リスティ・ルージュの日常

繭水ジジ

蛇の夢と花係

第1話ふたつの月と社交界

 蛇が襲ってくる。


 大きく口を開けて、吞み込まれる。

 吞み込まれたはずの自分の身体は、また次の蛇に吞み込まれる。


 痛みもなく、恐怖もすでにない。

 蛇はいくつも頭があった。

 そのひとつひとつが次々と襲ってくる。

 呑み込まれた身体は消えていって、次の蛇が大きな口を開ける。

 吞み込んだ蛇のほうが、消えていくようでもあった。


 そのほかは暗闇でしかない。洞窟のような、夜の草原のような、コンクリートの建物に閉じ込められたようでもある。

 ――月は出ているだろうか。

 ある。現実と同じように、ふたつの月。

 そして大小の星が散らばっている。

 ただ蛇と自分とがあった。


 その蛇はなんなのか、吞み込まれ続ける自分はなんであるのか、なぜ襲われるのか、その先にはなにがあるのか。

 なんども頭に吞まれながら、答えの出ないままに夢から覚める。

 いつもの夢だった。




 片半身のしびれに、指を動かしてみる。

 どのくらい横になっていたのだろう。

 姿勢は窮屈だが、なぜか落ち着く。

 ベルベットの生地が肌に心地よい。


 リスティは、はっと目を開き直して身体を起こした。


「……やっと起きたのね。もうすぐ着くわよ。――ねえリスティ、また怖い夢を見ていたの? 顔がこわばっているわ」

「うん。――ごめんなさい、ドレスがしわに……。ああ、メイクも。……ほっぺたに跡、付いてない?」

「大丈夫。皺もないしお化粧も落ちてない。ほっぺもきれいなままよ」


 車の中だった。

 目の前のテーブルには、シャンパングラスに水が注がれていた。

 わずかな波打ちに、オレンジ色の室内灯と夜の光とが混じっている。

 少しだけ開けられたスモークガラスには、品よく着飾った母娘が映る。


 アミコの黒いドレスは夜に溶け、スターカットのチェーンが窓に浮いていた。

 今夜は娘を引き立たせるためだろう、古典的なハイネックがだいぶ地味に見える。

 対照的に、リスティはパウダーピンクの派手なドレスに包まれている。

 ネックレスを指でなぞると、ミルキーウェイは色とりどりに光を散らしてきた。


「――それより、ママは心配よ。いつも怖い夢にうなされて」

「……いつもじゃないわ。少しは慣れたし。魔法使いならよくあるそうよ?」

「私は、魔法とか魔法使いとかわからないから、リスティが心配になるのよ」

 リスティの母、アミコは不安そうに眉をひそめた。

 耳に首にと自らのブランドのアクセサリーを光らせている。

 どれも細く輝く高級品なのだが、決して派手ではなく、どちらかというと可愛らしくもある。 

 そんな世をきらびやかすブランドに身を包んだ母娘は、今夜の社交界へと向かっていた。


「ところで、まだ? あのなんとか伯爵の商談会は」

「言い方。……本当に気をつけてよ? れっきとした貴族や資本家が集まるんだから。――なんども言うけどね、あなたはもっと王室の一員として、自覚をもってちょうだい」

「……私はあとを継ぎたくないし、継承権も最後でしょう? ねえママ。私もなんども言うけど、私は王女じゃなくて自由に生きてみたいの。――それに、今夜は王室じゃなくてルージュ家のお呼ばれでしょ? ママこそ気をつけてよね」


 はあ、と互いについたため息が、車内に響く。

 リスティはちらりと横を気にした。

 顔をそむけて口うるさくも思うが、この母のことを尊敬もしている。


 アミコは王室に生まれながら、母方の会社――世界的なファッションブランドを引き継いだ。

 身ひとつで経営からデザインまでこなしていく様を、もちろんリスティも見てきたのだ。

 世界中からの利益のほとんどを上位企業だけが独占するこの業界の中に、伝統美と斬新な経営戦略をもって、トップブランドの格式を維持している。


 アミコは、いつもキラキラと目を輝かせて忙しそうに楽しそうに奔走している。

 ショーのときも会議のときも、アイデアを練るときでも、閉じこもらずにその身を駆けまわすのだ。

 だからこそリスティは、生まれ持っての才能だとか立場だとかよりも、動きまわる努力こそが、その人間を決めることだと、ずっと間近で見てきた。


 それで、今夜のような社交界はあまり好きではなかった。

 顔を見せ合い、富と名声を確かめ合い、横の繋がりを作る。

 同伴者もひけらかされるように愛想よく笑みを浮かべているだけ。そんな集まりだ。

 それは自分の幼い見方だとわかっていても、ただ立っているだけというのは退屈なのだ。

「パーティーだって、信頼関係を作のよ? 欲だってもたなきゃ」

 むすっとしているのが顔に出ているだろうか。そんな娘に学ばせるように、リスティは母に連れられてきたのだった。


「――ああ、それと、伯爵は魔法使いがね、お好きでないのよ。だからリスティ、あなたが魔法使いであることは内緒ね」

「お好きでない。……今どき、お好きでない。魔法使いなんて、もうどこにだっているっていうのに。――ねえママ、見て。ほら、あの街灯だって電気じゃなくて魔力なのよ? ママのブランドでも魔法の高級生地を使っているんでしょう? この宝石だって魔力を持っているわ」

