第3話 開かずの部屋に住むひとは

 日が落ち辺りが紺碧一色になると、電球に照らされた暖簾がようやく存在感を増してくる。素朴に浮かび上がるは「えんむすび」の文字。

 駅からほど近い立地ではあるが、主に栄えているのは線路より向こう側で、この周辺は新しいとは言えないアパートや民家も多くある。店の名前は、そんな地域にお住まいの人々との縁をつなぐようにという、なかなかありきたりな思いから付けられたものらしい。

 旨い焼き鳥さえ焼ければなんでも良いというのが、店主兼行の本音なのだ。


「ほれ、せせり上がり!」

 網の一番端で炭火にかけられた串を、小さめのトングで真ん中から割って見る。カウンターに置かれた皿へ、無造作に三本とも置いた。

 その兼行の掛け声を合図に、一番近くに座る桃矢が取りに立つ。早く帰って来た者から順に奥へ座っていくので、遅く帰って来た者がこき使われるという、踏んだり蹴ったりな暗黙のルール。

「ねえ店長~。平日もバイト雇ったら?」

 そんなわけで、この時間帯はいつもバイトを終えて帰ってくる桃矢が動き回る羽目になるのだ。

「勘弁してよ、平日は君らを除けば数組しか来ないのに」

 乞われた兼行は網から目を離さずに愛想笑いを浮かべるのみ。桃矢は唇を突き出し視線を落とすと、すごすごと皿を持ち帰る。それをテーブルに置く前に、暁奈がひとつ拐って一気に半分までパクついた。彼が席に落ち着く頃には、また一本、串入れの中身が増えているのだった。

「ほーい、つくね、バラ、エリンギ…」

 一挙に焼き上がるため、兼行は大きな皿を取りに行こうとその一歩を踏み出しかけた。


 同時、奥のドアが開く。


「あの、お…店長、手伝います」

 聞き慣れない女性の声。件の住居スペースから、彼女は滑り出てきた。

「おー、丁度良かった。バイト入れてくれって、たった今お客さんに頼まれてな」

 瞬時に桃矢が反応した。あーん、とせせりを含む途中、知らない声のするほうへ視線だけを向け、ピタリ、動きを止める。口は開いたままだ。

 美乃梨はそんな彼を横目でじろり、声の主をちらり。ジョッキに口をつけたまま交互に見やる。

「えっ、ごめんなさい!」

 その若い女性は慌ててドアを閉めつつ、格子の隙間から手前の一団を垣間見た。

「忙しかったですか!?」

 パタパタとホールに出てみたが、お客はその一組しかいない。やたら存在感は強いものの。

「いや、見ての通りだけどな。皿取ってくれる?あの棚の、長細いやつ」

「は、はい!」

 緊張気味に返事をする彼女の、調理場に入っていく後ろ姿までを見送って、三人は顔をしばし見合わせた。

「意外…女の子だったんだ」

 両肘をテーブルに乗せ、体重を預けた暁奈が呟いた。その手にはどうしたことか、ジョッキも串も握られていない。単に両方とも空になったから、というだけなのかもしれないが。

「綺麗なひとですね…」

 暁奈とはまた違ったタイプだ。美乃梨は感想を述べるとビールを置いた。同性ならではの、無意識な軽い嫉妬と憧れとが入り交じった複雑な感情が、先細る語尾に含まれていた。

「知ってたの!?」

 口に入れるはずだったせせりは待機させ、桃矢の興味は完全に彼女に向いている。

「知ってたっていうか、あのドア、開くようになってたからさ」

「え、でもその部屋、そこしか出入りできないんじゃ…」

「それなのよねー…奥さんや娘さんがここにいないからって、若い女の子住まわせちゃっ」

 ダンッ。

「それって愛人ってことですか!?」

 穏やかでない音がした。食い気味に、今日一番の大声を張り上げたのは美乃梨だ。卓がじーんと振れているのは、ジョッキをテーブルに叩きつけた余波がまだ続いている。

「はー!?ずるい!」

 ゴンッ。釣られて桃矢も、串を握り締める拳でその不満を露にする。間髪容れずにもう一丁、美乃梨はジョッキの底を低く鳴らすと、桃矢に凍てつく眼力をお見舞いした。

「…なんでもないです」

 冷めきったせせりを小さくひと齧りしながら、美乃梨から放たれる負のオーラが引いてくれるのを、桃矢はただひたすら祈る。その縮んだ姿を、暁奈はくくっと噛み殺した笑いで見ているのみ。


