第4話トルソーと紅茶

 バラの刺繡のブドワールを抱きかかえると、サテン織りのシルクがわずかに波を作る。

 純白のナイトドレスはゆったりと腰をすべらせて、肩から胸にかけたリバーレースがわずかにはだけた。

 背中にそよ風を感じて長い睫毛で探ると、窓を少し開けた侍女がドアを静かに閉めて出ていった。

 そう言い付けられたのだろうと、リスティは朝の静寂に耳を澄ました。


 そして、リネンのシーツを思いっきり蹴り上げた。

 ベッドスカートのフリルがふわりと揺れる。

 リスティはベッドに立ち上がり、腰に手を据えた。

 たまらなくニヤリと笑みが込み上げる。

「学園生活が始まるわ!」


 背を伸ばして上げた両手が天蓋に当たり、そのままパウダーピンクのカーテンをなでるように床に飛びおりる。

 少し開けられた窓からは、たっぷりとにじんだ水彩のように朝の光が庭を照らしていた。

 夜の魔力は朝のそれへと変わっていき、それは人によっては気分が浮き立つように、人によっては心を静かにさせる。

 リスティはどちらともいえずに、窓から庭園を眺めた。


 やはりこの部屋からの展望を想定したのだろう。

 花壇が窓枠いっぱいの円を作り、色とりどりの花を咲かせている。

 しかしその煉瓦レンガは、取り払われている途中だった。

「うん、一般の生徒の家には、やっぱり花時計なんてないと思うわ。そう、きっと花とお茶を愛でるくらいの小さなあずまやパーゴラがあるだけで十分なのよ」


 リスティは、自分の留学のために飾りに飾られたこの屋敷に、到着して五分ほどで嫌気がさした。

 そして執事のクロカワに、すべて元にもどすように言いつけた。

 屋敷中のありとあらゆる調度品や装飾、壁や床に至るまで取り外され、最低限・・・をこしらえただけの庶民的な家になった。はずだ。

 ところどころに金やプラチナのこじんまりした細工や美術家具が飾られる程度の屋敷だ。

 あとはもともとあった年代物の家具と、この屋敷が買えるくらいの宝石が廊下で明かりを待っているくらいだろうか。

 リスティにとっては、一般的な生活をするのだからそのくらいで十分だと思えた。

 それ以外の贅沢品は燃やすように言いつけたはずなのに、クロカワは惜しんでどこかの空き部屋に押し込めたようだ。

 それが昨日のことであった。


「そう、これから私は自立するの。王室も家も関係ない一般人として、ふつうの学生生活を送るの」

 リスティは窓際にナイトドレスをパサリと落として、ワードローブへと歩く。

 象牙色のワードローブを三つほど過ぎると、同じ色のキャビネットに視線を落とした。

 几帳面なほどにたたまれた制服と下着が、その新しさに光って見えた。

 よし、と意を決して、その学園の制服を見据える。

「ひとりで着るわ」


 それが一般人なのだ。

 今までは侍女たちがリスティを着替えさせていた。

 退屈にまつ毛を落としながら、何回か脚を上げれば着替えは終わった。

 しかし今日からは、それをひとりでしなければならない。


 姿見を見ながらホックを止める。ストラップのねじれを直し、ブラウスに袖を通す。

 どの穴に通せばよいのだろう、と考えるが、どれでもよいのだ。

 間違えたらやり直せばよい。そのくらいの心のゆとりが大切なのだと、やはり上下逆になったブラウスを着なおした。


 スカートのプリーツをひらひらとさせ、ブレザーの襟に指を這わせてみる。

 これでよいのかと少し不安になった。

 着こなしは正しいのか、うしろ姿はどうだろうか。

 廊下に待つ侍女に尋ねるのも体面としてどうだろうと心配もしたが、よく考えて見ると、間違えていたとしても、私が着ているのだからその着こなしが今後の世の中にとって正しくなるはずなので、気にしても仕方のないことに思えた。


