phase4「空の色」

 一人素振りしようと、支給武器である大剣を振り回しながら、屋上に訪れた時だった。そこに広がっていた光景に、マーズは赤い目を大きく見開かせた。


「なっ、何をやってんだ一体?!」

「染め物だよ~。危ないから気を付けて」


 だだっ広いダークマター本社屋上の一角が、大量の壺で占拠されていたのだ。

 その中心に立つジュピターは、ほら、と大きめの壺の一つを手に取り中身を見せてきた。


 そこには緑色の液体が並々と注がれていた。鮮やかだが目に優しい、不思議な色合いだった。


 他の壺の中身も見てみると、青や赤や紫や黄色や桃色など、壺の数だけ色が存在していた。

 たくさんの色が揃えられた中共通していたのは、刺激の強くない、優しい色という事だった。どれも、明るくも見えるし暗くも見える、複雑で繊細な色合いをしていた。


「おお、凄いなっ!」

「お花とか植物から抽出したんだよ~。綺麗な色でしょう?」


 ジュピターは本社にある菜園にて、花などを育てるのが趣味だった。この染料の材料である植物も、その菜園で育てられ採取されたものだった。


 もとい、その菜園は本社にある部屋の一室を勝手に大改造したものであり、サターンからの許可など全く得ていない。


 以前ジュピターは別の星で手に入れた植物の種を育てたところ、その種が常識を疑うレベルで急成長し、フロア全体が植物の蔦で覆われる事件が発生した。


 その時これでもかというほどサターンから叱られたジュピターは、以後植物を密かに育てるようにしていた。


「この染め物、僕の故郷の星に伝わる伝統工芸なんだよねえ~。故郷の植物で色を出したら、もっと綺麗で鮮やかな色になるんだよ」

「染め物得意だったのか、ジュピター!」

「得意っていうか、教わった方法思い出して、ちょっとやってみたくなったの。お母さん、昔しょっちゅう染め物していたんだよね」


 ジュピターはファーストスターでなく、ここよりも遠く離れた星出身だった。故郷を思い出しているのか、ジュピターの橙色の瞳がどこか遠くなった。


「にしても、なんでこんなにたくさんあるんだ?」


 ここまで壺が大量にあるのは、同じ色味の入った壺がたくさん存在しているせいだった。例えば緑色一つ取っても、濃い色から薄い色まで、幅広く分類されている。


 えへへ~とジュピターはどこか得意げに笑った。


「やっているうちに楽しくなっちゃって、止まらなくなっちゃったんだ~。

同じ色に見えても、一つ一つ微妙に違うんだよねえ。どれ一つとして同じものはない。だから面白いし、楽しいし、一つ一つの色が際立つんだよねえ。

これ、お母さんがよく染め物しながらよく言ってた言葉なんだよ」


 そうなのかあ、とマーズは感心深げに何度も頷いた。


「でも、どうしようかなあ、これ」


 染料だけたくさんあってもなあ、とジュピターは肩を落とした。


 屋上の片隅の方にジュピターが持ち込んだのか物干し竿のようなものが置かれており、そこに色が染められた布が風にそよいでいたが、壺の数の方が圧倒的に多かった。


「せっかくだしプルートに何かあげようかな。プルート、今度の計画凄い気合い入ってるみたいだから、頑張れって意味を籠めて!」

「おお、それは名案だな!」


 一連の潜入計画の総仕上げ、その役割を自分に全て担わせてほしいとプルートから連絡が来たのは数日前のことだった。


 ホログラム画像越しに見たプルートの、突き刺すような真っ直ぐな視線は、マーズもジュピターも印象に深く残っていた。


 ジュピターはたくさんある壺をぐるりと見回した後、困ったようにうーん、と唸った。


「でも何色が良いんだろう……?」

「迷ってんだったら、全部ってのはどうだ!」

「わあっ、それはいいね~!」


 手を叩いた後、ジュピターはおもむろに青色の染料が入った壺を見た。


「マーキュリー君にも何かあげたほうがいいかな?」

「あいつは……いやどうなんだ? 意味あるか?」

「何だかんだ言いつつ皆の力になってるもん、意味あるよ~。だってそうだしさ。っていうか、マーキュリー君ってどういうものをあげたら喜ぶんだっけ?」

