第9話 ロスト
そこかしこに段ボールが散らばる部屋は、酒呑みが好き放題するのを助長するようだった。散らかしても、最初からこんなものだったという免罪符が置いてあるようなものだ。ご自由にお取りくださいとばかりに。
「み、皆さんも!散らかってますからどうか勘弁してください!」
さや果はなんだか大切なものを失った気分だった。本当に散らかっているので体裁を繕うこともできない。恥ずかしいやら情けないやらの、そんな彼女の叫びをよそに、各々は思い思いの感想を抱くのに夢中だった。
「ここがさや果さんの…」
玄関には箱に入ったまま積まれた靴、右手の洗面所は洗濯機の前に力任せに開封した跡のある段ボール箱。リビングに入ってもやたら目につく箱、箱、畳まれた箱。
「…」
おそるおそる足を踏み入れた。こんなかたちではあっても、憧れの女性の部屋など初めての体験である杏平にとって、いささか予想外というか、夢が壊れたとまでは言わないが、現実とはこんなものかと思わざるをえなかった。もっとこう、花を生けた花瓶や、ピンクのカーテン、赤い屋根の家が描かれた絵なんかで彩られたイメージだったのに、そんなメルヘンチックな要素はなく、どちらかというと男性的な印象だ。無機質なパイプラックが、パッと目を引く位置で鈍くその存在感を示す。
杏平の部屋とほぼ同じ造りで、奥の部屋とはひと続きになっているが、パーティション代わりの引き戸が半開きのため、ここからでも少しベッドが見えてしまう。彼女も寝室として使っているのだろうが、その窓にはカーテンすらかかっていない。ぼやけた月の光が無遠慮に入り込んでいた。
「意外と殺風景ですね」
「オレの部屋って言っても通じるかも」
「そんなことないでしょ、女の子らしいもののひとつくらいは」
先程とは別の段ボールに半身を預けて、暁奈はその寝室をロックオンした。さや果に気づかれまいと、そろそろと四つん這いで侵入を試みる。
窓際で、月明かりに端だけ照らされているのは、ドレッサーだ。丸みのある、シンプルだが女性らしいデザインのもの。この部屋には似つかわしくないとは口にしないでおくが、浮いた存在であることは、誤魔化しようがなかった。
「ああっ!そっちは…!」
気付いたさや果も、そちらへ飛び込んだ。勢いがありすぎたため、目的を遂げようと慌てて立ち上がろうとする暁奈に背後から突進する形になる。足元には散積する段ボール。どちらが躓いたかなんて、理解が及ぶよりも先に二人は前のめりに倒れ込んでいった。
どたどたんっ。コッ、コトン。
「…大丈夫ですか?」
一番近くにいた美乃梨が一応声をかけるが、手は出さない。なにせ両方ともコンビニ袋でふさがっているのだ。いや、ふさがっていなくとも手を貸したかは疑問ではあるが。
大きな音に瞑った目を、桃矢がじんわり開ける頃、杏平が向こうから駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!?…ッた!」
足の小指でなにか角のあるものを蹴ってしまった。口端が歪むほど痛かったがそれどころではない。杏平が手を差し伸べようとして、触れていいものかと迷っているうちに、さや果は腕から起き上がった。
「はい、私は…すみません暁奈さん、大丈夫ですか?」
「へーきー。ごめん、そんな必死に嫌がられるとは思わなくて」
「普通は嫌でしょうね」
「すっごい音したけど」
さや果が身なりを整えながら視線を落とすと、見覚えのあるものが、あるはずのないところにあった。隅のほうで横たわっているのは、確かにドレッサーの上に置いていたはずの箱。蓋が開いている。まさか、と、慌てて拾い上げた。中はもぬけの殻。本来はあったものが、ない。
「うそ…!」
さや果は狼狽した様子で辺りを見回す。
「どしたの?」
「中身が…ないんです…!」
「え!探しましょう、何が入ってたんですか?」
杏平も上体を屈めながら床に目を凝らす。問われて、さや果は彼を見上げるが咄嗟に答えるのをやめてしまった。
杏平がなかなか返事のないさや果のほうを見ると目が合った。口を二度ほどぱくぱくさせ俯くさや果を見て、一同は顔を見合わせる。
「さやちゃん、ごめん。大丈夫?」
少し悪ふざけが過ぎたと反省しながら、暁奈は、さや果の様子が少しおかしいことを察して、皆からブロックするように傍らで膝を付く。乗り出そうとした杏平を、美乃梨が尻に袋をぶつけて制止した。桃矢はそれぞれの表情を窺うと、あさっての方向を向いてしまう。急に祭り囃子が聞こえなくなったような、こういう雰囲気は苦手なのだ。
短いようで長い三秒だった。
「あっ、すみません、いいんです」
