第2話オーケストラと夜空

 ホールの向こう側、このバルコニーと反対側のガラス窓が破られた。

 ガシャンと、もう元に戻らないガラスの音に、悲鳴が上がる。

 室内楽団の演奏が止まり、皆が一斉にそれら・・・を目にする。

 みなが、あ然とした様子から、助けを求める叫びになったのは早かった。


「あ、やっぱり、魔物……。こんなところにも出てくるのね」

 こんなところだから、出てきたのかもしれない。

 華やかな社交場は人間の欲望の、まさに宝石箱みたいなものだ。

 金や名声や自己顕示だったり、妬みだとか優越感だとかだ。

 食欲をかきたてる料理や、背中や胸元の大きく開いたドレスもそうだ。

 そういった、すべてとも言えないかもしれないが、そういうニオイを嗅ぎつけてくる魔物だっている。

 これらの淫鬼いんきがそうだ。


 窓をぶち破って現れた招かれざる客たちは、人の半分ほどの背丈を獣のように曲げて、ニオイを確かめるように周囲を見回している。

 ニタリと笑った細い牙からよだれを垂らし、どれ・・から喰ってやろうかと物色しているのだ。

 ホールの華美な姿は一変し、盛装した美男美女たちは、われ先にと逃げ出す。

 出口の両扉付近はごった返して、混乱状態だった。


「リスティ、君も逃げて」

 バルコニーの男、アーウィンが一歩前に出る。

 リスティは、腕を組み人差し指を下唇に当てて淫鬼を数えた。

「一、二……三匹。ああ、よかった。これでパーティーもお開きね」

 このわずらわしい社交界が終わることに、心から安らいだ。

 おりを見て、母と外に逃げればいいのだ。

 魔物に立ち向かっていくような警備はいない。

 さらにいうと、こういう場は退治屋でも雇っているとかが普通なのだが、伯爵は魔法使いがお嫌いらしい。

 これは運が良かったと、リスティはニヤリと笑った。


 アーウィンはバルコニーからホールへと踏み出た。

 そして目を閉じて、物々しく中空をなでる。

 それは一連の流れだった。

 両肩につきそうな髪がふわりと揺れ、アーウィンを戦闘体勢に変えた。

 細長い円錐形の騎士槍ランスを手にし、左肩からの、たすきのようなプレートは防具だろうか、どちらも白銀色に輝いている。

 大理石の足元にできた光の輪が、らせん状にアーウィンを包んで、それらの形になったのだ。


 もちろん魔力で起こした現象には違いないが、リスティはそのような魔法を見たことがなく、なによりも好奇心がうずいた。

「なあにそれ、魔法? ――いえ、魔法陣ではなかったから、魔術かしら?」

「僕の考えた魔術だよ」

「ねえ、どうやって武器を作り出したの?」

「逆さ。もともと持っていたものをイメージに収めていて――簡単にできるものでもないよ。それなりに考え上げた術だからね」

 リスティは、ふうんと、ならばそれなり・・・・に訓練したらできるのかと思った。

 わざわざ侍女をはべらせなくてもそうやって済むなら、着替えに便利だから今度やってみようと。


 武装したアーウィンが淫鬼いんきに走り向かう。

 左手で魔法陣を描き、理魔法が淫鬼の足元に浮かんだ。

 その魔力の光は渦を巻いて、ロープのように淫鬼を縛る。

 身動きの取れない淫鬼は、細長い手足をばたつかせて転げだした。


 アーウィンの騎士槍ランスが迫る。

 魔術による駆足ダッシュは速く、その尖った先端が突かれた。

 淫鬼はジタバタと避けて転がり、大理石の床が激しく打たれた。

 そこへもう一匹の淫鬼が、アーウィンに飛びかかる。

 襲いくるツメを騎士槍で防ぎ、その手に魔力を込めた。

「ちょこまかと……」

 騎士槍に込められた虹鳴きエンチャントは翡翠色――風の魔力だ。