 新顔の彼女は、そんな三人の様子をぽかんと見ていた。焼きたての串が渋い色合いで盛られた皿を、両手で持って立ったまま、いつまでも卓に置きそびれている。

 その後ろから、兼行が苦笑いで身を乗り出す。

「好き勝手言わんでくれよ。うちのやつ、一旦誤解するとほぐすの大変なんだから…」

「じゃあ愛人じゃないんだ?」

 掬い上げる暁奈の視線はどこかちくっとトゲがある。美乃梨にいたっては女の敵と対峙したかのような表情だ。

「なんで姪と不倫しなきゃならんの」

「姪!?この美人さん、店長の姪なの?」

 急いで肉を飲み干すと、まじまじ、桃矢は改めて覗き込む。横におわす不満そうな顔には気付かぬ振り。

「なあんだー、親族か。にしても似てないね」

 軽口とは言え暁奈が疑う様子を見せるので、兼行は間違いなく同じ血が入っていることを強く訴える。それから時計を見遣って続ける。

「…杏平くんが帰ってから紹介しようと思ったんだが…」

 低く唸ると、彼はテーブルに散り放題になっている皿をてきぱきと片し始めた。皆が視線を落とすさまはとても息が合っていて「誠に残念ながら…」という吹き出しが、まるで浮かんで見えるよう。

「今日も遅いんじゃないでしょうか」

「あの人早く帰って来たことなんてあったっけ?」

「むしろ学生時代から社畜だったしねー」

 つまり、そんなに待ってはいられないと言うのだ。

 「きょうへい」さんはどうやら忙しい人らしい――分からないなりに状況を飲み込もうと思考を巡らせている彼女に、再び三人の視線が促すように向けられる。どことなく圧を感じ、背筋をピンとさせたところで、兼行が口火を切ってくれた。

「…だな。姪のさや果。しばらく店を手伝ってもらうことになったから」

 さや果は、ポンと背中を押されて引き継いだ。

「兼行さや果です!よろしくお願いします」

 こうもじっと見られると、そこまであがり症でなくとも緊張する。さや果は、笑顔がぎこちないのが自分でも分かった。

「歳は?」

「えっ?あ、二十三です」

「彼氏いらっしゃるんですよね?」

「いえ…」

「それ、貰っていい?」

「は?あ、すみません!どうぞ」

 さや果が抱えたままだった串盛りの皿が、片付いたばかりのテーブルの真ん中に置かれる。わらわらと、すぐに手は伸ばされた。

 各々違う串を頬張る様子を、さや果は上から順に眺める。「妹がまた一人増えた」と、嬉しくてならない暁奈とは対照的に、「心配事が増えた」と焦燥の色すら浮かばせる美乃梨は、見えない手綱を握る手にぐっと力を込めている。その瞬間何かを感じ取った桃矢は、一瞬身震いしつつも果敢にさや果に向き直った。

「とりあえず、さや果さんの歓迎会だよね!いいでしょ店長!?」

「いいに決まってんじゃん!ほら、あたしの隣に座って!」

 椅子をぽんぽんと叩きながら、にっかと笑顔を向ける暁奈と、調理場に向かう兼行の背中。交互に見比べていたさや果だが、じきに強引に座らされる。

「いいけど、酒は飲ませんでくれよ。お客さん来たら手伝ってもらうんだから」

 雇い主からの了承は、あっさりと得られてしまった。ここまでの展開は彼も予測済みだったということだ。

「昨日も一昨日も私たちだけでしたけどね」

 小声で突っ込んだはずの美乃梨の声は、その耳にグサリと届く。

「いいんだよ!店は趣味みたいなもんだから!」

 まだ二十時にもなっていないのに作業台をキレイに拭きながら言うので、一層負け惜しみ感が強まるのがなんとも哀しい。

 その前を横切るのは、さっきまで小間使いの役を嫌がっていた桃矢だ。一転、揚々とグラスにさや果の分を注ぎやって来た。待ち受ける冷気と陽気を一身に受けながら、それでもめげない笑顔で、さや果へ手ずからグラスを渡す。

