phase5.1

 未來とクラーレから怪しい小鳥がいる、と聞いたのは昨日の事だった。


 穹が喋る小鳥を連れている、姿こそ小鳥だが多分「生き物」ではないと口を揃えて言ってきたとき、美月はさすがにすぐ信じることが出来なかった。


 しかし二人の真剣な眼差しと、冗談を言う状況では全く無いことから、嘘だと笑い飛ばそうとも思わなかった。


 ハルに連絡を入れ意見を仰いだところ、「調べる価値は十二分にある」との回答を得、その翌日である今日、早速皆で調べに向かった。


 生息していると見られる公園で手分けして小鳥を探したものの、隠れているのか見つける事は叶わなかった。


 穹が公園に来れば小鳥も姿を現すかもしれない、それまで待ってみようという案が出て、纏まりかけた時だった。


 噂をすればなんとやらと、穹が公園に現れた。慌てて美月達は木陰に身を隠し、様子を窺った。


 穹が公園の敷地内に足を踏み入れた途端、公園を囲む林の木々の隙間から、青色をした何かが飛び出してきた。その小鳥は、確かに何の変哲もない小鳥だった。


 だが、くちばしから紡がれたのはさえずりでなく、穹の名前だった。


 人の言葉を話す動物、それだけでも充分に非日常な光景を目の当たりにしているのに、その非日常な存在が穹という身近な人間と接している。

これこそまさしく目を疑うべき光景と言えた。


 だがおかしなもので、美月は確かに普通では有り得ない小鳥に呆然としたが、それ以上に、穹から目を離せなかった。


 穹を目にした瞬間、消えそうだ、と感じた。穹の姿が、今にも消えていなくなりそうなものに見えてならなかったのだ。


 もはや、その目には闇すら存在していなかった。何も無かった。何も映されていなかった。絶対に無くしてはならないものが、穹の中からすっぽりと抜け落ちているようだった。


 それなのに、小鳥の姿を目にした途端、穹の目の中に、一欠片にも満たないが、わずかな光が生まれた。力こそ宿っていないものの、顔には確かに笑みも浮かんでいた。


 そんな穹を見ていると、流暢に人の言葉を話すという、怪しさしか存在しない小鳥と会話している状況にあっても、微かに安堵が湧いてきた。


 その安堵を打ち消すように、ハルが立ち上がった。


「ノイズを検知。機械の音声だ」

「えっ?」

「あの小鳥はロボットだ。あれほどまでに精巧に作られた質となると、ほぼ間違いなくダークマターの、バルジ研究所で製造されたものだ」

「本当にロボットか? 100%そうなんだな?」


 クラーレの問いに、ハルは深く頷いた。「断言する」


 言いながら、おもむろに片手の手袋を外した。向けられた手の先にいたのは、あの小鳥だった。


 おんぶ紐の中からココロが不思議そうな目で、真っ直ぐ伸ばされたハルの手を見つめた。

 美月も同じ気持ちで、一体何をするのだろうと感じた。その答えは行動によって現れた。


 ハルの手に、電流が纏われていった。パチパチという音を鳴らして集まった電流は、ハルの指から勢いよく放たれた。


 さながら稲光のように真っ直ぐ飛んでいった電流は、瞬きの間に小鳥の体に直撃した。


 その瞬間だった。先程まで生き生きと動いていた小鳥の体が、途端に止まった。止まっただけでは飽き足らず、流暢な台詞が、突如として片言に変化した。


 最後に、ノイズを残し、完全に動かなくなった。


 目を瞬きし、愕然としている間に、ハルは立ち上がり、穹の前へとその姿を現した。


「……やはり、ロボットだったか」


 美月も木陰から出た。遅れて未來と、クラーレもその後に続いた。


 皆穹のことを見ているのに、穹はこちらを見ようともしなかった。そもそも見えているかどうかすら怪しかった。


 それしか出来なくなったみたいに、穹は手のひらの上で、翼を広げた状態で固まり、置物と化した小鳥のロボットのことを、ずっと見つめていた。


 そこからは感情の類いが一切見えなかった。穹も置物に、作り物になってしまったのではと思う程だった。穹の体の輪郭が、ぼやけたり濃くなったりと、繰り返されているようだった。


