phase6「井の中の蛙 大海を知らず」
どうして。なんでここに。なぜ。何も存在していなかった頭の中が、それだけで占められていく。
瞬きの間に、背を屈めていたマーキュリーが膝を折って座る体勢になっていた。
「目を開けたまま寝てるんですか? うーん、それとも起きてるんですかねえ?」
返す言葉は発せられなかった。まだこの状況に、心身が追いついていなかった。口が少し開いただけにとどまった。
わからないなあ、と左右に首を捻られる。眺めていると、突然肩に軽い衝撃が来た。
遠慮も躊躇も一切無しで、肩を叩いてきたのだ。肩だけでは飽き足らず、腕や背中など色んな所を所構わずばしばしと叩いてくる。
力はほとんど籠められていなかったので大して痛くなかったが、それが逆に良いように弄ばれているようで、体の奥底から少しずつ憎悪が滾ってきた。
「寝てるんでしたらね、質の良い寝具をお勧めさせて頂きますが~? ……もしもーし! 黙ってたらなんにもわからないですよ~! もしもーし!」
「……うる、さい」
「あ、良かった良かった。いつもの可愛くない穹さんだ」
言葉を絞り出すと、マーキュリーは含み笑いしつつ手を止めた。
「妙に静かになっちゃって、と思ってたけど、ま、人はそんなに早く変わらないでしょ」
「うるさい」
「うわー、怖いですねえ~!」
距離を取るように勢いよく立ち上がってくる。
声も、存在ももちろんだが、立ち上がった際のわずかな風圧も煩わしく感じた。羽虫がずっと付きまとっているような煩さだ。
本当にどうしてここにいる。それはずっと思っていたが、自分自身にも腹が立ってきていた。
よりにもよってこんな姿を、
片手が差し伸べられた。けれど穹はそれを掴まなかった。
手を睨み付けると、全身に力を入れた。上から興味深そうな視線が注がれていたが構っていられる余裕はなかった。
岩でも乗っているのではないかと思う程重い頭から、徐々に上半身をあげていった。道路を引っ掻きながら、長い時間をかけてようやく起き上がった。
が、下半身は地面と張り付いてしまったかのように、ぴくりとも力が入らなかった。
情けない事に起き上がったとき、はあはあと息切れを起こした。立つことはできないと悟った。
「なーんか満身創痍って感じですねえ。何があったんです~?」
「……」
見下ろしてくる視線が全身に纏わり付いてくるようで、不愉快極まりないと率直に思った。穹は無視を決め込むことにした。
相手をする力は、起き上がるときに全て使い果たしていた。
だがそんな反応も見通しているとばかりに、マーキュリーはくすくすと笑った。
「ほらほら~、言ってみなさいよ~。すっきりしますよ~? 私は話し上手ですけど聞き上手でもありますからねえ。さっ、お口開けてごらんなさ」
「うるさい」
「はいはい黙りますね」
睨みあげるとそれもまた想定の真ん中を行く行動とばかりに、余裕げに口を閉ざした。
胃の底に泥を飲み込んだようなむかつきを覚え始めた。相手をしたくなかった。一人にしてほしかったが、なぜだかマーキュリーは立ち去ろうとしない。
だからいないものとして考えようとした。何かを深く考えることにも、体を動かすことにも、意味を見出せられ無かった。
「……話し上手、か」
だが、マーキュリーの放ったこの単語だけは、響きながら体内に下り立った。
「話し上手って人の心理解してないとなれないものだよね……」
「まあそうとも限らないですけどね~」
「わからないな……。なんでなれるんだろう……。っていうか人の心ってなんだよ……」
「あれ、一人言か。私、置いてきぼりですか?」
そうならそうで構わない、という興味の無さが滲み出た口調だった。穹は顔を上げた。以前遭遇したときに言っていた台詞が思い出された。
「……君。前、言ってましたよね。他人に知った風な口利かれることが、されて一番嫌な事だって」
「……」
マーキュリーから一瞬にして笑みが消えた。両目が見開かれ、目つきが一気に険しくなった。
「なんでそんなに嫌なんだ」
「私の敵なのに、答えてくれると思ってるんですか?」
切り裂くように冷え冷えとした声で言い切った。これ以上そこに踏み込んだら容赦しないという確かな敵意を感じ取った。
「……まあいいや、別に……」
「またなんでそんな疑問を? 私のことを知りたいとでも?」
鋭利さが残る視線で、無機的に問うてきた。
有り得ないという意味をふんだんに込めて、首を左右に振った。
