phase2「心のままに」

 「お一人ですか」


 穹は嘆息しながら首を振った。


「違う。友達と一緒」

「……友達」


 周囲に目をやるアイに、手のひらを見せた。小鳥は飛んでいったりせず、大人しく乗り続けていた。


 小鳥の黒い瞳と目を合わせたアイは、「……なるほど」と普段よりも無機質な一人言を発した。


「前までは公園の外からあまり出たがらなかったんだけど、今はこの辺りまでなら来られるようになったよ」


 色んな所に行ってみたいけれど怖い。でもソラが一緒なら平気。

 小鳥はよくそう口にする。言葉通り、今いる川原のような、公園のある住宅街を少し離れた所までなら行けるようになっていた。


 もとい、そんな事実をアイに話すわけにはいかない。


「僕はこの子が大好きだし、この子も僕を大好きって言ってくれるんだ。僕の大切な、一番の友達だよ」

「……随分仲良くなったのですね。以前と比べて」


 指の腹で頭を撫でると、小鳥は嬉しそうに、鳥の声でさえずった。


 その様子を立ったまま見ていたアイは視線を落とし、手を組んだかと思えばすぐに解いた。

 忙しない動きに、何かを言いたそうにしている空気が感じ取れた。


「……ソラ」


 何事か聞く前に、向こうの口が先に開いた。


「小鳥と仲良くしているのも良いかもしれませんが……その……他の方は?」

「……他?」


 「他」が何を指しているかすぐにわかった。けれども穹はわざと聞き返した。

 アイが一瞬言葉に詰まったように息を飲んだのは、思っていたよりも自身の声が低かったせいかもしれない。


 アイはゆっくり深呼吸すると、真っ直ぐこちらを見た。ただ正面から見ている目ではなく、そこに芯のようなものが通っている目線に感じられた。


「ミヅキさんやミライさんは? どうして最近、一緒じゃないのです? ……喧嘩したのですか?」

「……喧嘩、か」


 それは違う、と心の中で言う。喧嘩は、仲直りすることができるものだ。


「仮に、姉ちゃんや未來さんと喧嘩してたとして、アイに関係あるかな?」

「……私が、それにより実害を被っているわけではありませんが。ただ、気になるだけです。最近のソラ、ずっと様子がおかしいので」


 そうだねと相槌を打つ。確かに自分はおかしくなっている。少なくとも、今までの自分とは違うとはっきりわかる。そもそも今までの自分とは、なんだったか。


「ずっと感情が……なんといいますか、落ち込んでいるように見えるのです。明るい感情が一つも見えないソラを、放っておいてはいけないと、そう考えまして」


 立ち上がり、川の近くまで移動しつつ、台詞を背中で聞く。アイからこんなに話してくるなんて珍しいと思いながら、穹は目の前を流れる川を覗き込んだ。


 自分の手に乗っている小鳥が首や羽を動かしたりすると、水面に映る青い小鳥も同じ動きを見せる。だからここに映っているのは、間違いなく穹自身であるはずだった。


 だが、本当にこれは自分なのだろうか。自分の姿を忘れた訳ではないのに、そこに現実味がなかった。


 自分で自分の本当の姿がわからないなど、いよいよ本物の透明人間になったようだ。

 そう思うと、意味も無く笑っていた。


「確かに、全然明るい感情が見えないね」


 むしろ、ここまで感情の欠落した表情ができたのかと、感心すら覚える。これでは気にされるのも無理はないと、背後を振り返った。


「いいよ。何があったか教えてあげる。……時間ある?」


 それまで黙って穹に視線を投げていたアイが、一つ小さく頷いた。確認してから、小鳥に控えめに頭を下げた。


「ごめんね、今日はこの辺りで。また明日会おうね」


 小鳥が澄んだ声で鳴いた。ちゅんちゅんというさえずりだったが、穹の耳にはわかったと言っているように聞こえた。