「魔力を感じる人じゃないとわからないの。みんな伯爵には気を遣ってる。自分が魔法を使えないと、妬みで嫌う人もいるのよ」

甕破もたいやぶれから十年以上経つのに……」

 リスティは少し開けられた窓から、外を見やった。


 車が信号で止まると、建物の上に、ふたつの満月が並んでいた。

 ひとつは、昔からある月。

 もうひとつは、常世からやってきた月。

 やってきた、のか、こちらが常世に向かっているのかは、学者でも意見が分かれている。

 そもそも混じっておいて、この世界がどちらかというのもおかしな話だ。

「どっちなんだろう」

 なんでもない、とふと気にしたアミコに言った。

 ただ、この月が象徴するように、世界は十年少し前に幻想と交わった。

 ふたつの世界が混じり合い、もともとの世界がどちらなのかもわからなくなっていた。

 大災害をして、戦争が始まって、世界中がその復興に向かっていた。


「――あのね、ママ。私、留学……」

 やっぱりなんでもない、とリスティは足す。

 ここしばらくの夢の舞台、そこへ行きたいと言えばアミコは何と返すだろう。

 さびしくさせるんじゃないか、心配もされるだろう。

 悪い夢ですら不安な顔にさせているのだと、言いだせずにいる。

 強気なリスティも、実の母にだけは、まだ甘えたくもあった。


 車が停まり、運転手がそれを告げた。

 ドアが開くと、まだ車の往来も多い街の一画だった。

 街灯が点々と、ショーウインドウの前を行き交う人たちも見える。


 雨が降っていたのだろうか、黒いアスファルトはゆらめくように街を車を映している。

 もしもうひとつの世界なら、水たまりの中はとてもせまく、そして幻想的だろう。


 古めかしいが華のある建物の並び、その一棟の前に、黒服の姿がぽつぽつと立っている。

 そのひとりへ丁重に執事のクロカワが招待状を手渡すと、確認した黒服はおごそかに扉を開けて深い礼で迎えてくる。

 クロカワが深く頭を下げるのを横目に、アミコが、少し下がってリスティが建物へと招かれた。


 名士の社交界といっても、都市の中にあるものはこういった、一般の集合住宅にも使われている建物の中にある。

 通り一面にそびえる石造りは、都市的でもあって、歴史的でもあった。

 それが中に入ると、外の世間からは隔絶された、きらびやかな光景へと切り替わる。


 狭い入り口からしばらく進む廊下は、金銀の額縁で飾られた絵画を両目に魅せる。

 真っ赤な絨毯じゅうたんをこしらえた階段を上ると、同じ色の長椅子をしつらえたサロンだった。

 アミコは、そこの老紳士たちにあいさつを交わし、リスティも軽く会釈をした。

 さらに手すりの豪華になった階段を上がると、室内は広くなっていて、外に見えた集合住宅の建物は中で繋がっているのだとわかった。

 三棟か四棟かはわからないが、階を上がるたびに広くなっていく。

 もうひとつの階段で、派手に着飾った婦人の羽根帽子とすれ違う。

 やっと上りきると、今度は彫刻像や西洋甲冑などが、財をひけらしているように置かれている。

 白磁器やサンゴの置物なども並ぶが、リスティやアミコには見飽きた程度のものだ。


 どこまで同じような景色が続くのかと、リスティはうんざりと天井を見て歩いていた。

「もう少し、笑顔を作りなさいよね」

「……精一杯やっているわ」

 アミコは周りにこやかな目線を外さずに注意し、リスティも小声で返す。

 リスティは本当に笑顔のつもりなんだが、まだ足りないというのかと、さらに頬を上げるとピクピクと引きつってしまった。


 そして部屋はさらに横に広がって、黒服が両扉に立っている。

 真っ白な手袋で開かれたその先に、今夜の会場があった。


 明るく静かなオーケストラが飛び出す。


「王宮ほどじゃ、ないわね」

「そういうこと言わないの。あいさつに回るから粗相のないようにね。それとその癖、やめなさい」

 物を見定めるように腕を組み、指を下唇に当てるリスティは、言われたその手を引っ込める。

 小鳥を隠すように腰の前に手を組み、作り笑いにしぶしぶとついて行った。


 メインとなるホールは、入ってきた狭い通路とはまったく違って、端に立つ人間がかすむくらいの空間が広がっていた。

 いくつかのシャンデリアが、金の格子がはまった高い天井から垂れさがる。

 その光の散乱が落ちる大理石の床には、寄せ植えされた花くらいだろうか、老若男女がそれぞれにグラスを手に語らいでいる。


 そこに、ドレスを優雅に響かせる母娘が登場したのだ。


 誰もがアミコの入室に目を奪われた。

 グラスを持ってきたボーイでさえも、その手を止めてしまっていた。

 この国の第二王女であり――この場はルージュ家の当主だが、その身分を差し引いても目につく美貌にみなが惹かれている。

