第12話 明と暗

 窓を開けてただいまを言うなんて、随分滑稽だと思った。それも言い終わらないうちに、明るい部屋の中から騒がしく声が飛んでくる。

「ゆいちゃん!なんで出ないのよー」

「えっ?」

 やはりビールは封を切られ、戸の隙間から不満の声を投げる暁奈の周りには、すでにいくつかの空いた缶が横たわっていた。杏平たちがリビングに足を踏み入れると、テーブル全面に広げられたおつまみ類が目に飛び込んでくる。食い散らかしたという表現がぴったりだ。一体、一時間の間で、どうやったらこんなにできるのだろう。

「おっかえりー!」

 呆気にとられている杏平の視界を横切る桃矢の右手。クラッカーにサラミとチーズを馴れた手つきでひょいひょいっと乗せると、一口で頬張った。その横で、僅かに残るスペースにトンと肘を付き、おそらくまだ一つ目であろう缶を両手で支えながら、美乃梨も目だけでお帰りを言う。

「ついでに買ってきてほしいものがあったみたいよ」

「何度も電話したのにい」

 ジャーキーやポテトチップスを押し退けるようにして、杏平は氷とペットボトルを無理やりテーブルに置く。パンツのポケットを右、左、後ろと叩き、後ろのポケットからスマホを取り出してみると、確かに画面はいくつか着信が入っていたことを示した。

「わ、すみません、全然気が付かなくて…」

「気付かないって、何してたのやら?」

「は?」

「なーんか、やけに遅かったよね?」

 にやにやする暁奈と、じとっとした目つきの桃矢に視線で詰められる。

「買い物して帰って来ただけです!」

「そーお?それにしちゃ…」

「あの!」

 コートを脱いで戻ってきたさや果が、遮るように声を上げる。

「ハイボール、飲む人?」

「ハイッ!」

 挙手の仕草をすると、桃矢が速攻でピンと続いた。そして互いの顔を確認しながら、おもむろに次々と手が挙がる。

「はい、みんなハイボールね」

 さや果はにっこりと引き返して、足りない分のグラスを用意すると、いそいそとテーブルに並べた。氷の袋を開けようとするが、少し厚みのあるビニールなので、手ではどうしようもない。首を左右に振りながら、どこにしまったかなと考えているうちに、言葉に出る。

「はさみ…」

「ソーイングセットのでよかったらありますよ?」

 美乃梨がさっと差し出してくれたので、お言葉に甘えることにした。

「ありがとう」

 小さなはさみを使い、指が入るくらいの穴を作る。やはり切りづらいのか、あとは手で裂くようにする。引っ掛かりながらもぐっと力を入れると勢いよく開いた。中で氷が跳ねる。アイストングは用意がないので、袋からそのままグラスへ。

 なかなか豪快だなと、見ている方は思ったが、彼女に気にする素振りはない。

 カカガガガカッ。さや果が五人分の氷を入れ終えると、杏平が向かいからウィスキーの蓋を開けて差し出してくれた。氷一つ分半が琥珀色に沈んでいく。

「こんなにたくさん並ぶと、なんか店みたい」

 桃矢が、輪郭だけ浮き出た氷を、横から覗き込んで言う。綺麗に透けて、さや果の腕が動くのが見えた。本当だねと相槌を打ち、さや果は手近にあったソーダ水の蓋を勢いよく回す。

 プシッ、しゅーだばだばだだっ。

「ひゃっ!」

 白く細かい泡が、液体になりながら大群で膝に着地していった。そうだった。あれだけ思い切り階段から落としたのだ、こうなることは予測できたのに、すっぽり頭から抜けていた。

「あーあ」

「わっ、何これ、まさか振った?」

「すみません、さや果さん、すみません!」

「なんで由井くんが謝ってるの?」

「あはは、ちょっと着替えてきます」

 びしょ濡れになったところを隠すようにして立ち上がると、さや果はクローゼットから替えのジーンズを取り出し部屋を後にした。

 その後ろ姿から、視線を半分ほどになった炭酸に、そしてきちんと並べられた未開封のペットボトルへと移し、暁奈は息をつく。

「え、これ全部?」

「たぶん…階段から落としたんで」

「なんでまた」

「色々ありまして…」

「色々って?」

 先程と同じ構図になる。今度は助けが入る気配はない。しかし彼女は冷やかそうというのではないようで、神妙な面持ちで缶ビールを持つ手指に力を込めた。

「まさか、落ち込んでたとか?」

「え?」

「さやちゃん…あたしのせいで」

 そう言う声は先細っていた。暁奈は、自身の悪ふざけによって、さや果のものを失くさせてしまったことを気に病んでいるのだろう。毎度突飛な行動をする彼女だが、こういうときには意外とナイーブな面を見せる。もしかしたら、この中で一番思い悩むタイプなのかもしれない。

 そうして出来事を遡っていくうち、杏平は指輪のことをすっかり忘れていたことに慌てる。

「そうだ、指輪…」

 ポケットを確める。丸い輪郭はちゃんとそこにあった。

「…もしかして、見つけたの?」

 缶から掌をはがし、暁奈は俯き気味だった顔を杏平に向けた。ほろ酔いの表情が、すうっと覚めて真剣になる。

「え、なになに?」

 桃矢が二人の顔を交互に見ながら突っ込もうとする首を、美乃梨が引いて窘めた。

「うぇ!なんだよ美乃梨!」

「いいから」

「…ちょっと」

 小競り合いをする二人など完全に意に介していない様子で、立ち上がる暁奈は手招きする。杏平は後について寝室へ。

「暁奈さ…」

「あったんだ?指輪」

「…はい」

「…」

 こんなに真面目になる暁奈は珍しい。頼りない月明かりしかないせいもあり、余計に際立つ深刻さ。杏平は、押し黙る彼女を促すように、一歩だけ前に出る。

「これ、やっぱり…」

「あの箱さ」

 ドレッサーにきちんと置かれた、先程の箱を暁奈はついっと目で指した。

「十中八九、指輪のケースなのよね」

「分かるんですか?」

「さっき、中、見たからね」

「じゃあやっぱり…」

 杏平は、早く返さなければと思うと同時に、何度か機を逸してしまったがために、どんどん言い出しづらくなっている状況にあることを実感する。今更どう言って返せばよいのか。チャンスはいくらでもあったのに。

「こっそり、返してあげて」

 複雑な顔をする杏平。その肩に手を置いて、暁奈はぽつりと言う。

「たぶん、…すごく大事なものだから」

 それは、さや果の心を代弁するような呟きに聞こえた。

 言い終わるが早いか、暁奈はさっさと明るい方へ戻ってしまう。杏平は留め置かれたみたいに、少しの間動けずにいた。去り際の彼女の表情は見えなかったのに、まるで沈む顔のさや果が、そこにいたように感じていた。

 遣り切れずポケットの中に手を入れると、杏平はゆっくり箱に目を向ける。こっそりとは言っても、今夜は皆がずっと一緒だろうし。でも早く返してあげたい、きっと返さなければならない。

「ごめんなさい、炭酸、もう少し待ったほうがいいかも」

「…!」

 部屋の向こうからさや果の声が聞こえた。即座に思考を中断する。まずい、これではまるで、一人、女性の寝室に忍び込んだ怪しい奴だ。

 杏平は、慌てて踵を返した。


 指輪はまだ、返せないまま。暗がりに置かれた箱を背に、うしろ髪を引かれる思いだった。

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