「うーーーん、昔は格好いいの好きーと言ってて……あ、あれ、今は何が好きなんだっけ……?」


 思い当たる節の浮かばないことがショックだったのか、マーズは石のように固まった。

 見かねたジュピターが急いだ様子で、鮮やかな明るい赤色の染料が入った壺を指さした。


「あれ使って赤色の手拭い作る予定だから、出来上がったらマーズちゃんにあげるね~」

「いいのか! ありがとうな!!」

「マーズちゃんいつも怒ってばっかりで暑そうだからねえ」

「待てそりゃどういう意味だ!!」


 握りこぶしを作ったマーズに、途端にジュピターは泣きそうな顔になりながら縮こまった。

 明確に怯えるジュピターになんでこんなにおどついてるんだとマーズの怒りが更に強くなったときだ。


「貴様、屋上を私物化するなっっ!!!」


 怒鳴りながら屋上に踏み込んできた新たな人物に、ジュピターの怯えは更に強くなった。


 ひいいと悲鳴を上げた後、どちらに助けを求めるか迷ったように視線を交互にやり、最終的にマーズの後ろに隠れた。


「ごめんなさいサターンっ!」

「仕事中に何をわけのわからないことをやっている!!」

「どうしてばれたの……」

「社員からの報告だ!! 何をやっているのだ一体!!」

「まあまあそんな怒るなって!」


 マーズがばしーんと軽くサターンを叩くと、途端に鋭い視線が向いた。


「貴様もそうだ、仕事中になぜこんなところにいる!」

「剣の素振りに来たんだよ、体動かさないと息が詰まるっての」

「今は必要ではない、他にやるべきことがあるだろう!!」

「うるせえな、細かいことをいつもがみがみと!! 面倒臭いんだよサターンは!! なんでそんな面倒臭い性格してんだ!!」

「なんだその口の利き方は!!」

「やめてえ、二人とも仲良くしてえ……!」


 売り言葉に買い言葉で言い合う二人に、ジュピターは涙目で懇願した。そのせいか、サターンの鋭い目線の行き先が再びジュピターに戻った。


「ジュピター、今すぐにこの壺を片付けろ! そして仕事に戻れ! マーズ、お前もだ!」

「意地でも動かねえし意地でも戻らねえ!!」

「なんだと!!」

「ほ、ほら、僕からもちゃんと言っておくから、怒らないで、ね?」


 サターンは何も言わず、じろりと睨んできただけだった。ジュピターが言った所でマーズは何も聞かないと確信している、そんな信用の無さが紫紺の目に滲み出ていた。


 その目の色を見て、ジュピターは足下の壺を拾い上げた。


「サターンにも紫の手拭い作ってあげるからご機嫌直してよ、ね? これはね、紫色の花いっぱい使ってこの染料作ったんだよ、凄いでしょう! サターン、確か紫の花のキーホルダー持ってたし、だったらお花好きかなと思ってさ、だから絶対気に入ると思うんだけ」

「いらん!!!」


 雷に撃たれたような衝撃を覚え、反射的にジュピターの体は震えた。その衝撃により、壺の中身を少し零してしまった。

 サターンは音が出るほどの勢いで足下の壺を指さした。


「今すぐに! 片付けろ!!」

「ご、ごめんなさい~!」


 サターンの剣幕に恐怖を抱き、未だ降りかかる鋭い視線に威圧感を覚え、早く片付けなくてはと焦ったせいか。


 ジュピターの足が、壺の一つを意図せず蹴った。その壺は他の壺が並んでいる部分に飛んでいき、それらを巻き込んで、割れた。


 いくつかの壺が割れる音が響き渡り、中に入っていた染料が全て飛び散った。

「わあああああ!!!」とジュピターは頭を両手で抱えた。


「お、おいジュピター、怪我してないか?!」


 駆け寄ったマーズに、ジュピターは返事もできず、「色が~!」と涙を流すしかできなかった。


「泣くなよ、割れちまったもんはしょうがないだろ!」

「せっかく作ったのに~……!」

「ほらほら、あたいも片付け手伝うからよ! それでまた色を作ろう! 今度はもっと良いのが作れるかもしれないだろ? あっ、せっかくだしあたいにも染め物やらせてくれよ!」