「いやまさか。どうでもいいですよ、君のことなんて。自意識過剰ですか?」
「……それもそうですね。あなたのその接し方で、私に興味があるなんてこと、有り得ない」
そこでやっとマーキュリーの尖った空気が成りを潜めた。また不快感を呼び覚ます笑みを浮かべてきて、穹は軽く目線を逸らした。
「ただ、知った風な口を利くのもなかなか難しいことだろうって、僕は思うんですけど」
眉をひそめてきた。何を言っているんだこいつは、と言いたそうな気配が伝わってきた。
「僕は知った口を利くことすら出来ない。人の心がわからないから。いくら考えてもわからない。何を考えてるか欠片もわからないことが普通なんだ。わからない僕は、ずっと損ばかりだったよ」
「わからないのが普通だと思いますけどねえ~。むしろなんで知りたいんです? 私だったら嫌ですよ人の心なんて。煩わしいだけですし」
わかるはずがない。人と接するときの、空を掴んでいるようなあの感覚。その人がどういう言葉で、どういう行動を望み、また嫌っているか、何もわからないあの感覚。
足場が不確かで、不安定な場所にずっと立たされているような恐怖を覚える。自分がどこにいるのか、自分がここにいて良いのか、覚束なくなっていく。
思い出すと、頭が重くなった。思わず俯いた。
「だけど、わからなかったら、わかってもらえない」
「何をです?」
「自分の心」
片手で心臓の辺りを触った。鼓動は伝わってくるものの、ここに心があるのかどうかは不明だ。確かめる術を持っていないからだ。
だが、本来あるべきものが収められていない感覚はした。
「自分の心をわかってくれる人が、どこにもいない」
「自分の心を知られるほうがもっと嫌ですけどねえ、私は」
「僕は違う」
自分だって、望んでこんな心に生まれてきたわけではない。
それでも、もしかしたらどこかに、いるのかもしれない。他者も、自分も望まないこの心を、理解し、認め、受け入れ、求めてくれる人が。
「……本当の僕を、全てわかってもらいたい。僕の本当の心を全部見せて、僕のことを全部わかってくれる人と出会いたい」
「うわ想像するだけでおぞましい……。なんでそんな変な願い持ってるんです~?」
俯いているのでどういう表情をしているかわからないが、マーキュリーはさぞ不快に顔を歪めているのだろうと感じた。
にもかかわらず、こうやって理由を聞いてくる。だが、踏み込みたいという思いは感じられない。
相手の周りをつつき、反応を面白がって自分が楽しみたいだけという意図が透けて見えた。
素直に白状するのは気が引けた。けれど嘆息した後、口を開いた。どういう言葉を返すか考えを巡らす気力も、黙り続ける体力も無かった。
「……透明に、なりたくないから。味方が、ほしいから」
視線が突き刺さった。言っている意味はわからないがとりあえずどんな様子になるか観察するか、と思っていそうな、興味があるのか無いのかわからない視線だった。
こんな態度をしてくる奴にわかるはずがない、と改めて感じた。
マーキュリーが自分の心を知られたくない理由がわからないのと同じだ。
自分は自分の心を知ってもらいたいが、その理由はこの人にとって、永遠に理解できない代物なんだろう。
透明になりたくない。
自分の心をわかってくれる人と出会えれば、きっともう、心を隠さなくてもよくなる。
透明でなくなる。確かな色を得られる。役に立てなくても、臆病でも、自分はここにいていいのだと、思えるようになる。
いつか来るかもしれないその日を夢見て、繰り返される透明人間の日々を送り続けていた。
だが。
「どうでもいい……」
「えっ?」
「全部どうでもいい、心なんていらない、もう嫌だ、もう何も考えたくない。心があっても、意味が無い」
「あらら~、立場的にしてはならない発言を」
面白いものを聞いたとばかりに、マーキュリーの声が弾んだ。
顔を上げると、不敵に輝く目と視線が合った。前方へ背を傾けてきたせいで、その目がより近くにあるものとして映った。
「そうですよねそうですよねえ。何も考えたくなる時があるのが人間というもの。
心って面倒臭いですもんねえ。けれど、これまた一体、どういう心境の変化です?」
「自分の心をわかってくれる人がどこにもいないなら、心があっても意味が無い。僕の味方なんて、どこにもいない」
「あれっ? 私の見る限りだと、家族にも仲間にも恵まれてるって感じがしますけど? あの人達は? 味方なんじゃないんですか?」
