第7話 顔

 目一杯に開けた窓から、風がそわっと入り込む。体を動かしていると、こんなふうに少しひんやりするくらいが心地よい。

 半分は荷ほどきの目処がたっただろうか。空になった段ボールを畳み終えると、さや果はまた乱れてきた髪を留めなおす。

「お腹すいたなあ」

 棚の上に取り敢えず立て掛けた壁掛け時計を見やると、すでに昼時を大きく過ぎていた。食べるなら早く済ませないと店に出る時間になってしまう。

「スーパー事情、聞いとかないとな…」

 夜は店のまかないを頂けるとして、朝昼は自分で作らなければならない。数日は用意してきたカップ麺でやり過ごせるようにはしてあるが、実はあまり好きではない。だから、キッチンは真っ先に整えた。あとは材料を調達するだけ。

 ガッ、ガタタ。麺を半分ほど食べたところで、店のほうから音がした。少し引っ掛かりながら開く戸のものだ。もうそんな時間かと、さや果はとっさに確認するが、まだ三十分以上猶予はある。とは言え、兼行がもう来ているのなら行くべきだろう。

 さや果は咀嚼もそこそこに麺だけはたいらげると、流しにカップと箸を少々乱暴に置いたせいで汁が散った手をタオルで拭く。着替えを済ませて店に続くドアを開けるまで五分とかからなかった。

「お疲れ様です!」

「おー、片付け進んだか?」

「ぼちぼちです…」

 兼行は体をひねって時間を見た。

「まだ時間には早いし、気にせんでいいよ」

「もう来ちゃったし、大丈夫です」

 仕込みのために肉を切り分けているところを、さや果は直立不動で見ていた。視線に気づいて、兼行は一旦手を洗うと、調理場奥の棚から竹串を取って手渡した。切った肉を刺していけということらしい。


 単純作業が黙々と続く。慣れてくると考え事をしながら手を動かすようになる。さや果は昨夜のことを思い返していた。

 あの庭にはなぜ仕切りがないのだろう。叔父が住んでいたときにだって、隣に住人はいたはずなのに。

「あの、叔父さん…」

「店では店長だろー」

「…あの庭、どうして繋がってるんですか?」

 さや果のお構い無しの問い掛けに、兼行は一瞬手を止めた。だが、またすぐに一口大の肉がバットに積まれていく。

 しばしの沈黙。聞こえていないのかと、さや果が答えを促そうとすると、視線は手元に向けたままで、ようやく兼行が口を開く。

「…アパート管理のことは、うちのやつに聞いてくれ」

「菜摘叔母さん?早めに挨拶したかったんですけど、今日も行けずじまいで…」

「今日は金曜だから、夜までには店に来るよ」

「そうなんですか?」

「金、土は普段より客が多いから手伝いに。まあさや果が慣れればそのうち、管理人の仕事に専念してもらうつもりだけどな」

「はい、頑張ります」

 それとなく逸らされてしまったようだ。ふいっと背を向けられたところから、蒸し返してくれるなよという圧を感じる。

 でも、確かに叔母のほうが詳しいかもしれないとさや果は思った。元々このアパートは、彼女の父の所有だったと聞いたことがある。庭のことを訊くのも頼むのも適任だ。

 さや果は納得すると、作業に集中することにした。




 マンパワーが倍になったこともあり、仕込みは順調に終わろうとしていた。残すところは葉野菜のみ。付け合わせやサラダに使うもので、洗って千切るだけだ。

「ああ、いけね」

 棚からタッパーを探し当てて戻ってきたさや果は、冷蔵庫を開けてまわる兼行のため息に迎えられる。

「レタス仕入れ忘れたわ」

 開店までは充分に時間がある。買いに行こうかと言い出そうとして、さや果はまだ周辺地理に疎いことを思い出す。

 がたっがたたたっ。その時突然、入口から物音がした。そこに、揃って二人とも顔を向ける。しばらく見守っていたら、店の戸がさんざん引っ掛かりながらようやっと開いた。

「さや果ちゃんー、久しぶりねえ」

「叔母さん!」

 ロングカーディガンを引っ掛けそうになりながら、さや果の叔母、菜摘は柔和な笑顔を浮かべる。戸の扱いに手間取っているので、代わりにさや果が閉めてやった。

「今日は随分早いな」

「治賢さん、これはどこに置けばいい?」

「ああ、もらうよ。で、来て早々悪いんだけど」

 彼を「治賢」と下の名前で呼ぶのは、ここでは菜摘くらいだ。彼女から紙袋を受け取るのと引き換えに、兼行はメモ紙を渡す。こういうことはおそらく初めてではないのだろう、菜摘は返事をすると、慣れた手つきでレジから千円札を一枚と、台の下に吊られていた手提げ袋を取り出した。

