第14話 カモフラージュ

 不思議と眠くない、午前八時。

 杏平は庭にいた。やる気なく何度もワイシャツをはためかせている。いつもは平気で三、四日分は溜めるのに、休みのこんな時間から珍しいったらなかった。この最後の一枚を、さっきから延々と掲げては振り下ろすの繰り返し。それだけでもう十分以上は経っている。


 バサッ、バサッ、バサッ。


 高く振り上げるたびに日がかすかに照り返し、夜深くまで呑んでいた目に、痛い。

「何やってんの、あのむっつり」

 煩わしそうに目を細めると、暁奈はカーテンの隙間をつまんで閉じた。


「…」

 まだベッドの中腹にふくらみがある。彼女はまだ起きてはいないだろうと、杏平は思った。頭のほうは残念ながら、段ボールがディフェンスを張っていて見えない。色んな角度から試したけれど、絶妙に見えない。

 無理に理由をつけて庭に出てきたわけだが、まったく自分は何をやっているのだろうと、杏平も思わないではなかった。


 バサッ、バサッ、バサッ。


 二日酔いで体調を崩してはいないだろうか。昨夜のあの時は、本当に寝ていてくれただろうか。

 そして、指輪のこと。

 あと、邪魔されずに寝顔が見たい。

「…」

 半分、無意識でなされていたこの上下運動は、突然に中断する。

「あっ…」

 動いた。起きたのだろうか。さて、自分はどうしよう。ここで目が合うのも変だし、それこそ覗きと思われかねない。実際そうだというのは置いておいて。

 でも、部屋に逃げ帰ればそれはそれで、本当に何のために休みの朝から洗濯なんかしなければいけなかったのか。どちらにしても損だ。

「…」

 止まった。どうも寝返りだったようだ。

 安心したような、残念なような。杏平はごちゃまぜのため息を吐く。

「はあー…」

 つんと空気が鼻を刺す。やっぱりこんなこと、若い男が爽やかな朝にやるものではない。しかし。


 バサッ、バサッ、バ、シャアアー。


 杏平が例の動作を再開させると、重なるように音がした。それも真上から。ということは、つまり。

「ちょっと、うるさいんだけど」

 勢いよくカーテンを開け、歯ブラシを持ったまま暁奈が窓から身を乗り出す。

「わっあ!」

 驚いた拍子に、杏平はワイシャツで口から下を覆ってしまう。あれだけ風を切っただけあって、さすがに冷たい。

「いつまでやってるつもり?」

「いつまでって、そんなやってました?」

「少なくとも十分くらいはね」

「え…あ」

 どうやら、これがただの口実だということは、彼女にはすでにバレバレのようだった。

 それにしても、そんなに粘っていたなんて。その割には皺がそこまで伸びきっていないワイシャツに、杏平は視線を落とす。自分で自分がおそろしかった。

「ゆいちゃんて、そんなに…」

「…え?」

 厄介な人に見つかったことだしと、杏平は諦めることにする。最後の一つの針金ハンガーに被せるようにして、シャツの袖を通した。

「変態くんだったのね」

「ちょっと!!」

「おねえさんショック」

「誤解です!違います!!…あ」

 取れかかっていたボタンを思わず引き千切ってしまった。一番上の、よりによって最も誤魔化しきれないところを。親指を離すと、手のひらに転げ落ちてきた。なんだか諌められているみたいだと、杏平は思った。

「昨夜といい、今朝といい」

 追い討ちのような暁奈の嫌味が、杏平の頭上にのしかかる。

「…」

 ボタンを見つめて愚かな自分を反省する、清々しい土曜の朝。




 少し息苦しい、午前九時。

 さや果はまだベッドにいた。体の向きをいくら変えてもだめだった。時計はどこにやったっけ――昨日の騒ぎで分からなくなっていた。

 熱のこもる足先だけが布団を飛び出す。

「う…」

 昨日と言えば、いつの間に寝たのだろう。どうやってベッドに入ったのだろう。

「…んー」

 辿っても辿ってもブツリと切れた記憶。ばすっと、その腕が振り下ろされた。こんなにまでなったのは、二度目だった。

「そんなに飲んだっけ…」

 ため息のような深呼吸。どうもあれ以来、アルコールに弱くなった気がする。目の周りがずんと重い。喉が張り付く。

「アイス…」

 さや果はうわ言のように呟く。昨夜、氷と一緒に買っておいて良かった。飲み過ぎた翌朝は決まって、フルーツ味のアイスキャンディが食べたくなる。桃、りんご、オレンジ、それからぶどう味のアソートだ。買うのはいつもこれで、余るのは決まってぶどう。

