第4話 きょうへいくん

 結局この日、それ以降の来客はなかった。

 健さんたちは、奥様方にどやされるのを懸念してか、酒はほろ酔い程度にとどめ、二十二時を目処にしっかりとした足取りで帰っていった。

 利益としてはありがたくないことなのだろうが、そんなに忙しくなかったお陰で、さや果には落ち着いて考えながら動く余裕もあり、大体仕事の流れは掴めた。初出勤の手応えを感じているところである。


 だがこの店の一番の大仕事は、ここからなのかもしれない。

「ちょーっ…とおー!びーるまだあー!?ばんばん!!」

 自前の擬音とともに左手で激しくテーブルを打ち付けると、予測不能にゆらめく上体。たまに右手で支えてはいるが、いつ倒れても不思議ではない。大股を広げる彼女は、いくらパンツスタイルでも目を覆う有り様だ。

「お行儀悪いですよ、暁奈さん」

 右肩に熟睡する桃矢の頭を乗せ、夕方と同じペースでちびちび飲み続ける美乃梨は、今や唯一の生き残り。

「もうラストオーダー終わってますから…」

 さや果は暁奈の脚をそっと閉じにかかるが、鳴りやまない一人ビールコールに圧倒されるばかり。対して美乃梨は慣れているのだろう、まったく動じていない。

「さや果、そっちはいつものことだからいいよ。暖簾下ろしてきて」

 店は二十三時にラストオーダーを取り終えて、〇時には閉店する。そのため、この間に暖簾を下ろして表の電球を切るのが閉店作業の一番の仕事。厨房の状況を確認しては発注書とにらめっこする兼行の指示に従い、さや果も諦めて入り口に向かう。

 この季節は夜になると急に冷え込むので、開店時は開け放していた引き戸も今は閉めてある。さや果は、少し滑りの悪いそれを、勢い良く一息で開けた。

「わっ」

「えっ?」

 すると重なる、驚いた声。眼前に広がる「びすむんえ」を挟んで、誰かと向かい合った。

 ワイシャツの袖を肘あたりまで捲った腕の先、戸にかけ損ねた右手が行き場を失っていた。暖簾で丁度顔が隠れているが、男性のようだ。困惑した口元だけが下から覗く。

「あ、すみません、今日はもう、ラストオーダー終わっちゃって…」

 さや果が小さく頭を下げると、彼は郵便受けを覗くような仕草で暖簾を捲り顔を出す。

「えっ?」


 ――初めて瞳に映ったのは、下りた前髪の隙間から、かすかに覗く長い睫毛。


「あ!やーっと帰ってきたよ、一年生!」

 つぶれかけていた暁奈が体を飛び起こし、お帰りとばかりになぜか串入れを掲げた。そしてそのまま、また突っ伏した。

「お疲れさま」

 美乃梨もまた、肩で爆睡する桃矢の頭が落ちないようその襟首を掴んでから、入り口のほうへ首だけを回して淡々と出迎えを口にする。

「?」

 続々と背中を飛び越えていく二人の声を聞き、さや果はゆっくり顔を上げる。そこにいる彼はぴらりと暖簾を掬い上げたままの格好で、じっと不思議そうに目の前の彼女を見ていた。


 ――次に映ったのは、長い睫毛からゆっくりと現れ出た、少し気の弱そうな瞳。


 彼の目が僅かに見開かれたことには、この時さや果はまだ気付けない。

「ああ、さや果」

 調理場から兼行に呼ばれた彼女が、留めた髪を揺らすその横顔を、彼はずっと見つめている。

「その子はここの子だから。お帰り杏平くん」

 今度は髪を跳ねさせて、彼女はくるんっと向き直る。

「あ!あなたが『きょうへい』くんでしたか、すみません」

「…!」

 唐突にファーストネーム。そんな風に呼ばれたら、杏平はなんだか頭まで湯に浸かった心地になる。どうしようもなく引き寄せられ、徐々に頭が前へと傾いで、道を開けるためどうぞと横へよけるさや果を、追いかけるように慌てて暖簾をくぐり抜け。