「さや果ちゃん、昨日ついたばかりなら、この辺りまだよく知らないでしょう?」

「はい、そうなんです」

「買い出し付き合う?」

 菜摘とは血縁関係はないが不思議と馬が合うので、会えばよく話すし、さや果にとって小さい頃から大好きな人の一人であった。丁度、スーパーの情報が欲しいと思っていたところでもある。だからこの誘いはとてもありがたいものだった。

「はい!」

 元気よく返事をしたはいいが、一応仕事中なので、兼行の了承を得なければならない。さや果はそうっと彼を窺う。その奥から菜摘もにこにこと後押しする。

「本当、うちのにはよくなついてるよ」

 敵わないなと笑みを漏らし、兼行は行ってこいと言うのだった。




 日もそろそろと山のあちらへ降り始めている。午前中に感じた清々しい青に、少しずつ黄昏色が混じり出してきた。中学生の賑やかな笑い声とすれ違う。二人の影はすいっと伸びている。

「あの、叔母さん」

「なあに?」

「アパートの庭のことなんですけど…」

 さて、ここでさや果は言葉に詰まった。

 なぜ隣室と庭が繋がっているのか。これを訊ねれば、隣人が異性である以上、やはり仕切りを設けるという配慮に帰結するだろう。ただ、そうすると昨夜親しみを込めて会話してくれた杏平に悪い気がする。こちらから壁を作ってしまうことになるからだ。とはいえ常識で考えればあの庭の状態はいささか異常だとも思う。このニュアンスをどう伝えるべきか。

「庭…そっか、庭ねえ…」

 菜摘は少し癖のあるワンレングスを片手にまとめて、尻すぼみになったさや果の言葉を受け取るように話し出した。

「最初はね、ちゃんと間に垣根もあって、別々の庭だったのよ」

 さや果は小さく息を吸う。自分の言いたいことを察してくれる、そういうところも菜摘にはあった。やはり同じフィーリングの持ち主なのだ。さや果は促すように睫毛を上向かせた。

「私ね、短大出て東京で働いてたんだけど、すぐ戻ってきちゃって。お父さんに相談してアパートの管理人をさせてもらうことにしたの」

 菜摘はさや果のほうへ顔を向けるが、視線は更に向こうの川面へやっていた。チラチラと反射する光の心地よさに、昔を重ねているようにも見える。

「私の子供のときからえんむすびはあったんだけど、元々はお父さんのお友達に貸していた店舗だったのよね」

「その頃から、えんむすび?」

「そうね、治賢さんは若いときから店でずっとバイトしてたのよ」

「じゃあ、叔母さんと叔父さんってずっと前から知り合いだったんですか?」

「ううん、私は高校卒業したら東京の短大だったし、中高生があんまり居酒屋に出入りしないでしょう?」

「ですね…」

「だから、お父さんと一緒に店に行ったことが一度か二度くらい。顔を見たことくらいはあっても、ちゃんとお話したのは管理人になってからね。その頃には治賢さんのお店になってたから」

 菜摘はにこりと笑うと前を向いた。前方から、先程すれ違ったのと同じ制服に身を包む、中学生の男女が並んで歩いてくるのが見える。こちらに気付くと、男の子はすっと女の子の後ろへまわり、彼女もまた、時折後ろへ顔を向けながら、すれ違うまで談笑は絶えなかった。さや果は、そんな二人を見つめる菜摘の穏やかな面差しを、ちらりと見やる。

「私が、今杏平くんの使っている部屋でね、治賢さんはもちろんさや果ちゃんの部屋で」

 さや果の頭の中を一閃、オレンジ色の光が走った。つんとした軽い眩暈。いつもよりわずかに大きく開いた瞳に再生される映像。二人の馴れ初め話なんて、これまで聞いたことはないはずなのに、不思議とこの先を知っている気がした。

