第13話 終宴、尚さめやらぬ

 宴は最高潮を迎えようとしていた。明日があるからと言っていたさや果も、今や呂律が少々あやしい。


 最初は、皆に缶ビールを渡したり、ハイボールを作っては空き缶を片付けてと、忙しなく動いていた。だが、そのうち暁奈が言い出したのだ。

「なんで主役が接待してんのよ!ほら、飲め飲めー!」


 そういうわけで、案の定のこの状況。

「ちょっろ、飲みすいちゃっ…」

 立ち上がるためテーブルに手をつこうとして、片手は空振り。かくんと、さや果の左半身は急降下する。

「ははっははっ、だいじょーぶう?さや果さんー」

 こちらは笑い上戸に仕上がっていた。いつもならすぐ寝てしまう桃矢は、限界を越えると超ハイテンションの無敵モードに突入するらしい。二人とも意識はしっかりしているようだが、身体は頼りなく揺れている。

「あははっ!気を付けてよー、さやちゃん!」

 気持ちの良い笑いで盛り上がりの後押しをする暁奈は、まだまだ余力を残している様子。

 そんな三人を、ほぼ素面の杏平と美乃梨は、一歩引いて見る態勢だ。いつもならとっくに杏平もあっちの仲間だろうに、今は大酒を食らう気になれなかった。

 小さく息をつくその隣の様子を、視界の端で気にしながら美乃梨は自分のペースを崩さない。そして大音量の中、のそのそとさや果が再チャレンジに臨む。

「らいじょうぶ、ちょっろ、おてあらい」

 今度こそ手をついて、腰を上げた。だが、ずっと座った状態であんなに飲んでいたのだ。大丈夫なはずもなく、片膝を立てたところで大きく傾いた。

「あっ!さや果さ…」

 杏平が反応する頃にはもう遅かった。伸ばした手は美乃梨の頭をかすめただけ。その先でさや果は、隣にいた桃矢に抱き止められる。

「ああーッ!!」

 両耳をつんざく杏平の叫びを、美乃梨は真下で受け、反射的にぐっと目を瞑る。その一瞬だけ遅れて般若と化した。

「…ごめんね御影くん、ありがろう」

「あはは、役得うー!」

 さや果はすぐに上体を起こしたが、桃矢の手は肩やら腰へと添えられたまま。へらっとするばかりの笑い上戸に二つの燃えたぎる影が迫る。

「このやろっ!離れろ!早く!」

「いつまでそうしてるのよ!」

 テーブルを挟んだ向こう側で繰り広げられる激情を肴に、暁奈は何本目かの缶ビールを飲み干した。

「くくっ、なんでゆいちゃんまで、そんなに怒ってんのかなー?」

 さや果から桃矢をひっぺがしたところで、杏平は吊り上げた目を戻す。

「なんでって…」

 横目でそろっと見れば、ぽかんとするさや果と目が合った。心臓が飛び上がったところで、視界に桃矢の頭がカットイン。

「いててっ、痛いって!」

 こちらの怒りはおさまらず、美乃梨が引き千切らんばかりの勢いで桃矢の耳をつまんで引っ張っていた。

「加勢ありがとう、由井くん!」

「いったー!不可抗力じゃん、今のはー!!」

「楽しんでるようにしか見えなかったけどー?」

 下手な言い訳をした分、桃矢は反対側の耳も同じ罰に遭うことになる。あまりの地獄絵図にさや果は止めに入ろうとして、ちょんと背中をつつかれた。振り返ると、ゆっくり顔を横に振る暁奈がいた。

 そして誰もどうすることもできないまま、というかしないまま、無敵モードの桃矢は無残に成敗されたのだった。




 以前にも感じたことだが、桃矢はやはり犬っぽい。さや果は改めて思った。人懐こく、行き過ぎたじゃれあいの末に主人に怒られ、繋がれてしょんぼり、というところまで、お約束はフルコンプリート。隣に座る桃矢の首には、首輪までもが見えるようだ。

 その鎖の先では、厳しい飼い主がようやく二杯目を飲み終えたところ。

「さや果さんって、もしかして意外と男っぽいんですか?」

 唐突な美乃梨の質問に、さや果は少し面食らった。

「えっ?」

「いえ、このラックとかテーブルもそうですけど…なんか男の一人暮らしみたいだなって」

 それは誰もが抱く感想だった。女性らしいものといえばドレッサーくらいで、他はやけに年季の入った直線的で骨太の家具ばかり。先刻の雑な袋の開け方といい、見た目とは裏腹の男性っぽさが見え隠れする。

