第8話 画策

 外の提灯、ぼうっと灯りが笑っている。

 今晩は、昨日とは打って変わって盛況だった。この界隈の夜を象徴する薫りとともに漏れ出るのは、やはり近所のお得意さんの声。あまりの賑やかさに、連れだって帰って来た桃矢と美乃梨は思わず顔を見合わせ、今一度暖簾を確認した。首を捻りながら桃矢が戸を開ける。

「いらっしゃ…お帰りなさい!」

 にこっとそのまま、さや果は串の盛り合わせを両手に抱えて座敷に向かっていった。二人がその姿を見送っていると、右から左から会話が飛んで来る。

「ハルちゃんの姪御さん、べっぴんだねえ」

「あれ、娘さんでないの?」

「健さんから聞いたろ!」

 まさにわっはっはと大きな笑い声が絶えないのである。特に座敷の盛り上がりようは群を抜いていた。四人用の席が二つのところを、無理やり十人以上がひしめいている。目が合えば巻き込まれそうな悪寒を感じ、桃矢たちはすぐに視線をずらした。

 そんな中からさや果が提供を終え出てくると、口が開いたままの二人に再び会釈をして通り過ぎていく。その向こう、最奥の席で一人ジョッキを傾ける暁奈の姿があった。この満員御礼の中であってもいつもの席を確保できているあたり、早々と職場から帰宅してきたか、兼行の配慮か。おそらく前者なのだろう。

 暁奈はいまいち乗りきれていない様子で肘をつき、残り半分もないくらいのジョッキに口をつけていたが、待ち人が現れたことに気付いて、ぱっと顔を上げる。直後、すぐに不満を口にする。

「おそーい!」

 ダンッと、僅かばかり残した中身が跳ねた。

「今日なんかあんの?満席なんて、初めてじゃない?」

 ところどころ、お客の笑い声で聞こえづらい。桃矢はきょろきょろしながらいつもの席へ。いつもは勝手に使っているクロークだが、こうもごった返していると、そういうわけにもいかない。仕方なく鞄は椅子の下に押し込んだ。

「びっくりしました…寄合でもやってるんですか?」

 カニ歩きでなんとか座ると、鞄を膝に乗せて美乃梨も改めて見回した。

「近所の常連さんが、さやちゃん見に押し寄せたっぽい」

 確かにさや果はあちこちのテーブルに引っ張りだこのようだった。注文をとり、厨房に伝えてはまたすぐに呼ばれていく。こちらを気にしてくれているのか、たまに視線は合うのだが、そのたびにお客の声に遮られるのだった。

「今週もお疲れ様、美乃梨ちゃん、桃矢くん」

 柔和な声にひねった体を戻すと、菜摘がジョッキを三つ、コトリと置いてくれたところだった。

「こんばんは、菜摘さん」

「お疲れっす!菜摘さんに会うと週末きたーって感じ」

 乾杯もそこそこに、桃矢は一気にほとんどを飲み干す。美乃梨もすぐにジョッキに指をかけた。いつものようにちょびちょび喉に通すと、山吹色と入れ違いに暁奈の顎が上がるのが見えた。

「ねえ、菜摘さん、ちょっとちょっと」

「なあに?」

 暁奈は手招きすると、空いている横の席に手を付き菜摘ににじり寄る。菜摘もテーブルの端に体重を預けて応じた。なにやら耳打ちをしている。

 この賑わいの中ではさすがに聞き取れないが、美乃梨には若干の予想はついていた。

「あるけど、どうして?」

「サプライズ~」

 にかっと笑う暁奈に、それは確信に変わる。

 桃矢は我関せず、そんなことより早くおかわりが欲しいとでも言いたげだ。視線に気付いた菜摘は、桃矢のジョッキを引き寄せながら、にこにことポケットからそれを取り出した。

「明日来るから、その時には必ず返してね?」

「ありがとー菜摘さん!さすが話の分かる管理人!」

「うちの姪を、よろしくね」

「料理あがったぞー」

 厨房からの声で、ジョッキをもうひとつ受け取って菜摘は戻っていった。煙の合間から見える兼行は怪訝な顔をしていたが、やはり笑顔を崩さない菜摘と言葉を交わすと、なんだそりゃと笑うのだった。

