phase5「落とした心」

 エネルギーの計算や機能の確認など、一つ一つ設定、あるいは見直していく。

 朝日に照らされて目前に浮かぶ半透明の立体映像を見れば、もう後には引けないのだと改めて知る。


 どのみち後に引くという選択肢は、アイの中になかった。選択肢だけで無い、道も、可能性も、個性も、自分の中には──。


 そんなことを考えながらも規則正しくキーボードが叩かれる手は、迷いの無い動作と例えられるのか。薄ぼんやりとした思考を阻むように、声が降ってきた。


「プルートさん」


 その名前で呼ばれたとき、一瞬だけ反応が遅れた。不自然な形で止まった手を前で組み、背後に立つ木を見上げる。


「気合いが入っているご様子ですね」


 髪の濃い青色が木の葉の影に溶け込まず、くっきり浮かび上がっていた。マーキュリーは、木の枝に腰かけ、こちらを見下ろしていた。


 先程なぜ木に登っているか問うたところ、「童心に返っているからですかねえ」と両足を揺らしながら答えてきた。


「昔はよく木登りしたんですよね。高い所から一気に飛び降りるのが楽しくて。でも、打ち所が悪かったせいか大怪我して以降は懲りて登らなくなりました。けど、こうして久々に登ってみると、子供の頃を思い出すようです」


 答えた時の目は、遠くのものを見る時の目と同じだった。


 それくらい懐古に浸る余裕があるようだったし、実際マーキュリーは気楽そうな笑みを浮かべていた。アイは丁重にお辞儀をした。


「……わざわざ、すみません。手間を取らせてしまい、申し訳ないです」

「宜しいのですよ、お気になさらずに。たまにはこういう裏仕事も行わないと肩が凝るというものです」


 多くの人が優しいと例えるような微笑を見せてくる。アイは再度頭を下げた。


 彼が仰せつかったことは、完全に裏方の仕事だった。


 成功に終わるにせよ失敗に終わるにせよ、どういう結果になっても、アイはこの計画が終わったら本社に帰還する手筈となっている。


 最終段階まで進み、地球でのアイの役目は完了したからだ。


 なのでマーキュリーには、この二ヶ月程拠点となっていた空きビルでのアイがいた痕跡を消す役割もあった。が、既にアイがビル内を綺麗さっぱり片付けていたので、実質的にすることはそこに無い。


 彼の役割はこの仕上げの計画終了後の後処理と、計画実行中のにある。


 再び画面に視線を戻す。今回の計画、無関係な人間が巻き込まれてほしいとは全く考えていない。


 標的はあくまでもハルの仲間達だけだ。万一にでも他者が巻き込まれることは避けたいと考えている。

 機械類を使えばその万一が起こる可能性が拭い去れないため、人の手を借りることを決めたのだ。


 本来プルートである自分が担うような業務を、セプテット・スターにやらせることはまず無い事態だった。


 が、当のマーキュリーはそのことについて全く気にしていなさそうだった。計画が失敗しても自分の責任にならないため、背負う責任があまりなく、気持ちが楽なのかもしれない。


 反面、アイは気楽とは程遠い状況にいた。失敗はしてはならないのだ。タイピングをしながら、そればかりを考える。


 失敗すれば、他の者が計画を担う。それは駄目だと首を振る。

 自分が終わらせなくてはいけないのだ。自分が全部片付けなくてはいけないのだ。


「プルートさん」


 また名前を呼ばれた。今度はタイプの手を止めずに、「なんですか」と聞き返した。


 声の調子から判断するに、わざわざ手を止めて聞くような重要事項を口にするとは考えにくかった。


「これはコードネーム。そうじゃなくて、型式名称は“アイ”というお名前でしたよね。それで今回の潜入では、その名前で活動していた」

「……はい」

「コードネームじゃない名前で呼ばれ続けるって、どういうお気持ちです?」


 勢いよく振り返った。何を当然のことを改めて聞いているのだろうと疑問を抱いた直後の問いかけだった。

 マーキュリーはにっこり微笑み、心臓の辺りを片手で覆った。


「私はほら、セプテット・スターに就いてコードネームを継承してから、本当の名前で呼ばれる機会が格段に減りましたから。あなたもそうでしょう?

