第19話 広がる世界


「ん……」


「音無、やっと気が付いたか!」


 目覚めると、そこには月島の歓喜したような表情が。

 ああ、そうだ。俺は食事場で……。沢城達による朝食地獄の最中、気を失ったのだった。そして今の俺はというと、畳部屋に寝かされていた。

 恐らく此処は、月島率いる第一中隊・第二小隊の分室にある部屋だ。隣には、先程外村たちと話した板の間の部屋もあるはずだ。

 俺が群鬼によって倒れていたところを月島達に助けられてこの衛戍地で目覚めた時も、この部屋で目を覚ました記憶がある。ただその時と違うのは、今の俺は布団に寝かされているわけではないということだ。

 畳の上でじかに寝ている。少し首と腰が痛い。


「月島さん……。すみません、此処まで運んでくれたんですよね?」


「それぐらい、どうということはない。それよりどうしたんだ?

 飯を食べている途中に気絶するなど。疲れが溜まっていたのではないか」


 そう言って心配してくれる月島。疲れ……か。

 確かに昨日から動きっぱなしだったけど、何度か気絶もしたしな……。


「どうなんでしょう。けど昨日から今日にかけて、あまりに色々変化とか出来事が起きすぎているおかげで、今は眠気なんてぶっ飛んでる感じですよ」


「ははは、そうか。だが今日はゆっくり休んだ方が良い。時として、己の疲れの予兆を測り損ねることは、間々ままあることだ。……もう夕方だしな」


「えぇっ!? 俺そんなに長く気絶してたんですか?」


 月島の言葉に、俺は後ろにある障子の方を向いた。

 ……紅い光が強く差し込んでいる。夕陽、落日だ。


「今現在の時刻は午後5時半。お前が倒れたのは朝の7時半頃だったから、おおよそ10時間気絶していたことになるな」


「俺……そんなに。月島さんはその間どうしていたんですか?」


 気絶していた間……俺は夢の中にいた。厳密にいえば夢ではないのかもしれないけれど、あの白く淡い光が広がる空間の中にいた。

 今まで二度あそこには来たことがあったが、いずれも俺がただ一人でぼんやりと漂っているだけで、すぐに目を覚ますことができた。しかし今回、俺は体を自由に動かし……〈神〉を名乗る江崎の姿をした存在に出逢って、話すことさえできた。

 そして俺は、神からの〈使命〉を受けた。使命といってもぼんやりしたもので、すぐに行動に移せって程のものじゃないけどさ。

 よくよく考えてみると一度目・二度目に比べれば、今回はあの空間に滞在している時間自体が長かった。それにしても10時間経っていたというのは驚きだったが。

 あの空間は神が俺の脳内につくった疑似空間だと言っていたから、時間の進み方が俺の体感とはだいぶ異なっているのかもしれない。そこらへんの疑問も、今度あの神に会った時に解消することとしよう。


「俺か? まあ当然、お前の様子をちょくちょく確認しにも来ていたのだが……。

 殆どは衛戍地と町中を行ったり来たりといった感じだったな。今日は一日非番ということだったし午前中は兵舎で少し眠ってから、町の食堂で昼食を摂り……。

 その後は兵舎で愛刀の〈烈辰れっしん〉を研磨してから、外で暇をしていた桐生と木刀で鍛錬を行っていた。そうこうしていたら、今の時間になっていたという次第だ」


「中々ストイック……あ、いえ。町で遊んだりとかはしないんですね」


 この時代にはまだ無い言葉を使ってしまったので改めつつも、俺は月島の在り方に憧れを抱いていた。昨日あれだけの激戦を制した上での非番だというのに、月島は自分の中に一切甘えを見出さない。

 一日中兵舎で寝ているか、町へ繰り出して息抜きぐらいしても良いだろうに。


「今日は偶然そうだっただけだ。二日以上の長い休暇が出れば、俺とて町で落語を聴いたり芝居を観ることもあるさ。それに、桐生との手合わせは中々楽しかったぞ? 十分息抜きにはなったというものだ」