 ――そして今、距離を保った笑顔の彼女。


 ここで、杏平はやっと、自分が目を奪われていたことに気付く。

「おかえりなさい…?」

 言っても良いものか、どうしようか、迷いもありつつ遠慮を含んだ迎えの台詞。それが感じたことのない高揚を、身体中に連れて来て。

「たっ!ただいま!」

 店中に、その声は爆発的に響くこととなる。

「…」

 あまりに大きな返事だったから、さや果は目を丸くして見つめ返す。そこに、多少の呆れを含む視線も奥から加わる。

「…飲んできたの?」

 ため息混じりの美乃梨に言われて、杏平は束の間、平静を取り戻す。それから急激な気まずさに襲われて、対面しているのも恥ずかしくて。

「…」

「…」

 「ま」の口をしたまま身動ぎひとつしないでいる杏平へ、掛けられたのはぎこちない、不慣れだけど柔らかな笑み。

「あの、初めまして」

 まるで条件反射。彼女の声に、杏平は即座に体ごと向き直る。自分でもなぜ光の速さよりも早いかもしれない反応速度が出せるのか、不思議だった。

「しばらく店を手伝うことになった、兼行さや果です」

 顔はこちらを向いたまま、首を傾げるようにおじぎをする彼女を、杏平はまともに見られない。一瞬だけだが、覗きこまれる格好になり、平静さはまたどこかへ行った。

「ゆ、由井杏平です」

 だから名前だけを言うので精一杯。だが、さや果はほんの少しの間の後に「ああ!」と声なき声で感嘆を示す。

「『ゆい』ちゃんって」

「え」

「そういうことだったんですね」

「え?」

 合点がいったというように、さや果はすっきりした表情をして、言いながらに表へ向かう。ようやく暖簾を下ろし、電球を左右真ん中とも切って、引っ掛かる戸に何度か力を入れ直して。

「…」

 杏平は訳が分からず、茹ったところに背後から水風呂の中身を引っ掛けられた気分だった。彼の頭の中だとこの後、趣味や出身、好きな食べ物、年齢など、色々と伝え合う予定だったのだが、名前だけの自己紹介であっさりと対話から去ったさや果が、黙々と店の仕事をするのを見て、一人だけ途中下車させられた気持ちなのだった。

「…」

 夢のような心地は、暖簾とともに仕舞われる。

「さて。男手が帰って来たところで、その二人、部屋まで運んでやってな」

 掃除用具を持ってバックヤードから出てきた兼行の言葉に、杏平がゆっくり反対側を向くと、いつもの席がいつもの惨状だったので、どっと現実が押し寄せる。

「…はあー」

 一気に肩が重くなる。

 桃矢はいくら小柄で細身とはいえ、男だし、熟睡する人間の重さというのは尋常でない。暁奈も、女性だから、その、色々と気を遣う。つまりどちらもはっきり言ってものすごく重荷だ。

 しかしお役目を任されるのは、常にこの杏平なのだった。

「…じゃあ、まぁ、レディーファーストですかね…」

 いかにも嫌そうにこめかみ辺りを掻く仕草をすると杏平は、会社用に使っているリュックを下ろして手近な椅子に立て掛けた。

 暁奈のところへ向かい、一応両肩を掴んで揺さぶってみる。起きるはずはなかった。とりあえず突っ伏した上体を卓から引き剥がす。

「あの」

 そこへ、さや果が小さく声をかける。床掃除に備え、椅子をテーブルへと上げていた手を止めて尋ねた。

「やっぱり、その、暁奈さんのほうが軽い、ですよね?」

 ちらっと美乃梨の肩とを見比べる。

「女性ですからね…」

 これでも、と付け加えたかったのを、杏平はすんでのところで堪える。代わりに心の中では悪態をついている。

「じゃあ暁奈さんは、美乃梨さんと私で部屋まで送ります」

「えっ」

「はっ?」

 美乃梨はまさか自分にお鉢が回ってくるとは微塵も思っていなかったので、驚いた反動で桃矢がずり落ちそうになった。普段なら、杏平がまず暁奈を二階の部屋まで運んで、降りてきて、次に桃矢もやはり二階まで運んでという流れだ。自分は何もしないのが彼女の中で当たり前だった。

「私、力仕事は得意じゃなくて…」

 その流れに戻って欲しくて食い下がるが、さや果の圧倒的正論が返す刀を許さなかった。

「だって、眠る人を運ぶのに何度も往復するのは、大変でしょうから」

 これまで、年上の暁奈に面倒事を全て押し付けられ、同い年のはずの美乃梨にもなんとなく使われ、年下の桃矢にもいいように言われてきた杏平にとっては、控えめに言って女神だと思った。心の中で崇めた。ふっと、肩の重りが取れていく。

「あ…ありがとうござ…」

「さ、美乃梨さん。せーので…」

 さっさと暁奈の右腕を首の後ろに抱えて促すさや果を見て、感涙に咽び礼を言いかけた杏平は、慌てて桃矢を受け取った。美乃梨は気乗りしなさそうに、さや果と対称になるよう見よう見まねで暁奈の左腕を自らの肩に回す。立ち上がろうと掛け声に応じると、暁奈もふらつきながらなんとか立った。