 素早い突きを浴びせられて淫鬼は吹っ飛ぶ。

 軽そうな身体は宙に浮き、その紫色の肌がゴロゴロと転がる。

 だがすぐにバサリと起き上がり、ニタリと笑った。


 ある程度のダメージは与えたのだろう。

 ……と、リスティは、レモンピールの乗っかったチョコレートコーティングのブラウニーを口に運んだ。

「あ、やっぱりおいしい」

 優雅に、行儀悪く、ほっそりとした腕で、テーブルのケーキをつまんでいく。

 繊細にねじられたケーキフォークの柄を指揮棒のようにして、コツコツとヒールを鳴らす。

 そうして一口ずつ食べ歩いていると、舌が甘ったるくなったのでトニックウォーターを見つけて口に含んだ。

「品のない味ね。グラスが可哀想。――ママはどこかしら、もう外かしら?」

 その繊細なフルートグラスのように肢体を歩かせて、こんどはマスカットを口にほおばった。


 またも大理石の床が打って鳴る。

 すばしっこく跳ね回る淫鬼に風鳴きエンチャントされた騎士槍は当たるのだが、その魔力を削りそこねていた。

 直撃や不意打ちがうまくいけば、にダメージを与えられて魔力を一気に減らせるのだが、多少攻撃が当たったくらいでは、魔力のバリアに阻まれる。


 それはアーウィンも――人間の魔法使いでも、同じだ。

 淫鬼の鋭いツメを浴びようとも、ある程度のダメージならば魔力で防げる。

 身体にとっては無傷で済むが、その分の魔力は失っていく。

 呼吸をするように魔力で生きている魔法使いも、魔物も、この魔力を失えば動けなくなる。

 つまり魔物との戦いは、どちらの魔力が尽きるかの消耗戦でもある。


 戦いの行方をよそに、騒がしく助けを乞う老若男女の名士たちは出口付近でごった返す。

 わが身を守るべく混乱に、外から両扉を閉ざされたのだ。

 人混みは押し返され、ぶ厚い扉を蹴り破ろうとしたり、泣き崩れるもので慌てふためいていた。


「あ、おいしい」

 リスティは意外な味におどろいた。

 梨がさっぱりと、口の中でみずみずしくはじけたのだ。

 シルクのような舌ざわりにシャリッと歯を当てると、かき氷のように解けていく。

 高山の湧き水のように、そして甘い蜜のように、のどを潤していく。

「まるで長年をかけて積もった雪解け水のようだわ……!」

 心に木漏れ日が差し込むようで癒された。

 リスティはもう一口の甘美に酔いしれていると、アミコの姿が視界に映る。

「あ、ママ。逃げ遅れたのね……」


 アミコは、ごった返す群衆の中でキョロキョロと周りを心配そうに見回している。

 自分を捜しているのだと、リスティは母のもとへと歩いた。

「扉ごとあの人ごみを……ああ、壁をぶち破るのだって面白そう。扉の向こうの伯爵様の顔が見ものだわ」

 人差し指を下唇に当てて考えていた。


 その横目に、紫色の動く姿が入る。

 その淫鬼いんきは、群衆のほう――アミコのほうへ向かっていた。

 ニヤリと牙を広げてよだれを垂らし、いやらしく両手の指を広げる。

 鎌のようなツメが照明にぬらめき、小さい身体がひょろとした手脚を素早く走らせていく。

「ママ……!」


 あの貴族だか資産家だかの群れがどうなろうが、知ったことではない。

 魔物がなにをしようと、どうでもいい。

 だけど、母が傷つくのは我慢ならない。

 燃やしてやろうか、凍らせてやろうかと、魔力をたぎらせた。


 リスティの手の魔力が覗き色――淡く薄い青緑へと、色をまとう。

 淫鬼を睨めつけその魔術を、水を投げつけるように振った。

 大理石の床に、氷の柱が走る。


 リスティの足元から淫鬼へと、糸を切ったように瞬時に凍りついた。