 ……桐生。若い彼が必死に、手練れである月島に対して果敢に食らいついていったことは想像に容易い。

 しかしそれすらも、月島にとっては娯楽の一種に過ぎなかったようだ。

 相変わらず凄い……をもはや通り越して恐ろしい男である。


「そうですか。あ、月島さんはこれから夕食ですか?」


「そうだな。お前はどうする? 朝にあれだけ食べて、腹は減っているのか?」


 若干茶化すように言ってくる月島。うん、あんた食堂で沢城達に便乗して茄子の浅漬けを食わせてきたからね。いや美味かったけどさ。

 そんなことを考えていると、腹からグゥゥと間抜けな音が出る。


「あっ……」


「ほう? まだ食べられるようだな?」


 そう言って意地悪く、だが憎めない笑みを浮かべる月島。それに対する俺の取れる手段は……苦笑いしかなかった。




「よう、音無。さわら西京さいきょう焼きは要らないか?」


「……はっ?」


 朝とは違い、夕食の時間が始まった直後に食堂へ来た為、そこでは数百名の兵士たちが一斉に食事を摂っていた。いわばピーク時に訪れたってわけだ。

 そうして月島と共に食事を炊事場から受け取って適当なところへ腰かけると、すぐに一人の男の声が頭上から聞こえた。その定型的な内容からして多分沢城だろうと思って上を向くと、そこには見知らぬ兵士が立っていた。月島ぐらいの年齢の男で、彼が言う通り鰆の西京焼きが乗った皿を始め、一食分の食事を持って話しかけている。その顔は妙に明るい。いや、本当に面識が無いのだが。

 ……けどこの声、どこかで聞いたような。


「白澤中尉殿! お出ででしたか」


 すると月島がそう声を上げた。……白澤中尉。

 ああ、思い出した。月島の上官で、越之宮鎮台・第一中隊長。

 萩坂を始め複数の村落が魁魔に襲われているということを、通信魔術で月島達に教えてくれた人物だ。その会話の中で『音無は護る対象外だ』などととスパルタなことを言ってくれたことを、俺は忘れちゃいない。恨んじゃいないけどな。

 にしても何で、そのネタを知ってるんだ? さては沢城が流布させたのか?

 疑問の余地は残るがひとまず、俺は挨拶をした。


「白澤さん……ですか。初めまして、音無雄輝と言います」


「ああ。こちらこそ会うのは初めてだな、宜しく。白澤尚文だ」


 そう言いながら彼は、俺達と同じく一汁三菜が揃った夕餉ゆうげを乗せたお盆を床に降ろす。そして同時に彼も、俺の横をマークするように腰を下ろした。


「此処で共に食べさせてもらっても良いか? 月島伍長に音無」


「光栄であります。白澤中尉」

「はい、大丈夫です」


 白澤の提案に、俺達二人は快くそれを受け入れた。

 月島と向かい合って色々と話しながら食べるというのも良いが、食事はなるべく多くの人と食べた方が飯も旨くなるというものだ。


「ありがとう」


 こうして俺と月島、そして白澤を含めた3人の少年・下士官・将校による何とも異色の夕食が始まった。とはいえ会話は極めて普通なもので、俺がこの世界に来て大変なことは何かとか、元の世界にはどういうものがあるのかといった俺に対する質問大会みたいな感じだった。