 暁奈の掌にある物を見て、美乃梨はやっぱりなという顔をする。桃矢が身を乗り出して覗き込むようにすると、暁奈はグーの中に隠してみせた。

「なにそれ?」

「いいから、閉店と同時に突撃よ!」

「なにが?」

「いつもの洗礼、やるんですか…」

「もちろんよ!美乃梨ちゃんのときからの伝統でしょ!」

「私のときは暁奈さんだけでしたけど」

「あー、そゆこと。オレもやられたっけ」

「でも今は男もいることだし、やりすぎなんじゃ…」

「いいじゃない!これじゃいつまで経っても歓迎会できないもん」

「それも兼ねてってことかー!じゃ、買い出しいるじゃん!」

「よし、ここの元気なカップルに行ってもらおう」

「承りましたー!」

「えー…これからですか?まだ一杯も…」

「ほら、早く!閉店までには帰って来てよね!」

 美乃梨とは対照的に、桃矢は割とうきうきだ。彼女を引っ張るようにして、席を立つ。テーブルの横でささっとアウターを着ると、同じ速度でマフラーを巻く。くいんっと後ろにポンポンを投げやる仕草までを見届けて、暁奈は呆れ半分にからかう。

「やだあもう、それペアなのー?」

「ち!違います!私が先にプレゼントしたのに、桃矢が後から同じものを…っ」

「えー、そうだっけ?店でチラチラ見てたじゃん、欲しそうにさ」

「見てないっ!」

「見てたって」

 さや果はジョッキにビールを注ぎながら、おやと最奥の席に目をやった。お客の誰もが座っている店内で、二人もそろって立ち上がると目立つのだ。

 マフラーのポンポンがふたつ、ゆらゆら。どうも色は違えどおそろいのようだ。微笑ましくて、少し羨ましい。さや果は自然と目を伏せる。そこで初めて、注ぎすぎたことに気付き、慌てて泡を盛る。どうにか整えて一丁上がりと思うとまた注文が入るから、絶え間ない。

 顔を曇らせている暇などないのだった。




 閉店時間が迫る頃、お客は満足した様子でほとんど帰っていった。美乃梨と桃矢も帰ったのかと思いきや、すぐに戻ってきていた。さや果が何かあったのかと問うと、何でもないとしか言わないので、恋人同士に余計なことを訊いたかなと少々的外れな反省をしつつ、会計を済ませたお客を見送っていた。

 ついでに暖簾を片付けようと手を伸ばしたところで、その足音に気付く。

「お帰りなさい」

「ただいまです。持ちますよ」

 小走りで帰って来た杏平が、手を貸してくれた。

「あ、ありがとう」

 場を譲る間、さや果は物言いたげだ。意外と暖簾に長さがあり苦戦気味だった杏平は、視線に気付くのがやや遅れた。

「えっと、どうしました?」

「…由井くんは、敬語なの?」

「え?」

「だって…同い年だと思って、って」

 杏平は、昨晩の会話を思い起こす。自分の言ったこと。確かに、相手には同い年だと思ってくれと頼んでおきながら、自分は相手を年上として扱うのは、理屈が合わない。かといって、なんだか畏れ多いのも事実なのだ。すすっと頭を下げる。

「ですね、すみません」

 口に出てしまった後で気が付く。目線を上げると、さや果は僅かに唇を尖らせていた。しかし、すぐに小さく笑ってくれた。

「いいよ、話しやすいほうで」

 提灯の灯りがひとつずつ、ふっ、ふっと消えて、闇。一瞬、さや果がそこに消えたような錯覚に陥る。

「…!」

 店内の明かりがすぐに彼女を浮かび上がらせるも、その横顔が、なんだか寂しい。

 話し方をどうするかなんて、本当にどうでもよいことなのかもしれない。でも、何かひっかかりがあるから敬語になってしまうわけで、話しやすいほうで、と言われたら、今はまだ、このほうが気が楽なのだ。なんだか情けないけれど。

