第8話粉チーズとトラック
洗いざらしの途中のように、布のシェードが伸びている。
オープンテラスの細長いシェードは真昼の陽ざしを受け、真下に日陰を作っている。
おだやかないくつかのお喋りと、コーヒーの香りがこぼれている。
シェードを支えるアルミのポールも軽快そうに、道路へと笑いかけているようだ。
その道路の向こうには、高台からの海が、空が、その青い光がテラスに波音を届けている。
その波音に合わせるように、ウェイターが靴音を歩かせる。
リズミカルなその靴音は、年輪を忍ばせた床板を鳴らして料理を運ぶ。
道路を横切る車、店舗からのラジオの曲、客のしゃべり声、ゆったりと新聞を読んでいる客もいる。
そのなかでリスティは、生まれて初めてできた友だちの声を、うっとりと眺めるように聞いていた。
――これがお友だち。いっしょに街を歩いて、いっしょに食事を
お喋りにも花が咲いて、なにもかもが輝いて見えるわ――。
そして、パラソルのテーブルに料理が運ばれた。
「なんて夢のようなひとときなの……!」
「大げさだなあ。でもそうだね、おいしそう。バーシアのボンゴレも」
「そっちのはミートボールも入ってるのな。アリィのはジェノベーゼ?」
「はい。あ、
四人の女子は、学園帰りの喫茶店――この時間はランチも提供しているらしい、そこへ来ていた。
リスティにとっては、なにもかもが新鮮だった。
「リスティは、ナポリタンだね、チーズいる?」
「ええ、パスタはもちろん知っているけど……これは初めて見るわ」
「リスティの国にはなかったんだな」
「じゃあ、この時間に来て正解でしたね」
テーブルに笑顔があふれる。
「ええ……そう――なのかしら?」
――おかしな話。私がランチと言えばランチを捧げてくるのが当然でしょうに……。
まるで世の中の時間で、決めているよう。
そもそも食事というのは、私がメニューを選んだら材料を集めて、三日くらいかけて仕上げるものなのに。
ああ、でも、ガーランドおばさまは即席でも作ってくれるから、きっとそのような素朴な料理店なのでしょう――。
小さなログハウスのような店舗から、客席をテラスに延ばして、ランチ目当ての客がちらほらと目立つ。
シェードの日陰におおわれた席もあったが、せっかくのいい天気だからと、パラソルの丸いテーブルのほうに着いて、料理を楽しみにしていた。
「ナポリタンといえば、粉チーズをかけなきゃ!」
「まあ……! そうして
リスティにとっておおよその食事とは、作法であり儀礼であった。
たとえば王や王妃の会食ならば、主がフォークを持って始まるし、下ろしたら食事は終わる。
王女のリスティが主催であっても周りはそうする。
お茶だってお菓子だってそう、宝石をを愛でるようなものだった。
「――リスティ? どうしたの?」
リスティは、はっと
「いえ、なんでもないわ!……そう、今から自分で、チーズをかけようとしていたのよ。自分でね……!」
リスティは、自分は一般人なのだと律しながら粉チーズを受け取った。
一般人という緊張に、少し手が震える。
一般の生活では、こういうこともできるかぎり自分でやるのだ。
荷物だって自分で持つし、エスコートもいない。
椅子に座ろうとしても手をそえる人間もいないし、道を歩いても誰にも気にされない。
――私が歩けば国民が手を振って集まっていたのに。
しかしそれこそが、王女ではなく、一般人の証なのだ。
――私なら、できるはずよ!
そんなリスティは、粉チーズのフタを開けれずにいた。
どうやって開けたらいいのか見当もつかない。
「でも、さっきはびっくりしたよ。リスティいきなり飛び出すから……」
「信号は守ったほうがいいな」
「なにごともなくて、よかったです」
「……私が歩くのだから、青信号になるものだと思っていたの。もしくは私以外は止まれの……合図だと……!」
思いっきり力を加えてひねると、ポンッとフタが取れたので安堵した。
ニコリと微笑みながら、細い指で優雅に筒をかたむける。
そしてドサリと、粉チーズは雪崩のようにパスタにかぶさった。
「うわ……かけすぎじゃね……?」
「あー、リスティ、やっちゃったね……」
「……これではもう、粉チーズパスタですね……」
「…………!」
――かけろと言ったじゃない……!
「ええ……! 私、チーズが好きなのよ。いただくわ……!」
――堂々としていればいいのよ。
ここで慌ててしまうと、私が一般人ではないと疑われてしまう。
みんな、王侯貴族の
私だけが気取って、和を乱すのはマナー違反よ。
それに、私がフォークを執らないと、食事会は始まらないもの。
お友だちとの楽しいお食事会、みんなを待たせるなんてなんだか悪いわ――。
「――ゲフンッ!」
リスティは、むせた。
粉チーズの塊がのどを突き、噴き出しそうになるのを必死でこらえる。
「ちょっと、だいじょうぶ!?」
――ここで粗相をするわけにはいかない。
せっかくのお友だちとの会食なのに……!