 見ると、未來もクラーレも同じことを感じているようだった。目を離せないとばかりに見開いた目で穹のことを見つめているのに、口からは穹へと向かう言葉が発せられない。


 声をかけることが出来ない。かけられないのではない、かけてはいけないという直感が、体を駆け巡っていた。


「目を覚ましなさい、ソラ。それはロボットだ。ソラの味方ではない、敵だ」


 だがロボットのハルには関係の無いことだった。取り巻く空気がどんどん様子のおかしいものになっていく穹に、躊躇無く言葉をかける。


「……一体このロボットはどういう構造をしているのか。分析しなくてはいけないな」


 手のひらの上の小鳥をじっと見たハルが、その小鳥に向かって手を伸ばす。瞬間、穹は小鳥を、もう片方の手で覆い隠した。ハルの手が宙で止まった。


「どう、して」


 穹は小鳥を持った手を勢いよく引き、一歩二歩と後ずさった。ハルから小鳥を庇うような行動だった。


「なん、で、なんでこんなことを!」

「……ソラ?」


 何も無かった穹の目に、何かが宿っていた。しかしそれは、まさかそんな感情を、ここまで明確に向けられる日が来るとは思ってもみないものだった。

 だがどこかで、こんな日が来ることを予想していた。


「なぜと聞かれたら、答えは一つだ。このロボットが敵だからだ。ダークマターで作られたものである可能性が極めて高く……」

「関係無いっ!」


 怒り、憎悪、恨み、恐怖。こちらを敵として認識している際に表れる感情が、穹の目の中に、宿っていた。その視線が向けられているのは、他ならない、美月達だった。


「君にとっての敵か味方かなんて関係無い、僕にとっては正真正銘の味方だった!!」


 穹は体から、激しく感情を迸らせた。


「臆病な自分には、ずっと価値がないんだって思っていた! このままじゃずっと誰の目にも映らないって、勇気が無い自分は、大切なものを欠けて生まれてきたんだって!!」


 光の差さない暗い公園に、穹の声が響き渡る。分厚く重たい灰色の空に、泣き叫ぶような穹の声が、吸い込まれていく。


「誰の役にも立てない、誰の心もわからない、そんなどうしようもない自分を、この子は認めてくれていた! この子といる僕は、僕の心を隠さなくていられた! この子といる間は、自分のことを、認められそうだった!」


 穹君、と未來が唇を震わせ、かすかに言った。理由があって呼んだのではなく、勝手に漏れ出た声のようだった。

 祈るように手を組んだ未來は、そのまま体を震わせ続けた。


 クラーレは目も口も開けていた。そのまま泣き出しそうな表情だったのに、目から水滴が零れ出る気配は訪れなかった。

 未來のように名前を呼ぶことができなかったクラーレの体も、がくがくと震えていた。


 クラーレの足下に隠れるシロは、穹の剣幕に怯えたように姿勢を低くしながら、それでもずっと穹のことを、見上げ続けていた。ココロもハルの背中で震えていた。


「誰からも求められないような僕の心を、この子はわかってくれた! 理解してくれていた! この子も透明だって言ってた、だから一人じゃ無いんだって初めて思えた! それが、敵なのか?! 敵だというのか?!」

「でははっきり言う、このロボットはソラを貶めようとしていた」


 この場でただ一人、ハルだけが、全く調子を変えずに穹の前に立ち続けていた。


「この小鳥はロボットだ。ロボットということは心が無い。このロボットがソラに今まで話しかけていた言葉は、小鳥の心からの言葉では無い。全てプログラムされたものだ。人為的に仕組まれたものだ」


 ハルが穹の手を指さす。その先にいる穹の手の中には、小鳥の形をした物体がおさめられている。

 激しく穹がかぶりを振った。


「違う!」

「人為的なものである以上、何かしら理由が存在する。ダークマターで作られたものである可能性が高いなら、恐らくこの小鳥はソラを貶める目的の為に仕向けられた可能性も高くなる」

「違うっ!」

「それはつまり、ソラが標的だったことが意味される。ずっとこのロボットといたら、ソラの身に何が起こっていたかわからない。ダークマターが何をしようとしているか読めない以上、どんな目に遭ったかもわからない。とても危険な思いをしていた可能性だってあるんだ」


 穹の体が静止した。しかしそれは一瞬のことだった。溜め動作の前の静寂に見えた。


「……違う! そんなはずはない! この子は味方だ! 一番の友達だって言ってくれた! 世界中の人達が僕の姿を見えなくなっても、自分だけはずっと見えているって言ってくれた! この子だけが、僕の、たった一人の味方だ!!」