 ばしばしと背中を叩き続けると、やがてジュピターは一つしゃくりをあげたのを最後に頷き、涙を強引に止めた。


「ああ、変な色になっちゃった……」

「気持ち悪いなあ……」


 壺が割れたことにより外に飛び出し、それぞれの色と混ざり合った染料は、壺の中に収められていたときのような繊細で美しい色は影も形も見えなくなっていた。


 青も赤も緑も黄も桃も黒も白も紫も、様々な色と混ざり合った結果、汚く、気味の悪い一色に成り果てていた。


 実に目に悪く、じっと見ていると気分が悪くなって夢に出てきそうだ。

この色で染められた布などが売られていても、まず誰も買わないことだろうと容易に想像できる色だった。


「今の宇宙のようだな」


 ジュピターは顔を上げた。どろどろに混ざり合い気味悪くなった色を、サターンの無機質な瞳が見下ろしていた。


「人は一人一人違う心を持っている。それがぶつかり合う結果、争い事が生まれる。結果この宇宙は、混沌としたものになっている」


 壺の中に入り分けられているうちの色一つ一つは綺麗なのに、割れて混ざり合った途端、目も当てられないような汚いものと化す。

 そんな風になった色を、サターンは苦々しい表情で見下ろしていた。


「心も、個性も、宇宙には不必要たる邪魔なものだな」

「わけのわかんねえこと抜かす暇があったらあんたも手伝えよ!!!」


 マーズの一喝にジュピターは体を震わし、また壺を取りこぼしそうになった。




 

 


 

 町を抜ければ、天文台へ続く道は一本しか続いていない。その道を進み続け、丘を上り、高台の広場に出たときだった。


 人影のいない広場で一人、芝生に座るアイを見た時、穹はその雰囲気の異質さに己の目を疑った。


 冷たいような、堅いような、それでいて内側に今にも粉々に砕け散りそうな不安定さを秘めているような。

アイであってアイで無いような空気が、周囲を渦巻いているようだった。


「アイ?」


 声をかけたが、反応が何も返ってこなかった。呼べばすぐ「はい」と返すアイが無反応、これだけでも何かがあるとわかった。


 もう一度名前を呼びながら肩を揺らすと、アイは勢いよく振り向き、仰け反ってきた。少し見開かれた目に警戒の色が宿っていて、穹は当惑した。


「ど、どうしたの? 僕だよ?」


 アイはゆっくりと何度か瞬きすると、「ソラ……」と体の力を緩めていった。目の前にいる人間が穹であることを、改めて認識した様子だった。


「何かあったの?」


 すると、アイは無言で何かを差し出してきた。見るとそれは、ブリキで出来たロボットのおもちゃだった。


 全体的に薄汚れており、古びた、言ってしまえばみすぼらしい成りをしていた。灰色であるはずのそのロボットは、所々錆びて赤茶色が混じっていた。


 手に取って少しいじってみた。腕を回してみると、それはつっかえることなく回転し、そろそろ取れそうだという事が伝わってきた。

 試しに背中についてあるぜんまいを回してみたが、そのぜんまいも錆びており、予想通りロボットが歩き出すことはなかった。


「このおもちゃ、壊れているのです」

「みたいだね……。これ、どうしたの?」

「拾いました」


 おもちゃを返すと、アイは両手で受け取り、ロボットの青く丸い目と目を合わせた。


「ゴミ捨て場の隅の方に転がっていました。……壊れているから、捨てられたのだと考えられます」


 ロボットが好きだから拾ったのかと思ったが、そのあまりにも静かすぎる声音に、違うかもしれないと考え直した。

 アイの態度からは、どうしてこのおもちゃを拾ったのか、理由を想像することが難しかった。


「古くなり、壊れたロボットは捨てられる。ですが、例えばこのロボットと全く同じものを新しく購入されたら、この古い方のロボットは、どうなるのでしょうか。無機物に、個性はあるのでしょうかと。そう考えると、気がついたら拾っていました」


