phase6.1
直後美月のもとに襲ったのは軽い衝撃と、そして強い風圧だった。何度か瞬きをした。何が起きたのか理解できなかった。
「ごめん姉ちゃん、遅くなって!」
すぐ隣から声がかかる。はっと横を向くと、そこには変身した穹がおり、自分のことを抱え、走ってジュピターから距離を取っていた。
安堵よりも先に襲ってきたのは焦燥だった。美月は穹の青いジャケットを掴んだ。
「駄目、逃げて!」
「えっ?」
「危険なの、本当に危ない、絶対相手しちゃ駄目っ!!」
穹は首を傾げたが、お構いなしで、縋るように服の裾を掴んで揺さぶった。穹も危険な目に遭うと、背後を振り返った時だった。
宙を踏んで飛び上がる一つの影を発見した。それはジュピターの背後に生い茂る森の中から飛び出してきたものだった。
美月が影を見上げたのと当時に、ジュピターが後ろを振り返った。
「クラーレさ~ん!!」
影の正体は未來だった。構えた刀を縦に振ると、三日月型の赤い閃光が飛び出した。
同時に美月の背後から、高速で何かが駆け抜けていった。弓矢だった。
閃光と弓矢はジュピターの両隣を掠め去って行った。ふらりと、ほんの僅かに、相手の体勢が崩れた。
刹那。
「返してもらおうか、ココロを!」
隣に、背の高い人影が立った。見上げたハルは、手袋を外した手を伸ばし、人差し指をジュピターに向けた。
指先から、糸のように細い電流が発射された。バチバチと音を走らせながら、その電流は、ジュピターの片足に直撃した。
「うぐっ……!」
小さく悲鳴を上げて、ジュピターの体は、大きくよろめいた。ジャンプした未來が、その後ろから飛びかかった。
あっと言う間も無く、ココロを掴むように抱き、奪い去った。そのまま跳躍を駆使し、こちら側にやって来た。
「ハルさん、ココロちゃんですよっ!」
「ココロ、無事か……と、寝ているな」
ハルが抱きかかえたココロを見てみると、なんと口を少しだけ開けて眠っていた。目をぱちくりさせていると、「無事、なのですね」とアイの声が聞こえてきた。
後ろを振り返ると、ジュピターがいるほうとは反対側の森の入り口に、シロを両手で抱っこするアイが立っていた。その奥に弓矢を構えるクラーレも立っている。
アイは森の奥を指さした。
「急ぎましょう!」
「うん! ……姉ちゃん、大丈夫? 走れる? 抱えていけるよ?」
穹がこちらを窺った。美月は「大丈夫」とかぶりを振った。
穹は、特段勘が鋭いというわけではない。なのに美月の顔を見て、心底不安そうな表情になった。
きっと、そんな表情をさせるだけの顔になっていたのだろう。自覚済みであるのだから、間違いない。
だが、恐怖心はそこまで無かった。恐怖心では無くて、別の何かが、自分の心を埋めていたのだ。
嫌な存在感のあるその「何か」に今は目を逸らして、美月は走りながらハルに聞いた。
「固まってていいの?!」
山中を走る美月達はばらばらではなく、少し距離を空けているだけで、固まって逃げている。
だが、ハルは「いいんだ」と走りながら頷いた。未來が後ろから走り寄ってきて、前方へ人差し指を向けた。
「この先にキャンプ場があるんだよ! 間違いなく人がいる!」
その声を聞いて、今日が休日だったことを今更ながら思い出した。うん、と頷き、腕を振る速度を速めると、示し合わせたように皆も走る速度を上げた。
まずは森を抜けて整えられた道に出る。そこを辿ってキャンプ場まで逃れる。その一心で、前へ前へと走り続ける。
やがて草木が生い茂る道が突然途絶え、堅く歩きやすい地面を足が踏んだ。林道だった。
道は左右両方に真っ直ぐ伸びており、風に乗って微かに、キャンプを楽しんでいる真っ最中らしき人達の声が聞こえてきた。
ほっと場に安堵が広がっていき、あともう一息だと気を引き締めた、まさにその瞬間。
背後から鼓膜を突き破るような轟音が鳴り響いた。
凄まじい勢いで木が切られ、倒れていき、木と木がぶつかり合う音。
美月にとって、既に聞き覚えが出来てしまった音。