「……なぜわからない、ソラ!」


 鼓膜が震えた。その場にいるほとんどの者が、虚を突かれた眼差しをしていた。唯一の例外である穹は、ハルの様子など何一つ関係ないとばかりに、険しい眼差しをしていた。


「事実は事実のまま変わらない! 現実を見るんだ、ソラ! このロボットは君の敵だ!」

「敵じゃない、味方だっ!」

「目を覚ますんだ、ソラ!」

「……来ないで!!」


 すると。「そうか」とハルはいつもの無機質な物言いに戻った。


「わかった」


 何歩か後ろに退いたハルは、そこでそうやって佇み続けた。穹に近寄ることもしなかったし、穹に対して、何を口にするでも無かった。機能を停止させてしまったのではと思うほど、動かなかった。


 強く警戒の色を示していた穹だったが、全く動かない状態のまま変わらないハルに、次第に緊張が解けていったのか。

 何度か冷たい風が吹き抜けていった後、硬くなっていた穹の体が緩んだ。


 距離があることに対する安心感から無意識の行動だったのか、小鳥を覆っていた手が外され、小鳥の青色が剥き出しになった。


 次の瞬間だった。ハルが駆け出した。


 ハルの見せていた隙に油断していたのか。警戒を抱いていた穹ですら、反応が遅れた。


 一瞬ハルが穹に近寄り、また離れたとき。穹の手から、小鳥が消えていた。代わりに小鳥は、ハルの手の中にあった。袖から覗くハルの片腕が、銀色に輝く刃に変化し、伸びていった。


「よく見なさい、ソラ。これが、君が味方といった者の正体だ!」


 穹が手を伸ばしたその瞬間、刃が振り下ろされた。




「……本当に、ロボットだったんですね……」


 未來がハルの手を覗き込み言った。信じられないものを見たとばかりに口を手で覆い、一歩後ずさる。


 小鳥ロボットは縦に真っ二つに割れていた。その断面には、複雑に絡み合う配線があり、控えめな電流が時折走った。


 幾つもの小さな歯車や、歯車を繋ぐ骨組みなど、小さな体に収められていたのは数え切れないほど無数にある部品の数々だった。


 美しい青色を持つ小鳥だった物体の体内は、この空を覆う灰色の雲のように、冷え冷えとした無機質な色をしていた。


「この構造、この構成。この特徴、覚えがある。……それに」


 ハルが指先で、ロボットの断面を引っ掻いた。体から零れ落ちたのは、大きめの白いビー玉のようなものだった。そこにはくっきりとした模様が記されていた。


 七芒星の中に、青と赤の二重のハート模様。ハルはそれを指先で摘まんだ。


心臓コアに社章。やはり間違いない。正真正銘、バルジ研究所で作られた、ダークマター製品のロボットだ」


 改まった形で現れた現実も衝撃だった。だが美月は、穹のほうが気になった。未來も、クラーレも、小鳥の正体を呆然とした眼で見ていたが、すぐ様子を窺うように、穹のほうへ視線を戻した。


