第11話 きっかけ
途切れ途切れの月明かりと、等間隔に並ぶ街灯の下とを、順々に巡っていく。白っぽいレンガが鈍く光を放つ川辺の遊歩道には、ぽつぽつと、人の姿があった。ゆっくりと散歩する男女、階段に座って話し込む男女、水面を眺めている男女。
もしかして、道を挟んだこちら側とは世界が違っているのだろうか。できればあちら側の住人でありたかったものだと、杏平は心の中でぼやく。
いつもは周りの景色など見もしないくせに、隣を歩く彼女の存在がそうさせていることは明らかだった。
結局、買い出しへは二人で来ている。杏平が行くと言ってもずっと申し訳なさそうにするさや果に、暁奈が悪巧みを隠そうともせず言ったのだ。
「表が無理なら、ゆいちゃんの部屋から行ってくれば?…二人で!」
それから庭に出て、また窓から部屋に入るまで、桃矢からは文句を言われ、暁奈からは冷やかしを受け、そして引っ越し直後でもないのに未だに段ボール箱がいくつも残る荒れた自室に、さや果を招き入れるという恥辱を、杏平は味わうことになったのだった。
でも、そのお陰で今この時があるのだ。ちょっぴり、暁奈に感謝しないでもない。
「これでおあいこね」
足の踏み場に困る部屋を横切りながら、少しいたずらっぽい笑みを見せてくれたのは、彼女の新たな一面だった。とは言え、やはり日頃から片付けはしておかなければと、杏平は明日には忘れていそうな心決めをしたところだ。
彼が自分の頭越しに、ずっと向こうを見つめていることに気が付いて、さや果も同じ方向へ顔を向ける。川が、控えめにチラチラと波打っていた。ゆったりした時間の流れを重ねては、冬色の水面にだんだんと肌寒さを感じていく。
再び杏平を見るが、彼の視線ははまだ遠く、少しも動いていないように見える。さや果はとうとう、この沈黙を破ることにした。
「どうしたの?」
「えっ、いや、寒いなーと…」
「そうね、まだ11月なのに」
「本当に」
「今からこれじゃ、冬が思いやられる」
「そうですね」
「…」
「…」
羨ましがっている場合じゃない。
杏平は危機感を覚えた。会話も続けられない、こんなことでは川辺の散歩なんて到底できっこない。息を静かに吐いて溜め息を抜くと、ポケットの中の指輪を握り直す。
指輪を渡すと言うとやけにロマンチックだが、実際にはその欠片もないものだ。コンビニへ向かう道すがら、ただ彼女のものを返すだけなのだから。これが本当にプレゼントだったらと、杏平は情けなく思いながら息を吸おうとした。
「コンビニって、駅前にあるの?」
「えっ?ああ、そうですね、向こう側に」
「そこが一番近い?」
「だと思います」
「ドラッグストアも、駅前にある?」
「えーっと、駅の向こうの通りを少し行ったところに…」
「それって遠い?」
「こっからだと二十分ちょいくらいかと」
「そっかぁ。じゃあ、コンビニでいっか」
「どうかしました?」
「ちょっと、日用品を。今日も買い物行きそこねちゃって」
出鼻をくじかれてしまった。そうこうしているうちに駅を抜け、コンビニの自動ドアの前まで到着していた。おなじみの音楽と昼間よりも明るいような照明に迎えられると、ふわふわとした非日常が一気に終わりを告げる。
切り出すきっかけを、掴めないまま。
買い物をしている間、さや果が生活雑貨を両手に溜め込んでいくのを、杏平は言葉少なに見ているだけだった。
「…ありやとざましたー」
「あ、俺持ちますよ」
「え、でも」
「重いでしょ?」
「じゃあ…ありがとう」
自動ドアを出ると、会話らしい会話もないまま、二人はえんむすびのある通りまで戻って来た。信号が噛み合わず、帰りは遊歩道のある側を歩く。車も通らないので、聞こえるのは時折擦れるビニール袋の音だけ。
「…」