 無論後者について詳しく話し過ぎれば、未来を変えることにもなりかねないのでところどころ表現をぼかすことで、うまく立ち回った。

 興味を少なからず持っていたであろう月島と白澤も、俺の真意を読んでくれたのかあまり詳しく掘り下げてくることは無かった。

 そうして話しながらの30分程度の食事は終了。白澤とも一旦別れ、今度は風呂へ入ることになった。




「……あつっ!」


 所は変わって、此処は衛戍地に幾つかある棟の内の一つ・大浴場。

 飯を食べ終わってから一旦分室に戻って30分ほど経つと、第一中隊の風呂の時間となった。小野や白澤を始めとする将校は一番風呂で、既に上がったらしい。

 というわけで俺は脱衣所でジャージを脱いで、すっぽんぽんの状態で風呂に入ろうとしたのだが……。めちゃくちゃ風呂が熱い。かけ湯はしたはずなのに。

 これ40℃どころか、45℃くらいにはなっているような……。ワンチャン、ヒートショックで死ぬかもしれないぞ? いやそれ全然ワンチャンスじゃねぇし。


「ん? どうした音無。熱いのか?」


「えっ、月島さんは平気なんですか!?」


 月島もかけ湯をしてから湯船に足を入れたが、俺とは違ってその足はすんなり風呂の底に達した。そして肩まで浸かっていく。

 筋骨隆々で厳つい感じの月島の表情が、見る見るうちにほぐれていく。湯気が立ち込める中、他の兵士たち50名近くも次々に風呂へ入っていく。その光景に、俺はまだまだこの国・時代の人間になりきれないんだなと思った。


「おいおい、入れないのかー?」

「転移したての軟弱者には、俺達の風呂は合わないらしいぜー」


「やめろ! 貴様ら子供に対して……。誇りは無いのか!」


 湯気であまり表情が窺えないのを良いことに、周囲から煽るような声が聞こえてくる。それを戒め、注意する声も耳に届く。その兵士には後でお礼を言いたい。

 だが……。馬鹿にされたままじゃ終われない、俺は少しだけ負けず嫌いなんだ。


「音無、大丈夫か? 入れないのだったらかけ湯でも……」


「いえ。ご心配なく」


 心配する月島の声をよそに、俺は歯を食いしばる。

 そして意を決し――――。


「うおぉぉぉぉぉッ!」


 勢いよく、足から湯船に突入していった……。




「全く馬鹿なことを……」


「はい、すみませんでした……」


 俺はのぼせてしまったらしい。あの風呂に数分滞在した後、体と頭を洗い終えた頃には脳がぼーっとしていて、見かねた月島によって大浴場を出たのだった。

 そして割と厚着であるジャージの代わりに、月島が小隊分室に置いていた藍色の着物を着た。それで今はまたも小隊分室に寝かされて、襯衣姿になった月島に団扇を扇いでもらって難を逃れているといった具合だ。

 あの時兵士たちによる挑発に乗らず、正直にかけ湯で済ませていれば良かったと少しだけ後悔した。それに結果として、月島にも迷惑をかけてしまったというのだから救えない話だ。己の無力さはこんなところにも……。


「まあ良いさ。のぼせただけで済んだのなら、重畳ちょうじょうだとしよう。

 ……まだ疲れもあるだろうから、もう休むと良い」


「ありがとうございます。布団はどこに」


「そこの押し入れだ。だが、お前はもう動くな。俺が出す」


 そう言って月島は押し入れから布団・掛け布団を出すと、丁寧に敷いてくれた。その優しさに、本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。