 美月も穹を見ようとして、直後に自分の目を疑った。穹の姿が、見えなかったのだ。


 そんなはずはない、と瞬きすると、穹は変わらずそこにいた。


 だが、おかしい。


 小鳥に向かって腕を伸ばした状態で固まる穹の姿が、ここにあってここに無いものに映った。亡霊のような雰囲気が纏われていた。


「……わかってくれたか、ソラ」


 よく見えるようにという配慮か。ハルが小鳥の部品が横たわる手を、前へ突き出す。


 その為穹の視界に、正体が明らかにされた小鳥の姿が、はっきりと入り込む形になった。

 穹の肩が小さく跳ねた。一言も声を発さず、ただ小鳥に視線を注ぎ続けていた。


「わかりましたよ、ハルさん」


 顔を上げ、周りを見回した穹の瞳は、光も闇も無い透明だった。


「僕の味方は、どこにもいなかったってことですね」


 その目を見せていたのは一瞬のことだった。透明の目に、黒色が生まれた。その色は、穹の瞳全体に広がっていった。


 体が揺らめく陽炎のようになった穹が、背を翻した。乱れた足取りで公園を飛び出すと、あっという間に目で追えなくなった。

 穹の虚像が、まだ公園内に残っているようだった。


「穹っ!!」


 気がついたら叫んでいた。呼んだ名前は、空しい響きを残して園内に漂い続けた。


「……ハル、あんたなんであんなことを」


 クラーレの声に、責めるような口調はなかった。頷く未來もまた同じだった。

 ハルは微かに顔を下へ向けた。


「周りが見えなくなっているソラに、なんとかしてその周りに目を向けさせようとしたんだ。だから厳しいと言われる態度を取った方がいいと考え、実行に移した」


 だが、とハルは一つ言葉を残した。見上げたシロが首を傾けた。「私は」


 刃の状態から戻った片手が、自身の頭部へと添えられる。


「また間違えた。私はまた判断を誤った」

「ハル……?」

「また、また間違えた、また誤った、また」

「おいどうしたんだ一体!」


 同じ言葉を繰り返し絶え間なく発する様は、まさに壊れたロボットそのものだった。クラーレが軽く肩を揺さぶると、ぴたりと声が停止した。


「……すまない」


 手が頭から離れる。そして振り返ると、自分達の顔を順番に見てきた。

 今の謝罪は、様子がおかしくなったことに対する謝罪ではないとわかった。


「また私は間違えた。かけるべき言葉も、するべき行動も、また間違えた。すまない」


 ねじ曲がった形をしたアンテナが、枯れ果てた植物のように下がっている。


 再びハルが俯いた時だった。背中にいるココロが、ハルのトレンチコートを、強く掴んだ。瞬間、ハルは顔を上げた。


「ソラを追う」


 全員分の息を飲む音が重なった。静寂は一瞬にも満たなかった。


「今追いかけなかったら、穹君、戻ってこない気がする」


 短い言葉に頷いた未來が、一人言のように小さく呟く。


「……俺も追いかける。今度は絶対に、追いかけるっ!」


 みぞおちの辺りの衣服を掴んだクラーレが、一気に声を発す。


 今度、という単語が、美月の頭の中で反響した。


 あの体育祭が終わった後。空が曇り、灰色に染まる住宅街。そこで見つけたあの時も、穹は走っていた。

 走って、目の前からいなくなった。手の届かないほど遠くまで、去って行った。


 いつの間にか、美月の足は地面を蹴っていた。


 必ず追いついてやると決めた。

追いついて、その後どんなに振り払われても。どんな目で見られても、何を言われても。


 絶対に離れないと決めた。





 「いた?!」


 息絶え絶えに聞けば、未來も息を切らしながら首を振る。


「駄目だよ、全然見つからない」

「どこに行ったっていうんだよっ……!」


 合流してきたクラーレも、先程まで全力疾走していたのか、呼吸がままならない状態になっていた。背を波打たせるクラーレの背を、ハルがさすっていた。


 手分けして辺り一帯をくまなく探したが、穹の姿は見つからなかった。連絡もつかなかった。


 そのまま空気に溶け込んだかのように、忽然とその姿を消していた。


 違う、と美月は首を振る。そんなはずはない。必ずどこかにいるはずだ。


 穹は普通の人間だ。透明人間ではないのだ。


「ピイ!!」


 急に、シロが一つの方向に向かって高い鳴き声を上げた。視線を辿ってみると、そこには小さな駅があった。


 尻尾を振りながら延々と鳴き続ける姿と駅を交互に見て、はっと頭が明滅した。


 膝を折り、シロと目線を近づける。


「穹、電車に乗ったのね?」

「ピッ!」


 大きく頷いてきた。きっとシロもシロで、ずっと穹の匂いを辿っていたのだろう。ありがとう、とはにかんでから頭を撫で、駅の路線図を確認する。