仲間の単語に穹は目を見開いた。それが誰を指しているか、すぐにわかった。
「違った!」
突然の大声にマーキュリーは一歩後ずさったが、どこか演技じみていた。浮かべた苦笑にこれ以上話を聞くのが面倒臭いと感じていることが暗に伝わった。
だから下を向き口を開いた。
「いなかった! どこにもいなかった! 僕をわかってくれる人が、どこにもいない!」
息切れが起きた。体から力が抜けてる中でいきなり大声を出したのだから当然だった。頭の奥の痛みを少しでも抜けさせる為に、息をゆっくり吐き出した。
「……誰の心も、信じたくない」
「信じたくない?」
聞き返してきたマーキュリーの声が、先程よりやや低くなったように感じたが、気のせいの域を超えていなかった。穹は頷いた。
クラスで、やっと自分の姿が他の人の目に映るようになったと思ったら、全て無かったことにされた。
自分の味方だと言い、自分の心を偽らずにいられた友人は、あなたは弱いとの言葉を残し、突然いなくなった。
自分のことを理解してくれていると素直に思う事ができた相手は、他者の手により仕組まれ、作られた存在だった。
これで、どうやって、誰を信じろというのか。
「皆もそうだ。僕が味方だと信じて、大切に思ってた人達を疑って、否定してきた」
だが、自分をわかってくれているのだと思えていたアイを、小鳥を敵だと告げられたとき。
美月が、未來が、クラーレが、ハルが、何を考えているのか、まるでわからなかった。どうしてそんなことを言うんだと、それしか考える事が出来なかった。
そして同時に感じたのだ。向こうも穹の心がわからないから、ああいうことが出来たのだろうと。
この人達と、わかり合うことは出来ないのだと。
「……もう誰も、信じられない」
アスファルトは冷たかった。膝をつけ座っている場所から、徐々に氷に変化していくようだった。
「──信じられない?」
骨に染みるような風が、路地を吹き抜けていった。その風音に紛れ込むように、マーキュリーが微かな声を零した。
感情という感情が全く入っていない、機械的な声だった。さすがに穹も、気にかかった。
「そう、か……」
顔を上げた。マーキュリーは目を伏せていたため、どういう表情をしているか見えなかった。何を思い何を感じているのか読めない、飄々とした空気が薄れていた。
空気が不自然に漏れ出すような音が聞こえてきた。それが笑った声だと気づくまで、時間がかかった。
笑っていると認識した瞬間、体を震えが駆け抜けていった。氷の手で内臓を撫でられたようだった。
「……よくわかった」
そこに降ってきたのは、氷柱か、火山弾か。どちらでもなく、マーキュリーの声だった。彼は、ゆらりと一歩分近寄ってきた。
次の瞬間。体が、頭が、ずしりと重くなった。
「お前。随分と、自分勝手な奴だな」
体が全然動かなかった。どうしてだろうか。
ただ、マーキュリーの手が、頭の上に置かれているだけだ。強い力で掴まれているわけでも、押されているわけでもない。
なのに、頭を引くことも、手を振り払うことも、何一つできなかった。
「自分の望む言葉をかけてもらえて、自分の望むことをしてもらえて。そういう奴だったら誰でもいいんだろ? もともと最初から信じてたわけじゃ無かったんだもんな、あの仲間達のこと」
すぐ目の前に、黄色い双眸が存在していた。眼光が、視線が、本物の刃のように感じた。人間のこんなに鋭い視線は、生まれてから一度も見たことが無い。
「どう、い、うこと……」
「だって信じたくない、信じられないって言うことは、そういうことだろ? 俺、間違ってるか?」
眼差しが体を貫通した。どうしてこんな目を向けてくるんだ。どうして、こんな憎悪の感情しか籠もっていない目を、向けてくる。
「本当は嫌いだったのに、大切に思ってる振りして付き合ってたわけだろ?」
体がかたかたと震え出す。呼吸がどんどん浅くなっていく。
怖い、と思った。怖い。今すぐにでもこの場から逃げ出したいくらいの恐怖を抱いている。
でなければ目を閉じ、耳を塞ぎたかった。だが体はやはり動かず、それは叶わなかった。
体が、心が、悲鳴を上げて拒んでいた。聞きたくない、これ以上聞きたくない。
「ずっと今まで、嘘吐いてたんだな。隠してたわけか。演技上手いなあ、さすがだ。今までの時間、切れ端も見せなかったわけだ。お前の本心を」
だが言葉は容赦なく流れ込んでくる。体内を渦巻き、沈殿していく。体がどんどん重くなる。
──自分はあの人達のことを、どう思っているんだ?