「本当に、ありがとうございます……」


「……そう思うのなら、次の行動で示すことだ。

 人というのは、助け合いによってできている。その助け合いの輪を徐々に大きくすることによってしか、己の世界を広げることはできないのだ。

 俺は、お前にそれができると信じている。俺はお前を信用している。

 だから音無。お前は俺の行動に応えてくれ」


 月島がさりげなく放った〈己の世界〉という言葉の、深い意味は分からない。

 けれど俺は力強くそれに応えた。


「分かりました。必ず応えます」


「それでいい。……俺は兵舎に帰る。また明日な」


 月島が軍服を羽織り、分室の障子に手を掛ける。俺はその後ろ姿に「おやすみなさい」と声を掛けた。


「……ああ、おやすみ」


 そう言って月島は出ていった。

 ……外から聞こえる風の音が、やけに大きく聞こえてくる。

 独り、か。この世界に来た当初、すなわち寿狼山中での状況以来だ。

 何だかどっと疲れた気がする。月島の前では『眠気なんてぶっ飛んだ』なんて言った癖に。俺はのそのそと布団の中に入った。

 己の世界を広げる、か。

 俺はその言葉に強い引っ掛かりを覚えながらも、すぐに俺の目は閉じられ。思考と意識が暗転していった……。




 西暦1853年 皇紀2513年 明応7年4月3日 午前8時頃

 大日本皇國 〈皇都〉皇京 越之宮市 越之宮鎮台衛戍地 正門前


 今朝はとても良い目覚めだった。何度か気絶も交えつつも丸二日ほど寝ていなかったのだ、当然だろう。しかも萩坂での戦いを始めとして体力がかなり摩耗していたらしく、体はまだ軽い筋肉痛状態である。だがこの世界に来てからスマホなどの電子機器に一切触れていないが為に、ブルーライトによる寝起きの悪影響を受けなかったというのが幸運だといえるだろう。

 そして布団を畳んで押し入れに仕舞い、トイレ……勿論汲み取り式便所であるそこに行って用を足した。そうこうしていると月島が来て、朝食に誘われた。

 今日はこれまた幸運なことに、沢城達に出くわさなかったので平穏に食事を終えることができた。……そして月島に、昨日非番だったのだから今日は何か任務があるのではないかと尋ねると、答えは予想外なもので。


「よし、では〈国浜町くにはままち〉観光と洒落こもうか」


 昨日月島から貸してもらった藍色の着物を羽織る俺の横には。

 渋い印象を与える暗緑色あんりょくしょくの袴を着る月島が。


「似合いますね……袴」


「そうか? お前に言われると何だか照れるな」


 そう。本日小野大隊長より下った、月島への命令は。


 〈音無に国浜町を案内すること〉。


 ただそれだけである。因みに佐久間含め他の小隊員には変わらず任務が課されているようで、一時的に指揮権は佐久間に移っているらしい。

 国浜町というのはこの越之宮市の市庁所在地であり、同市の政治・軍事・経済の中心地たる町である。越之宮市といっても日本国に住んでいた俺の常識とは異なり、その面積は県レベルの大きさだ。だから一口に越之宮市と呼んじゃいけない。

 何でもこの町は日本最大の湖である〈琵琶湖びわこ〉湖畔に形成された城下町を祖とし、古くから水運や鉄砲製造で栄えてきたらしい。

 何故か有名どころの地名はそのままのようで、皇國の南東部である東海地方とうかいちほうには〈富士山ふじさん〉がそのままの標高でそびえ立っているのだとか。

 まあそんなことはともかく。小野大隊長に命令されたのならば止む無しということで、月島がこの町の観光ガイドをしてくれることになった。

 だが流石に、着物姿の少年と軍服の男が共に歩くのは目立つ為、月島には私服らしい袴を着てもらうことにした。


「最初にどこへ行くんですか?」


「……まずは、通りを琵琶湖方面へ向かって歩こう」


 俺がワクワクしながら聞くと、月島は歩き出した。正門にいた二人の憲兵に対して俺も月島も敬礼を行い、衛戍地の外へ出る。

 東西に広く、通りが伸びていた。そこは一昨日の夜、月島の愛馬〈咲銀杏さきいちょう〉と共に走り抜けたとは到底思えないほど、人々の活気に満ちていた。

 町行く人々の装いは様々だが、着物姿に帽子という和洋折衷スタイルが多いように感じる。そして人力車や馬車が堂々と通りを闊歩かっぽしている。

 大正浪漫ほどの発展具合ではないが、明治時代のような和魂洋才の雰囲気が歴史オタクでもある俺には堪らなく魅力的だった。

 通りを西に向かって進んでいると、川沿いに植えられた綺麗な桜並木が開花目前であることに気付いた。


「お、桜の開花はもうすぐか。これは……尋常高校の入学式あたりには一面に咲き誇るんじゃないか?」


「その入学式っていつなんですか?」


「ちょうど一週間後の日曜日、4月10日だ。……もしかして通いたいのか?」


 俺の質問に対する月島の応答は、俺の心の中を見透かしたようなものだった。

 いやほら、同年齢の一文字がそこに入学するってことは元の世界で言うところの高校にあたる教育機関なのだろう。それに皇國は12年の義務教育を行っているらしいし、その尋常高等學校に受験シーズンが過ぎた今でも入れる可能性があるということだ。無論、その為には俺がこの国の人間であるという証・戸籍や住民票などを手に入れなければなるまい。