 描かれた駅名の一つ一つを目で追っていきながら、穹がどこに行くか考えた。


 あの状態の穹が、行くとしたらどこなのだろうか。あんな姿の穹を見たのは今までに無い経験だったので、想像を巡らせるのは至難の業だった。


 頭に浮かぶ候補を一つ一つ消していきながら、路線図を見ていた時だった。


 突如美月は、ある場所が頭に浮かんだ。その場所を思い浮かんだ経緯は唐突で、よって根拠も無い。


 だが、あそこ以外に無いように思われたのだ。自分だったら、もし全てに絶望を覚えたとき、あの場所に行くだろうと思ったから。


「美月、どうしたの……?」


 おずおずと尋ねてきた未來に、振り返って言った。


「天文台。穹は多分、そこに向かったかもしれない」

「えっ、なんで?」

「勘!!」


 勘かよ、とクラーレが肩をすくめた。


「だが、ミヅキがそう言うのなら、そうかもしれねえ」

「ああ。とにかく他に当てが無いんだ。行くだけ行ってみよう」


 全員の了承を確認し、頷く。そして振り返り、足を一歩踏み出した時だった。

 景色が、ぐらりと歪んだ。


 激しい目眩が襲ってきたのかと思った。それが収まった時、美月は自分の置かれている状況を、一切飲み込む事ができなかった。


 風が吹き抜けていった。同時にざわざわと一斉に木々の揺れる音が鳴り渡った。

 妙に鮮明な感触、そして音だった。


 辺りを見回して、自分がどうやら建物の屋上にいるらしいことがわかった。

堅い地面の感触がし、錆びついたフェンスが目の前にあった。


「美月、あれっ!」


 この場にいたのは美月だけではなかった。フェンスの傍にいた未來が、その向こうへ指を指した。


 見てみると、この建物が位置する森の遙か向こうに、白い建物の丸い頭が覗いていた。その建物に、美月は覚えがあった。


「天文台?!」


 では、と改めて辺りを見回す。古びた印象の強いこの建物。天文台の位置からして、もしかしてと記憶を探る。


 かつて、資料館など、資料を保管する場所として使われていた建物だ。天文台の近くに新しい資料館を増設したことにより、今は使われなくなって久しい建物。


「ど、どうしてここに?!」

「ハルさんやクラーレさんは?!」

「っていうか何が起こってるの?!」

「なんで私達だけ?!」


 混乱している者同士で話し合っても、余計に混乱が増すばかりだった。回らない頭と回る口で、なんとかしてこの状況を整理しようとしていた時だった。


 それまでよりも、一段階冷たい風が、屋上を吹き抜けていった。鳥肌が立った。

 だがそれは風の仕業によるものではなかった。もっと更に冷たいものが、近寄ってくる気配を味わった。


「転送成功。よくお越し下さいました」


 無機質で、一切の感情が読み取れない声が、背後から投げかけられた。その声に、美月は聞き覚えがあった。


 後ろを振り返った。屋上の出入り口のドアを背に、一人の少女が立っていた。


 下ろされた黒い髪が、風になびく。藍色をした瞳には、一切の揺らぎが生じていない。


「……アイ」


 ただそこに立っていることを目的として作られたような、不気味な静けさをはらんだ佇まいだった。


 そのアイは、ブリキで出来たロボットのおもちゃを抱きかかえていた。


「こんにちは。ミヅキさん、ミライさん」


 無機質なんて生易しいものではない。氷のように、温かみという温かみが一切無い声が放たれた。


「アイちゃん……?」

「……ええ、そうです」


 アイは、青い目をしたロボットのおもちゃに、視線を落とした。


「私はアイです。確かにそれは間違いありません。……ですが、私は、アイでは無い」


 アイは背を屈め、おもちゃを寄りかからせるように、ドアに座らせた。


 立ち上がり、振り返った後に取り出されたのは、同じようにブリキで出来た、しかし先程とは違う、黒い見た目をしたロボットのおもちゃだった。


「お初にお目にかかります。ダークマター最高幹部社員集団、セプテット・スター専用高水準業務支援型ヒューマノイド、〈プルート〉と申します」


 こんなに丁寧な礼は見たことが無い。そんな風に全く関係無いことが頭の中に浮かぶほど、綺麗な、プログラムされたお辞儀がなされた。


「AMC計画成功の目的に基づきまして。混乱を陥らせる原因であるmindを奪ったハルを守る、永遠の秩序と平安というダークマターの理念に反するお二人を」


 アイの顔が上がる。藍色をした、作り物の両眼が、美月と未來を真っ直ぐに捉える。


「──排除させて頂きます」


 その瞬間。本当に一瞬だけ、アイの顔が苦しげに歪んだ。


 刹那、ロボットの頭についていたゼンマイが、アイの手によって回された。



 

 