 個性という言葉を発したときのアイが、なぜだか、とても苦しそうに映った。まるでその表情を隠すように、アイは首を上に向けた。


「星、見えないです」

「まあ、昼間だからね……」


 夜、多く天上にちりばめられる星は、今や影も形もない。太陽の光に遮られ、高い青空と、薄い雲しか見えなかった。


 やはり夜でないと、星は見えない。


 以前この場所に来たときは夜で、だから多くの星を観測することが出来た。そこにはアイがいたし、美月もいたし、未來もいた。


「以前ここで見た星空、鮮明に覚えています」


 ちょうどアイも同じことを思い出していたようだ。穹は上空を見上げたまま、頷いた。


「ミヅキさんから星座を聞いて、ソラから神話を聞いて……教わった話、全部覚えています」


 穹も、あの夜のことを、よく覚えている。その時抱いていた感情のことも。


 あの夜は、楽しかった。星を見ている間、とても幸せだった。美月と未來とアイと話しながら星を見ている時間が、永遠に続けばいいと思っていた。


 だが、夜が必ず明けて、星が見えなくなるように、永遠に続く時間など存在しない。


 星の明かりがちらりとも見えない空に目を注ぎ続ける。空の色は青い。けれど、自分が知る空の青ではなかった。


 穹にとって、もうずっと空の色が、くすんで見えていた。体育祭が終わったときから、ずっと空の青の眩さが、わからなくなっている。


「地球から見れば、星はどれも同じに見える。けれど同じように見える星も、一つ一つ違う。これはあの星を見た日、ミライさんから教わった話です」


 アイがロボットを両手で持ち上げ、掲げた。太陽との距離が伸ばした腕の分だけ近くなったものの、光の当てられたロボットは、より古びた身なりが強調される結果となった。


 アイはじっとロボットを見つめたまま、視線を逸らさなかった。


「個性を持っていない人など存在しないと仰ってましたが……確かにそうですね。そうかもしれない。

私は、だった。それ以外、有り得ない。変わることは無い。私は私のまま、永遠に変わらない。それがわかった」


 ロボットを握りしめる両手に、力が籠められた。彼女の放った個性の一言が、やけに無機質な響きに感じ取れた。


「うん。アイはアイだよ」


 アイの体が、ぴくりと揺れた。


「自分は自分って思えるって、凄いことだと思う。なかなかできないんじゃないかな」

「……凄い、ですか。そうですか」

「うん、凄いよ」


 自分では出来ない事だから。そういう思いを込めて、穹は視線を前へやった。見晴らしの良い丘から、遠くに広がる町を見下ろして、重い息を吐き出す。


 自分は自分。穹はそう考える事が出来なかった。


 “自分”のことを本当の意味で見えている人はいないと気づいた中で、なぜ自分を自分と主張できるのか。

 穹自身でさえも、自分に価値を見いだすことができないでいるのに。


「……ソラは、どうしてここに来たのです」

「……一人になりたかったからかな」


 遠くに見える町は、自分を置いて回っている。広場に誰も人がいないのも相まって、ここだけ外の世界から切り離された別世界に感じられた。


「一人になりたかったのでしたら、私は立ち去りましょうか?」

「あ、ううん。そんなことないよ。むしろいてほしいかな」


 アイを発見したとき、驚いたのも事実だが、同時にほっと息を吐きたくもなった。

 恐らく、本当に一人でいたら、眺めた青空が更にくすんだ色に見えていたはずだった。


「学校でもそれ以外でも一人になってるのにもっと一人になりたいとか……おかしいよね」


 口ではおかしいと言っているのに、多分今の自分は、笑えていない。


「僕って、なんなんだろう。今まで何を信じてきたのかな。何を願ってきたのかな」


 体育祭の日以降、穹は学校で、変わりない日々を送っていた。

 教室で“透明人間”だった頃と、変わりない日々という意味だ。