風が届き、巨大なものが風を切る轟音が耳に届いた。全員が背後を振り返った。
木々の間を突き抜け、一直線に飛ぶ樹木が、迫っていた。その大木が進む先には、人がいた。
「クラーレっ!!」
叫んだ直後だった。すぐ隣をアイが駆け抜けていき、そしてクラーレに体当たりした。
シロが宙を羽ばたき、大木の前に立ちはだかった。小さく鳴き声を上げて息を吸い込んだシロは、ぱかっと口を開けた。
口から飛び出した眩い閃光は大木を包み込み、わずかな時間の間にその姿を消失させた。
「大丈夫ですか、クラーレさん」
アイはすぐに立ち上がったが、クラーレはその場にしゃがんだままでいた。呆然と顔を見上げていたが、はっと我に返ったように、目を伏せた。
「……悪い。助かった」
「いえ、ご無事でしたのなら何よりです」
アイが片手を差し伸べると、クラーレはありがとう、と小さく呟きながら、その手を取って立ち上がった。
「ピ、ピピッ!!」
その時だ。森の奥を見ていたシロが、猛スピードで飛んできてクラーレの後ろに隠れた。一体、何を目撃したかなど、すぐにわかった。
シロの見ていた先を確認すると、一歩、二歩と木々の間を進む人影が、近づいてきているところだった。
「諦めてよ」
そう言って、その人物は立ち止まった。こちらを見下ろす瞳には、穏やかさなど微塵も残されていなかった。どこまでも無表情であり、感情が消え去っていた。
「全力出しちゃうけど、いいの? 僕、地面に大きい穴開けることも、普通に出来ちゃうんだよ?」
ジュピターは黒色に鈍く光る棍棒を握りしめた。
風を切って上から下へ勢いよく振り下ろしたものの、今は力を抑えていたのか、とん、という非常に小さな音しか生まれなかった。
だがはったりでないことは、今まで見てきた光景や経験してきたことからして、嫌でも理解できた。
この場にいる全員言葉を発さず、ただ固まるばかりでいた。鳥肌すら立てなくなるほどのあまりにも冷たく、寒い空気が、充満していった。
立ち止まっていたジュピターが、また歩き出した。
その時。ぱち、とそれまで閉じられていたココロの両目が開いた。
きょろ、きょろと辺りを見回したココロの顔が、みるみるうちに歪んでいった。両目が涙の膜で覆われた。
「ふええええええん!!!」
大きく口を開いた口から、泣き声が飛び出す。「どうしたんだ一体」とハルがあやすも、ココロはわんわんと泣き続けた。
思わず美月も皆もそちらのほうを向いてしまい、今は気にしている場合じゃないと慌ててジュピターに向き直った。すると、更に目を見開く事態となった。
「えっ、ええ……?」
ココロのことを見るジュピターは、明らかに焦っていた。両手で棍棒を握って、忙しなく視線をさ迷わせていた。
「な、泣かせちゃったの、かな……? ええ、ど、どうしよう……」
耳を疑った。何を言っているのだろうか、と頭が混乱した。
だが、不思議なことに当惑する様に白々しさは感じず、演技にはとても見えなかった。
と。道の向こうから、段々とこちらに近づいてくる話し声が聞こえてきた。楽しそうにはしゃぐ声の数は多く、それなりの人達が歩いてきているのだとわかった。
ジュピターはそちらに目を向け、そして肩を落とした。
「はあ。これ以上は無理、かあ」
いかにも残念そうに声の調子を下げて、肩を落としたまま、くるりと背を翻してきた。そのまま歩きだした足が、ふいに止まる。
ジュピターはおもむろにこちらを振り返った。正確には、ココロを見ていた。
「でも、きみとは仲良くなりたいなって思ったよ。ありがとう、ココロちゃん。また、会おうね」
そう言って、植物のように静かで、木漏れ日のように暖かい笑みを浮かべた。
はた、とバグを起こしたように、ココロの泣き声が止まった。ひらひらと片手を振って去って行ったジュピターを、ココロはじっと見つめていた。
人の話し声が更に近くなってきた。美月達は慌てて、道の傍の木陰に身を隠した。
通行人が通り過ぎていったのを影から確認して、ようやく、やっと、いつぶりかの深い深い深呼吸を行うことができた。
