第6話 セカンド・インプレッション
朝。と言うには語弊があるかもしれないが、ともかく寝覚めは意外にも静かだった。窓の外を見れば、垣根の隙間からベビーカーを押す人の姿がひとつだけ。
さや果はまだ少しぼうっとしながらのろのろとベッドから脚を下ろすと、壁に掛かっていない壁掛け時計をめくって時間を確認する。短針はすでに十一の手前を指していた。
「ねむ…」
ぴんとしない手のひらを口に持っていきながら、一応あくびを隠そうとしたが間に合わない。朝には弱いタイプなのだ。
着替えを済ませて店経由で表へ出てみる。人通りは少ない。出勤組はとうに働いている時間だし、大学生だって講義がある。今ここには自分しかいないのだと、さや果は漠然と結論付けた。だんだんと緊張がゆるんでいく。
「暇だなあ…」
厳密に言うと、暇ではない。まさに山のごとく積み重なる段ボールと向き合うことを、無意識に避けているのか。仕込みがあるので、十四時くらいには店にいてほしいと言われている。それまでに少しでも進めておかないと、結局は自分の首を絞めるのだ。
「いい天気だなあ…」
もう少し、あと少しだけ、平日の午前中にぼうっとする、ちょっぴり罪なこの時間を貪っていたい。こんなことはいつぶりだろう。大学生以来だったか、そう考えるとそんなに昔でもないことに多少驚いた。
などと、どうでもよいことに思いを巡らせていたためか、こちらに歩み寄ってくるその人に気づけずにいた。
「こんにちは」
「ふぁ!…あ、こんにちは」
驚かせるつもりのなかった美乃梨と、驚いてしまったというさや果は、はからずも同じ表情になる。
「ごめんなさい、そんなに驚くとは思わなくて」
「こちらこそ、すみません。ぼうっとしていたから…」
「今日は少し暖かくて気持ちいいですからね」
言いながら、美乃梨はハンドバッグを持ち替える。これから大学に行くにしては小振りに見えるなとさや果は思ったが、疑問が口を出るほうが早かった。
「これから学校ですか?」
「いえ、今日は私、講義のない日なので…少しぷらぷらしてこようかと」
「そうですか!晴れて良かったですね」
せっかく挨拶してきてくれたのだから、もう少し気の利いた話でもできればよいのだが、笑顔の裏で自分では力不足だとさや果は思い知る。
美乃梨のように知的でクールな女の子への接し方は、これまでも少し不得手であった。加えて、気のせいかもしれないが、どちらかというとよく思われていないような気がしていた。表に出すまいとしているが、多少こわばった表情をしていたかもしれない。
「はい…ああ、でも私、約束は夕方からですから…」
コートの袖に隠れぎみになっていた腕時計を見ながら、美乃梨はやはりクールに言うのだった。
「もしよければ、お手伝いしましょうか」
「え…」
「何の?」と問おうとしてさや果は瞬時に思い当たった。今の今まで忘れた振りをしていた、そう、引っ越しの荷物整理だ。美乃梨が申し出てくれたことは素直に嬉しかったが、あの部屋の惨状だ。人を招き入れる勇気がない。力仕事は苦手だと聞いているし、何より、手伝ってもらうなんてなんだか悪くて頼めない。さや果はこれまでも頼み事などはほとんどできたことがなく、申し出も丁重に断ってきた。
「そんな!もう終わりが見えてきましたから」
頼り頼られる仲に心底憧れる。
「そうなんですか?速いですね」
「はい、でもありがとうございます」
結局さや果は、つかなくてよい嘘をついてしまった。かえって悪い気がするが、美乃梨はお決まりのやりとりを無事終えただけの、さっぱりとした表情をしている。
「いえ…夜はお店ですか?」
「はい、いますよ」
「今夜こそ、ゆっくりお話したいですね」
にこりと小さく笑顔を向けてくれる美乃梨に、さや果は救われた気持ちだった。昨夜はほとんど無表情で、どこかよそよそしいように思えて萎縮していたのが、それだけでフッと吹き飛んでいく。
「はい、是非!」
「じゃあ、また夜に」
互いに小さく手を振って、美乃梨は下げた頭を起こしながら駅へ続く道を歩いていった。後ろ姿を見送りながら、さや果はふうと息を吐く。
昨日の今日では、緊張せずに会話をすることは難しい。本当に筋金入りの人見知りだなと、情けなく思う。
その一方で、美乃梨は第一印象よりも親切で人当たりも良いようだ。もしかしたら彼女も内気なだけなのかもしれない。今日は笑顔で話してくれたし、思ったよりも仲良くなれそうに感じた。
さや果の中で嬉しい気持ちが上回る。すっかり日の高い空に、くいっと顔を向けて。
「言っちゃったもんは、ちゃんとしとかないとね」
終わりが見えてくるところまでは片付けを済ませよう。よし、とひとつ背伸びをすると、気合いを入れ直しながら店の戸をぐっと一気に開けた。
秋晴れが約束されたような陽気、さや果の表情も晴れてきたようだった。
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