でもずっと、潜入してから、いわば本名で呼ばれ続けていたわけですよね。どんな感じなのかなあって、気になったんです」


 口こそ笑んでいるものの、感情のわからない瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。


「仰る意味が……」

「例えばほら、新しい“自分”を知ったりとか。あるいは、“自分”を取り戻していくような感覚になったりとか。そういう風になるんじゃないかなあって考えてるんですけど、どうです?」


 論外とばかりに、アイは首を振った。


「新しく知る“自分”がありません。取り戻す“自分”もありません」


 なぜこんなことを口にしてくるのか、わけがわからなかった。


 言い切ったにもかかわらず、マーキュリーは「なんでそんなこと言うんです?」と首を傾げてきた。

 むしろどうしてわからないのかと言いそうになった台詞を、息を吸い込んで取り消した。


「あなたにも個性がありますでしょう……。そういう、人間が当たり前に持っている個性が、私にはないのですよ。個性とは、自分の証である証だと考えられますから。だからです」

「個性かあ……。人の個性も、私の個性も、碌でもないものだったりするんですけどねえ」


 おもむろにマーキュリーは空を見上げた。一人言なのか、アイに言ったのか判別のつきにくい言葉遣いだったが、アイは肩を微かに震わせ反応した。


 そんな言い分が出来るのは、個性を持っている人間の特権だと考える事が出来た。


 俯きそうになったのを阻止するように、マーキュリーは唐突にアイへ視線を移した。


「プルートさん。あなた、変わったんじゃないですか?」

「……えっ?」

「おかしいなあ……? ロボットって、不変的なのが特徴であるはずなのに」


 わずかに口角が上がったかと思うと、アイを覗き込むように、姿勢が少しだけ前屈みになる。


 思考回路が止まり、閉ざされそうになる。何を言っているのか、そもそも何を言いたいのか。

 自分の姿を見下ろして見た限り、外見的な特徴に変化はない。


「気のせいである可能性が高いです。私は変わっていません。変わるはずがありません」


 道も無く、選択肢も無く、可能性も生まれない自分に、変わる余地など最初からない。


 顎を引き、背筋を伸ばし、断言する。


 そうですか、とこの話題から興味を失ったように、マーキュリーは前のめりから元の姿勢に戻った。


「以前会った時と比べて、だいぶ変わったように感じたんですけど……気のせいでしたか」


 木漏れ日が透かされたマーキュリーの瞳の中に、きらんとした光が灯ったように見えた。


「……地球の暦に直すと一ヶ月くらい前か。穹さんの調子、いかがです?」

「だから、お伝えしましたでしょう。仲間から孤立している状況で……小鳥に信頼と愛情を寄せている状態だと」


 マーキュリーは納得していなさげに唸り、腕を組んだ。


「喋る小鳥なんて、すぐに家族か仲間に伝えそうだなって考えてたんだけどな……信じたのは意外」

「……そんなことを口にするとは、今回の作戦、やる気が無かったのですか?」

「いやいやそんな。こっちも仕事ですし、やるからにはちゃんと台詞の元データ考えましたよ。

けどねえ……未だ、この動物作戦が上手くいったことが信じられないというか。

そんなに上手く行ったら、ハル捕獲もこんなに苦労してないよなあって思っているといいますか」


 言った瞬間、慌てた様子で両手を振ってきた。


「あの、これ言わないで下さいね、特にサターンには。実際に雷落ちた方がましなレベルで怒られるのが目に見えるので」