 起き上がろうと思ってから、実際に体がそうしてくれるまでには、かなり時間差がある。唸りながらさや果が身をよじっていると、肘にこつんと何かが当たった。

「んん…?」

 薄く紫がかった見慣れた化粧箱。途端に目が冴えた。

「…っ!」

 ドレッサーの上に置いておいたはずなのに、まさか大事に抱えて眠っていたとでも言うのだろうか。当然さや果には覚えがない。

 酔って無意識にそんなことをしていたのなら――まだ自分で自分を誤魔化していることになる。

「ああ~…もう…」

 手の甲でタン、タンと目の上を叩く。ぐりっと擦ったところで、むしゃくしゃした気持ちに任せて起き上がった。

 無ければ無いで構わない。でも、そう、ふとしたときに急に見つかるのも嫌だから、探さないといけないのだ。そして、今度はきちんと奥に奥に仕舞っておこう。

 さや果は箱に手をかける。

 頭は重いし、体は重力が遅れてやってくるような気持ち悪さがあった。ぐわんと浮いたような心地で蓋を押し開ける。

「え…っ?」

 指輪が、ある。段ボールの隙間から細く入り込む朝日がスポットライトのように、その存在を際立たせている。

「…なんで?」

 分からなかった。分かるのは、心のどこかでほっとしている自分がいたことだけ。


 それがまた気に入らなかった。


 目を閉じて一呼吸置くと、さや果はようやくベッドから降りた。とりあえず視界に入らないように押し入れの最奥に追いやる。整理の難しい小物類が雑に入った紙袋で、蓋をするように隠した。

 これでいい――断ち切るように戸を閉める。だけど、その気持ちが付いてまわらなくなるわけではなかった。

 戸の向こう側を見つめながら、さや果はしばらくその真ん前に座り込んでいた。いつまでもこうしているわけにはいかない。今日もやることが沢山ある。買い物を済ませて、部屋を片付けて、店に出て。

 散らかる床、段ボールに遮られた昇りかけの日差し。今の生活にせっつかれるようにして、さや果はえらく広くなっている通路を、とぼとぼと浴室へ向かった。

 あれだけ欲していたアイスのことは、もうどうでも良かった。とにかく洗い流してしまいたかった。




 呼び出し音を聞く、午前十時。

 美乃梨は自室にいた。ソファーに腰を沈めて、空になったマグカップを前にしている。少し緊張した面持ち。カップに描かれたリアルタッチな長毛のうさぎを話し相手に見立て、まっすぐ見つめる。