 さや果が戸を開けると、杏平は店内の温度や声に引き戻された。招かれるように明るい方へ。不本意ながら、こうでなければ落ち着かない。

「よっし!役者はそろったー!」

「お帰りなさい」

「遅いよー、もー、眠いよー」

 杏平は丁度、最後のお客と入れ違いだった。念のため、彼の中では暁奈たちはそこにカウントされない。

 いつも丁度良い時間帯には顔を出せないので、馴染み客でも彼にとってはほとんど初対面に近い。道を譲りながら、互いに会釈をするだけになった。

「あれ、桃矢起きてんだ?今日、俺早かったですか?」

「いえ、いつも通りよ」

「なんか、すみません…」

 時計を見る前に答えをもらってしまったので、引き上げた腕が宙ぶらりんになる。とりあえず、さや果たちの掃除の邪魔にならないよう、杏平は引き揚げを提案した。

「そうはいかないっ!これから歓迎会やるのよ!」

「もう閉店ですってば。暁奈さん、ほら立てますか?」

「今日は酔ってない!」

「そんなわけ…あれ?」

 いつもの晩が嘘のように随分しっかりと立ち上がると、暁奈は回れ右の要領で、店の戸とは反対にくるりと足を向けた。ああ、ほら、やっぱりと、杏平は腕を掴みにかかるがかわされる。

 なんだか映画とかで観たことのある動きだ。一見酔っ払いがだらしなく千鳥足になっているだけなのに、実は計算され尽くした身のこなし。

「ちょっ、暁奈さん!どこ行くんですか!」

 体勢を崩し、格子に手をかけて事なきを得る。杏平が目を離したその一瞬で、彼女は鍵穴に挿して、回して、解錠に成功。杏平の問いかけに、余韻を残すように振り向いた暁奈は、不敵な笑みを浮かべていた。

「歓迎会の、会場ぉー!」

 言うが早いか、勢いよくドアを開けてしまった。瞬発力のある音に、寝ぼけていた桃矢もびんっと上体を起こす。

「わっ、そこはっ…!」

「ふふ、大丈夫、管理人には話通してるから」

 ハイヒールをヒョヒョイとばらまきながら、なんと暁奈はさや果の部屋の中へ。その後ろ姿とここにはいないさや果の姿とを、交互に見ながら探しながら、杏平はおろおろ。丁度バックヤードから出てきた兼行の目には、意気揚々と駆け込む暁奈の背中が映った。

「なんだ、もうはじまるのか」

「そうですね」

 美乃梨がため息混じりに肯定したところで、表で作業していたさや果が戻ってきた。そこへ一斉に、皆の目が集まる。

「え?なんです…ふあ!?」

 気の抜けたような声を漏らしたさや果の視線の先、部屋のドアが開いている。まさか営業中ずっと開いていたのか、いやそんなはずはない。店の戸を閉めるのも放ってさや果は、大急ぎで自室へ。

 こんなに部屋が明かりで満たされているのが不安に感じたことはなかった。人の気配。見れば、暁奈が段ボールにもたれてにっこりしている。

「暁奈さん!何で…!」

「はーい!主役のご登場ー!皆、集合ー!」

「えっ、なんなんですか!?」

 大号令に真っ先に反応したのは桃矢だった。それを追いかけるように美乃梨も続く。杏平はまだ躊躇っていた。

「ほら、杏平くんも」

 菜摘が笑顔でぽんと背中を叩く。

「まだ仕事あるってのに、自由な住人たちだよ」

 兼行も眉を下げながら後押しする。こうなってしまっては仕方ないといった様子だ。

「あ、え、さや果さん、呼びましょうか?」

「いいよ、もう。戸締まりを教えたかったがまたにする。そう伝えといて」

「はい、…おやすみなさい」

 言うやいなや、杏平は一目散にさや果の部屋へ向かう。

「寝られるといいけどな」

 兼行の呟きのような一言は、杏平の耳には届いていないようだった。

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