第6話ショパンと教室
リスティはもう一度、席から周りを見渡した。
なにかが、妙なのだ。
違和感というか、あるべきものがないような物足りない。
それは魔力的なものではなく、もっと物質的ななにかだった。
席といえばこれもそうだ。
みんな姿勢を崩しながらも、正確に列を組んで備え付けられた椅子に座っている。
リスティにとっては見たこともない椅子で、これが椅子と呼ぶかどうかは定かではない。
ただ、生徒はみなそれに座っているので、椅子なのだろう。
生地はベルベットだろうか、それが張られただけで、ひじ掛けも装飾もない。
椅子というものは――少なくても自分が座るなら、宝飾だったりリバーレースの掛け物だったり刺繡入りのクッションくらいは置かれているものではないのかと訝った。
そして人差し指を下唇に当てて考えた。
そこには、リスティ・ルージュ。――自分の名前が書かれたラベルが貼ってあるのだ。
やはりここに座れということなのか。
怒りにも似た気持ちをグッと抑えて、ふたたび周囲に目をやってみる。
そして足りないものは、室内管弦楽団だと気づいたときに、講堂の前方に人影が立った。
司会役だろう、教師――先生と呼べと言われたが、それも兼ねているのだろうか。
壇上からの声はマイクに拾われて講堂全体へと響く。
入学式を始める式辞だった。
仕方なしにそのザクロ色をしたベルベットの席に着き、落ち着かない腰に姿勢を正した。
次に壇上へと上がったのは、学園長だった。
なにやらあいさつをしているが、リスティは管弦楽団の姿がないことが気になる。
式典なのだし、この規模の講堂ならばオーケストラが入るだろうと思ったが、一向にその気配はない。
これではいつ踊るのだろうかと、もしかしたら踊らないのだろうか、サプライズだろうかと、気を揉んでいた。
そして、この学園長――つまりは学園の主だ。
主催者のあいさつの次は、当然にも王女の身位である自分が、みなにあいさつを述べるのだろうと待っていた。
しかしリスティは呼ばれもせずに教頭、そして来賓がマイクの前に立つ。
「そうね……ここでは王族ではなかったものね……」
リスティは誰にも聞こえないようにつぶやき、これまでの人生にはない――集団の中に身を潜めることに、これ以上もなく緊張していた。
そもそもこの席順はいったいどういう取り決めなのか。
なぜ私が――リスティ・ルージュが、後ろの方の席なのか。
私に背を向けて座するものなど、王室上位のものくらいのはずなのに。
どうも目立たずに自分が中心でないことに慣れずにそわそわとしていると、生徒の――新入生のひとりが壇上に立った。
前髪をきっちりと分け、後ろ髪をなびかせて、品のよい声で式辞を述べている。
――なぜ自分が生徒代表ではないのか。
この新入生代表の女子は、いったいどういった地位なのか。
そしてひとつの結論で納得した。
――彼女は国家元首のような身分なのね。
いかに王族でも、国政から距離を置くことは自分の国でも同じだ。
ましてや他国の代表ならば、過分なほどに敬意を払うことも求められる。
つまり入学式とは政治的な式典であり、新入生代表とは国家の代表なのだと、リスティはひとりうなずいた。
その通り、ふと目線を流してみると、この新入生には外国人が多いようだった。
リスティもその内のひとりなのだが、においというか、雰囲気がそれぞれ異なる。
どういうわけかこの学園は――少なくともここにいる新入生は、世界各国から集まっているようにも見える。さっきの先生もそういうことを言っていた。
そして、神経を澄ましてみるとまたも気づくことがある。
リスティは忍ばせるように、
いままでにない好奇心をかき立てられる。
世界の人間の、全員が全員魔法使いではない。
だがここには、色とりどりの魔力があふれていた。
――魔力の晩餐会のよう。
いままでの生活ではありえないほどに地味で、華美のかけらもない建物。
盛装するものも、部屋を飾る料理も、楽団の演奏すらないこの入学式に、ただ繚乱する魔力のオーケストラをリスティは感じていた。
――それにしても……。
「解せないわ……」
なにが始まりでなにが終わりなのか、リスティにはさっぱりわからない。
いつの間にか入学式は始まって終わったのだ。
――私が入学したのだから、国賓で出迎えてパレードで締めくくるものじゃないの?