 だがしかし、それをこの国が認めるか……。悩ましいところだ。


「ええ、まあ」


「一昨日、小野大隊長が上層部……すなわち陸軍省や政府にお前の存在を報告したそうだ。そして昨日皇國議会にて臨時議会が開かれ、音無に関する処遇について話し合われたそうだ。全て今朝、小野大佐から聞いた」


「それで、処遇はまだ決まってないんですか?」


「どうやらそのようだ。……何でも近々、衛戍地に何人かの議員・官僚団が送り込まれるとの情報も聞かせてもらった。目的は、お前と実際に会って〈信用〉に値する人間かどうか検証する為だそうだ。

 その結果、音無が信用に足る人物だと判断されれば、お前が正真正銘の皇國臣民となる日もぐっと近くなるはずだ」


 月島の言葉に、己の心にあった一抹の希望が更に大きいものとなる。

 俺がこの国で安定した生活を送れるようになるのも、あまり遠い日ではないのかもしれない。俺が目指しているのは、ただそれだけではないけれど。

 むしろその逆。皇國の為に。〈真の強さ〉を探し求める為に、戦い続けなくてはならないのだから。決して楽な道程ではない。

 けれど俺は進むのを止めない。ただ前へ進むのだ。

 ……もう決意はしない。己を改め、進み続けると決めたから。

 立ち止まって、振り返って、打ちのめされて。

 そして今、俺がこれからこの世界で生きていく為の道しるべはもう示された。

 だから俺は前を向く、一歩を踏み出す。




「おぉぉ……。でけぇ……」


「これが越之宮市、そして国浜町が誇る水瓶みずがめ〈琵琶湖〉だ」


 そして辿り着いたのは琵琶湖。元の世界でも滋賀には行ったことが無かったから、そのスケールには驚いてしまった。

 遥か遠くまで広大な湖は続き、幾つかの小島も見える。今は9時頃だということもあり、仕事時なのか多くの商船・漁船が水上を行き交っている。そのほぼ全てが木造の弁財船べんざいせんであり、まだ江戸時代……というか近世の雰囲気が残っているように感じた。そして船があるということは勿論港があり、その周辺には荷物の積み下ろし場や幾つかの魚屋があって賑わいを見せていた。


「そして……あそこに見えるのが、一文字が入学し音無も行くことになるだろう〈市立しりつ智ヶ崎ともがさき尋常じんじょう高等學校こうとうがっこう〉だ」


 月島が指差す先は、俺達がいる湖沿いの通りから東に見える港の、更に向こう。

 そこには鎮台衛戍地ほどではないものの大きく、簡単な柵で囲まれた敷地の上に、幾つかの木造校舎が並んでいた。あれが智ヶ崎高か。今日は日曜日なので生徒はいなさそうだが、

 結構湖に近いところに立っているので、机に座って勉強している時なんかは湖から静かな波音が聞こえてきそうだ。……想像してみる。

 俺が学ランを着て、木机の上で勉強している姿を。そんな光景が、この世界でも実現される日は来るのだろうか。分からないけれど、想像は自由だ。


「行けたら良いなぁ……」


 気づくと、そう声を漏らしていた。月島は微笑みながらその呟きに応える。


「きっと行けるさ。俺も微力ながら手を貸そう」


 その月島の心強い言葉に「宜しくお願いします」と、短くもはっきりと応えた。




 それから俺達はしばらく、湖畔の通りをぶらり旅していた。途中で団子屋に寄って休みもしたが、殆ど歩きながら月島に国浜町の成り立ちや名勝の解説をしてもらう形になった。既に言ったが歴オタである俺にとっては、良い経験になった。