 町を歩き、電車に乗った。下りた先の町で、また歩いた。それらは全て穹の意思によるものではなかった。


 何かもっと別の、外からの力によるもので動かされているようだった。操り人形が人形師によって動くのと同じように。


 下りた先の町は、見覚えが無かった。知らない町を歩いているはずなのに、どこかで自分はこの町を知っている感覚があった。


 しばらくさまよい歩いた末、町外れに天文台があることに気づいた。それで理解した。


 以前皆と訪れた、あの天文台の広場がある町に、今自分は下り立っているのだ。


 そこまで考えた時だった。その皆の顔が、まるで思い出せなかった。そこだけ記憶がすっぽりと抜け落ちていた。


 誰と来たのかも、その時見た星の輝きがどういうものだったかも、自分の中に存在していなかった。存在していないことに対して、何の感情も湧かなかった。


 それにしても、と思う。こんなに暗い町がこの世に存在していたのだろうか。


 道も、建物も、そこにいる人々も、そして空も、全部が灰色に映って見えていた。それをおかしいとは思わなかった。自分もこの灰色の町と、同じような存在になっているからと感じていた。


 その町を征く自分の行動は、不可解極まりないものだった。


歩道橋を登ったかと思えばすぐ下りる。

横断歩道を渡ったかと思えばすぐ引き返す。

路地裏に入ったかと思えばすぐ出る。


 何の脈絡もない無駄な行動ばかり繰り返す自分の姿を、穹はやはり、何も感じる事が出来なかった。


 どれくらい、そうして歩いていたのか。穹はいつの間にか、狭い路地裏を歩いていた。建物と建物の距離が近い、人一人が通れるくらいの狭く息苦しい路地裏。


 ずっと歩き通しだった穹は、そこでふいに、歩みが止まった。


 勝手に、足が動かなくなったのだ。一歩どころか半歩も、前へ進みそうに無かった。全身が、鉛のように重かった。


 視界に飛び込む灰色の道路が、自分を誘っているように見えた。こちらへおいでと手招きしている。


 ぺたり、と穹は地面に両膝をつけた。刺すような冷たさが、その瞬間襲ってきた。それが心地よく思われた。


 力が抜き去られているのか、自分が体を委ねようとしているのか。気がついたら穹は、道路の上に横たわっていた。


 狭い路地裏の、アスファルトの道路に、横になっている自分の姿を、上から見下ろすような客観的な目線で、頭に思い描いた。

 頭の中の自分は、そのまま影も形も無くなり、溶けて、地面に染みこんでいく様子が再生された。


 体が動かなかった。指先一つにも力が入らなかった。映る視界が、全て色を無くしていた。


 そのまま地面に沈み込んでいくようだった。気持ちいいと思った。全てを突き放すような冷たさが、心地良い。


 建物の壁が目に映った。灰色だった。乱雑な落書きがなされていた。視界に入り込む文字の形にも絵の形にもなっていないそれを、穹はずっと無意味に眺め続けていた。


 目を閉じることさえままならなかった。だから目は開かれていた。


 何度か緩慢な瞬きをした後、瞳から一つの液体が流れた。小さな雫状の水滴が、顔を伝っていき、下へ落ちていった。


 「悲しい」は無い。「苦しい」も無い。ただ何も考えられないだけだ。ただ息が出来ないだけだった。


 中途半端に薄く開かれた口から、隙間風のような自分の呼吸音が、頭の中で反響し続けていた。


 しばらく、そうやって自分のままなっていない呼吸の音を耳にしていたときだった。それとは違う、存在感を持った音が、割って入ってきた。


 誰かの足音だった。足音は徐々に大きくなっていた。それは真っ直ぐこちらに近づいてきているとわかるのに、依然として体は動かなかった。


 ぴたり、と頭上で音が止まった。また他の音が聞こえなくなった。しかし人の気配は、色濃く存在していた。


 穹のせいで、通りたいのに、通れないんだろう。

 わかるのに、動きたくなかった。動くことに意味を見出せなかった。


「た」


 動けないのです。邪魔をしてごめんなさい。ごめんなさい。全て、自分が悪いのです。ごめんなさい。


「たす、けて」


 出てきた言葉は、言おうとしていたものと違っていた。自分は今なんと言ったか、よく聞こえなかった。


 息を飲むような音が聞こえてきた。


 足音の主は、立ち止まったまま、ずっとそこにいた。通り過ぎることも、引き返すことも、しなかった。


 顔に影がかかった。


「……穹さん?」


 体のほとんどを動かせられなかったが、かろうじて瞳は動かせた。

 だから、覗き込んできた相手のことも、視認することが出来た。


 どうして。まず、そう思った。


 どうして、君が、ここにいる。


「穹さん、ですか?」


 他の色の明度は完全に落ちきっていた。

 にもかかわらず、その人間の、マーキュリーの持つ髪の青色は、虹彩に鋭く突き刺さってきた。

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