「実家にいたときから使ってんの?」

「違いますよ、兄から譲り受けたものれす」

「え、ドレッサーもですか?」

「や、それは自分で…」

「へえ、お兄さんいるんだ」

「いくつ違いー?」

「二つ」

「えっ!ってことは…」

 口をつけようとしたグラスに急ブレーキをかけて、杏平は驚いた眼差しを向ける。

「杏平さん!さや果さんの話、遮らないでよー!」

 いつまでも鎖を握られてしゅんとしている桃矢ではない。この回復力が持ち味だと言わんばかりの威勢の良さで、アルコールの力も相まって杏平をたじろがせるには充分だった。

「え、ごめん。…俺の兄貴と同い年だなあって」

「そうなんらあ!」

 にっこりと笑いかけるさや果に釘付けになり、再び杏平のグラスはくんっと止まる。

 顔色は真っ白なままとはいえかなり酔っているせいか、普段より何割も増して発揮される魅力。アルコールが制御のタガを外したのだろう、無垢さ全開、酔っているのに少女のようだった。

 早く素面でもこれくらいの笑顔が見られれば良いなと、目線はそのまま、ようやく杏平はハイボールを含む。

「へー、あの色々送りつけてくる?」

「そうです」

「そういえば先週も、大きな荷物届いてた…」

 そう言って美乃梨は、見よう見まねで作った三杯目のハイボールをちびっと口に含む。妙な顔をする。ほんの少し、ウィスキーを垂らした。

「へー、美味しいもの入ってた?ちょっと持ってきてよ」

「生憎と服ばっかりでした!」

 毎度その調子で、杏平宛ての届け物は暁奈たちの餌食になる。そんな日頃の恨みを存分に滲ませた非難の目をいなし、暁奈は肩を落とす。

「なあんだー」

「杏平さんの話なんかどうでもいいから!さや果さんの話聞こうよー」

 気を抜いていたさや果の瞼がぱちりと開いた。

「それもそうね。じゃあー…」

 二人の話を聞くと、どうも兄というのは弟妹に世話を焼きたがるものらしい。そういうことは親の習性ではないかと暁奈は何の気なしに思った。

「あっ!ご両親ってどんな人?」

「え、両親…ですか」

 さや果の脳裏に、父の顔が思い浮かんだ。眉根を寄せて視線だけ下を向けたまま、がなり立てて――これが最新の記憶。

「そ。娘が家を出たばかりで、お父さんとか寂しがってるんじゃない?」

 さや果は思わず目をしばたたかせた。丁度父のことを思い出していたところだったから少し驚いただけだ、などと誰に言うでもない言い訳が駆けていく。でもそれは一瞬の静寂をもたらしただけで、父はなおも不快感をため息で表しながらまくしたててくる。激しい応酬が繰り広げられていく。

「さあ、そんなことないと思いますけど」

 さや果の頭の中で。

「えっ?」

 いささか怒気のこもったさや果の台詞に、一同は一様に豆鉄砲をくらった鳩の顔になる。そして同じ速度で、ゆるゆると恐怖が混じり出す。さや果の放つピリリとしたオーラがそうさせているに違いなかった。