 そうこうしていると時刻は12時過ぎ。腹も空いてきた頃合いだったので、街中にあった大衆食堂に二人で入った。特に月島の行きつけというわけでもないらしく、湖沿いの通りに程近い飯屋だった。だが、食事は非常にうまい。

 俺と月島は共に、鯖の味噌煮定食を食べた。地味ながら定番のおいしさである。

 

「この鯖は、港湾三都市から送られてきたんですか?」


「ああ。鮮度を落とさない為に氷結魔術を用いて、皇都へ持ち込まれたのだろう」


 メインである鯖の味噌煮を箸で持ち上げながら聞くと、そう返ってきた。

 氷結魔術を用いて、か。やはり魔術というのは、そういう風に民間でも活用されているのか。今までの皇國の発展には魔術が寄与するところも多いに違いない。

 そうして30分も経たないうちに食べ終わると、俺は会計している月島を待つ為に食堂の外へ出た。すると何やら通りは騒がしい様子だった。



『愚かなる支那の毛唐共は、我ら神州の民による寛大なる和解の手を払い除け、そればかりか我らを征伐する等という妄言を吐き続けている!

 このような蛮族共はむしろこちらから征伐するのが常道であり、その為には再び皇國を旭皇陛下による親政国家として復活させねばならない!

 悪辣なる皇國議会に巣食う、平民上がりの軟弱者共を引き摺り下ろせ! 

 皇國を真の強国とせよ! そしてそれが唯一できるのは、我ら〈皇道こうどう旭政党きょくせいとう〉だけである! 大衆よ、目を覚ませ! 真の敵を見誤ってはならん!』


「そうだ! そうだ!」

「幕府にも弱腰な政府など要らぬ!」

「皇國を変えるのは皇旭党以外にあり得ない!」


 湖畔の通りの一角に演説台を置き、一枚の新聞紙を片手に何やら物騒な演説をしている中年の政治家らしき人物が一人。通りを行き交う人達の殆どは避けているようだったが、それでも彼の周りには20名ほどの群衆による人だかりができていた。

 その政治家は演説台の周りに、これでもかという程に多くの旭日旗を掲揚しながら演説をしている。服は洋装で髪型も整えているようだったが、その過激な演説内容がそれらを完全に掻き消していた。


「どうした、音無?」


 それを少し見ていると、会計を済ませた月島が食堂から出てきた。


「いえ、あそこでやってる演説が気になって」


「ああ……。あれは皇道旭政党の政治家だな。名は忘れたが、越之宮では力を持っている市議会議員だ。確かそこそこ名の知られた旧士族の家の出だったはず」


 その説明に相槌を打っていると、あることに気が付いた。

 演説を終えて演説台から降りた男と、人だかりの後ろの方にいた和服姿の老爺が言い争いをしているのだ。


「貴様は、立憲統一同盟のッ! 何故此処にいる!?」


「私がこの場にいるのがそれほど不自然ですかな? ……鴻巣こうのす議員殿」


「ッ……私の名前を何故!」


 いや、あれは政治家の方が一方的に因縁をつけているだけか? あの鴻巣とかいう議員の方がやけに取り乱して、我を忘れているような感じだ。


「一度でも見かけた人間の顔と名前を、私は忘れませぬぞ」


「ふ、ふざけおって! 議会の犬が!」


 必死に大声と罵声を浴びせる男に対し、老爺は極めて冷静である。その温度差に周囲の人々は皆立ち止まり、空気は静まり返っている。

 ただ警戒するように動いているのは、周りにいる憲兵らしき兵士数人のみ。

 老爺の方から喧嘩を仕掛けることはまず無さそうだが、政治家の方は極めて激昂して今にも殴りかかりそうな感じだ。


「ちょっ、ちょっと月島さん。俺行ってきます!」


「なに? ま、待て!」


 月島の言葉による制止を振り切り、俺は走って向かう。

 老爺と男がいる方へ。道中俺に対して、立ち止まっている町人が「なにする気だ」とか「お、行け行け!」など多様な言葉を掛ける。

 すると鴻巣が拳を高く振り上げるのが見えた。あまりにも興奮して、走って近づく俺の様子にさえ気付いていないようだ。

 そして、それを目にしてもなお老爺は極めて冷静に一切動じていなかった。

 けれどあの一撃をまともに食らえば、あの老爺とて無事ではないはず。

 ……絶対に助けねば。

 救うことも、護ることだって今の弱い俺にはできない。

 だけどせめて、一文字の時と同じように……!