「はい、もしもし?」

「あ、さや果さん?おはようございます」


 ポーカーフェイスだとよく言われる。悪く言われる場合は冷たいとも。心の内にどんな感情があろうとも、顔にも声にもほとんど現れないからだと自覚はしている。


「おはよう、美乃梨ちゃん。どうしたの?」

「いえ…色々買い物があると思って。一緒にどうですか」


 人を誘うのは、元々苦手だった。乗り気じゃない顔をされたり、断られたりするとどうしようなんて悪い方に考えた。怖いくらいに傷ついたりもした。

 すごく一緒に遊びたくても楽しくても、いつもクールな振る舞いになってしまうから、上手くいかないのだと思った。


「本当?お店とか教えてほしいから、助かる」

「じゃあ、荷物持ち要員も連れていきますので」


 昔、言われた。

 ――クールになっちゃうんじゃなくて、隠してるんだよ。

 あれは高校二年の、そう、丁度今みたいな季節。

 ――本当の感情を。

 文理選択で、仲良くしていた子とはクラスが離れた。数ヶ月も経つというのにまだ馴染めずにいたとき、彼が言ったのだ。

 ――その証拠に、オレにはむっとしたり、泣きそうな顔したりするじゃん。

 年下のくせに生意気だと思った。でも、初めて会ったときに、この人は大丈夫だと、よく分からないけど感じたから、この心の壁はそっと取り払われたのだ。

 思えばあの時にはもう、好きだったのかもしれない。


 思い出し微笑いなんて久しぶりだった。美乃梨は上がった口角を確めた親指で、カップのうさぎをちょんと撫でる。

「それじゃ、用意ができた頃、また声掛けますね」

「ふふ、ありがとう」

 そして同じようなことを、ついこの前、暁奈からも言われたことを思い出す。


 ――お互いに遠慮してたんじゃ仲は深まんないよ。

 さや果も、彼女の側の人間だと感じていた。

 年上で、綺麗で、それでいて嫌みがない。そんな人は、きっと人付き合いも自信を持ってなんなくできてしまうに違いない。差し出がましいことをしなくても。

 羨ましかった。素直に仲良くなりたい気持ちを表せずにいた。この気持ちすべてを、暁奈は察して受け止めてくれたのだろう。

 ――だから先に誘ってあげな。

 そう言って微笑んだ顔にも、やはり嫌みはなかったのだ。


「…ふぅ」

 その助言は早速実行できた。越してきたばかりの彼女よりも、自分がまず迎える姿勢を見せること。

 義務感や責任感。基本クールで消極的である反動なのか、一度走り出すと愚直にやり遂げるのが美乃梨という人だった。

 彼女に早く住み良く感じてもらえるように。疎外感など、一粒も無いように。

「…」

 通話の余韻をしばらく噛みしめてから、美乃梨は画面を操作する。再び呼び出し音を聞く。だが、こちらはなかなか応答がない。

「まだ寝てるのね、まったく」

 後回し。次。

「もしもし…」

「由井くん?美乃梨です。おはよう」

「おはようございます…」

 何やら元気がない。昨夜からずっとなのだろうかと、美乃梨は少し思案した。

「…今からさや果さんと買い物行くけど、来る?」

「行きます!」

 即答。心配など無用だったと、美乃梨は半分呆れ笑い。単純で現金なやつだと思ったが、彼のこの素直さには憧れもある。

「じゃああとちょっとしたら声掛けるから」

 それから最後は。

「はよーす、どしたー?」

「おはようございます暁奈さん。今日空いてます?」

「昼から友達に会う予定だけど、何かあった?」

「やっぱりそうですか。さや果さんの買い物、一緒にどうかなと思ったので」

「あー、そっかあ!ごめん、前からの約束だから無理そうだわー」

 もう断られたってへこんだりしない。少しずつ変われている。壁は不要だと、すでに気付いている。

「いえ、こちらこそ急にすみません」

「ごめんね!ばっちり付き合ったげて!みのりんなら安心!頼んだよー!」

 暁奈の分までしっかり自分がサポートしなくては――巣立ちとまで言うと大げさかもしれないが、美乃梨はこの責任を心地よく感じた。

 あとは、あの寝坊助を叩き起こすだけ。

 薄く化粧を済ませると、美乃梨はいつもより軽やかな足取りで、隣の部屋へと向かった。




 活況を見せる土曜の駅前、正午。

 四人の姿はバーガーショップにあった。空いては埋まる争奪戦。運良く四人掛けの座席を確保でき、表示盤の番号を確認してから、杏平と桃矢が立ち上がった。


 二人の後ろ姿を見送ると、美乃梨は少しだけ椅子を前に入れる。

「さや果さん」

 その腕を机に乗せた。

「由井くんから何か受け取りました?」

「え?」

 意図が汲み取れず、さや果は長い睫毛をぱちぱちぱちと上下させる。つられて思わず身を乗り出した。

「何かって、なに?」

 数秒見つめ合った。眼鏡の奥の瞳がくるると動く。美乃梨はすいっと、背もたれに身を預けに行く。

「…いえ」

 再び薄く入り込む喧騒。

「すみません。きっとまだなんだと思います」

 さや果に思い当たることはなかった。もしかして、空白の記憶の間に何かあったのだろうか。だとすると一体何が。

「…」

 今朝から気になっていたところだが、そこへ、トレイを持った二人が戻ってきた。

 両隣ももちろんお客で埋まっているため、少し窮屈そうに、杏平は横歩きでソファー席に腰かける。

「あっ、すみません」

「ううん、ありがとう」

 また右側だとさや果は思った。こうして横に並ぶときは。昨夜歩いたときも。店内は雑多に騒がしいのに、それがすうっと引けていって、なんだかおさまりの良さを感じる。


 コーラを勢いよく吸い上げてから、桃矢はポテトを四、五本摘まんで頬張ると、飲み込むのもそこそこに口を開く。

「そういやさや果さん、二日酔いとかは大丈夫なの?」

「あー、うん。朝は辛かったんだけど」

 隣の女性客が席を立つ。さや果は合わせて体を傾ける。

「シャワー浴びたりしたら、すっきりしてきた」

「シャワーかあ、なんかいい響き」

「えっ」

「ちょっと」

 美乃梨の視線に縫い止められて、桃矢の指からポテトがこぼれた。その対面では、あさっての方向を向く杏平が無表情を装っている。よからぬ想像をしているに違いなかった。そう断定した美乃梨は、よこしまな男二人には構わないことにする。