 穹に話しかけてくる者はいない。意図的に避けられているふしまである。


 ひそひそと話し声が聞こえてくるときもある。そういうときはほぼ確実に、穹のことが話題に上がっている。

 「嘘つき」だと、「役立たず」だと、そういう言葉が穹の名前と一緒になって耳に届くからだ。


 だが、そんなことはどうでも良かった。以前までの日々に戻っただけだ。それだけなら、わざわざこの場所まで来ようと思わない。


 今日、校庭の隅で話す、美月と未來の姿を、教室から見かけた。

 距離が遠いせいで、何を話しているのか、どういう雰囲気なのかさえもわからなかった。観察する前に、目を逸らしたからだ。


 学校で、未來から声をかけられるときがある。けれど、振り返って姿を見た瞬間、それ以上彼女に近づくことが出来なくなる。姿を見続けていることが出来なくなる。


 美月に対してもそうだった。クラーレに対してもそうだった。


 目を逸らすとその瞬間に、自分がここにいて、ここを歩いている感覚が、限界まで無くなる。

 その感覚に襲われた後、決まって、脳裏に星空の映像が流れる。


 ハル達と見た、星空の映像が流れる。


 今日は、美月と未來と来たこの天文台のことを思い出した。だから、ここに来た。ここに向かっている間、同じことばかり考えていた。


 一人になりたい。自分を見えている人が誰もいないのなら、このまま一人でもいいかもしれない、と。


「僕の心って、なんなんだろう。僕のことをわかってくれる人っているのかな。僕は何を信じているのかな。僕の色って、なんだろう。」


 ずっと、心が“軽い”。何も入っていないような軽さだ。それを覚える度に、自分の心とはなんなんだろうかと、日に日にわからなくなっていく。


 胸中を吐露した後、長い静寂が流れた。静かすぎて、むしろ鼓膜が落ち着かなくなった。


「実は私、今まで友達が、いませんでした」


 アイを見た。アイは前方に視線を注いでおり、こちらを見ていなかった。


「ソラが、初めて出来た友達だった」


 一人言のように、その言葉は紡がれた。穹は、ゆっくりと目を見開いた。


「私にとってソラとは、そういう存在です」


 アイは、持っていたロボットに視線を落とした。


「伝えておくべきだと判断したので、伝えました」


 声が出てこなかった。口が震えるばかりで、そこから音は形成されなかった。


「……ありがとう」


 かろうじて、それだけやっと言えた。両膝を抱え、そこに顔を埋めた。


 ぽっかりと空いた心の穴に、隅々にまで水が注がれ、巡っていく。その勢いに、そもそも目を開けていることなど出来なかった。


 今は、青空を見たくなかった。あの青を映してしまえば、ただ泣くことしか出来なくなりそうに感じた。


 どれくらい、そうしていたのだろうか。時間を置いてから目を開けてみると、周りの眩しさにしばらく目が慣れなかった。

 少し瞬きを繰り返した後、口を開いた。


「自分が何を信じているか、わからないって言ったけど」


 結局自分はずっと透明のまま。もとから透明人間。自分が持つ「穹」という名前にある、美しい空の色を持つことはない。


 その現実に直面した時、今まで自分が何を信じてきたか、なぜ勇気を求めてきたか、何もかもわからなくなった。しかし。


「でも、アイのことは、信じているんだ。これは、間違いない」


 アイのことを、不思議な子だと思っていた。個性的な子だと、思っていた。


 寡黙なのに、目を離せない。アイのそんな一面が。いつも穹の心を、偽らせず、隠させずに、表に出させてくれていた。


 穹はそんなアイの持つ心を、信じているのだった。初めてアイと会ったときから。


「そうですか」


 風に乗って、本当に微かなアイの声が、聞こえてきた。ブリキのロボットをぎゅっと抱きしめた。


 それきり話題がなくなった。何を話せば良いのか思い浮かばなくなり、穹は勢いよく立ち上がった。