「すみません、お客さんにさせてしまって」

 さや果が恐縮しながら受け取るのを見て、暁奈がジョッキを掲げ、合図する。

「じゃ、カンパーイっ!」

 ごついジョッキ三対華奢なグラス一の勝負は見えていた。なんて勢いのある人達だろうと思いながらさや果はグラスを寄せるが、すぐに驚いて遠ざける。

「これっ…!」

「あっはは!ほら、やっぱり誰のための歓迎会かって考えたらさ…」

 桃矢が注いできたのは、水ではなかった。

「ゆいちゃんのときと同じことやったの?」

 そこに顔を近づけて確信すると、暁奈もいたずらっぽい笑みを見せた。人差し指を口元にあててから、手をヒラヒラさせる。飲め飲めと言っているようだ。

「でも、お客さん来たら私…」

「お客の相手はできても、あたしらの相手はできないってことー?」

「そうだよ、同じアパートに住む仲なのに」

「え?」

 暁奈と桃矢が横から前から、悲しげな顔で訴えてくる。さや果が狼狽えていると、傍観していた美乃梨が仕方ないなといった様子で助けに入る。

「この二人、図に乗らせるといいように操られますよ」

 太いヒールで桃矢の爪先を狙って踏むと、じろりと睨んだ。もう首の皮一枚だということを、彼は悟らされる。

「はあ…」

 テーブル下の攻防を知らないさや果は、美乃梨の殺気と急速に青白くなった桃矢の顔色とを、不思議そうに眺めてからグラスを置いた。注がれたものを一瞬見つめて、やはり飲むわけにはいかず、顔を上げる。

「あの、皆さんこちらにお住まいで?」

「そ!あたしは204の香住暁奈。この中では一番おねえさんね。暁奈って呼んで」

 先を越されたと言わんばかりに、桃矢が続いて身を乗り出す。

「オレ、203の御影桃矢!一番若いけど、さや果さんとそんなに歳違わな…」

 ひんやりした感触に、その言葉が途切れた。ジョッキで静かに指を押さえつけられたためだった。そのままぐりぐりと責め続ける美乃梨が、にーっこりと笑いながら後を継ぐ。

「春木美乃梨です。202を借りています。コレがなにか粗相をしないようにしっかり私が目を光らせるつもりですが」

 ジョッキに込める力を一層強くすると、桃矢よりも前に前に乗り出した。

「万が一何かあればすぐ!私に言ってください!」

「飼い主か」

「は…い…」

 もうこの関係性に慣れている暁奈は茶化すようにツッコミを入れるが、そうではないさや果はあまりの気迫に、前に来られたのと同じだけ上体を後ろに反らす。

 その返事を聞くと美乃梨は、我に返ったように元の位置に座り直して、今の今まで彼の指を尻に敷いていたジョッキにすまし顔で口をつけた。

 呪縛から解き放たれても、しばらく凍りついたままの桃矢が言葉を発せないでいるのを見て、暁奈は代わりに説明してやる。

「付き合ってんのよ、一応ね」

「そうなんですね…」

 しかし、先ほどの暁奈の言葉通り、駄犬をしつけるのに苦労している飼い主と、厳しいしつけに恐れおののいている犬のようだというのが、さや果の思う率直なところだった。恋愛関係というより、恐怖政治というほうがしっくりくる。

「これもひとつの愛の形なのよ」

 顔に出したつもりはなかったが、ほぼ正確に心の内を読み取ったであろう暁奈が、しみじみとまとめる。焦ったさや果は冷気をまともに受けながら、誤魔化し半分に質問を考えた。