「かしこまりました。……どうして、そう考えるのです」


 以前、通話した際にも言っていた。上手く行かなくても驚かない自信がある、と。要するに、小鳥がソラの心を開けなかったとしても驚かない、ということである。


 小鳥の台詞パターンの元データとなる台本を考えたのは本人なのに、マーキュリーはずっとそんな態度でいた。


 謙虚な姿勢といえば聞こえはいいが、実際謙虚なのかどうかは微妙な所だった。


 すると、マーキュリーはどこか億劫そうに足を組んだ。


「だって穹さん、こんだけ神経が図太いならどんな場所でも生きて行けんじゃないのって感じるくらいには、強い一面を見せているんですよ。

愛想の欠片もないですしー、ああ言えば即座にこう言ってきますしー、ある意味好戦的ですよねえ。ああ可愛くないってここに凝縮されてるんだなーって感じなんですよねー」


 言ってて思い出してきたのか、マーキュリーは可笑しそうに笑った。アイは首を傾げた。


 アイの知るソラとは、争いを好まず、場に波風が立つことを避ける気質がある。言い返すことも、言い合うこともしようとしない。


 それは優しいと捉えることができるが、裏を返せば弱気であり臆病であると言える。

 実際ソラ本人も、自分のそんな正確を熟知しており、劣等感を抱いているようであった。


 つまるところ、マーキュリーの言うソラの姿とは真逆だった。


「本当にソラにそんな一面があるのですか?」

「ありますあります。……驚きました?」


 首を傾け投げかけてきた問いは、また妙なものだった。


「私に感情は無いので、驚くことはないです」

「あ、また気のせいでしたか。これは失礼。動揺してるように見えたんですけど」


 アイは軽く息を吐き出した。感情が無いから、人間で無いから、個性も無いというのに。何度目かわからない思考が、また始まろうとしていた。


「ねえ、プルートさん。率直なこと、伺ってもよろしいですか」


 それまでの口調とは違う真剣さの窺える声に、意識を木の上に向けた。頷いて返すと、相手も了承を受け取ったとばかりに頷いてきた。


「では聞きますね。潜入してる間に接した皆さんのことや……穹さんのこと、どう思ってます?」


 よもやこの人間は、アイがロボットなのを忘れているのではないか。

そんな可能性が出てきたくらいには、先程からおかしなことばかり尋ねてくる。


「何も感じません。ロボットの私には、何かを感じることは出来ないので」

「そうか。それもそうですよね」


 だが、マーキュリーは相も変わらず感情の察しにくい視線を、依然としてアイに注いでいる。


 何かを言いたげな、何かが言い出されそうな空気を変えるつもりで、ちらりと頭上を見やった。


「では、逆に聞きますけれど。そういうあなたは、ソラのことを、どう見ているのですか」

「私? うーん……」


 最初こそ、瞼を閉じて腕を組み、まさに考えている人そのものといった仕草をしていた。だが徐々に腕が解かれ、目が開かれていった。


 何を映しているのかわからない瞳は、逆に深く考え込んでいるのだと予想できた。


 とはいえ、アイはマーキュリーがなんと答えるか予測出来ていた。敵対する者同士プラスの面が見える答えは出ないだろうと。


 だがマーキュリーが珍しく無表情でアイを見下ろし言ってきたのは、予想外の返答だった。


「“見ていたい”、ですかね」

「……はい?」

「強いっていうか……あの可愛くない一面を心に秘めてる彼が、心にものを隠すことが実に上手な彼が、どう生きどう変化していくのか……。AMC計画遂行時まで、見ていたいですね」