「アイ! そのおもちゃ、直すことは難しいかもしれないけど、錆は取れるよ!」


 アイは穹とロボット、両方を見比べた。突然の穹の言動に戸惑っている故の行動に見えた。


「錆取りの方法、父さんから教わって、知ってるんだ。少しは綺麗な見た目になるかもしれない。やってみてもいいかな?」

「……いいですよ」

「じゃ、早速行こう」


 はい、とアイが立ち上がり、歩き出したときだった。ふいにアイはある一点に視線をやった後、歩みを止めた。


「……あの建物は?」


 広場の向こうに広がる森。その奥の方に、木々に紛れて、色のすすけたビルのような四角い建物の屋上が、顔を覗かせていた。


 遠目でも蔦が壁に絡まり、風雨にさらされ続け本来の色が剥げ落ちていることがよくわかる。


「じいちゃんから聞いたけど、確か昔、この天文台に関係する資料とか保管してた場所……だったかな?」

「そうなのですか?」

「じいちゃんがここの台長さんと知り合いだから、間違いないと思う。でも今はあの通り、もう使われていないし立ち入り禁止になってるんだけどね」


 立ち入り禁止、と、なぜかアイはその部分だけおうむ返しした。聞き返す前に、アイは歩き出していた。





 美月は重く鳴り響く心臓を抑えることが出来なかった。緊張から滲んだ汗は、冷水のようだった。


 ドアの隙間から様子を窺うと、玄関先で、穹とアイが会話をしている光景が、まだ続いていた。


 ここ一週間近く、音沙汰がないと思っていたら、まさか。


 そこまで考えた所で、穹はまだアイの正体について何一つ知らない事に気がついた。


 自分とも、ハル達ともずっと距離を置いているのに、どう穹が信頼している存在について、その思いを裏切るようなことを告げればいいのか。

 全てを知った自分でさえも、まだ完全に受け入れているとは言い難いのに。美月は、未だ動揺の渦中にいたのだ。


「どうかな? 少しは綺麗になったと思うんだけど」


 穹がアイに差し出したのは、ブリキで出来たロボットのおもちゃだった。レトロチックなデザインを差し置いても、古びて寂れた見た目をしていた。


 穹の手に錆取り専用の布が握られていることから、恐らくロボットについていた錆を取ったのだろうと想像できた。


 それでも年季の入った空気は否めなかったが、ロボットは鈍色を綺麗に反射させていた。錆がついていたら、もっと古めかしい見た目だったのだろう。


 ありがとうございます、とアイは丁寧に一礼しながら、両手で恭しくロボットを手に取った。


「上がっていかなくて大丈夫なの?」

「いえ……お構いなく」


 アイが遠慮したのは、美月が家にいることに気づいているからかもしれないと感じた。


 一度、穹が布で錆を取っている間、ふいにアイが顔を上げて、美月が隠れているドアへ目をやったのだ。


 完全に感知していなくとも、気配は察しているのかもしれない。その目を見た瞬間、美月は思わず後ずさりそうになった。


 悲壮や孤独、それら全てを押さえ込んだことによる冷たさが、青い瞳の奥に凝縮されているように見えたのだ。


 無理矢理氷付けにして冷たさを得たような瞳。

 その勢いに気圧され後ずさりかけたところを立ち止まれたのは、その目が、とても寂しそうだったからだ。


「……ソラ」


 アイはロボットを抱きしめ、顔を伏せたまま、穹のことを呼んだ。


「自分が何を信じているか、わからない。自分が何を願っているか、わからない。自分の心が、わからない。先程、そう仰っていましたね」

「ま、まあね」


 美月はドアの隙間から、気づかれないように、穹を凝視した。こちらに背を向けているため、穹の顔は見えなかった。

 穹の心もまた、見えなかった。そんなことを、漏らしていたのか。


 アイは姿勢を正し、軽く息を吸い込んだ。


