第2話 もう一つのプロローグ


 だい日本にほん皇國こうこく


 齢15の少年、音無雄輝が転移した国家。

 〈元の世界〉でいうところの日本国に極めて似たこの国は、〈元の世界〉の並行世界に存在している。……といっても、突拍子もないことであろう。


 並行世界とは。

 歴史上……いや、日常生活においても人は様々な選択を迫られる。選択肢は当然のことながら複数で、どれを選ぶかによって未来は変わっていく。

 そんな場合に分岐して現れるのが並行世界というものだ。無論のこと選択は一度きりではなく、選択肢が現れる度にネズミ算式で並行世界は増えていく。

 そんな無数の世界の一つ。その一つの世界にある、一つの島国。

 それが大日本皇國である。


 ……現在、西暦1853年・皇紀2513年・明応7年。

 皇國は内外ともに敵を抱え、島国でありながら平穏とは程遠い状況下にあった。


 東アジアへと着実に進出する欧米列強。

 中華にて、清王朝を打倒して生まれた猛きわか獅子じし

 皇國の統治者〈旭皇きょくこう〉をないがしろにし、日本統一を阻む士族の連合政権。

 旭皇が治める皇都で蔓延はびこ魑魅ちみ魍魎もうりょう

 揺れる政界と流動を続ける世界情勢。


 混迷の最中にあるこの国に、一体誰の悪戯いたずらか転移してしまった音無。

 彼は間違いなく、この物語の主人公だろう。だがもう一人、主人公がいる。

 彼は皇國軍の一介の下士官に過ぎない男である。

 しかしその燃えたぎる信念は、その座に相応しい。


 これは、もう一つのプロローグ―――。




 西暦1853年 皇紀2513年 明応7年4月1日 午前6時頃

 大日本皇國 〈皇都〉皇京おうきょう えつみや 皇國陸軍こうこくりくぐんえつ宮鎮台みやちんだい衛戍地えいじゅち


「………」


 朝露に、濡れていた。どれぐらい此処にいただろう。

 朝に現れる薄い霧の中に俺は立っている。ふと、自らの服装に目をかけた。

 誇り高き皇國の千歳せんざいみどりで彩られた軍服に、幾つかの小さな水滴が付いている。俺はそれを払うと「時間か」と一つ呟いた。

 そして軍帽の向きを直し、一歩を踏み出す。

 まだ薄暗い厩舎きゅうしゃ近くの道をまっすぐ歩いていく。遠くを俯瞰ふかんしてみれば、武家屋敷をそのまま流用した土塀どべいが見え、植わっている山桜ヤマザクラの木も薄闇の中で屹立きつりつしていた。そして厩舎から時折聞こえる馬の啼き声を聞きながら、俺は鎮台本部の玄関へ通じる石畳を踏みしめて進む。静かに、左腰に掛けた軍刀を揺らしながら。

 

 若干の早足を維持し、突き当たった曲がり角を左に曲がる。ちょうど玄関から出てきたやや長身の男の姿を見た。その顔は俺にとって良く見知ったものであった。

 そして彼は俺の顔を見るなり、近づいて話しかけてきた。


「よう、月島つきしま。久しぶりだな」


 その男は俺の知己であり、かつての学友である〈白澤尚文しらざわなおふみ〉だった。同期である白澤はしかし、俺よりも遥かに高い階級を拝している。

 

「白澤中尉殿。こちらこそ……」


「おいおい、随分とへりくだるな。月島。幾ら階級の差があろうとも、俺達は友人だろう。今、この場じゃあ俺は上官じゃない」


 ……そうだった、白澤はこういう奴だ。

 俺は、白澤が隊長となっている中隊ちゅうたい隷下れいかの小隊長。戦闘報告や雑務、度々戦闘でも顔を合わせることが多い。

 だが、二人で私的に話すというのは半年ぶりのような気がする。


「そうか。近頃、お前と話すこと自体あまり無かったからな。つい口調を固くさせてしまった。すまんな」


「それはいいんだが……。お前、夜番明けだろ? 向こうで何をしてたんだ」


「今日は昼夜番なのでな。少し厩舎で馬の世話をしていた……というのは建前で、ただ外の空気を吸っていたんだ。いつから外にいたのかは分からんが」


「……有体ありていに言えば、職務怠慢というやつだな。とは言っても、俺も似たようなものだ。昼番の交代があるまで任務が特になかったので、抜け出してきたのだ」


 その言葉に「やはり白澤だ」と感じた。何も変わっちゃいない。

 俺と白澤はお互いに笑い合った。


「尉官ともあろう者が抜け出してくるとは、皇國軍人としてあるまじき行い……ってやつだろうな。今の時間帯は特に軍務は無いし、別に支障はないと思うがな。ただ、上に見つかったらまずいんじゃないか? 