はあ、はあ、とハル以外の全員の息を吐き出す音が重なる中、未來はジュピターが去って行った方向に目をやった。
「私、あの人と会ったのは初めてだったけど……。物凄く、物凄く怖かったなあ」
「僕もです……。……あれは、本当の鬼、だ」
二の腕をさすりながら、穹が呟く。
「あんなに性格が変わるだなんて……。どっちが本当なんだろう……」
「どちらも、本当の姿なんです」
アイが、背筋を正しながら言った。
縋るようにしてぶるぶる震えるシロの背を撫でながら、クラーレは「ジュピターって確か、和解のスペシャリストだとか、そういう異名があったな」と漏らした。
「その通りです。巷では、その二つ名で有名です」
「……あれが、そういう二つ名を持つ人物には、とても見えないが?」
「……ジュピターさんは、非常に穏やかな性質の人間です。普段から争いを好むことはありませんし、場の調和を望む特徴があります。
ですが、先程の姿を見ればわかるとおり、もう一つの姿が存在するのです」
もう一つ、と言った時、アイは人差し指を立てた。
「プルート時代のことです。あるとき、こちらの製造した商品に対して、クレームをつけてきた顧客の方がおりました。大きな相手だったので、セプテット・スターであるジュピターさんが直々に向かいました。
ですが、ジュピターさんはあのような性格をしています。早い話が、顧客相手に、舐められました。ジュピターさんはおどおどし、もともと大きく出ていた顧客相手の態度はどんどん大きくなる一方でした。
やがて、場は収まるどころかクレームはエスカレートしていき、契約の打ち切りばかりか、もっと大きな、星同士の関係を揺るがす程の問題に発展しかねなくなった時です。
ジュピターさんが突如、あの状態に……先程見せていた、戦闘時の状態の態度に、切り替わったのです。
その瞬間、相手の態度が変わりました。下手に出てきて、こちら側の言い分を全て飲み、その場は丸く収まりました。
このような事例が幾度も起こり、やがて、和解のスペシャリストという二つ名がついて回るようになったのです」
そうだろう、と思った。あんな状態になったジュピターを前にしたら、誰だって、戦意も悪意も敵意も持続し続けることは不可能となる。
「話を聞かず、通じもしない相手は全て敵。歩み寄る意思を見せてこない相手は全て敵。自分に危害を加えてきたら、どんなに容赦しなくても構わない。
……そのような思考の持ち主なのです。その一方で、敵も味方も関係無く全ての人と仲良くしたい、調和を重んじる穏やかな心を持っているのもまた事実なのです。
ココロさんが大人しく抱っこされ続けていたのが、その証拠でしょう」
言葉が出てこなかった。穹も未來もクラーレも呆然としていた。
ハルがココロを見たので皆も様子を確認すると、なんとココロはまた両目を閉じて眠っていた。涙の跡は残っているものの、寝顔は穏やかそのものだった。
「ジュピターさんは確かにココロさんに危害を加えるつもりは一切なかったのでしょう。ですが、とはいえ、一体どうなることかと思いました」
「……ココロちゃんをキャッチするとき、かなりハラハラしたなあ」
ココロの顔を覗き込みながら、未來が言った。無理矢理明るい声を出したような、取って付けた響きがあった。
未來も未來なりに、ジュピターの異常さを思い出している真っ最中なのだろうと悟った。
「あの場合、腕を狙うのが正しいのだろうが……」
ハルが、ジュピターに向かって電流を飛ばしたほうの手を見た。
「アイは、足を狙うべき、と言ったんだったな」
「はい。ジュピターさんの体は人間の常識を凌駕するものです。とりわけあの棍棒を握る“腕”は、特殊極まりないものと推測されます。
セプテット・スターの為に製造された特注品なのですが、常人は決して持てないほどの重量がありますので……。一体、どういう体の構造をしているのかは、データにないのですが……。