いくら政治的な式典といっても、王室の身位を隠しているといっても、これではあんまりだ。
それとも夜になったら、盛大に花火を打ち上げて祝ってくれるのだろうか。
「いくら私が一般生徒としてここにいるからって、あんまりにも酷い扱いだわ。きっとみんなもそう思っているはずよ……」
顔を青くしてみなの動きについて行くと、そこが教室だった。
広さから考えると、自分専用の勉強部屋なのだろうか。
しかしなんとみすぼらしいことかと、背筋が凍りつく思いもする。
まるで牢屋にでも入れられる気分のように教室へ入ると、またも椅子――だろう。
木製の椅子と机、ただただ平べったく、飾りすらもない。
そこに自分の名前が貼ってあり、リスティは自分の人生の階段がガラガラと崩れた音がした。
我慢はできるつもりだった。
留学してひとり立ちを決意したときから、辛いことがある覚悟はできていた。
――でも、これも努力よ……!
震える手で椅子の背をにぎり、引いてみる。
床の無垢材が、やけに冷たく靴底に伝わってくる。
ズズズッという音と共に、これまでの王室の生活の記憶が、走馬灯のように流れては消え去っていく。
華美のかけらもない、かたい椅子に腰を当てる。
このようなみすぼらしい席に着くのは、もちろん今日が初めてだった。
王室のものとして、ルージュ家のものとして、大変な屈辱であった。
頭の中で、シャンデリアが割れて落ち、宝石のティアラにぶつかって砕け散る。
大理石も彫刻も、煌びやかな金細工も銀細工も、絹の刺繡も色めくドレスも、プラチナのアクセサリーすらも次々に音を立てて粉々に割られ、世界が闇に飲まれた。
――永遠の闇だ……!
ショパンの革命のエチュードが頭の中を駆け巡る。
ほかの生徒は平気な顔で椅子に座って、それぞれなにかを話している。
ああ、なぜ楽しそうなのだろう。
みんな、気でも触れたのじゃないのか。
こんな貧しさに身を置く仕打ちにあっているのだから、きっと心が狂っても無理はない。
みんな、おかしくなったのよ――。
ガラガラと扉が開く音に、心臓が跳ねた。
教師――担任の先生が教室に入ってくる。
笑顔だ。
笑顔であいさつをしている。
連なる窓からの日差しになぜかまぶしささえある。
リスティの頭の中は、同じくショパンの、別れの曲に変わった。
切なくも穏やかなピアノの調べが、天国へといざなう。
――さようなら、ママ……私、もう耐えられそうにない。
担任はなにかを話し、生徒たちもなにかを返している。
ドアもできるだけ自分で開けたし、荷物もできるだけ自分で持った。
着替えだってまあまあひとりで済ませたし、このローファーですら自分で履いたのだ。
侍女を椅子にしたけれど、それは一般的なの範囲のはずだ。
じゅうぶんに一般人になったはずだ。
それなのに、さらに苦しい状況に追い詰められている。
ああ、この先生はなにを話しているのだろう。
なぜ生徒はみな、平然と振る舞えるのだろう。
自分の努力が足りないのだろうか。
――いいえ、個人の努力の範囲を超えているのよ……!
リスティは立ち上がった。
「そう! 華がないのよ!」
ガタリと席が鳴り、その無慈悲なまでに素朴な机を両手で叩く。
「――ええ、華がない! みんなもそう思うでしょう! もう耐えられないわ!」
教室の一同は静まり返り、否応なしにリスティに目が注がれる。
「もっときらびやかに! いくら文化といっても限度があるわ! そう、ひとことで言うなら華なのよ! 私に――いえ、人類にとって必要なものは華やかさなのよ! ここには華がないのよ!」
担任の口が開いた。
そしてニコリと笑う。
「じゃあ、ルージュさん。花係をお願いしますね」
教室は拍手に包まれた。
パチパチと手が打たれ、みなが笑顔を立ち上がったリスティへと向けている。
――みんなが私を称えている。
私が演説を述べて拍手されるのは王室でも当たり前だったけど、今回はなにか雰囲気が違う。
なにかこう、心からの称賛というか、素直な拍手だ――。
「自分から立候補って偉いよな」
「ルージュさん美人だからちょうどいいね」
「教室に花があると明るくなりますよね」
まわりの生徒から声をかけられ、みんなが褒めてくれる。
いままでのそれは、私が王女だからというのもあったはず。
それに生徒みんなも、互いにどこかの皇太子や令嬢のはずだ。お忍びで一般生徒をしているだけで。
つまり、私の言動が、私自身が、認められたのだ。
――やっぱりみんなも、華々しさを必要としていたのね。
「――それでえっと、学級委員長になりたいものは……あ、ルージュさん、座っていいですよ」
私に座れといういう暴言……を吹き飛ばすくらいに、胸がときめく。
この胸の高鳴りはなんだろう。
華係、というのはよくわからないけど、みんなの期待に応えたい。
そう、この教室を、学園を、華々しく変えましょう。
そう胸に誓いながら、リスティは席に着いた。
このみじめな椅子も、この担任のセンスがないからだと、責めては悪い気もした。
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