「あ、お付き合い、長いんですか?」

「…どうでしょう…高校からだから」

「高校から、ですか…」

「信じられないかもだけど、とーやくんが追っかけてきたのよ?」

「追いかけて…?」

「人のこと追う暇があるなら、勉強しろってんですよ。浪人したくせに」

 照れているのか、ぼそぼそっと喋りながらビールに逃げる美乃梨を、さや果はしばらく見つめて、その目を伏せた。

 やがて雪融けが始まった桃矢がにわかに顔を赤くして待ったをかける。

「もーいいじゃん!俺らの話は!それよかさや果さんの面接を!」

「もー採用されてんだから、面接はおかしいんじゃない?」

 きゃんきゃん吠える犬と、かわいがる近所の人のようなやり取りが、賑やかに、最奥のテーブルで繰り広げられる。




 さや果は暫く、ぼうっと二人のじゃれあいを聞いていたのだが、そこへ暖簾をくぐる声が飛び込んでくる。

「よーハルちゃんー!」

「いらっしゃい」

 はっと我に返ったさや果は、一拍遅れてお客が来たことを認識した。慌てて、ワイワイ会話の絶えないテーブルを後にする。

「いらっしゃいませ!」

 兼行からコートを渡されて、さや果はばたばたと預かった。彼がその手でレジのほうを指したので、そこにクロークがあることを察する。少し狭く、慣れないうちはハンガーを取り出して一旦レジスペースから出なければ、上手く掛けられない。

 手際が良いとは言えないその様子を見ながら、兼行と顔馴染みのお客は話し始める。

「ハルちゃん、娘さん大きくなったねえ」

「うちの娘はまだ店には出せないよ。あれは姪」

「あっそうー?姪っ子もべっぴんさんだなー、ハルちゃんに似ず」

「一言余計」

 おずおずと兼行の後ろに歩み寄ると、さや果は暁奈が手招きしているのに気が付いた。こちらのお客には兼行がついている。ちらりと目線で気に掛けながらも、彼女は奥のテーブルへ向かう。

「どうしました?」

「お通しね、そこの冷蔵庫にあるから。二つ、持って行ってあげな」

 暁奈の突き出した親指の方向を見やると、格子の向こう、先刻さや果の通り過ぎたところにひっそりと小さな冷蔵庫があった。その中に小鉢が整然と鎮座している。

 店の裏方に近い部分まで熟知している彼女に、さや果はささやかな尊敬の念を抱く。さすがはおねえさんだ。

「はい!ありがとうございます」

 礼もそこそこに扉をスライドさせ、きんぴらを右手に、ひじきを左手に。となると扉が閉められないが、お盆がどこにあるか分からない。ひとまずカウンターに最小歩数で向かい身を乗り出して両小鉢を置くと、ダッシュで冷蔵庫を閉めに戻る。

「もう!綺麗な人にはすぐ尻尾振って」

「そんなつもりないってば!」

「だったらどういう訳なの、さっきのは」

「あっはは、みのりんのヤキモチ炸裂ー」

 兼行たちもなかなか盛り上がっているようだが、やはりこちらの賑やかさにはかなわない。およそ三組分くらいには匹敵するのではなかろうか。そんな大声量を尻目に、さや果は新しく来たお二人様の方へ。

「どうぞ」

 コトン、コトン。お通しを慎重に置いて、小さな達成感。ひとまず胸を撫で下ろした。

「近所のお得意さん。健さんと修さん。」

「姪のさや果です」

 兼行が間に立ち、さや果と彼らは互いににこっと会釈する。

「ここの客はわたしらのような近所のモンがほとんどだから、緊張せんでいいよー」

「はい」

 とは言え、そうもいかないのがさや果の性分だ。しっかりしていそうな健さんに、ぎこちない返事をかえす。

「どうやら人見知りみたいでな、慣れたらかたさもとれると思うんで」

「今日来たばっかなんでしょう?そりゃあねえ」

 おっとりしたこちらが修さん。フォローに感謝しつつ頭を下げる。

 はっはと笑って、途切れのない会話を無理にぶった切るようにすると、兼行は姪を顎で連れ出した。


「ほい、これ。こうして、こうな」

 さや果の付いて行った先はドリンクカウンターで、とりあえずビールの注ぎ方を教わる。五つのジョッキを満たすと、右手に三つ、左手に二つを一度に持たされたが、なんとかこぼさずに提供することができた。

 もうひとつ、小さな達成感。積み上げるごとに気分は上向き、緊張もこの頃には少しだけ取れたような気がした。


 賑やかな最奥のテーブルと、和やかなご近所さんのテーブルと。店は次第に夜更けへと向かっていく。

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