 ……お前は、俺と違ってできているんだから」


 俺は自虐めいた言葉を口に出す。小さな笑いを狙うわけでもなく、ただ心の中で思ったことだ。


「まだ、後悔しているのか」


のことだろう? ……まさか。

 あれがあったから、俺は強くなれた。為すべきことが見つかって、今こうやって生きている。だから、後悔なんてしてないさ」


 それは、俺の本心だ。もう15年前の……16歳の時のことだが、その日のことは今でもよく覚えている。


「……なら、良いんだがな。ほら、お前は3年ほど前に伍長ごちょうになって、小隊を与えられただろ? それからお前の小隊……第一中隊・第二小隊の戦果は、鰻上うなぎのぼりになった。だから、進級は確実だと思っていたんだ」


「俺は、なるべく多くの救うべき人々を救うために戦っているだけだ。……進級など望んではいない」


「嘘、だな。まさか卒業式の日に言ったこと、忘れてるわけではあるまい」


 ……そのことを言われると弱ってしまう。何故なら、『進級など望んでいない』という言葉は〈卒業式の日に言ったこと〉と相反関係にあるからだ。


「それこそまさか、だな。〈大将位たいしょういに成り上がる〉だろ?」


 それはとても短く、簡潔で、一見すると荒唐こうとう無稽むけいな夢幻に近いもの。しかし士官教育を受けずに二等兵から入隊した者でも、軍功や上官からの所見によっては、士官学校への編入・研修を経て叩き上げの士官になることが可能だ。……無論、大将位となれば不可能に近いのだが。


「そうだ。だが、今のお前はどうだ? 三十路みそじで、未だに伍長。下士官最低位の階級。……お前は、こんなことも言っていた。

 『贖罪しょくざいの為に、どんな苦難さえも乗り越えてみせる』……と」


 15年前。俺が犯した罪科つみとが。その罪をどれだけ肯定化しようと、無かったことにはできない。いくらそれが、〈自らの信じた正義〉だったとしても。

 そんな当たり前のことを知っていたから、せめて報いようと思った。

 だから、誓ったんだ。

 だがその夢は、誓いは、果たせそうにないかもしれない。


「………」


「……すまん。なにも追い詰めたり責めるつもりはないんだ。だが、最後にこれだけは言っておく」


 白澤はその切れ長な眼を、瞳を、俺の目に向けた。それはただ俺を睨むような、敵意を持ったものではなかった。

 憤怒、哀愁、自責、焦燥。あらゆる感情を込めた、そんな瞳だった。


「信念を、自らが信じた正義を、為すんだろ? 

 お前にとっての贖罪は……家族の分まで、立派に生きること。

 そうじゃなかったのか? お前にとっての正義は。簡単に諦められるほど、あの日の決意は軽いものだったのかよ」


 けして大きな声ではなかったものの、その言葉は俺に強くのしかかってきた。

 白澤が言っていることは全て正論で、だからこそ言葉が出なかった。色々な感情と思考が入り混じって、結論は出せなかったのだ。


「話は終わりだ。……やっぱり俺は本部に戻る。じゃあな。話せて嬉しかったぞ」


「……ああ」


 そう言って玄関の中に消えていった白澤の姿を、俺は最後まで見届けなかった。ずっと見ることができなかっただけかもしれない。

 久しぶりの知己との会話だというのに、俺の心はぼんやりと曖昧あいまい模糊もことしたままだった。


 自らが為すべきこと。

 それはから、一つも変わっていない。

 だが、その信念が自らを苦しめているとしたら?


 自らが信じた正義を為す。


 その代償が、贖罪という名の足枷あしかせだとしたら?

 俺は一体、何を信じて貫き通せばいい?


「……分からないな」


 口ではそう呟きながらも、そのことは一旦忘れることにした。今日も戦いが始まるからだ。決して比喩などではない、命の奪い合いが。

 自分を強く持たぬ者は、死ぬ。

 俺はいつも通り、救いたい人々の為に戦うのみだ。


「行くか」


 最後に短く呟き、俺も玄関の中に消えていく。

 その背中を、白き霧を晴らし燦然さんぜんと輝く黎明れいめいが照らしていた。

 

 俺、〈月島つきしま慶一郎けいいちろう〉の物語は、ここから始まった。


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