 そして当然にも、その傍らのリスティに目は行き、なおも息を飲んで重ねて見惚れる。


 アミコを見つけた伯爵は、そそくさと近づいてあいさつを述べる。

 ほとんどは歯の浮くようなほめ言葉だったが、大概はその通りだった。

 リスティも笑顔を見せるが、頭の中ではマイヤーレモンのジュースが飲みたい、と考えていた。


 その後も、アミコは国内外の爵位持ちや資産家に、絶えることなく声を掛けられる。

 そしてリスティも傍らでニコニコと笑顔を作り、誰もがの容姿をほめる言葉に、ありがたく謙遜してみせていた。


「だるい」

 息が詰まる思いとはこのことだろうかと、わずかな人の途切れの間にリスティはつぶやいた。

 その声はアミコに聞こえていて、一層にこやかな笑みを向けられる。

「そんな言葉、どこで覚えたのかしら?」

 その上を行く笑みをリスティは、さもしとやかに返した。

「いつぞやお母様が口にしていましたわ。――夜風に当たってきますね、お母様」

「すぐに戻るのよ、すぐに。まだあいさつはこれからなのだから」

 さらにその上を行く笑みのお母様に、もうやってられるか、とバルコニーを探した。


 最後の愛想をふりまきながら、壁づたいを見やって歩く。

 誰もがこの箱入り娘を見ている。

 目立つのは嫌いじゃないが、こういう見られ方は好きではない。

 私をただの、おしとやかな令嬢だと思っているのだろうかと、足を速める。

 並んだテーブルの料理の数々には冷たく目を流したが、レモンピールの乗っかったチョコレートコーティングのブラウニーだけはおいしそうだった。


 室内楽団の指揮者とちらりと目が合う。

 お気の毒に、と言わんばかりに演奏は終わり、次の曲に入ろうとしていた。


「――ねえあなた。いい演奏だったわ、好きよこういうの。堅苦しい社交界の唯一の救いね。リクエストは受け付けているの?」

「お褒めに与り光栄です。――ですが曲は決まっておりまして……。場に合ったものに、と伯爵様から申し付けられております」

「ふうん、場に合ったものねえ。……じゃあ大音量でホール中を満たしてくれないかしら。なにもかもかき消してちょうだい」

 それはちょっと……と、指揮者は苦笑いをかくすように礼をして、静かな演奏が始まった。


 ようやく着いたバルコニーは街灯りに揺らめいている。

 真っ暗な夜ではない。

 遠くに宵のカーテンを閉めたように、紫や青の帯がグラデーションを作っている。

 静かな演奏は、その夜風を映したように耳をさらっていった。

 乳白色だろうか、少し青みかかった手すりを、ふたつの月が艶めかしく照らしている。

 そして、先客がいた。


 先客、なのだろうか。さっき見やったときは誰もいなかった。

 いつからいたのか、そんな先客だった。


「夜風が気持ちいいね」

 返事をしないリスティに、その男もそっけなく顔を夜風に向けた。

 男は、両肩に毛先が付くくらいの髪がふわりとなびいていた。


 リスティは少し気になって、横のその男に目だけを向けた。

 誰だろうか。一応は、それなりの地位のある人物は頭に入れているつもりでも、その誰とも違う。

 自分と同じくらいの年ごろだから、同じように同伴で連れてこられたどこかの令息なのだろうかと考えた。

 興味があるわけでもないが、暇つぶしにはなるだろうと、からかってみたくなった。


「あの星の名前はご存知かしら?」

 男は、リスティの目線と合わせるように夜空を見やった。

「……わからないな。どの星にも名前があるのにね」

「そうね、どの星にも名前はあるわね。でも星は名乗らない」

 リスティは、二度目の皮肉を投げて、適当に星空を仰ぎ見た。

 こうも礼儀知らずだと、かえって気を遣うこともない。

 本当に、引っ張って連れて来られたお坊ちゃんじゃないかと、ほんの少しの同情を感じた。

 そしてそのままだった視線を向けると、男と目が合った。

 ふわりと軽い風が、男の髪を持ち上げた。


「……ああ、僕はアーウィン・ランス。君は?」

 やっと名乗ったかという苛立ちと、ここにいる人間が私を知らないのかという呆れとが、同時に襲ってくる。

 リスティは、いっそ清々しく解放された気分になった。

 ――友だちって、こんな感じなのだろうか。

「私は、リスティ――リスティ・ルージュよ」


 ゾワッとする感覚に包まれる。

 なにかに見られているような、いやな匂いが心臓にまとわりつくような、そんな感じだ。

 チョコレートケーキを食べすぎたときの気持ち悪さにも似ている。


 リスティとアーウィンは振り返る。

 ホールの向こうから、悲鳴が鳴り響いた。

 やはりこの感覚は、近くに魔物がいることからだった。

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