第5話 月夜語り

 さや果が店に戻ると、兼行がモップがけをしているところだった。続きはまた明日教えるから、今日は休んで良いということだったので、お言葉に甘えることにした。


 実際、引っ越し、慣れない初仕事に、いやにテンションの高い住人の皆さんと疲れることの連続だった。生来の人見知りも相まって、かなり神経もすり減らした。鉛筆も同じくらい削ると、針のようになったことだろう。扉を開けて、荷物の片付いていない部屋を見ると、さや果はさらにぐったりした。

「はあー…そうだ、お風呂も使う前に洗わなきゃ…」

 寝るためにもやることがたくさんある。重いまぶたに抗い、動きたくないと駄々をこねる身体にぱちんと平手で鞭をうつ。

 洗剤などの掃除用具を入れた段ボールは玄関横の洗面所に置いてあったので、早速取り掛かる。今日は時間もないし、明日仕込みが始まるまでにしっかりやろうと、掃除は洗剤の泡を吹き付けて放置するだけにした。その間にベッドメイクをすませる。やっと入浴――といっても今日はシャワーだけだが――できるのは一時を過ぎてからだった。

「ちょっと圧倒されたけど…」

 さや果はシャワーを頭からかぶりながら、すでに曇った鏡を見てつい呟いた。

「いい人たちで良かった」


 お酒を飲んでも飲まなくても超ハイテンションの暁奈さん。

 人懐こくて弟みたいな御影くん。

 クールで素直な美乃梨さん。いや、美乃梨ちゃん、かな?どうやら学生さんみたいだったし。


 そんな風にさっき出会った人たちのことを思い返して。結局今日はあまり話せなかったけど、これからまた仲良くなっていけたらいいな――なんてことを考えながら、さや果は風呂上がりの薄紅の手で冷蔵庫の扉を引いた。中身はジュースの入ったペットボトルだけ。移動中に買った余りだ。

 遮るものが何もないため庫内灯がやけに目を刺してくる。電気を点けたらと言われた気がしたが、散らかった惨状が目に入るのが嫌で、あえてそうしない。

 かろうじて足元が見える程度の仄暗い空間、一番奥にあるベッドの向こうからは、月明かりが、手招くように主張してきた。さや果はペットボトルを片手に歩み寄る。

 そう言えば、この部屋には小さな庭がある。そのベッドルームにある大きな窓から出られるようになっているらしかった。

 寝る前に少しだけ夜風に当たってみようか――飲み終えたペットボトルを手近な段ボールの上に置き、さや果はまだカーテンもつけていない窓を開けた。




 彼女が、この壁を隔てた向こう側に、いる。


 杏平は自室の壁をじっと見つめてはノックをする仕草を見せるが、それを慌てて逆の手が止める。はにかみながら弛んだ顔をくっと引き締めても、すぐにまた元通り。そんなことばかりを延々、一人で繰り返しているのだ。


 降って沸いた幸運を思い切り誉めたい反面、落ち着かない。この状況をどう取り扱えば良いのか分からないからだ。器用な男ならこれを機に何かアクションを起こせるのだろう。しかし自分はそんな力量も度胸も持ち合わせてはいない――杏平は、ただ嬉しさを噛み締めながら孤独にそわそわするばかりだ。

 いつもなら仕事の疲れでぐったりしながらぼそぼそ一人で月見酒、といってもただの缶ビール、しかも第三のビールなのだが、今宵は祝杯をあげたい気分だった。何かを成し遂げたわけではないのだが、そんなことは最早どうでも良いことだ。今はこれだけで満たされているのだから。

 風呂もそこそこに、ジャージにいつものジャンパーを羽織ると、キッチンの棚のずっと奥にしまっていた国産ウィスキーを引っ張り出した。自分では買わないが、兄が就職祝いに送ってくれたものだ。こういうときに飲まないでいたら、ずっと飲む機会など訪れないだろう。

 家にある一番背の高いグラスに水道水で作った氷をざかざか入れると、氷ひとつ分のウィスキーを注いだ。左手で蓋を閉めながら右手で冷蔵庫を開ける。いつ開けたか覚えのない飲みかけのソーダ水が、レトルトピザの奥に見えた。器用に片手でピザを避けながら掴む。扉を閉めつつキャップをはずすと、控えめにぷしっと音がした。炭酸は一応生きているようだ。そのままとっぷとっぷと勢いよく注ぐ。店ではレモンを要求するが独り暮らしの男の家にそんなものはない。第一、わざわざ包丁を出して切るのが面倒だ。

