古傷が痛むと言う人がいた。こんなに晴れて穏やかな昼下がり、空が、今にも声を上げてしまいそう。




 言葉に迷う、午後二時。

 悲観ばかりして避け続けるのは駄目だと、さや果は自分でも分かっていた。あれこれ考えても仕方ない。確かなのは、彼はただ失くした物を見つけて、そっと返してくれたのだということ。シンプルだ。それなら、早くお礼を言わなければ。

 ただ、どう切り出したら良いのか。視線から逃げる回数が増えるたび、沈黙が一分二分と続くたび、入口も出口も分からなくなっていた。

「…」

「…」

 二人は並んで、美乃梨と桃矢の少し遠くなった背中を見ていた。

 さや果の視界の端に、ときどき杏平が映り込む。最初は無意識に左手で持ったスーパーのビニール袋が、重くてそろそろ限界だった。でも今は、この距離を保っていたくて、その言い訳が欲しくて、持ち替えることができずにいる。

「…」

 意図的なこの空間が、彼には心地良いはずもなかった。

「あの、さや果さん」

「え…えっ?」

 消えそうな返事。喉が塞がって、そんな声しか出なかった。さや果はまるで波に押し戻されるように、やっぱり左を向くことはできない。

「あの、俺」

 重なっていた足音が止まる。

「昨夜はすみませんでした!」

「…!」

 立ち止まり、さや果は、視界から消えた杏平を追うようにして振り返った。重いビニール袋が冷たく脚を打つ。

 それでも表情は分からない。彼は頭を深く下げていたから。

「…」

 どうして。むしろ、謝るのは変な態度になっている自分のほうなのに。

「…えっと…」

 でも、杏平にはもう心当たりがそれしかなかった。指輪を返すのが遅れてしまったこと、何故急にと思わないではなかったが、怒らせるようなことと言えば他に無い。

「指輪のこと…タイミング逃しちゃって…」

 ゆっくりと持ち上がる、杏平の苦しくて切ない顔。日差しに照らされているのに、薄く暗い陰の瞳。

 こんな表情にさせてしまうなんて、何をやっているのだろう。

「違うの、そうじゃないよ」

 さや果は精一杯、首を横に振った。

「悪いのは私のほう。ごめんね」

 せき止めるものは何もなかった。つうっと一筋、その足跡をたどるようにもう一筋。顎に雫が溜まる。過去の痛みよりも、今、苦しい思いをさせてしまったこと。そのほうが何倍も悲しいこと、さや果は知った。

 涙が、プリズムのようにいくつもの虹色を散らした。杏平は、さや果の光る頬を見つめることしかできない。

「指輪のこと、ありがとう」


 出会って間もない私のことを、こんなに考えてくれて、悩んでくれて、ありがとう。


「いえ…!」

 このとき、杏平の瞳に映ったのは――雨のち晴れの、澄んだ笑顔。




 穏やかな晴天、緩やかな日差し。二人の足音が遊歩道に差し掛かる頃には、さや果の空いた左手と、杏平の伸ばしきれない右手が、影だけは、ぴたりと寄り添うように。

 真っ白に輝く川面が、彼らの帰り道を見送っていた。


 町にそろそろと年末の足音が近づく。

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