 言った後、今の台詞を掃いて捨てるように、笑った。


「好きか嫌いかと聞かれたら、嫌いだけど」


 本来、嫌いなものは視界に入れたくないのでは。複雑な答えだ。やはり心は混沌としている。


 だからこそ自分は手に入らないのだろうとも考える事が出来た。アイは胸元の辺りに手で触れた。


「なぜ嫌いなのです」

「……なんとなく?」

「……え」

「まあ私大人になってから、人の心好きになったことも、信じたことも、無いですし。それに、私のことあんなに嫌ってる相手を好きになれって無理な話でしょう。

……って言ったらなんて言い返してくるのかなあ。奇遇ですね、僕もですとか言ってきそうだなあ……!」


 言ってて楽しくなってきたのか、一人で声を抑えて笑い始める。下から眺めながら、ソラが本当にそんな言葉遣いをするのかと考えた。


 二人の不仲はデータとして保存されているものの、実際にこの目で見たことがないので、信憑性が低かった。


 そこまで言える度胸が備わっているとしたら、なぜ今ソラはあのような状態になっているのか。


「ちょっと煽ればすぐ突っかかってくるからなあ、本当に強いなあ……!」

「……強い」


 ソラは物理的に強いとは言えない。では、精神面ではどうなのか。アイは顔を前に戻し、浮かび上がる画面を見つめた。


 ソラの見せていた、心が全く見えない瞳を記憶から漁る。あの奥に、自分の知らないソラの心が、秘められているのか。


 軽く頭を振った。余計な思考は不要の長物といえた。仕上げの計画を成功させる、その一点だけを考えるべきだった。


 今自分がやるべきことを改めて設定し直し、タイピングを再開する。


 こうしてあの人達を倒す算段を整えていると、やはり自分はプルートなのだと、改めて知る。立場が、足場が、固まっていくようだった。


「プルートさんなりに考えて、この仕上げの計画が成功する確率、どのくらいです? ……ロボットらしく、冷静な分析をお願いしたい」


 淡々とした言葉が呟かれる。アイは手を止めたが、振り返らずに、きっぱりと言った。


「99%です」

「……えっ、そんなに?」


 身じろぎした気配が音で伝わった。予想していなかった数値だったらしい。


 ここで、ちゃんとした計算を行っていないことを言ったら、マーキュリーはどういう反応を取るのだろうか。


 恐らく、この場では当たり障りのない反応を取るのかもしれない。しかしその後で、サターンに報告するのだろう。


 ただの後処理で、なぜわざわざマーキュリーが来たのか、憶測の範囲を超えていないが、予想はしていた。


 恐らくサターンは気づいている。自分の様子がおかしいことに、自分に不具合が起きていることに、気づいている。


 だから様子を窺うために、人に対する洞察力と観察眼にとくに優れたマーキュリーを派遣してきたのだろう。


 それならそれで結構、という思考が導き出される。この仕上げの計画が成功すれば、怪しんだことも、無駄な徒労に終わる。


 99%というのは、希望的観測だった。必ず成功しなければ、自分が成功させなければ。それだけの思考のみに基づかれ、導き出された数値だった。


 自分が終わらせるのだ。自分が片付けるのだ。他の者にはやらせない。


 これはアイが定めたまま、ずっと変わることがない結論だった。


「ですので、申し訳ありませんが人間は介入しないでください。計算が崩れるので。計算が狂えば、負けますから」