「よーし。じゃあさや果さんとの出会いを祝して…」

 なみなみに注ぎ過ぎたグラスから、ぽちぽち滴をこぼしながら、踊る足で奥の部屋へ向かう。

 ガタタ。その窓を開けて、サンダルに右足を突っ込んだときだった。


「あっ」


 杏平は、隣の窓からすっと覗く、綺麗な横顔を見た。シャンパンの蓋が弾け飛ぶように、彼女はこちらを向く。

「えっ?」

 完全に区切られたプライベートな空間にあるはずもない、自分ではない声に、彼女は一瞬理解が及ばないようだった。

「あの、こんばんは…」

 カンパーイ、と杏平が独りで勢いよく掲げるはずだったグラスは、申し訳なさそうにひょいっと微かに浮かんだだけ。

「どうして…」

 きょろきょろしながらさや果は、上体だけをできる限り外へ出す。杏平が現れ出てきた窓がすぐ隣にあることをみとめると、ピタリとその動きを止めた。

「そこ、由井さんのお宅なんですか?」

 そうっと漏れ出る警戒心に、杏平は縮こまる思いだ。

「はい、お隣なもんですから…」

 さや果の目を見ることもできず、少しずつ視線を落とす。何もやましいことはないのだが、なぜだろう。尻尾を巻いて巣穴に帰る小動物の気持ちって、こんな感じなのだろうか。

「なんで…つながってるの?」

 至極まっとうな疑問だった。二つの窓の間にも、広がる庭のどこにも、仕切りなどは一切ない。完全に開けた景色だった。部屋自体は壁を隔てているものの、隣とは庭で繋がっていたのだった。

「俺もよく分からないんです…庭は好きに使ってくれと言われてはいましたけど…」

 忘れられていた杏平のワイシャツ、靴下、それから下着などが夜風に吹かれている。それが寒そうに凍えているように見えた。なるほど、確かに彼は好きに使っているようだ。

 そんなさや果の視線の先を追って、気付いた杏平は慌てて庭に一歩踏み出すと、グラスを持っていることを思い出していそいそと窓際に置いた。乾杯も不発で未だに口もつけられない、いっぱいいっぱいに注がれたその中身と、杏平の心中は完全にリンクする。

 考えてみればそうなのだ。これまでお隣さんができることもなく、この先もないだろうとぼんやり思っていた中で、突然現れた睫毛の長い綺麗な彼女。浮かれていたためにこの事態が頭からすっぽ抜けていた。

 洗濯バサミから下着を引きちぎるようにして回収する。靴下、ワイシャツをその上に被せるように腕におさめた。これで良し、と杏平は、さや果をちらっと見やる。

 彼女は気を遣っているのか、こちらを見ないようにしてくれていた。頬の一番高いところにだけ月を受けていて、表情は分からない。

 それにしてもパジャマなのだろうか、ストンとした白の上下、少し襟まわりが深めで月明かりが鎖骨を深く掘り出している。ハイライトとシャドウのコントラストが、彼女自身の白をより際立たせているように見えた。月の良い仕事ぶりに、杏平は釘付けになる。

 いや、今はそういうことではなく、庭で繋がっていた件を伝え忘れたことを謝るべきで――決してやましいことはなく、本当に失念していただけで――でもそうすると逆に隠していたと思われないだろうか。そもそも叔父の兼行からは聞いていなかったのか。

 どうしたらよいのか、彼女の淡く放つ白を見ていると余計分からなくなってくる。言葉が見つからないまま、杏平は窓際にたどり着いた。ばさり、取り込んだものを床に落とす。ハイボールの水面は不規則に波を描いていた。

「ごめんなさい、私ったら行儀が悪かったですね」

 ひょこっと顔を出してこちらを向いた彼女は、やはり遠慮がちな笑顔を浮かべていた。濡れた髪が重そうに揺れる。杏平は目をしばたたかせてからやっと、彼女の言葉を理解した。