 ――それにあの魔術だってある。

 ふと考えがリスティによぎったが、かぶりを振った。


 いつぞやの社交界で見た男、名前はなんだったか。忘れたけど魔法使いだ。

 彼は、何もないところ・・・・・・・から武器やら防具やらを召喚した。

 いくら魔法使いだからって、転送やら生成やらが簡単にできるなら世の中はもっと便利にあふれているはずだ。それほど高度な法術わざである。

 魔法陣の上に置いたトルソーを、ちらっとだけ見やった。

「あれなら着替えも一瞬で済むけど。……ううん、努力は大切だわ。だって一般人だもの」


 あとは靴下を履く。

 慣れない手つきで紺色の靴下に足をうずめる。

 足先まで入れると、さっそく煩わしくなってきてしまった。

 しかし、この煩わしさこそが一般人としての作法なのだと、面倒になる気持ちを律して、甲へかかとへと被せて、くるぶしへと滑らせる。


 この国の習慣では、靴は玄関では脱ぐらしいので、せっかくだからそれに合わせていた。

 もちろん他のものにもそう言ってあるので、屋敷中の使用人も同じようにしている。

 その靴も、ソファにもたれて侍女に履かせていたのにと、さっそく懐かしく感じた。

 履かせたヒールを、そのまま侍女のほおにでも当てると礼を言われ喜ばれてすらいたのにと。


 化粧はどうすればいいのか、髪はどうするのだろうかとも気を揉むが、さすがにそれはスタイリストがやるのだろうと、登校の準備をほとんどひとりでこなしたことに満足して、通学鞄を手に、リスティは部屋を出た。