「わかってます」


 半分だけ振り返って言うと、マーキュリーは柔らかい口調で返してきた。そして、頭を上に向けた。


「曇ってきましたねえ」


 いつの間にか太陽の光が弱まっていた。それもそのはずで、空が一面、灰色の雲で覆われていた。






 いよいよ本当に空の色が青ではなく灰色になったのでは。窓から見えた空の色を見間違え、よく目を凝らしたところ、単に曇っているだけだと気づいた。


 太陽が隠れているからだろうか、今日の世界は一段と明度が落ちきって見えた。


 寒く侘しげな上空から正面、そして地面へと移していったときだ。電柱の影に、誰かが立っているのが見えた。涼しそうな風が、長い黒髪に触れていった。


 碧眼は穹の部屋に注がれていた。目が合ったように思い、慌てて穹は外に出た。涼しさを通り越し、肌寒さすら覚える気温だった。


 窓越しでなく実際に近くでアイを見て、何かが違う、と瞬時に感じた。


 アイの髪型が、ハーフアップに纏められておらず、まっすぐ下ろされていた。


 だがそれだけでなかった。むしろ髪型の変化など些細なものだった。

そうではなく、もっと根本的な何かが、違うと感じた。


「どうしたの、アイ?」


 アイは何も答えなかった。ただ穹の目を見ていた。恐らく大抵の人は無遠慮を覚えるほど、じっと見つめてきた。


 ただ穹は不快に感じなかった。それよりも前に、焦燥感のようなものが体を支配していったためだ。

 焦燥感の奥には、正体のわからない不安と、冷たさを帯びた怯えがあった。


「ソラ」


 自分を観察しているような目が、瞬きがなされた途端無くなった。もう見るべき所は全て見たとばかりに。不安も怯えも緩やかに増した。


「あなたは以前、仰っていましたね。生き物はずっと、何かを探し求めている。人は皆、旅人だと。ずっと探しているものがあると。それは、なんですか」


 穹は目を閉じた。答えは暗いまぶたの裏にすぐ浮かび上がってきた。当然だった。ずっと求め続けているのだから。どんなときでも。


「勇気」

「なぜ、勇気が欲しいのです」


 意外なことに、すぐ答えは出てこなかった。勇気を欲する場面があまりにも多くて、どうして探しているのか、そのきっかけをすぐに思い出すことが出来なかった。


 海底を探索するように、慎重に思考に浸る。奥底まで潜っていったとき、答えに辿り着いた。


「……透明人間じゃないようになるため」


 全てはそこに集結される。周りの人達、皆が当たり前に持っている勇気、そして色。

 勇気があったら、きっと自分は、自分だけの色を得ることができると確信している。


「勇気があれば、僕は変われる。弱くて、臆病者の透明人間から、卒業できる。そう思っているんだ」

「今の自分は、強くない、と?」

「当たり前じゃない」


 力なく笑う。その後で、だけどね、と、アイに向けて笑いかける。


「アイといると、その感覚が無かった」

「……私といると?」

「変わりたい、変わらなきゃって思いが薄れていた。だから君といると、とても居心地が良かったんだ」


 この人は、自分のことをわかってくれているのだと、信じることが出来た。

 アイといるときは、勇気を探していない自分がいることに気づいた。同時に臆病の鎖からも解き放たれていた。


 自分はこのままでもいいのだとさえ思えていた。勇気の無い自分を、彼女は一度も否定しなかったから。

 