少なくとも腕に対し、多少の電流が効かないことは実証済みです。ジュピターさんは静電気で驚いたことが一度もありませんし、ショートした機器類に誤って触れた時も、本人は一切痛みも痺れも感じていませんでしたから」
「私の知らなかった情報だ。ありがとう、アイ」
「いえ、そんな……」
アイは首を振った。そんなアイを、クラーレがじっと見つめていた。
気づいたのか、アイがそちらを向き「何か」と尋ねたものの、クラーレは緩く頭を振り、無言で否定した。
そんなクラーレの目が、こちらを向いた。
「……ミヅキ、大丈夫か?」
その声にハルも反応を示し、こちらを見てきた。
「すまなかった、ミヅキ。非常にきつい役割を背負わせてしまったな」
「な、何言ってるの! 私が立候補したんだからいいんだよ! 上手くいって良かったじゃない、ねっ!」
明るい声を出しながら、美月の心は、燻っていた「何か」によって、確かに圧迫されはじめていた。
「美月、何かあったの?」
浩美から唐突にそう言われ、ついていた頬杖がずるりとずれた。その勢いで、べたんとテーブルに頬がぶつかる。
なぜわかったのだろうか。夕方に山から帰ってきて、閉店したミーティアの席につき、頬杖をつきながら店内を見回していただけだというのに。
「な、なんで?」と聞けば、「それでわからないほうが難しいわよ」と呆れた口調で即座に返された。
「……どうしたの? 悩みがあるなら、聞かせてくれる?」
椅子を引きずる音が響き、浩美がテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰を下ろした。
美月はうーん、と低く長く唸った。言うべきか、否か。ちらりと様子を窺うように目線をやれば、浩美は何も言わずにこちらを見つめていた。
その目を見ているうちに、この心に燻っているものを誰かに聞いてもらわないままいるというのは、難しいことである気がしてきた。
しかし、ハル達に言うことも違うように思われた。美月は両手を膝の上に持っていき、「あのね」と口を開いた。
「えーと、なんて言えば良いのか……。……合わない人、がいるんだけど」
「うん」
「その人、自分の考えを、問答無用で押し通す人なんだ。自分の考えが合わない相手は、なんていうか、絶対に許さない、みたいで。私は、そんなの、嫌だって、思ったんだけど。
……でも、私も、同じなんじゃないかなって」
「……うん?」
「私も、自分の心を貫く性格してるから。自分の考え、押し通しがちで、押しつけがちだから。我慢することが、できないから。
……この前も、自分と好みの味が友達と合わなかったとき、凄く腹が立ってしまったし」
両手を握りしめる。下を向けば、握りしめた手がかすかに震えているのが見えた。力を入れているせいだからか、勝手に震えているのかはわからなかった。
「だから、私とその人は、同じ、なのかなって」
口に出すとき、声が震えた。言葉がつっかえる感覚を抱いた。
今日ジュピターから言われた台詞が、未だに頭の中を巡り、心の中に鬱々と沈殿していた。
同じ、と言われた。何が違うのか、とも聞かれた。それは右から左へ流れていかず、とどまった。自分でも、疑問に感じてしまったのだ。
あの怖い心の持ち主である人間と、自分と、一体どこが違うのか、と。同じなのではないか、と。
敵の言葉をずっと気にしている事実は、癪に障ることでもあった。ハル達には知られたくなかった。
けれども、ここで打ち明けることは出来た。それは、今いるこの場所が、他ならないミーティアであるからだろう。
この自分という存在の人格を形成した、始まりの地であるミーティアが、自白を促す魔法をかけてきたのだ。
顔を上げれば、浩美は軽く腕を組んでいた。うーん、と先程美月が発したような唸り声が口から漏れ出ていた。
「人の振り見て我が振り直せ……とは言うし、美月が自分の性格を変えたいって思うんなら、否定はしないけれど……」
腕を解いた浩美が、美月の目を真正面から見る。
「でも、そういう意味とはまた違うんじゃないの?」
「うん……」