「あーれえ?きょーはぁ、おんぶじゃなーのー?」

「いつもは、おんぶなんですか?」

「んー…さやちゃんー?」

 杏平じゃないことに気が付くと、少しだけ暁奈の脚に力が戻ってきたようだ。支える二人にかかる負担が格段に軽くなる。

「暁奈さん、歩けるならどうか自分で…っ」

 その反対側からいっぱいいっぱいの声を聞くと、暁奈は壁に手を付いて、ふらつきながらも自力で立った。急に動いたものだから、頭に釘の先でいじめられているような痛みが走る。それをぎゅっと目を閉じてやり過ごす。

「みのりんもー?かえろっかー」

 ふらふらと歩き出すが、やはり危なっかしいので、さや果が支えてやることにした。美乃梨は二人の荷物を持って行く役目に落ち着く。助かったと、こっそり大きく息を吐いた。


 店を出ると、右手へ少し進んだところにあるのが住居用のエントランスだ。先頭の杏平がガラス戸を左肩で押し開けると、すぐ二階へ続く階段がある。その後ろに美乃梨が続き、戸を受け取ると、さや果が会釈をしながら暁奈を連れて中へ入る。

 年代物の電灯はあってないようなもので、一同は薄闇の中、月明かりを頼りに一段ずつ足元に目を凝らしながら上っていく。

「暁奈さん、もしかして実はいつも起きれるんじゃないですか?」

 桃矢の大きなスポーツバッグがずり下がってくるのを邪魔そうに後ろへ叩きながら、美乃梨はいつもの三倍の荷物を抱えて、後方へ疑いをぶつけた。

「さーあねえー、でも、おんぶのが楽よねえー」

 とことん陽気に悪びれもせず答える暁奈に、杏平はうんざりした顔になるが、先頭を歩く彼の表情は誰にも見られることはなかった。

「すみません。さすがに私、おんぶはできなくて…」

「さやちゃんは、気にしなくていいのおー!」

 酔っぱらい特有の、適正音量の壊れた声。頬が当たるくらいの距離から、暁奈がその調子で叫ぶものだから、さや果は目を瞑って耐えるしかない。短い階段を上り終える頃にはくたくただった。

 幸い暁奈の部屋は一番手前の204号室。先に二階へ来ていた美乃梨が暁奈の鞄を探って鍵を開けていてくれたこともあり、すぐにさや果の任務は完了した。

 桃矢はその隣の部屋なので、杏平はいつものように玄関前でおろす。先に鞄から拝借しておいた鍵を差し込み回す。開けたドアを足で固定しながら桃矢を引き摺り入れた。多少粗っぽいようだが、ほぼ毎日となるとそれも無理からぬことだろう。

「じゃあ、ありがとう、おやすみなさい」

 さらにその奥のドアに美乃梨が消えていくと、杏平は一瞬遅れて、さや果と二人きりになったと喜んだ。だがすぐにその夢も醒める。

 おそらくさや果は一番奥の、空室だった201に越してきたのだろう。さっき会ったばかりなのに引き留めるのもおかしいし、お茶でもという時でも場所でも場合でもない。

 一呼吸のうちにそんな考えを巡らせ、諦める。

「あ、えっとじゃあ、おやすみなさい」

 一階の自分の部屋に戻ろうと、杏平は力なく微笑いながら会釈をした。すごすごと通り過ぎていくその背中を、さや果は呼び止める。

「由井さん、一階のお部屋なんですか?」

「…!」

 下の名前で呼んでくれたのは、最初のあれが幻の一回になってしまったらしい。そりゃそうだ、さっき初めて会ったばかりだし、初対面から馴れ馴れしく「ゆいちゃん」なんて呼んでくるのは、暁奈くらいのものだろう。

 一歩のうちに落胆を極め、慰める。

「はい、俺101なんで…」

「私も下なんですよ」

 言いながら、さや果は杏平の横に並んで一緒に階段を降り始める。

「え!?じゃあ隣…」

「そうなりますね、元々叔父さんが使ってた部屋なので」

「あの…あそこですか?でも、出入りするとこ…えっ、叔父さん?」

 突っ込みたいポイントが複数あって忙しい。待てよ、と杏平は考える。そういえばさっき自己紹介で、確か――。

「はい、私、店長の姪なんです」

 そうだ、確かに「兼行」と名乗っていた。「きょうへいくん」なんて呼ばれてどきどきしていたから、正直それどころじゃなかったのだ。なるほど、玄関の関係で人に貸すわけにはいかないと聞いていたが、住み込みで働く身内なら問題はないということか。杏平は割とすんなり納得した。

「そうだったんですか…」

 踊り場に差し掛かったところで、一番の重要ポイント。途端に元気がみなぎってきた。

 一言のうちに、満面の笑み。杏平は勢いつけてさや果のほうへ振り向き、確める。

「じゃあ、お隣さんですね!」

「はい、よろしくお願いします」

 首を傾げるようにまた、小さなお辞儀をひとつして、さや果も微笑みを返すのだった。

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