 飛び去っていく小鳥の羽ばたきが完全に見えなくなるまで見送った後、ついてきて、と土手を上った。アイは、黙って後にならった。


 川原から離れ、電車を用いて移動し、目的地まで向かった。


 駅からの道を歩いて行くとき、アイが「図書館に向かうのですか?」と尋ねてきた。

 それが移動を開始してから初めて生まれた会話だった。穹はかぶりを振った。


 確かにこのまま進めば図書館と科学館の揃った場所に辿り着ける。しかし穹が行きたいと思っている場所は、そこではなかった。


 車一台も通れなさそうな狭い路地裏に入ってしばらく歩いた頃。穹は目的の場所で立ち止まった。作られてから日が浅いとわかる、真新しい雑居ビル。

 敷居の外から見上げる建物は初めて見るものだが、懐かしさを覚えた。


「ここに来たかったのですか?」


 背後からの問いかけに、そう、とビルを見上げたまま返す。


「前来たことあるんだ。建物が出来る前の、工事してた時にね」


 工事がされていた頃、地面は土だった。その地面は今や、アスファルトで覆われ固められている。そこは記憶と異なるが、周りを囲むビルは変わっていない。


「ここで僕は、姉ちゃんを助けた」


 詳細は言えないから、言わない。だが振り返って見たアイは、穹の抽象的な一言に疑問を抱いた素振りを見せず、ただ建物を、というより、建物が築かれた地面を眺めていた。


 穹も同じように、再び建物を見た。


 五月のことだった。初めてコスモパッドで変身した時の事を、今でも覚えている。


 喉の渇きを覚えた時、穹が来ていた図書館内は飲食禁止だった。


 なので図書館から出たとき、表に置かれた屋根のついた机の上に何かを見つけた。タブレットのような端末と、ご自由に遊んで下さい、と機械が書いたような几帳面極まりない字で書かれた立て札が置かれていた。


 その立て札を見ても、穹は落とし物か忘れ物かと思った。もしくは何かの罠なのではと、空想に近い無駄な不安を抱いた。


 交番に届けようとしたのだが、端末に無視できない心の惹かれが生じていた。

 タブレットそのものにはもともと興味があり、気になっていた。こういう機種を持っておらず、触ったこともなかったから、好奇心が湧くのは当然と言えた。


 ご自由に遊んで下さいと書かれてあるのだし、と怪しい立て札を免罪符にして、黒い液晶画面に触ったのだった。


 それから画面に表示されたシューティングゲームをクリアした直後、機械が両手から離れなくなった。頭がその事態を理解する間もなく、新たな異変が生じた。


 タブレットが光を放ち、変化したのだ。このコスモパッドに。穹は左手首に目を落とした。


 あの後ますますわけがわからなくなって、口を開けたままその場で呆然と、変化したばかりのコスモパッドを凝視していた。


 恐る恐る画面に触れてみると、変身する時は指を画面に当ててコスモパワーフルチャージと言って下さい、という男性の音声が流れた。今思い返してみると、あれはハルの声だった。


 自分の身に起きたことが到底受け入れられず、脳細胞が全く動いていなかったため、正常な判断をすることが出来ない状況にあった。


 だから言われるがまま、液晶画面に人差し指をつけて言ったのだ。


 直後変身した。


 その後のことはあまり覚えていない。衣装が変わった自分の姿に呆気にとられ、次いでパニックになった。


 わけがわからぬまま走ってみれば自分のものとは思えない程の速度が出て、飛び上がれば建物よりも高い位置まで跳躍した。


 混乱は増すばかりだった。ショートを起こしかけている頭が考えたことは、図書館に行く道中でたまたま出会った、近くにいるはずの美月の元まで行く、ということだった。とりあえず美月に会えば、気持ちが少し落ち着くかもしれない。