自分の性格を変えたいのだろうか。何度か自問自答してみたものの、それは自分の中で、あまりしっくりこないものだった。変えられる予感が全くしないというのも理由の一つだった。
では自分は、どうしたいのか。
その時。「美月」と別の声がかかった。はっと顔を上げると、テーブルの隣に弦幸が立っていた。
両手にはそれぞれ小さな皿を持っており、「カルボナーラ。冬から出すメニュー」と言いながら、美月の前に置いた。
何が何だかわからず、一口ほどの量が乗ったカルボナーラと弦幸を交互に見た。
「どうぞ」
「え? 今? 食べるの?」
「そう」
ますます何がなんだかわからなかった。動揺している間にフォークまで手渡されたので、とりあえず美月は二つのパスタを両方食べ、皿を空にした。
意図は不明のままだったが、やはりパスタの味はどこまでも美味しくて、食べ終わったときには口元が綻んでいた。
「ごちそうさま! 凄く美味しかったよ!」
「うん、お粗末様。……ところで、何かに気づかなかったか?」
「何か?」
フォークを置きながらしばらく考えると、すぐに気がついた。
「パスタの太さが違う?」
「ご名答!」
弦幸は人差し指を立てながら言い、重ねて尋ねてきた。「美月は、どっちが好き?」
「うーん……。どっちも好きだし選べないけど、強いて言うなら、太い方かな?」
「実はお父さんもそっちのほうが好き」
笑いながら皿を下げた父は、その笑顔を苦笑いに変えた。
「でも、細めの方が人気あるから、細い方でいくんだ。ナポリタンが細めだから、統一するという意味でもな」
「へえ、そうなんだ……」
ほんの少し残念に思ったが、どちらも甲乙つけがたい美味しい味に変わりはなかったので、特に気にならなかった。
それよりも、一体父が何を言いたいのかが、よくわからなかった。尋ねようとした瞬間、「美月」と名前を呼ばれた。
「こんな例が色々あるのは知ってるよな? 会心の出来と思った新メニューが受けなかったり、自分では好きな味にアレンジ出来たと思ったら、前のほうが良かったと言われてしまったり。他にも、色々」
美月は黙って頷いた。小さい頃から何度も見てきたのだから、当たり前だった。
「試行錯誤が上手く行かなかった経験」を途方もなく重ね続けた結果、今のミーティアがある。
「自分の心を貫くことは難しいさ。周りと合わなかったりだなんていつものことだし、我慢しなくてはいけない時だってある。我慢することが、正しいと見られる状況だってある。
心を通い合わせる方法を探すのを諦めず、お互いに傷つかずにすむ方法を、模索し続けなくちゃいけないんだよな」
うんうんと、目を閉じた浩美が静かに頷く。
源七の代からミーティアと共に生き、弦幸と一緒になってミーティアを切り盛りしてきた浩美の首肯は、それだけで重みを感じた。その浩美が、目を開けた。
「けどね、美月。美月は、美月よ」
今度は弦幸が、傍で静かに頷いた。美月は何度か瞬きをした。
「ずっと自分の意見が通り続けることはないし、いつか我慢しなきゃいけないときや、傷つくことも間違いなくあるけど。
そういう時は、ちゃんと言ってちょうだいね。話を聞くから。それで、美月は美月だから自分の心に自信を持ちなさいって、何度も伝えるから。
美月の自分を貫き通す心の持ち方に、私達がずっと救われてきたこと、忘れるんじゃないわよ」
息を飲んでいた。数秒後に口から零れていたのは、だよね、という一言だった。
「だよね! そうだよね! なーに悩んじゃってたんだろ!! 私は私、だもんね!」
がたんと思い切り立ち上がった直後だった。ぐぎゅう、とお腹から大きな音が鳴った。
「お腹減った!!」
「もう……。夕食作りちゃんと手伝いなさいよ?」
「もちろん!!」
進む足取りはどこまでも滑らかで軽やかで、「何か」が燻っている感覚がどんなものだったか、すっかり頭から抜け落ちていた。
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