「だいたい、お父さんは頑固過ぎるのよ!実家を出るときは反対ばかりで!何かというとネチネチと!私の人生なんだから私が決めるって言ってるのに!」

 ゴッ、ガララッ。

 さや果のグーがテーブルに炸裂する。振動で氷が泣き崩れた。皆も肩から飛び上がった。

「…へこんでる時くらい、慰めて、くれたって…」

 そしてふっと火が消えた。その体は少しずつ前のめりになり、後半はほとんど聞き取れない。叩きつけた拳がゆるみながら、突っ伏すさや果の頭に場所を明け渡す。

「あ…の、さや果さん…?」

 遠巻きに様子を窺う皆と逆行するようにして、杏平が身を乗り出して覗いて見ると、さや果の睫毛はぴくりともしていない。

「寝てるみたいです…」

 その報告に、全員で肩の力を抜く。

「なんか、急に噴火して、鎮火したね」

「びっくりしたあ、オレ耳キーンってなったよ」

「どうやら、ご両親の話で火がついちゃったみたいですけど」

 起こさないようにひそひそと一通り感想を言い終えたところで、主役陥落のため、会はお開きということになる。




「なんか、さや果さん見てたらオレも眠たくなってきたー」

 大きなあくびをひとつ。桃矢の目は今にも閉じそうだった。

「ちょっと、部屋に着くまで寝ないでよ?」

 美乃梨が缶を集める横で、桃矢の上体は少しずつずり下がってきている。

「桃矢ッ!」

「しーっ…あとはやっとくから、みのりん、とーやくんが寝ないうちに連れて帰りな」

「すみません、そのほうがよさそうですね…」

 そして、半分寝ている桃矢を引きずって、美乃梨は窓から帰って行った。

 杏平はそれを会釈のみで見送る。片付いていない自室をさや果に見られるのはあんなに嫌だったのに、二人の通り道として提供することには、なんの抵抗も感じなかった。




 暁奈が意外にもてきぱきとこなしたため、ゴミや使ったグラスの後片付けはすぐに済んだ。さや果はというと、同じ体勢のまま、穏やかな寝息を立てている。

 寝顔を覗き込んだ暁奈は、くすっと口角を上げる。世話焼きの兄の気持ちがちょっと分かるような気がした。

「じゃ、さやちゃんベッドに寝かせてあげないとね」

「そうですね…」

「はい、抱っこして」

「え!い、いいんですか?」

「いいもなにも、私じゃ無理よ、いくらさやちゃんが華奢な女の子でも」

 なんの権限もない暁奈からのお墨付きを得て、杏平はにわかに浮き足立つ。訝しげな視線に気付いて咳払いをひとつ。足を地につける。

「じゃあ…失礼します」

 まず上体を起こすところからだ。脇に手を入れようとして、そうっと近づく。やけに自分の吐息がうるさく感じられた。

「なんか変態みたい」

 暁奈の野次も聞こえない。杏平が触れるか触れないかまで迫った、そのときだった。

「もお!やめてよッ!!」

「ふぁい!?」

 突然さや果がガバッと起き上がって怒鳴るものだから、杏平は両手を挙げて飛び退いた。しかしさや果は再びふにゃりと顔を伏せる。

「この変態」

「俺はまだ触ってません!」

「さやちゃんも寝ながらにして身の危険を感じたのよ、きっと」

「だから、何もしてませんって!」

 やれやれと、結局暁奈がさや果の脇腹を持って、からがら後ろへ体を倒した。片腕で頭を支えてやると、杏平へパス。

「やっぱり女の腕にはこたえるわ。早く」

「今度こそ、失礼します…」

 頭を受け取り、それから肩を抱く、と言っても良いのだろうか、この場合。とにかく腕に続き肩に触れることはできた。一夜にして大変な進歩だと、杏平はすでに有頂天だ。

「で、えーと…」

「脚持って」

「こうですか?」

「それじゃ落ちちゃう、もうちょっとぐいっと」

「ぐいっと…」

 膝の下から回し入れた手で、杏平が自分の身体に引き寄せた、そのときだった。

「だから!違うってばッ!!」

 再びの怒声に驚く間もないままに、腹の上に置かれていたはずのさや果の左腕が、鞭のようにしなった。

「わ、」

 それは無駄のない軌道を描き、

「ぶっ!」

 彼の顎にクリーンヒット。さや果の裏拳はしばし余韻を楽しむようにしてから元の位置へと下っていくが、もたらされた痛みはまだまだじいんとしがみついてくる。反動で、杏平は上を向く格好にさせられ、それを見下ろす暁奈は呆れ顔。

「手の甲にキスなんて、ゆいちゃん意外とキザなんだ」

「これがそんなふうに見えますか…」

 さあ、あとは持ち上げるだけ。杏平は片膝を付きながら力を込めるが、拍子抜けするほどあっさり立ち上がることができた。

「かるっ…」

 いつもこんなに軽かったっけと、桃矢や暁奈を毎晩二階まで運ばされていた日々を思い出す。無意識のうちに暁奈と目が合った。

「ふうん、何と比べてんの?」

 考えていることはお見通しのようだ。女性にこの手の話は厄災を招くのみなので、なんとか返事は避けたいところ。

「あ、寝室のドア、もう少し開けてもらえますか?」

 引きつった杏平のビジネスライクな笑顔に頼まれ、暁奈はテーブルを少し移動させて通路を広く取ると、引き戸を目一杯に開けた。境からあちらは段ボールが山積みになっているが、まあ通れるくらいだろうと、振り返るその顔は仏頂面。

「あ、ありがとうございます…」

 ぎこちなく礼を述べてから杏平は、さや果の白い首筋をちらりと見やる。髪が一束、張り付くようになっているのが色っぽい。それから無防備な彼女に対する、そこはかとない罪悪感。

