第10話 親しみを込めて
さや果は、少しでも場所を広く取ろうと、ソファー周りの荷物を寝室の方へと移動させていた。今日は段ボールのバリケードの中で寝ることになりそうだ。寝かせてもらえたらの話ではあるが。
他の三人は、この人数からするとこぢんまりしたリビングテーブルを囲うように、足を崩して座っている。一応、まだ缶は開けていない。
「もー、何してんのよー。乾杯待ってんのに」
「オレもハイボール飲んでみようかな?」
「桃矢は無理よ、すぐ寝るに決まってる」
「そっかなあ」
「グラス、持って来ましょうか」
台所まわりだけでも先に整えておいたのは正解だった。上の棚からひとつ、ふたつ、杏平も飲むのだろうかと、さや果は少し思案して一応三つ取り出した。ダイニングテーブルにコトリと置いて、そこではたと思い出す。
「あっ、氷…」
まだ冷蔵庫の中身は空っぽ。できれば天然水の氷が良いのだが、もちろん無いし、水道水の氷さえも用意がない。とりあえずグラスだけ、渡しておくことにした。
氷がないことを伝るため口を開こうとしたところで、トントントンと、控えめに窓を叩く音が聞こえた。さや果が寝室をのぞくと、指先で窓を突っつきながら、杏平が庭から呼んでいる。
「すみません、窓から…」
さや果が開けてやると、杏平はまずウィスキーの瓶を床に置いた。窓際に両膝を付きながら、さや果はそれを引き寄せるようにして受け取る。
「兼行さん、もう表閉めるからってことだったんで…」
「そうだ、私仕事放り出して…」
「あ、戸締まりは明日教えるからって、言ってましたよ」
よいしょっと、杏平は床に腰かけて靴に手をかける。
「そっか…もう二人とも帰った?」
「はい…それから、これ…」
脱ぎ終えて、ポケットに手を差し込みながら片脚を上げたところで、目の前、同じ目線にいることをやっと認識する。昨日も、この時間に、ここで、二人で話をした。でもそれは別々の窓からで、月を介していて、こんなふうに向かい合うこともなくて。
今は同じ窓の内に、こんなにも近くに、いる。
一度意識してしまうと、びっくりするくらいどきどきしてきた。自然にできていた会話も、急にどうしたらよいか分からなくなる。
「なに?」
「…」
「どうしたの?」
「はあっ、いやっ、お邪魔しますっ」
「どうぞ?」
半分開かれたパーティションの隙間から、待ちきれないと爆発寸前の暁奈が、缶を掲げて身を乗り出してきた。
「ちょっと!いつまで二人、こそこそやってんのよ!」
杏平は弾かれるように立ち上がり、そそくさと彼女たちのほうへ向かう。
「いやっ、二人きりなんて、そんなっ」
「何にやにやしてるの?」
「杏平さん、ウィスキーは?」
「え、あ!」
桃矢に指摘され慌てて杏平が振り向くと、さや果が窓を閉めて瓶を持って来るところだった。テーブルにコトンと置くと、皆の視線がウィスキーに集まる。
「で、ハイボールって、ソーダ水がいるんじゃないの?」
「うちのは昨日使いきってしまいまして…」
「ウィスキー、ロックって格好よくない?」
「それが…すみません。氷も作ってなくて…」
「ロックですらないですね」
「…」
「言い出しっぺ、買い出し!」
「ええっ」
暁奈がびしっと杏平を指差す。
「待ってください!そもそも言い出したの、私ですから…」
立ち上がると、さや果はクローゼットから上着を取り出した。
「私が行ってきます」
「こんな時間に女の子を一人歩きさせられないでしょー」
「それに表、閉まってます…」
杏平の言葉に、玄関へ向かっていたその足がピタリと止まる。そうだった。表の鍵は渡されていないし、店の戸締まりにはセキュリティ操作も必要だったはず。それをまだ教わっていない今の自分は籠の中の鳥、役立たずらしかった。
「忘れてた…」
呆然とするさや果に、杏平が寄って行って声をかける。
「だから、俺行きますから」
「ごめんね…」
「いいですって」
二人のやり取りを見ながら、桃矢には何か感じるものがあったらしい。少し面白く無さそうに、わざと向こうの二人にも聞こえるくらいの声で言い放つ。
「あの二人、なーんか怪しくない?」
ドキリと、一瞬肩を固くすると、さや果はどういう顔をしたらよいか分からなかった。聞こえない振りができるほど器用でもない。さっと顔を背けるのが精一杯だ。
杏平は覗き込んででも確めたかったが、暁奈の追撃がそれを許さない。
「鋭いねとーやくん。昨夜も仲良くお話してたよ、ねー?」
暁奈がにっこにこでさや果と杏平を交互に見やると、杏平が顔を真っ赤にして声を荒らげた。
「なっなんで知ってるんですか!!なんでっ…!」
「えー?昨日、目が覚めちゃって、夜風にあたってたら聞こえてきたのよねー」
暁奈は立ち上がり恭しく一礼すると、すんっと息を吸った。
「同い年だと思ってください!思ってもらえるような男に…」
「わーっ!やめてください!!」
あちらを向いたままのさや果を置き去りにして、杏平は暁奈の口を封じようとすっ飛んでいく。さや果はまだ、秘密を暴かれたような恥ずかしさで身動きができなかった。
「それでさや果さん、杏平さんにだけ親しげなんだー?ずるくなーい?」
「さや果さんと由井くんが親しくなろうとなるまいと、桃矢には関係ないはずでしょ?」
「でもまあ、せっかくなら皆と仲良くなってもらいたいしー…あ、特別親しい仲になるのは自由よ?」
杏平の必死の圧力を爽やかにかわしつつ、暁奈は未だ玄関に釘付けのさや果に呼び掛けているつもりだ。
「あたしはともかく、みのりんもとーやくんも年下なんだし、もっと砕けちゃっていいんじゃない?ねー?」
「そーだよ!オレなんか最初っから砕けてんのに!」
「桃矢には敬語の概念なんか元からないでしょ。…私ももちろん、そのほうが嬉しいです」
「ね!さやちゃん!」
しっかりプレッシャーをかけ終えた杏平は、手応えの有無を確認するよりも、さや果がどう思っているかのほうが気になっていた。特に「特別親しい仲」あたりについて。玄関で、両手を前で合わせている彼女をじっと見る。
そしてゆっくり振り返り、少し恥ずかしそうにはにかんだその笑顔は、先程とは正反対に、明るく嬉しさに満ちていた。さや果はそのまま、ととと、と皆の方に歩み寄ると、少し改まり、いっぱいの親しみを込めて言った。
「はい…よろしくね、美乃梨ちゃん、御影くん、暁奈さん」
杏平に向き直ったその表情には、照れもあったように見えたが、実際のところはどうなのだろう。知りたいところについては、曖昧にはぐらかされてしまったような気がする。
「…由井くん」
でも、隣に立つ彼女は満足そうだから、それでいいかと、杏平も笑顔を返した。
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