 二階の廊下に待ち構えていた侍女たちは静かに頭を下げて、その姿について歩く。

「素敵です……お嬢様……」

 思わず口にしてしまったと、侍女が申し訳なさそうにうつむく。

「ああ、いなけい! やっぱりその鞄をよこしてちょうだい!」

 リスティは、戸惑う侍女から、いま渡した自分の通学鞄を取り上げた。

「自分で持つわ! だって一般人ですもの!」

 制服のスカートがふわりと風を呼び、そのリスティの凛々しい容貌に、侍女たちはしばし見とれて追いかけるようについて歩く。


 おじい様が――母の父だ、むかし買ってそのままだというこの屋敷は、そう凝った造りではなく、シンプルといってもいいものだった。

 細長い箱型の館が正門からはそびえ建つ。

 パウンドケーキのような形に、三階建てと地下に一階がある。

 リスティにとっては大変にこじんまりと感じた。

 この廊下は、両側に同じような部屋が五つずつ並ぶくらいだろうか。

 言いつけ通りに階段の美術品も取っ払われ、踊り場からの朝光のカーテンが真っ白に空間を照らしている。

 ここには、街で見かけたタヌキの木彫りでも並べようかとリスティは考えていた。

 一般家庭ではペットを飼うそうなので、庭には王宮のように、動物園でも作らせようかとも考えた。


 壁や柱は少し古いが、真っ白なペンキが磨かれて、きれいに掃除もされている。

 ひとり暮らしを堪能するために、使用人にはあまり気を使わずに振る舞うよう言いつけたので、静かに数人ほどが列をなして付いてくるだけだった。


「ああ、ひとり暮らしって、気楽でいいものね」

 リスティは食堂のテーブルに着き、真珠で縁どられた猫脚の腰かけにクロカワが手をそえた。

「素敵なお召し物です。お嬢様は、なにを身につけても晴れ舞台のようで大変麗しく……」

「ねえクロカワ。黙っててくれる? 私はひとり暮らしをしているの」

「かしこまりました……。私めはお嬢様のひとり立ちを蔭ながら応援いたしましょう。炭酸水がありますが?」

「水にして」

 執事のクロカワはグラスに水を注ぎ、壁ぎわへと引っ込んだ。


「お嬢様。――ええっと、お口に合いますかね?」

「ええ。ここでもおばさまのスープがいただけるなんて、ほっとするわ」

 料理係のガーランドだった。

 朝日にメイドキャップからはみ出した、赤毛のクルクルした髪が透けている。

 うれしそうに世話好きの笑顔を浮かべながら、恰幅かっぷくの良い腹に巻いたエプロンで手を拭く。

 ルージュ家に仕える料理長の実姉で、長く調理場の手伝いをしているので、リスティも幼少時から親しくしていた。

 リスティも、彼女がこの屋敷に来て料理係として仕えているのがうれしかった。

「この国は食材がたくさん手に入りますからね、スーパーの品ぞろえにびっくりしましたよ。お嬢様のお好きなものをいろいろと作れそうです」

「ねえおばさま。せっかくだし、和食も作ってくれる? お寿司とか、おそばとかがいいわ」

「作れるかはわかりませんが、お嬢様が喜んでくれるならやってみましょうかね」


 ポタージュはジャガイモが丹念にこされ、少しのとろみと野菜の素朴さが溶け込む。

 玉ねぎは多め、ニンジンとほうれん草だろうか、バターの甘さにほぐれていく。

 スパイスを入れないことで、かえってピュレとして深みが出ていた。

 リスティはスープを下げさせて、二又のほっそりしたフォークを薄くスライスされたリンゴに突き刺す。

「あたしは凝ったものは作れませんけど、お嬢様の好みは知っているつもりですよ」


 シャリッとリンゴが弾けた。

「うん。そうよ。これ、これなのよ! 果物に彫り飾りカービングもされていない、ただ切っただけ、これこそ、いち学生の朝食にふさわしい食卓風景なのよ!」

 見計らって侍女がそっとナプキンを取り替える。

 リスティは満足そうに、銀装飾のフォークの柄を指揮棒のようにする。

 行儀悪く宙を描いていると、クロカワがグラスに水を足し注いだ。

「――ところでお嬢様、お時間のほうはよろしいのですか?」

 リスティは、何のことかと雨嘉ユージアに目を向けた。

 その隣にヴァネッサも待機しているのだが、彼女は時間や計画ごとの管理があてにならない。いまだって眠たそうに、腹を空かせたように、締まりのない表情でぼうっと立っている。

「あと十二分で登校します」

「待たせたらいいわ」

「学校は待ちません」


 私を待たせるのが常識では、とリスティは言いかけたが、先にクロカワが呟いた。

「――では、お帰りになってからにいたしましょう」

 雨嘉ユージアのほうに確かめているようだった。

「なあに? 気になるからいま言ってちょうだい」

「ええと……」

 戸惑いがちにクロカワは雨嘉ユージアをうかがうので、リスティは不機嫌をあらわに、無言でその睨みを執事へ向けた。

「ええと……簡潔に申しますと、あしらえた美術品などをを地下室に押し遣っていると、そこからいくつか年代物の品が見つかりまして」

 やはり燃やさなかったのか、と冷たく眉を上げるリスティに、クロカワは続ける。

「大旦那様――この屋敷を買われたおじい様の、買い集めていた品にお見受けしますが……なんと申しますか、武器……というか、そういった品でございます」

「ふうん……」

 リスティはニヤリとしそうな顔を必死にこらえた。

 ――武器。なんという好奇心をわきたてる響きなのだろう。


「不肖ながらこの私、法術具の鑑定士の資格もありまして。なかなかの品も眠っているのではないかと見ているのですが、お嬢様のお気に召さないようでしたら、残念ながらほかの家具のように処分も辞さないのかと思いまして――」