「いえ、すみません俺こそ、だらしないところ、見せちゃって」

 考え過ぎて気疲れしたのか、ほっとしたからなのか。力ない笑顔を精一杯明るく見せる。どかりと座り、グラスを持ち直そうとしてやめた。

「あんなに遅くに帰って来たんですもんね、仕方ないと思います」

 再び彼女のほうを見上げたら、もうこちらを向いてはいなかった。月を観ているのか、少しだけ上向いた顎をそっと見つめるうちに、杏平は返事を考えるのを忘れた。

「…?」

 杏平が何も言わないので、隣の窓に再び目を向けたさや果は、そんな視線とぶつかった。彼は声なき声で驚嘆を表しつつ、顔を逸らしてしまう。彼女は少し不思議そうに笑う。

「お仕事、忙しいんですね」

「あっはい、もうすぐ一年になるのに全然慣れなくて…」

「あぁ!それで『一年生』なんですね。ふふ、また謎が解けました」

「そんな呼び方するの、暁奈さんだけですけどね」

 彼女は笑ってくれているようだ。少なくとも怒っているとか、嫌っているとか、そんな感じではない。良かった、と杏平は返す笑顔に安堵を乗せた。

 置きっ放しのハイボールは、汗をかいてはいるものの、すっきりしているようにも見えた。炭酸は程好く抜けて、「今のあなたに丁度良い飲み頃ですよ」と誘っているような。それを杏平は、半分までを一息で飲み込む。傾けたグラスから大きな水滴が、光りながら庭に染みていった。


 もう互いのほうへ顔を向けることはなかった。また目が合えば、杏平は逸らすだろうとさや果は思ったし、盗み見のようにじっと見ていたことがさや果に知られると、ばつが悪いと杏平は考えていた。


 さや果がそうするように、真似て月を観ていよう――今宵は今までで一番、煌々と綺麗な月だと杏平は思った。

「私も、この間大学を卒業して。ということは同い年?」

「そうだったんですか!あ、いや俺は専門学校だったので…」

 ついさや果のほうに顔を向けそうになり、自制する。なんとなく、彼女をこれ以上見つめたら抑えが利かないような気がした。

「そうなんですか、ということは二つ違いですね」

 表情は見ない約束、というか杏平が勝手にそう決めただけだが、とにかくさや果がどんな顔をしているかは分からなくても、彼にはそれが少し寂しそうに聞こえた。だから、顔ははるか上方を向いたまま、慌てて声を張り上げて。

「でも!同い年だと思ってください!」

「…え?」

「あ、いや、そう思ってもらえるような、男に、なるので!なれたら、けっ…」

 杏平は不自然にそこで言葉を切った。

 月に胸を借りるつもりで伝えようとした決意だが、まだ言うつもりのない部分までつい口をついてしまったのだ。

 あまりに月が綺麗だから。月に唆されて言わされたのだと、杏平は訳の分からない言い訳を心の内でまくしたてる。夜風に当たり過ぎて寒いくらいなのに、体が内からぎゅんっと熱くなってくる。

「どうかしたんですか?」

 さや果は、急に様子がおかしくなったのが気になって、杏平のほうへ身を乗り出す。

 見なくても分かる、彼女がこちらを向く気配。だからこそ杏平は余計に目を回す。言いかけたなら言うべきか。下手な言い訳などはせずに、今、言ってしまえば、名実ともに祝杯をあげられるのか。

 杏平はぎゅっと目を瞑ると立ち上がり、体ごとさや果のほうへ。

「け…!」

 そして目を開けると、きょとんとしたさや果の顔があった。あの数秒で膨らませた最高に幸せな妄想が、冷や水をかぶせたようにきゅっと引き締まり、引っ込んでいった。

 何を早まっているのか、冷静になれと杏平は自分を叱る。その結果、冴えなく誤魔化すことになる。

「…結構です、タメ口で」

 我ながらしまらなかった。もったいぶって伝えたのが、そんなことだなんて。杏平は目を合わせていられなくなり下を向く。さぞ変な奴だと思われたことだろう。

「…うん」

 ほら。でもそんなにあっさり肯定しなくても。あれ、今。なんで心の声に返事が――。

「え…」

 そこまで考えて杏平は顔を上げ、目を見開いた。

「ありがとう、」


 このはかなくて頼りない光の中、なんて印象的な、眩しい――。


「由井さ…由井くん」

 少し考えてから言い直す、さや果は満足そうに笑っていた。

「…」

 見上げるだけで充分だと思っていた綺麗な存在に、杏平は初めて指先が触れた気持ちだった。先刻までに何度か見た微笑みとは違う。彼女はこんなにも、灯るように笑うのだと知った。

「さや果さん…」

 杏平もつられて笑う。何度目を奪われれば良いのだろう。こんな笑顔を見ることができただなんて、今宵は間違いなく祝杯をあげるにふさわしい夜。

 杏平はグラスの残りを染み渡らせた。


 さや果はささやかな光に照らされた庭をゆるりと見渡して、小さくとも隔てのない空間の心地よさ、安堵感を、不思議と沁みるように感じて。隣の彼の笑顔にまた、笑みをこぼす。


 明かりほのかな、ひと繋がりの庭、お隣同士。

 二人とも、もう月を見上げてはいなかった。

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