「お店、何時からですか?」

「今日は三時頃でいいって連絡もらってる」

「じゃあ余裕ありますね」

「うん、助かるなあ、皆ありが…」

 どすっと、さや果のすぐ右に、紙一重の衝撃があった。スポーツバッグだ。そして、テーブルもろとも押し込むようにして、恰幅のよい学生がぐいぐいと突破してくる。彼が短い溜めの末に長椅子に沈み込む頃には、バッグがさや果を押し込んでいた。そこに刺繍されていたのは、「栄恵学園高校相撲部」の文字。なるほど、確かに日頃の努力の賜物なのだろう、さすがのパワー、さすがの体格。

 さや果は少し内側に座り直す。杏平に接しないところまで、のつもりだったが、仄かに体温を感じる気がする。

「…」

 腕が触れそう。肩をすぼめて、横目で杏平をちらりと見ると、眉は下がっているのに頬は上がっている。その曖昧な微笑みは、少し困った風にも見えた。

 やっぱり近づきすぎた、もう少し離れないと。そう思い、さや果は腰を上げる。しかし抵抗を許すつもりは無いと、バッグは更にじりじり詰め寄ってくる。

「杏平さん、顔赤いよ、暑いの?」

「えっ。あー、そう、ちょっとだけ」

 杏平はストローに口をつける。それが弛んだ口元を誤魔化すためだということを、美乃梨は見逃さなかった。その顔には「本当に男というものは」から続いて長々と、トゲのある言葉が連なっていた。

「まったく…」

「どうしたの、美乃梨ちゃん?」

「いえ。男ってどうしようもないなって」

「…?ふうん?」

 よく分からなかったが、突っ込んで聞かないほうが良さそうだとさや果は直感した。

 桃矢もまた、触らぬ神に祟りなしの精神で、ちりちりする横顔を片手で庇いつつ続ける。

「なら、上着脱いだら?」

「あ、うん…」

 本当に暑いわけではないので杏平の反応は鈍かった。第一、こんな状況でそんな動作をすれば肩が当たってしまう。それを積極的に利用する度胸は、杏平にはまだ無いようだ。早くも紙コップは軽くなっていた。


 もはやパーソナルスペースの確保は難しい。さや果は観念し、気にしない振りを決め込むことにした。カップを開けて、サラダを口へ。

 右脚側面に分厚いビニールのひんやりとした感触。気にしない、気にしない。左からは少し気まずそうな彼の熱。気にしない、気にしない、

「…」

 気に、なる。

「さ、さや果さん、本当にそれだけですか?」

 どこかぎこちない杏平は、二つ目のハンバーガーの包み紙を捲りながら、さや果のがら空きのトレイに視線を落とす。真横に顔を向けることはできないでいた。きっと近過ぎて、この鼓動が速過ぎて、彼女の表情なんか分からないから。

「えっ、…うんー、まだ、えっと本調子じゃないというか」

 返事がまごつく。だって、こんなに熱い。どれだけ脚にバッグがめり込んでいたって、さや果の意識はもう、その熱だけに一極集中だった。

「そうですね、昨夜は…」

 言いかけて、杏平は分かりやすくはっとする。酔って叫んで眠ったさや果。その後のベッド上での出来事が、杏平の頭の中を目まぐるしく駆け抜けていった。目が泳ぐ。

 それがさや果の瞳には気まずそうに映ったが、他の二人は後ろめたそうな顔をしているなと思った。

「昨夜は?」

「いや、えーっと」

 突然噴火してひとりでに鎮火しましたなんて、杏平は言い出せなかった。ましてや、抱きついたことなんて。

 言葉に詰まるその様子は、美乃梨と桃矢にも多少は共通する部分があった。本当にあれはここにいる彼女だったのか、一晩明けた今でも信じられないのだ。お酒の上での悪い夢だったのではないか、と。