「ものは大切にしなきゃいけないわ!」

 リスティはガタリと立ち上がった。

 そして上書きするように優雅に腰を下ろす。

「今すぐ見せなさい」

「あと十一分です」

「では、ひとつお持ちしましょう」

 クロカワは丁寧にお辞儀をして食堂を出る。

 廊下を小走りにスリッパの駆ける音がしばらくし、戻ってきた。


「あと九分」

「お待たせいたしました」

 少し息を切らせたクロカワの手に出したものは、銀の剣だった。


 正確には銀の装飾のほどこされた小剣、レイピアだろうか。

 王宮などに飾られたもので見るよりも、刀身は半分ほどに短く、肘から指先までくらいの長さだが、柄の辺りの装飾は見事に繊細だった。

 倉庫で眠っていたのなら、この銀の照りはクロカワが丁寧に磨いたのだろう。

 夏草のつたのように柄をうねり、持つ手を装飾で包み込む一品だ。

 素人目にも、実戦よりは式典だとか儀式的な意味合いで作られた品だとわかる。

 しかしその刀身は冷たく張りつめたように、細くギラリとまっすぐな刃が走っていた。


「あと八分です」

「貸して」

「いやしかし、王女――いえ、お嬢様ともあろう高貴な方が、このような物騒なものをお手になるなど……」

 手のひらを出したままのリスティに、クロカワは諦めて渋々とレイピアを手渡した。


 空気を断つように、そのレイピアが音を打つ。

 リスティは、どこかで見た剣さばきで、柄をひるがえし刀身を踊らせる。

 ヒュンヒュンと無音の風を切り裂き、切っ先は一点を止めた。


「――お見事でございます、お嬢様。いったいどこでお習いに?」

「テレビで見たことあるもの。映画だったかしら」

「あと七分で登校しますよ」

 この雨嘉ユージアもそうだが、退治屋というのはこういった武器で勇猛果敢に魔物に立ち向かうのだと、リスティはうっとりと剣を眺めた。


 そして、じっとりと表情を変える。

「ねえ。魔物が現れたら私、怖いわ」

「ええ……まあ、そうでしょうね」

「あー、魔物が出たらさ、私がやっつけるって。そのために雇われ――」

「あなたは黙ってて!」

 ヴァネッサに放ったのだが当の本人はあっけらかんと眉を上げ、代わりにクロカワが叱られたように顔を伏せる。

「――やっぱり、護身用に持つべきだと思うの。武器を」

「いや、しかしお嬢様には護衛がおりますし……私めがアミコ様から叱られてしまいます。それに王室のほうからもなんとお叱りを受けるか……」

「ああ、学園に魔物が現れないかしら……!」

「あと五分ですが、お嬢様。学園内は公共の場なので、武器の所持は罰せられますよ?」

「噓おっしゃい。私が通うのだから、私の私有地でしょう?」

「おそれながら、雨嘉ユージア様のおっしゃる通りでございます……」

「厳密には、現在のお嬢様のいでたちで、屋敷から一歩出れば銃刀法違反、並びに――その武器は魔力を帯びていますから、公共危険物と判断されれば、所持だけでも魔法魔術等私的使用違反の疑いもかかります」

「私も退治屋になろうかしらね。……で、あと何分なの?」

 雨嘉ユージアは腕時計にチラリと目を落とす。

「四分です」

「わかったわ、武器は持ち歩かない。そうね、退治屋でもないのに剣なんか持っていてもみっともないもの……」

 クロカワは安堵のため息を落としてレイピアを受け取ろうとしたが、リスティは離さなかった。

「これは預かっておくわ。クロカワ、あったかい紅茶を淹れてちょうだい」


 リスティは二階の自室に戻り、銀のレイピアの切っ先で宙を遊びながら考えた。

「そうね、持ち歩く必要はないもの。幸運にも魔物が出たときに持っていればいいのだから。……でも本当に、退治屋のライセンスを取ろうかしら」

 魔法陣の上には、トルソーが置かれている。

 部屋に入って左。真珠の樹のようなコート掛けと、桜色のドレッサーの手前だ。

 その向こうは窓へずっと、象牙色のキャビネットとワードローブが並んでいる。

 春風が薄いレースのカーテンをふわりと揺らし、しばらくベッドやライティングデスクを遊んでまわってリスティの頬をなでた。

 少し開いた窓からの朝はさっきよりも明るい。

 まるで自分の未来を見ているようだ。


 リスティは紅い唇をニヤリとゆがめ、剣をトルソーの下に置くと、それが魔法陣の中に収まっていることを確かめた。

 この魔法陣の上へ置いておけば、好きなときに身元に転移させて召喚できる。


 ――剣を持って戦う王女。いえ、一般生徒。

 なんて楽しみなんだと、早く学校へ行ってみたくなった。


雨嘉ユージアは時間を気にしていたかしら……まあ、教師やほかの生徒を待たせるのも、少しは悪い気がするものね。ええ、そうだわ。お茶にしたらすぐに行きましょう」

 リスティは人差し指を下唇に当てて、謙虚に学校生活を送ろうと考えた。

 かすかに甘い紅茶の香りが流れてきた。

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