 高く吊り下げられたシャンデリアよりも煌めいた氷の道は、その先で淫鬼を閉じ込める。

 氷塊はガラスの岩のようにそびえ、紫色の小さな魔物を標本にでもしたようだった。


 そしてガシャンと氷が割れる。

 アイスペールをぶちまけたように――規模はその比ではないが、氷塊が大理石の床にぶちまけられる。

 凍りついた淫鬼は、そのままの形で床にゴトリと倒れた。

 コツコツとヒールが鳴る。

 きらびやかなシャンデリアに照らされて、氷の輝きを従えたように。


 いっときの混乱は、その振る舞いに時を止めた。

 優雅に歩くリスティに、その紅い唇に、ホールの皆が見とれている。


 リスティは、箱庭の小さなバラを両手につまむように、ドレスの裾を可憐につまみ上げる。

「この! ママに! 近寄るなんて!」

 ガスガスとヒールを踏みつける。

 リスティのかかとは、淫鬼の顔を目がけてなんども打たれる。

「――私の食事の邪魔も! 許せない! 不敬にも程があるわ!」

 カクテルグラスを返したような、パウダーピンクのドレスが揺れる。

 ダイアモンドのような端麗さで、なんども足を上げては踏みつける。

「この! 私を不快に! させるなんて! 覚悟なさい!」

 氷結の段階ですでに絶命しているだろう魔物をさらに踏みつける。

「この私の! 靴まで汚させて! いったい何様のつもりよ!」

 凍って動かなくなった淫鬼の顔はニタリと笑ったままなのだが、それがどこか喜んでいるようにも見えた。


「ああ、リスティ。――捜したわよ、もう。心配させて……」

「ごめんなさいママ……」

「さ、帰るわよ。……出られるんでしょう?」

「うん」

 アミコはリスティに駆け寄り、その手を取って安堵する。

 リスティも、――もういちど淫鬼を蹴ってから、母の手を取り、バルコニーへと向かった。


 室内楽団は、誰もが楽器を抱えて、魔物に、そしてリスティにあ然としていた。

 あの指揮者も、この場に残ったまま身をすくませて怯えている。

「……ねえあなた。この場に合った曲を演奏しに来たんでしょう? ――リクエストは受け付けていないって聞こえたのだけれど、きっと私の聞き間違いよね?」

 リスティの言葉に、指揮者はビクリと震えて立ち上がった。

 そして指揮棒を、おそるおそると繰り出す。


 ――ワルキューレの騎行だった。


 大理石の床に散らばったきらめきを、コツコツとヒールが鳴って歩く。

 オーケストラをドレスの背に受け、夜のカーテンが広がった。

「つかまってね、飛びおりるから」

 オーケーと、アミコはリスティの首に手を回す。

 さっきみたいに夜風が涼しい。

 なにか忘れているような気がして、リスティは人差し指を下唇に当てて思い出した。


「ああ、アーウィン。……まあいいか」

 リスティはバルコニーから飛びおりた。

 魔力を足に込めた跳足ジャンプで、乳白色の少し青みかかった手すりを飛び越えて。

 もう一段を空中で跳ねると、もうホールの騒々しさは聞こえない。

 かすかなオーケストラが聴こえる。それと車の喧騒と、少し寒い夜風の音。

 ジェットコースターのように悲鳴を上げる母は、どこか楽しそうだ。


 そうして星空から街の明かりを見下ろす。

 ――執事のクロカワはどこだろうか。

 帰ってドレスを脱いで、ぬるめのシャワーを浴びて、ふかふかのベッドに飛びこもう。


 その前に、もう少しだけ、母との空の散歩を楽しもうと、なにも言うのをやめた。

 ふたつの月は虚ろに、その影を遊ばせていた。

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