「うぉぉぉッ!」


「……ッ! 誰だ貴様は!」


 何とか鴻巣と老爺の間に滑り込み、鴻巣の拳を腕を交差させて受ける。結構強い衝撃が腕のみならず全身に走り抜ける。だが群鬼や八尾仙孤にやられたときに比べれば、このぐらいどうということはない。

 突然現れた少年に驚きを隠せない鴻巣に対し、俺は叫ぶように言った。


「くッ……。老人に手を上げる貴方こそ、何だっていうんですか!」


「ッ……平民如きが何をほざく!」


 鴻巣が更に拳を強く握りしめて殴りかかろうとするが、それは突入してきた憲兵たちによって抑え込まれた。


「なっ、やめろ! 私は旧士族・鴻巣家の当主であるぞ!」


「……構わん、連れていけ! 本部で話は聞かせてもらうぞ」


「ば、馬鹿な……。ふ、ふざけるなぁぁぁッ!」


 そんな無様な声を残し、憲兵4人ほどに連行されていく鴻巣。

 あ、これ後から事情聴取とかされるやつかな? でも今のところは大丈夫だろう。そうして通りに残されたのは俺と老爺、何事も無かったかのように歩き出す町人や群衆たちであった。俺は目の前の老爺に対して、声を掛けた。


「……あ、大丈夫でしたか? 怪我とかは」


「いやいやこの通りさ、君こそ大丈夫かね?」


「はい、この通り。ご無事で何よりです」


 よく見るとその老爺の体躯は結構しっかりしており、まるで軍人のような風貌であった。もしかしたら、俺がいなくてもこの人なら対処できてたかも?

 そんなことを思いながら、俺はその場を後にしようとした。


「ああ、そうだ。君、君の名前は何というのかね?」


「ええっと、俺の名前は音n」


「おーい音無! すぐ戻って来い!」


 老爺が尋ねてきたので応えようとすると、食堂前で腕を組む月島から声が。

 

「あ、俺の名前は音無雄輝です! それじゃ、お元気で!」


「―――ッ! ま、待ってくれ」


 最後にその老爺から言葉が発されたような気もするが、俺はそれを無視して月島の方へ駆け出して行った。その時、大きな風が吹いた。

 恐らく鴻巣が持っていた、演説台の上に置きっぱなしの新聞紙が吹き飛ばされたのだろう。一枚の灰色の紙がちょうど俺の前に落ちる。

 俺はふと走りを止め、それを拾い上げた。

 その新聞の大見出しに書かれていた言葉とは。


『大中華国 皇國ヲ征伐セントスル旨ヲ通達』

『劉黄明大総統 神州ヘノ野心隠サズ』


 白い夢の中で、あの神が言っていたことを思い出した。

 江崎の姿をした彼女が告げたのは、とある島国の残酷な結末。

 

『そんな時、私はあなたが住む世界の並行世界で、とある大きな戦乱が始まるのを見ました。そして攻め込まれたとある島国が、大陸の大国によって呑み込まれて消滅する一部始終を見ていました。……そうです。この国・大日本皇國です』


 嗚呼、これが俺への試練だというのだろうか。

 〈広がる世界〉の中で、俺には何ができるだろうか?

 まだ分からない。けれど俺は既に決意した。

 だから進む。

 幾ら風が強く吹こうとも、西方より大いなる暗雲が迫り来るとしても。

 黎明が照らす方向だけを見て、進み続けると。


 俺はそのしわが付いた紙を更に強く握り締め、一歩を踏み出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る