 したがって、本人にそれを伝えるのは止めておくべきというのが共通の認識だった。宣告者にはなりたくないので、二人はおとなしくハンバーガーをもっくもっくする作業にのめり込む。

「私、気付いたら寝ちゃってて」

 プラスチックのフォークが、コーンを捕らえきれずに遊ぶ。

「なんにも覚えてないの。変なことしなかった?」

 杏平の手からハンバーガーがまっ逆さま。真っ青な顔でぐるぐる――まさか、やっぱり、起きていたなんて。

「あっあれは事故です!未遂です!誓って…」

 飛び上がって慌てふためく杏平に、三者三様の視線が刺さる。さや果は不安げな瞳で覗き込む。

「やっぱり何かした?私…」

「え、いや、…え、『私』…?」

 何かを確信し、声なき声で卑怯だぞと漏らしながら睨み付ける桃矢の肩を、賑やかな声とともに紙袋の大群が撫でていった。

「な、なんだあ、さや果さんの話か…」

 杏平は胸を撫で下ろす。この様子だと、やはり件の時には完全に寝ていたと推測される。救われた。一瞬にして干上がった喉を、限りなく水に近いジンジャーエールで潤す。

「誰の話してたの?」

「いや、なんでも…」

 けれどさや果は腑に落ちない。尚も横顔に先を促すが、応える気はなさそうだ。全く覚えが無いものだから、はぐらかされるほどに心配も増していく。

 昨夜、あの後何があったのか。歯がゆい。それを知ることできっと全てすっきりするのに。先刻美乃梨に訊かれたことも、全部。

 さや果が教えてほしいと視線を投げても、前に座る二人は伏し目がちで食べ続けている。杏平も、振り切るようにハンバーガーに勢いよくかぶりついた。

 どっさ。その時、大量の紙袋が、杏平のすぐ左へ乱雑に着地した。結構な風圧に、開いた口もそのまま杏平は思わず手を止める。どうやら隣に待ち合わせ相手が到着したらしい。小さな子を抱えたその人は、軽く頭を下げつつ、例により紙袋を押しのけるようにして着席する。

 会釈を返したところで、気を取り直し再び口に運ぼうとするが、やはり衝撃が杏平を襲う。

「だーんっ!」

「わっ」

「!」

 はずみで肩が触れた。さや果と、杏平。視線と視線がぶつかる。と言っても近すぎて、本当にそうだったのか、定かでない。でも一瞬息に触れたのだけは確かで。

「…っ」

 ぼやけるほど目の前にいる彼のことで、さや果の視界も思考もいっぱいになる。昨夜、落ちそうになったところを捕まえてくれたときとは違う。

 そんな余地なんかないようにしていた。単に驚いただけではない、よく分からないもの。今はそういうことにしておきたいもの。

 それが、すべての意識をずっと左側に集めていた正体であることも。

 知らないうちに、視線はゆるゆると下っていく。鼻、口、顎、鎖骨、胸、指先。目元がじわっとするのを感じた。熱をもった膜が、開いたままの瞼の裏で、激しく切なく泳いでいる。


 どうか気付かないで。あなたも、私も。


「す、すみま…」

「すみませんー!」

 杏平もろとも吹き飛ばすように、その背後から大きく通る声が遮った。

 皆の視線は自然とそちらへ。その隙にさや果は、両手で頬から目元をぺたぺたと覆って、熱さを逃がした。

「だめでしょ!はるとくん、蹴っちゃ!」

 注意されて男の子は、不満そうにじいっと母親を見る。

「いいえ」

 ひょこっと上体を傾けて、親子へとさや果は笑みを覗かせた。まだ微かに、じんと熱の余韻が残る、中途半端なカモフラージュの笑顔。

「…」

 そんな顔を、見られていた。杏平と目が合う寸前で、さや果はふらふらと視線をはずす。

 また熱がぶり返しそう。どうしてなのかはまだ、訊かないで欲しい。まだ、気付かないで欲しいから。

 誤魔化す自分に嫌気が差すのに、知らない振りをする自分。ずるくても、まだ自信がなかった。

「…」

 さや果はきゅっと、両手を握る。


 親子が紙袋を整理する音も、相撲部の学生が氷の隙間を吸い込む音も、その全てに隠して欲しいと懇願した。うなじを焼かれるような視線を、溶かそうとした。


 全部振り切らなければ、気付いてはいけないから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る