リスティはレースのハンカチを取り出し、口元を押さえた。
息を止め、心臓を止めるように、ゴクリと口のものを飲み込む。
のどの奥、食道へとパスタの塊がうごめく。
それが胃に落ち着くまで、夕陽が沈むのを眺めているように時間がかかった。
純白のシルクはケチャップにまみれ、心配そうに三人が見つめる。
「ええ、なんともないわ。夕陽のお花畑が見えただけ……」
もういちどケフンとむせた。
「リスティ、ちょっと貸しな」
バーシアが皿を寄せ、フォークでつまみ上げる。
粉チーズの山に埋もれたナポリタンが、ボンゴレの皿によそわれていく。
「あ、わたしも!」
「じゃあ、私もいただきますね」
アリィも品よく、隣から粉チーズをさらっていく。
のどを突くほどの、ナポリタンにまみれた粉チーズがみるみるうちに減っていった。
――これが……友だち……!
リスティは、手にしたハンカチの裾を瞳に当てた。
チュールレースがその光る涙を吸い取ってくれる。
――私の粗相をかばってくれている。
三人の行儀悪さも、そのためなのだ。
異国の地で、なにも知らない私にいろいろと教えてくれたりもする。
そして楽しいお食事会……。
温かいものがほっぺたを伝って離してくれない――。
「泣くほどむせたんだね」
「やっぱりかけすぎなんだよ」
「少しづつ、かけたほうがいいですよ?」
三人は、しゃべりながら笑いながら、リスティから取り分けたパスタをほおばっている。
「これじゃあ……ハンカチがいくらあっても足りないわ……」
リスティは涙を拭いて、ふわりと微笑んだ。
「ほんと、ケチャップまみれだな」
「あーあ、きれいなハンカチが真っ赤になっちゃったね……」
「リスティさん、この紙ナプキンを使ってください」
「まあ……! ありがとう――紙ナプキン……?」
リスティは、ざらざらとしたナプキンを口元に当てる。
作りはひどく荒いものだが、手渡された気遣いに、とても優しく柔らかいものを感じた。
「ねえ、バーシア、
「し……詩人かよ」
「リスティ、どうしたの? また具合悪い?」
「でも、素敵な言葉ですね」
「ほら、ご覧なさい。あのトラックは女神の宝石箱。きっと世界中に夢を運んでいるのよ」
ランチ中のテラスは歩道に面していて、そのまま車道が走っている。
赤信号の道路に、灰色のコンテナのトラックが止まる。
リスティたちは、そのトラックをぼうっと眺めた。
「……ふつうの引っ越しトラックだな」
「うん。運送会社にしか見えないね」
「でも素敵な考え方です。リスティさんって、想像力が豊かなんですね」
「私、こんな気持ち初めてよ。……友だちと一緒なら、なにもかもが輝いて見えるのね――」
そのトラックが、バリンと音を立てる。
そしてもう一度、金属が破裂するような音がした。
その破裂音に、道路に面した喫茶店のオープンテラスに、客もウェイターも何ごとかと目をやる。
誰が見ても異常な動きだった。
そのただの運送トラックは、音を上げてコンテナが揺さぶられている。
様子を伺っているほどに、けたたましく衝撃音が飛び出してくる。
そしてざわざわと、テラスは不穏な空気へと変わっていった。
「おい逃げろ! 魔物の気配だ!」
客のひとり、がたいの良い男が、読んでいた新聞を投げ出して避難を呼びかけた。
ランチ中の客も、コーヒーを飲んでいた客も、その声に腰を浮かせた。
顔を見合わせて、どこへ逃げるべきか
明らかにそのトラックは異常なのだが、魔力を感じないものからすれば、魔物の気配まではわからない。
魔物の気配は、同じく魔力をもつ魔法使いでないと感じないものなのだ。
苛立ちもしたように、バーシアが立ち上がって大声を出した。
「あのコンテナだよ! 店の裏のほうへ逃げるんだ!」
戸惑っている客すべてに聞こえるように、避難をうながす。
その指示に従うように、客たちは次々に店の裏――道路と反対側へと走り出した。
「お前らも早く……ああ、やばいなコレ。かなりゾワッと来てる!」
「おい、君たちも魔法使いか!」
がたいの良い男だった。
「――だが学生じゃないか、早く逃げるんだ!」
男は腰から黒い
「……あの中にいやがる。なにが出て来るかな……」
――なんてことなの……!
リスティはおどろいた。
ナポリタンスパゲッティから、ピーマンが出てきた。
その炒められたピーマンを口に運ぶと、意外にも歯ごたえがある。
よく火が通っているはずなのに、ポリポリとはっきりとした音を奏でるのだ。
「ケチャップの酸味とよく合うわ……!」
ピーマンは嚙むほどに、甘みがジワリと口に広がる。
それがケチャップの酸味と混じり、赤と緑のコントラストが旨みを引き立てる。
「こんなに雑なのに……品のない料理なのに……おいしい……!」
初めてのナポリタンスパゲッティに感激し、リスティは紙ナプキンを口に当て、もう一口をフォークに上品にクルクルと巻き付かせていた。
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