 それからジャンプを駆使しながら走っていた時だ。今まで聞いたことが無い衝撃音が鼓膜を揺らした。何かひどく巨大なものが振動を鳴らしているような音。


 その音の発生源が、この建物のある場所であり、当時は工事現場だった。ジャンプして近くの屋上に着地し、上から様子を見てみて、己の目を疑った。


 そこには、生き物──否、見たことが無い程の大きなロボットがいた。


 その向こうに、美月がいた。変身している自分と同じような格好をしていたが、見間違えようも無かった。


 動けない様子の美月と、美月に迫り来るロボットを見て、瞬時に理解した。美月が危ない、と。


 直後、自分のすべき行動が決まったのだ。美月を守る、と。


「懐かしいなあ」


 口に出してみると、より懐古への浸りが深くなった。コスモパッドの液晶画面に映りこむ自分の目にも、感傷が滲んでいるとわかる。


「どうして、この場所に来たのですか」


 アイの問いに、体が浸かっていた過去が波のように引いていき、空虚さを帯びた現実が晒された。


 改めて、コスモパッドを見た。隅から隅まで見た。


 習慣というのは恐ろしい。ハル達と距離を置いているこの状況下でも、出かける際はコスモパッドを身につけて外出している。


 全くの無意識だった。自身の左手首に、これが装着されてあることが、穹にとっての「当たり前」だった。


 初めて変身して、初めてこの場所で戦ったときは、当たり前とは程遠い場所にあったのに。


「勇気が欲しかったから、かな」

「勇気?」

「意を決するための勇気だよ」


 穹はコスモパッドの、手首の内側に当たる部分を見た。そこについてあるボタンを押すと、パッドが手首から外れた。穹はその音が、何もかもを断ち切った音に聞こえた。


 過去、記憶、思い。それらを繋ぐ糸がぷつんと切れた音。そんな風に聞こえた。


 こんなに空しさを感じる音がこの世にあるのかと初めて知った。


 それまでコスモパッドがつけられていた左手首が、宙に浮いているような、何とも言えない軽い感触を穹に伝えた。ここまで軽かったろうか、この手首は。


「疲れたんだ」

「……疲れた?」


 言葉にした瞬間、心臓のある辺りが重くなった。多分心臓そのものが重いわけでは、ない。


 液晶に映る自分から目を逸らすように、片手でコスモパッドを服のポケットの奥深くまで押し込めた。


「自分の心をわかってくれる人は、僕の周りにはいないって、気づいた。だから、もう疲れたんだ」


 ゆっくり、アイと向き直る。


「姉ちゃんや未來さんとは喧嘩してないよ。代わりに、もっと酷いことになってる」


 アイは両目を見開いた。そのまま信じられないと口にしそうだったし、見張った目を元に戻してやはり、と呟きそうでもあった。


 どちらの反応か見る前に、穹は顔を伏せた。


 誰の役にも立てず、何の意味も存在しない。


 体育祭の時、身を以て理解した。自分はそういう存在なのだと。


 こんなに弱く、誰の目にも映らない人間といて、が何も思わないはずがないのだ。


 ハルも、未來も、クラーレも、美月も。きっと、穹のことを役立たずと思っていたはずだ。


 本当のところは不明だ。穹は誰の心の内もわからなかった。皆がその実、心に何を抱えているかわからなかった。


 こちらがわからないのなら、向こうだって穹のことを何もわからない。


 どっちも、お互いのことを何もわかっていないのだと。


 今思い返すと、その事実に気づいた時、心臓辺りが急激に軽くなった。何かを叫びたくなるような軽さ。


「……疲れた」


 言った途端、心に穴が生まれた気がした。底の見えない深さと暗さを持つ穴。


 自分がいなくなっても、あの人達は、いなくなったことにも気づかないはずだ。あの人達は強いから。自分のような霞んで消えるような弱い者が近づいてはいけないほど、強いから。