顔を上げたさや果は笑っていた。
「こんなところに置きっぱなしでしたしね。荷物、片付ければ出てくると思いますから」
瞬時に杏平は、それを初めて会ったときの笑顔と重ねた。でも、似ているようで少し違うのかもしれない。何かを覆うような、距離のある表情。
「…」
なんとなくだが、触れられたくないものを守っているからだという気がした。
「本当、ごめんね」
「いいえ。それに、いつか処分しようと思ってましたから!それで、まさか私の部屋で…?」
優しい嘘だと、誰もが分かった。微妙な空気にしたくないという彼女の気遣いなのだろう。だからこそ暁奈は、真っ先に音頭をとるしかなかった。
「…そう!歓迎会、結局ちゃんとできてなかったでしょ?」
「なんか伝統らしいよ?オレのときも風呂上がりに女二人が乱入してきてさ」
「私のときは暁奈さんだけで、朝まで居座られました」
「そういえば俺も…」
シャシャッとビニールの音をさせて、さまざまな銘柄の缶ビール、ナッツにジャーキー、チーズ等々、コンビニでよく見かけるラインナップが続々と現れた。
「さや果さん、どのビールが好きかなーって。一応全部買ってきた!」
「わあ!ありがとうございます。実はそんなに詳しくないので、オススメを…」
「そうなの?」
「ビールはあまり飲んだことがなくて」
「普段、酒飲まないの?」
「そんなことないですよ、好きな方です」
「じゃあ、いつもは何を?」
「ええっと…」
杏平はまだ、先程のさや果の笑顔が気にかかっていた。皆も察していてあえて触れていないのだということも、もちろん分かっているのだが、このモヤモヤは拭えない。だからなのか、盛り上がろうとする輪に彼だけが、いまいち入り込めていなかった。
すぐそこなのに、皆の会話がずうっと向こうのほうから聞こえてくるかのよう。
「ハイボール…」
杏平はぴくんと反応した。遠慮がちに呟くさや果のその声に、意識がずいっと戻りはじめる。
「…が、好きです」
昨夜が思い起こされる。炭酸の抜けかけたハイボール。良いことがあったときには飲もうと決めている、杏平にとっては特別なもの。
「そうなんだ!ここのみんなはほとんどビールしか飲まないしねー」
「オレそもそもビール以外ってあんまり飲んだことないや」
「そう言えば、由井くん、たまに飲んでなかった?」
美乃梨に話をふられ、杏平の遠い目が戻ってきた。輪の中に加わる。
「俺も好きです!」
「何興奮してんのよ」
暁奈の食い気味の突っ込みに、顔を赤くして固まった杏平を尻目に、美乃梨と桃矢は最初の缶を選び終えた。暁奈もそれを見て、負けじと好きな銘柄を探し始める。それぞれのオススメをさや果にアピールするプレゼン大会が、にわかに始まろうとしていた。
「あ、えっと、うちウィスキーあるんで取ってきます!」
「え、由井くん!?」
突然立ち上がると杏平は、さや果が止める間もなく行ってしまった。別にハイボールでないと飲めないわけではないのにと、さや果はゆっくり息を吐きながら、駆けていくその姿を見送った。
杏平が店へ続くドアを開けたら、菜摘が丁度出ていくところだった。
「あら、どうしたの?」
「いえ、ちょっと部屋に取りに行くものが…」
後について外へ出ると、兼行もそこにいた。
「もう表閉めるから、早く頼むよ」
「え、そっか!そうですよね」
「あら、大丈夫よ。庭が繋がっててよかったね」
笑いかける菜摘の向こうで、心なしか兼行が動揺したように見えたが、杏平はさや果の部屋へ戻るルート検索を終えることを優先したので、特に気に留めなかった。
「ああ、そっか、ドアから入って庭に出て…」
「じゃあ、今度こそ。おやすみなさい」
「あ、はい!おやすみなさい」
顔を上げると菜摘がにこやかに手を振ってくれていた。兼行は下を向いて戸締まりをするが、何やらもたついているらしかった。杏平は二人に一礼すると、がちゃこがちゃこという忙しくてぎこちない音を背に、急ぎ足で自室へ。
手元は暗いが、ここに住み始めてそろそろ一年。杏平は慣れた感覚で、一発で鍵を挿す。ドアを開け、玄関に足を踏み入れながら靴を脱ぐ。右足で左足の靴の踵を踏み、左足の踵が脱げ出ると今度は逆。しかし今日は少し長いズボンの裾に足を取られてどたばたする。兄のお下がりで、裾上げをまだしていないものだった。
左脚のロールアップがくたりと下がって、コツと何か固いものが落ちる感覚があった。
「ん?」
玄関の電気をつけて音の主を探す。自室に不釣り合いなそれは、すぐに見つかった。
「指輪…」
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