「勇気をずっと探していると、やっぱり、辛くなるときがあるから。だからありがとう、アイ」

「……なぜそれを、今言ったのです?」

「だってこの前、もっとお話ししたかったって言ってたから……なんだか、もう会えなくなるんじゃないかと思って」


 以前会った時にアイは別れ際、さながら今生の別れのようにその台詞を口にしていた。


 よくよく考えればそんなわけないのにという思いを込めて苦笑したが、アイは反応しなかった。

 この前見せたような笑みどころか、普段の揺らぎが生じない水面のような雰囲気も返してこなかった。


 「そうですか」と答えた目を見た瞬間、氷で出来ているのではないかと感じた程、アイの視線が凍てついているように見えた。


「今日でお別れです、ソラ」


 そんな目で見られたからだろうか。体が凍り付いていくような感触を覚えた。漏らした声は声になっていなかった。


「私は元いた場所に戻らなくてはなりません」

「なんで……」

「そこはとても遠い場所です」

「どういう……」

「もう金輪際、会うことはないでしょう」

「え……?」

「お世話になりました」


 アイは冷静沈着な態度を一欠片も崩さなかった。冷淡ささえ感じるほどであった。丁重に一礼した瞬間、アイとの距離が一層離れたように思えた。


「大事な事をお伝えしておきますが」


 顔を上げると、氷のように何の感情も読み取れない視線を向けてきた。


「私はソラの、味方ではありません。最初に会ったときから、味方だったときは一度もありませんでした」


 尖った声、というものではない。なのに、氷柱のような鋭さをその声に感じた。


「私はあなたのことを、何一つも理解していないです。

わかっていることは、ただ一つ。あなたが、弱い人間であるということです。あなたは弱い。弱いあなたは、ずっと勇気を得られないままでしょう。私はそう考えています」


 言葉が聞き取れなかった。何を言っているのだろう。自分は何を聞いているのだろう。


 近寄ろうとしていた体が、そのまま動けなくなっていた。今まさに、体が凍り付いている、と思った。


 歩き出したアイを、追いかけられない。去ろうとしているアイに、何も言葉をかけることが出来ない。


「最後に」


 ふいにアイが立ち止まった。


「あなたには、道も、選択肢も、可能性も存在する。ソラが後悔しない道を、選択肢を、可能性を、選んで下さい。……あなたの味方は、他にいるのですから」


 振り返らずに放たれた台詞も、やはり上手く聞き取れなかった。


 どういう意味か理解する前に、アイは去って行った。

 それは、二度と真意を聞き出すことが不可能になったのだと、示されていた。



 

 頭が混乱しきっていた。アイに言われた台詞も、アイにその台詞を言われた事実も、何一つ受け入れられていなかった。


 厚い雲が陽光を隠し、灰色に染まる住宅街の中を歩いて向かった先は、公園だった。道中、アイの姿を見かけることはなかった。


 そのアイから言われた、味方が他にいるという言葉。それで頭に瞬時に浮かんだのが、この場所だった。


 公園内は閑散としていた。木々がざわざわと揺らめく音が、不気味に広がっていた。黒く映る木々の中から、青色の小さな影が真っ直ぐに飛び出してきた。


『ソラ! どうしたの!』


 小鳥すっかり耳に馴染んだ声を発し、自分の前でぱたぱたと飛ぶ。片手を差し伸べると、そこに舞い降りた。


 皮膚に食い込む足の感触も、体の青色も、黒い目も、何もかもが変わっていなかった。変わらない姿をして、変わらなく話す姿に、意図せず目頭が熱くなった。


 この子だけは変わらないのだと、確かな安心感が強くなった。


「あの、ね」


 小鳥に聞かせたいことは山のようにあるはずなのに、そのどれもが声となって出てくることは無かった。

 その状態がますます混乱を呼んだ。穹は片手で喉を押さえた。冷や汗が滲んだ。


 すると慰めるように、小鳥は両翼を広げた。


『慌てないで! ゆっくりでいいよ! ……でも、何があったかはわかるよ。ソラ、傷ついているでしょう? 悲しんでいるんでしょう?』

「どうして、それを……」

『わかるよ! ソラのことならなんでもわかる! もしかして、誰かに傷つけられたのかな。でも安心してね、ワタシはどんなときでもソラの味方だか──』


 その瞬間だった。小鳥を乗せている穹の手に、静電気のようなものが走る感触があった。


 だが異変は、それだけではなかった。


 小鳥が、翼を広げた状態のまま、全く動かなくなっていた。

まるで時が止まったように。壊れて動かなくなったおもちゃのように。


 瞬間。穹の手の上で、小鳥が小刻みに動き出した。


『み……みカ……タ……』


 小鳥から紡がれたのは、声ではなかった。それは音だった。音として形成されない、雑音だった。


 直後、砂嵐のような音を耳にした。テレビから流れてくるような音だ。ザーというノイズの音が、小鳥の体から聞こえてきた。


「……やはり、ロボットだったか」


 茂みを掻き分ける音と共に聞こえてきたのは、抑揚のない、淡々とした声だった。視線をそちらに向けると、頭部がテレビの形をした人影が立っていた。


 その人の指先には、小さくパチパチと音を鳴らす電気が纏われていた。

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