 持っている側に立つ強い人間が、持っていない弱い人間の心など、わかるはずがない。


 なのに、あの人達の名前を心の中で言うと、途端にずっと名前を呼んでいたくなる。体に広がる空っぽの感覚が、強くなる。


 このわけのわからない思いを断ち切るために、ここに来た。自分の全ての始まりである、この場所に。


「……皆と過ごすことは無い、と?」


 アイの言葉に頷くまで、時間がかかった。けれど、頷かないつもりはなかった。


「もう、戻れないんだよ」


 呟いた体が、やけに重くなった。


 顔を上げると、胸の前で両手を組んだアイの目と、視線がかち合った。その目が、何かを言いたそうにしていた。


 予想通り、アイは口を開いた。


「先程も、私は似たようなことを言いましたが。最近のソラ、ずっと苦しそうです。明るい感情が、全然見えないです」


 確かにそうだ。喜びも楽しさも、自分の中で薄れていると実感している。それだけでなく、きっと、喜怒哀楽全般が。


「私は、ソラの心のままに行動してほしい。ソラがこのままでいいと言うなら、私は止める権利もないですし、無理しなくていいと考えます。ですが、ですが……」


 言っている途中で、アイは堅く目を閉ざした。


「……ソラが不快に感じさせる危険性がありますが、言っても宜しいですか」


 頷いて促すと、ありがとうございます、とアイはまず一礼した。


「私は、ミヅキさんとミライさんと、仲直りしてほしい」


 まるで言い聞かせるように。ゆっくりと、確かな口調で、アイは言った。

 アイは目を開けると組んでいた手を解き、体の下の方で両手を軽く握りしめた。


「今のソラの様子を見る限り、難しいとは充分承知しています。けれど、もし仲直りしたい心が少しでもあるなら、それに従ってほしい。……私からの、お願いです」


 切実さが勝手に伝わってくる真っ直ぐな目を逸らさぬまま、どうか、と続ける。


「どうか、ご自身の心に、従って下さい。ソラの心は、ソラだけのものです。ソラの心は、誰にも管理されないものなのです」

「僕の心、ね……」


 穹は顔を上げた。真っ青な秋の空が、広がっていた。どこまでも続くような、終わり見えない高い高い空。見続けていると、首が痛くなってくる。


「ちゃんと自分の心に、従ってるよ」


 今の心を、自分は偽ってもいないし、隠してもいない。本心のままに、生きている。


 そう言おうと、首を戻したときだ。アイが大きく目を見開いて、固まっていた。


「あれ……?」


 ぽつりとアイは呟くと、頭を抱えた。


「……あ、れ……?」


 アイはしばらくの間、そうやって頭を抱え続けた。突として起こった異変に、穹は愕然と立ちすくむしかなかった。





 かん、かん。空きビルの暗い室内に、ガラスを叩く高い音が反響した。アイは窓辺に近寄り、窓を開けた。


 夜の闇でもわかる鮮やかな青色の小鳥が、室内に入ってきた。


 声も出さず音も立てない小鳥を尻目に、アイは細長いコードを取り出した。


 コードの先端を折りたたみ式のパソコンに繋いだ後、小鳥の片方の羽を捲った。付け根辺りを触っている間も、小鳥は全く動かず、一切抵抗を見せなかった。


 やがて、皮膚に空く穴を見つけた。羽に紛れているせいで普段は見えないが、よく触るとわかる小さな穴。


 アイはそこに、コードのもう片方の先端を差し込んだ。


 本物の生き物に、こんなことをするのは不可能。しかしこの小鳥には、コードを差し込むことが出来る。


 それはこの小鳥が本物の鳥ではなく、ロボットであるからだった。


 小鳥から放した指を見る。羽毛の感触も、伝わってくる体温も、本物の鳥と生き物と完全に同じだった。


 そして、パソコンを操作し始めた。幾つかキーボードを叩いた後に表示された、数字やグラフの記された画面を凝視する。


「……依存度合いが高まっている……」


 この小鳥が観測した、対象の精神の変化であるデータ。数値を見れば明らかだった。


 ソラがこの小鳥を信用していることは見ただけでわかったが、数字の上でも明瞭に示されていた。信用というには、いささか度が過ぎていると見受けられる程。


 mind奪還を目的とするハル捕獲の為に、ハルとハルを護衛する人間達の間に亀裂を入れること。これが現時点でセプテット・スターが行っている計画だった。