「どうか、ソラの心に、正直になって下さい。偽らないで下さい。隠さないで下さい。ソラの心が言っている言葉を、ソラが聞いてあげて下さい」


 微かに穹の肩が震えた。


「……僕は、何も隠してないよ。嘘吐くの下手だもの」


 ややあって小さく呟かれた穹の言葉を、アイは首を振ることで否定を示した。


「ソラは、隠し事が上手な気質を持っていると考えられます。ですが、それはあまり望ましくないことです。ソラの心に、ソラが従うべきなのです」

「……どうして急に、そんなことを」

「ソラは、どうして自分に話しかけたか、私に聞いたことがありましたね」


 思い出すように、アイは目を閉じた。実際は、記憶ではなく、データを遡っているのだろう。


「初めてソラと会った日。あの中で、ソラは、他と違った」


 言ってからアイは、緩くかぶりを振った。


「でもそれは当然のことでした。ソラの心は、この宇宙でたった一つだけですから。ソラの心は、ソラだけのもの。ソラにしか持ち得ない、色です」


 穹が息を飲んだのが伝わった。「色」と呟いた声が、泣き出す寸前の声みたいに、震えていた。


「私からの、お願いです。そんな、貴重で、大切な、ソラだけにしか持てないソラの心に、従ってあげて下さい。ソラの心が願っているもの。

ソラの心が信じたいと思っているものを知って、気がついて、従ってあげて下さい。

どうか、ソラの心のままに」


 お願いします、と。言いながら、アイは深々と頭を下げた。


 見下ろす穹がどういう感情を抱いているか、美月はわからなかった。


 この場面を傍で見ている自分は、動揺している。

 けれど穹は、きっと動揺は抱いていない。その証拠に、「わかったよ」と返した声は、静かで、揺らぎがなかった。


 アイが顔を上げた。瞬間、美月は目を見張った。


 笑っていた。アイが、笑顔を浮かべていた。うっすらとしたものだったが、笑っていた。


 穏やかな笑顔だった。花のよう、とはこういうときに例えられるのだろうと感じた。豪華絢爛でなくとも、可憐で優美で、人の心を癒やす花のような。


「本当に、お願いしますね」

「うん。ありがとう、アイ」


 穹の声も、優しかった。こんなに優しい声を聞いたのは、久しぶりだった。


「僕、君と友達になれて、本当に良かったと思っているよ」

「私もです。もっとソラと、お話ししたかった」


 それでは、とアイはまた頭を下げた。普段の無表情に戻っていた。


「これで、失礼させて頂きます」

「うん。またね」


 背を向けたアイの髪には、今までずっと挿されていた桜のかんざしが、なかった。予想していたはずだったのに、胸が痛んだ。


 アイ。ばたんと音を立てて閉じられたドアの向こうにいるアイを呼ぶ。


 アイ、あなたは誰なのか。本当に敵なのか。本当に私達と敵対したいのか。ソラと敵対したいのか──。


 アイは、穹のことがよくわかっている。美月は気づいた。自分では知らなかった穹の心を、アイは知っている。


 早いうちに、聞いておけば良かったのだろうか。穹の心について。そうすれば、今度のようなことは回避できたのか。


 違う、と思う。アイだからこそ、気づけたのだろう。アイの持つ個性が、穹の心を明かせたのだ。きっと、他の誰にも、成し得なかったことだろう。


 傍らで、理性が言う。穹とアイがまだ接触している状況は危険だと。ハル達に知らせて相談した方がいい、と。


 こんな時にそんな冷静なことを考えた自分に、どこか裏切られたような気持ちを抱いた。


 ドアの隙間から、穹の様子を窺う。

 穹に、本当のことなど、言えるわけがない。何も知らなかった自分に、言える権利など。


 だがそれは言い訳であるとも気づいていた。

権利など建前だ。そうではない。言う勇気が、ないだけだ。


 穹はずっと、閉じられた玄関を見つめていた。

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