「…」

 ずり落ちてくるので、よいしょ、と持ち直した。顔がこちらに向く。今度は薄く開いた唇に目が行ってしまう。自分で思うよりも危険なのかもしれないと認識したのは、コクンと喉が上下するのを感じたからだ。

 このベッドまでのわずか数歩は、杏平にとって葛藤でもあった。そんなことは露ほども知らない――振りをしているだけかもしれないが――暁奈が掛け布団を捲り、OKの合図。

 そして杏平が身体を降ろそうと腰を低くした、そのときだった。

「ばかあッ!!」

 三度の爆発はバッドタイミング。暴れる手足にバランスが保てない。

「ちょっ、さや果さっ!危な…!」

 胃に肘が入る。最後の糸が切れたように、杏平は真っ二つにくずおれる。

「あっ…」

 暁奈がそう言う間に、二人は派手にベッドに受け止められた。

「わむっ…」

 温かかった。倒れ込む瞬間、反射的にぎゅっとつかんだ肩は細く、太ももはふにっと柔らかい。

 だが何よりも杏平をそうさせたのは、薄手の生地越しに頬へ伝わる体温と、瞼を開けば目の前にあったふくらみの衝撃と、鼻腔をのぼってくる甘くも爽やかな匂い。つまり全部だった。

 すぐには動けなかった。こうしている時間は短かったかもしれないし、長かったかもしれない。このまま感じていたいという欲求が出てきたのは、もう少し後だった。意識が始まると、指先をはじめ身体の至るところがピクピクと動き出す。

 そうして、もっと、と思い始めたところで、上からストップの声がかかった。

「…で、いつまでそうしてんの?」

 弾かれたように杏平は体を離す。暁奈の眼下であることをすっかり忘れていた。一体どれくらいそうしていたのか、自分でも分からない程に形容しがたい圧倒的な感触だけを、ここに残して。

「わっ、いや、これは、そう!不可抗力で…!」

「とーやくんと同じこと言ってるし」

 暁奈は完全に穢らわしいものを見る目付きだった。無理もない、寝ている女性に覆い被さるかたちで、一歩手前とはいえ胸に顔をうずめるかのような体勢のまま、幾ばくかを過ごしたのだから。現行犯だ。

「す、すみません!」

 杏平は、咄嗟に正座で暁奈へと向き直る。

「さやちゃん知ったらどう思うかなー?軽蔑するかなー?」

「わー!やめてください!許して…」

「しーっ。じゃあ、ゴミの持ち帰り、よろしくね」

「へ…?」

 その指が差すのは、台所用の方向。空き缶に燃えるゴミに、まあまあの量だった。

 あれを次の収集日まで我が家で保管するのか。でも、さや果にあんな目で見られるよりは何万倍もマシだ。杏平は二秒で計算を終える。

「御意…」

「ん、よろしい。じゃああたしも眠いし帰るわ。鍵開いてるよね?」

「はい…」

「じゃ、おやすみ~!」

 にししと笑いながら、暁奈は颯爽と去っていった。やはり窓から。隣の窓が開いて、閉まる音を確実に聞き届けるまで、杏平はじっと耳をすましていた。しんとする。寝息が心地よく響いている。


 残されたのは、ついに二人。

「すみませんでした、さや果さん…」

 正座のまま、杏平は彼女に向かって頭を下げる。よこしまな気持ちを抱いてしまったことを深々と反省している。

「あ、そうだった…」

 忘れてはならない。今ならこっそりと、さや果の手に戻せる。

 ドレッサーの上の箱を手に取った。開けてみると、横一線の溝が現れた。ポケットから取り出した指輪をそこへ埋め込むと、杏平は静かに蓋を閉じる。

「お詫びと言ってはなんですが…」

 それをさや果の手に、そっと握らせた。そして布団をかける。

「お返しします…遅くなってすみません」


 夜空に、雲はもうなかった。カララと窓を開けると、冷たい空気にピンと背筋を伸ばした月が、浮かんでいた。

「今日も、月が綺麗ですね」

 振り返り、ひっそりと語りかけた。聞こえていたのか、いないのか。こちらに寝返りをうつ様子は、返事をしているようにも見えたけれど。

 杏平はそっと窓を閉める。

「おやすみなさい、さや果さん」

 ザリ。靴が土を踏む音も、ちょっぴり刺すような風も、なんだか気持ち良い。それでも、さますには足りないみたいだ。

 今夜はしばらく寝付けそうになかった。

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