さや果には、杏平が何か考え込んでいることだけは分かった。でも、どうしたのと訊いても、また「寒いですね」くらいしか言わないだろう。
こういうとき、話題をぽんと出せたら良いのに――さや果は苦い気持ちになった。ほんの少しの気まずさが、家路を長く感じさせるから下を向く。
足元のすぐ横からは、くっきりと境目が分かるくらいに白く舗装され、階段状になっている。降りると下は遊歩道。さっきまで月光を受けていた川面は、ところどころに人工の灯りを映すだけで、寂しげな景色を余計際立たせていた。
ツンと、左脚に冷たい感覚。さや果が、はっと吐息だけが漏れるのと同時に振り向くと、杏平の持つ氷の袋が、足元にぐいと迫ってくる。
「えっ、由井くん、ちょっ…」
右足の着地点が、ない。踏み外した、と思ったときにはもう、体が傾いていた。
「ひゃっ!」
「さや果さん!?」
ダタンッダタンッダタタタタ。
杏平の手を離れた袋から、ソーダ水が盛大に競争を始めた。弾みながら階段を転げ落ちていって、派手な音はしばらくすると鳴りやんだ。
「…」
「…」
咄嗟のときというのは、迷いなど生じようのないものだ。
「さや果さん…」
離した代わりに掴んだのは。
「大丈夫、ですか?」
杏平の掌にぴくりと返事があった。強ばった彼女の体が、少しずつゆるんでいくのが分かる。
「はー…ありがとう」
掴んだ腕から、彼女が身体ごとこちらに一歩近づくのを、杏平は感じた。ふわり、と。まるで自分が引き寄せたかのよう。一瞬の出来事、驚きで思考が上手くいかない。この手を離すこともできない。今がタイミングだと分かっていながら、それを逃したい。
だが、若干問い詰めるような彼女の視線に、その葛藤はすぐに終わりを迎える。
「考え事しながら歩いてたでしょ?」
「えっ?」
「どんどんこっちに寄ってくるんだもん」
「え!」
見れば、確かに左側を歩いていたはずなのに、真ん中よりも右寄りに立っている。杏平はすぐ理解した。心ここにあらずで歩みを進めているうちに、だんだん右に逸れて、さや果を押し出したかたちだ。
「すっ、すみません!俺本当に…」
「いいよ。助けてもらったしね」
知らず知らずのうちに、手は離れてしまった。
残る感触。服越しでも感じた体温。肩が当たりそうなほど近くにいる彼女。
この手を僅かに伸ばすだけで、もう一度――なんて思っても、杏平にはそうする勇気などない。
「これに懲りたら、もう、だめだよ」
ふふっと笑うと、さや果は階段を降り始めた。同時に杏平は、思い出すように秋夜の空気を感じる。
つい今まで触れそうな距離にいたのに。瞬きするたびに一段ずつ遠ざかっていく、彼女の体温。
杏平が未練の眼差しでその揺れる髪を見つめていたら、途中でさや果が「あっ」と振り返った。
「全部落ちた?」
「…っ!」
急に目が合ったので、杏平は全身でどきっとする。こんな顔を見られて、見透かされていやしないだろうか。そんな不安が邪魔をするから、袋の確認は一拍遅れた。
生存者一名、天然氷。
「はい…炭酸は全部…」
「じゃあ探そ!」
そしてさや果は残りの階段を下っていく。杏平もぐっと一度目を瞑り、開くと、深く息を吸い込み段飛ばしに駆け降りた。
「はい!」
雲に隠れた月は、気まぐれに時々顔を出すだけで、手伝うつもりはないらしい。ささやかな光を背に、ひとつ拾うさや果の睫毛が浮かび上がる。その横顔が、どんな表情をしているかは、杏平には分からなかった。
それでも念願叶ってか、二人は誰もいない川辺を歩く。落としたものを探すためだとしても、今はこれで充分だった。
「このまま、こっちを歩いて帰りませんか」
「そうだね」
それがきっかけに、なるのだから。
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