「私が引っ越して来た日の夜、お店に挨拶をと思って店の戸を開けようとしたらね、治賢さんが丁度勢いよく開けて出てきて…」

 その時を思い出したのか、ふふふふっと漏らしながら菜摘は続ける。

「私のこと、ぽかんとした顔でじっと見るのよ。あの時の顔、今でもよく覚えてる」

 菜摘の話す二人の姿が、さや果の中で杏平と自分とで想起された。それはつい昨夜のこと。どこか掴み所のないあの叔父が、あんな顔をするのかと、さや果は初めて見たときの杏平の表情を、そこへ無意識に照らしていた。

 一瞬合った気がするのに、少し焦点がずれた目と、何を言いかけたのか薄く開いたままの口。息を忘れたように顔のすべての筋肉が止まっていた。


 彼らはその時、何を思っていたのだろう。


 菜摘はひとしきり思い出し笑いを済ませると、すうっと息を吸い込んだ。

「それで、庭よね。私が子犬をもらってきてね」

 話が急に本題に入ったので、さや果は意識を戻す。この物思いは、慌てて記憶の隅にしまった。幼い頃、大事なものを入れた宝箱を隠したときと似た感覚。そしてどこに隠したのか、自分でも分からなくなる。何を慌てる必要があったのかも、もうすでに分からない。

「庭に放してあげてたんだけど、どうしても治賢さんの庭に興味があったみたいで…ある日ついに垣根の下を掘って、向こうに行っちゃって」

「はー…」

「そしたら、治賢さんがいい考えがあるって言ってね。私が出先から帰ってきたら、垣根も仕切りも全部無くなっちゃってて」

「えっ」

「驚いたわあ」

「じゃあ叔父さんが…」

 それでさっきの反応だったのかと、さや果は合点がいった。若かりし時分の少々派手なエピソードを姪に語るなんて、恥ずかしくてできるはずもないだろう。それにしても、犬のためならば垣根を少し取り除くだけでよかったのでは、と考えたところで、そこまで思い切った行動に出た兼行の秘めた気持ちに少し接しそうになり、はっとした。

「そうなのよ。後でお父さんにすごく怒られてたけどね。しばらくして結婚することになったときも、お父さんってば、泣きながら怒ってたし」

 それは、父親ならごく普通の感情なのだろう。嫁入り前の娘を守るお堀を取っ払った挙げ句、その娘をまんまと奪っていったのだから。兼行が垣根を根こそぎ抜いたとき、そうなる予感もあってのお怒りだったのではないかとすら思う。

「でも今は、菜穂もラブも可愛がってくれる、いいおじいちゃんだけどね」

「ラブって、もしかしてその時の?」

「そうよー、私たちにとってはキューピッドになるのね。いつも庭でラブと遊びながら二人で過ごしてたから」

 不器用に笑う兼行と、穏やかに見守る菜摘と、その間を行ったり来たりするラブと。菜摘はきっとその頃に思いを馳せている。彼女の柔らかな口元から広がる表情は、少女のそれだった。

「着いた!少し遠いけど、こっちのほうが安くて良いものが見つかるの」

 自動と書かれたドアにそっと触れながら微笑む菜摘は、いつもの叔母の顔をしていた。すぐ目の前の青果コーナーに真っ直ぐ向かっていく。品定めをするさまは、他の主婦客となんら変わりない。

 さや果は未だ過去に半分意識を残したまま、叔母の姿を追っていった。




 帰り道、口数も少なくなった菜摘の横を、さや果は歩く。行きより随分重くなった手提げ袋を時折指の上でジャンプさせながら、菜摘の思い出話を反芻して。

 まるで体験してきたことのように、シーンがくるくると思い浮かぶ。あのひと繋ぎの庭で、二人は大切な時を共有してきたのだろう。これ以上ない思い出、かけがえのない場所に違いなかった。

 二人が紡いだ穏やかな空間は、確かにまだ在るのだ。そして、そこで生まれ育った想いも。きっといつも太陽のもとで、いっぱいの笑顔であふれていたのだろう。

 瞼の裏に浮かぶ情景に、今の自分には少し眩しいなと感想を添えて、さや果はまた、昨夜見渡した月明かりの庭を思い出していた。

 仄かな明かりに包まれたやすらぎがよみがえり、ふわっと笑うその顔は、同じだった。

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