「ち」
「信じる振りを。信じていた振りをしていたわけか」
──振りだったのか。嘘だったのか。信じていなかったのか。嫌いだったのか。離れたかったのか。
「ち、が」
「何もかも、嘘だったってわけだ」
──自分の居場所は、あそこではないのか。自分は、あの場所にいたくないのか。
「……違わない。当ててやるよ、お前の本心」
マーキュリーが更に顔を覗き込んできた。暗く冷淡で、それでいてあまりにも鋭利に輝く無情な目がそこにあった。
「大切なのは、自分の望む反応を返してくれる存在だけ。それ以外は、どうでもいい。自分にとって必要無い。そう思ってるんだろ? 今も」
頭が明滅した。何かが激しく弾けた。その衝撃で目を見張った。声にならない声が勝手に漏れ出てきた。
一つの言葉が、一つの思いが、形となって怒濤の如く押し寄せてくる。
「違う!!」
全力で否定しろと、穹の心は確かに今叫んだ。
美月が、未來が、クラーレが、シロが、ココロが、ハルが。あの人達は自分にとって、何物にも代えられない、代えてはいけない存在だった。だから役に立ちたかった。だから心をわかりたいと思ったのだ。
その思いは、その心は、嘘にしたくなかった。無かったことにしたくなかった。他が何と言おうと、その心だけは、絶対に自分の中で否定してはいけないものだった。
「何が違うんだ。信じたくないと言ってたじゃないか、さっきまで。信じられないって言葉使うってことは、ずっと疑ってて、ずっと嫌いで、ずっとどうでもいいと思っていた。それくらいの意味があるんだよ、この言葉には」
奥歯を噛みしめた。自分は言ってはならないことを言ったのだと、改めてわかった。
「……違う」
なのに自分は、絶対に無くしてはいけないものを、無くそうとしていた。消そうとしていた。手放そうとしていた。否定していた。
なぜ今まで忘れていた。なぜ忘れる事が出来たのだ。
だが、完全に消えていなかった。それはずっとずっと、奥底に残り続けていた。
「この心」を、無かったことにできるわけがない。
誰の目から移らなくなったとしても、一生臆病者で終わるとしても。「この心」を無くすくらいなら、それは遙かに耐えられることだった。
明滅の終わった脳内に、星の輝きが広がり出す。皆と見た、あの人達と見た、星空の煌めきだった。
今までも、これからも、今も。あの人達が大切だという心。それが、自分が自分であれる、最大の証明だった。
忘れなくて良かった。思い出せて良かった。認めることが出来て良かった。
「違うんだ……」
わかるもわからないも関係無い。どうしてあの人達の心を信じられなくなる。
あの人達が、いつ、こんな自分を否定した。どうしてそれを、わからないからの理由一つで疑った。
あの人達がいるあの場所で、望んでいたものは充分すぎる程手に入っていた。自分が確かに得ていた色を、なぜ疑っていたのだ。
「この心」も含めて、自分が信じなくては、わかるものもわからないのに。
「……ああ、そうだ。お前に一つ良い事教えてやるよ、穹」
それまで無表情だったマーキュリーの口角が上がった。黄色い瞳が、怪しい輝きを放った。
「お前、青い小鳥と仲良くしてただろ。あの小鳥の台詞考えたの、俺だよ」
あっさりと、なんてことないように言ってきた。穹が浅く息を飲み込んだ微かな音を耳にすると、満足げに笑った。
「驚いたか? 元って言うか……土台だ。土台になる台詞考えたの俺なんだ。こういう台詞を元に台詞データを考えて下さいっていう。
理解者を欲している人間が求めている言葉なんか簡単にわかるんだよ。わかりやすすぎるからな」
くく、と喉の奥で押し殺した声で嘲笑される。
「だいぶ心開いていたようだなあ。あれ、実質俺みたいなものなのにさあ」
風が吹く。それに伴い、体温が下がっていく。鼓動が速まって、ゆっくりと遅くなっていく。
「ほら。本当の理解者なんて、どこにもいないだろ?」
なぜか目の前にいるマーキュリーよりも、その向こうに広がる灰色の空のほうがより鮮明に視界に映り込んだ。
あの空と、小鳥の体の中は、同じ色をしていた。
外の青色ばかり見ていた自分では、中の灰色の存在など、ずっとわからなかっただろう。
「他人がお前を見ていないんじゃなくて、お前が他人を見ていないだけだったりして」
そうだね、と薄く笑った。胸の辺りが重かった。懐かしい重みに思えた。
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