 度重なるダークマター側の敗北に痺れを切らし、内側から切り込むしかないと、この潜入計画が生み出された。


 けれどダークマターどころか宇宙人が実在していることも知らない地球人の住む星で、表だったことは本社の印象に著しく関わるためできない。


 なのでアイが単独で送り込まれた。アイが志願して、「潜入計画」に乗り込んだ。


 そして、あの中で最も弱い心を持っていると判断されたソラに、接触したのだ。


 亀裂を入れるのが潜入計画内容だったが、潜入したアイがそれを行うわけではなかった。人間と接することにはむしろ不慣れなアイに、そんな巧妙なことができるはずない。


 アイの役目は、接触したソラの持つ心の弱さを明らかにさせることだった。


 接触の対象をなるべくソラに絞り、ソラから悩みや苦しみを提示させる。


 その内容を報告し、その報告を参考に作られたのが、この。小鳥の形をした、ロボットだった。


 ミヅキやミライに与えても意味が無い。この小鳥はソラと接触させてこそ、持つ機能を最大限活かすことができる。


 この小鳥には、主立った機能が四つある。


 小鳥らしい飛び方や食事をする機能。対象の精神状態の観測と数値によるデータ化。

 対象の顔色や前後の台詞から判断して、膨大な量の台詞データの中から最適な台詞を発する機能の他に、もう一つ大きな機能がある。


 それが対象に向けて放たれる、「依存させる波長を放つ機能」だった。


 波長は非常に微弱なもので、脳の機能をおかしくさせる、といったことは起こらない。生活にも支障が出ない程微々たるものである。


 けれど対象の精神状態によれば、たとえ微弱な波長でも、対象はこのロボットに強い盲信を抱くことが充分に有り得る。


 精神状態いかんによっては、放たれている実際の波長量関係なしに、どんどん盲信することも可能だった。


 アイがあらかじめ収集しておいたソラの持つ弱みにこの小鳥ロボットがつけ込み、小鳥に対し盲目的な信頼を抱かせる。逆に仲間への信用を減退させ、結果亀裂を入れる。


 難しい計画だろうとも言われていた。だが、仲間といるのに孤独を味わっているソラが対象ならば、必ず成功する、と見込まれていた。

 その予想は見事に当たった。


 今日のソラの発言。小鳥から送られてきたデータからわかる、ソラの精神状態。


 「亀裂が入っている」という状況は、まさしく今の状況を言う。ほぼ間違いないと、アイは確信した。


 今夜にでも、本社への定期報告で伝えなくてはならない。「最終段階に移行できます」と、断言しなくてはならない。


 コードを引き抜いた小鳥を窓の外へと飛ばし、送られてきたデータをダークマターに送る為の資料として作り直しているときだった。その手がふいに止まった。


 報告をするのは、もう少し待つべきなのではないか。そのような考えが浮かび上がる。


 最終段階に行けるという宣言をするには、慎重にならなくてはいけないのだ。


 ここまで積み重ねて、最後の最後で失敗したら、もう他にどう手を打てば良いのか。九割方大丈夫とは考えるが、残る一割が懸念として残っている。


 もしかしたら仲直りするかもしれない。その可能性だってゼロではない。ゼロではない以上、待つべきなのでは。


 だってソラがミヅキと行う喧嘩は、すぐに仲直りするものじゃないか。


 綺麗に決まっている喧嘩の流れを、記憶データから蘇らせる。


 なぜそれで言い争うのかいまいちわからない理由でミヅキとソラが喧嘩した後、ミライがたしなめてあっという間に終わる。そういう状況になるかもしれない。


 怒っているのに、楽しそうでもあるあの喧嘩。争っているのに、確かに幸せの感情を抱いているあの喧嘩。


 本当は仲が悪いわけではないのだ。だから、仲直りしてほしい。


「あれ……」


 アイは両手で頭を抱え込んだ。


「明らかにおかしい。絶対におかしい」


 触れた頭部のどこかに、間違いなく異常事態が発生していると再確認した。


 今日起きた事。今日会ったソラに対し、言ったこと。


 ミヅキとミライと、仲直りしてほしい。


 自分でも到底信じられないことだが、確かにそう言ったのだ。


「いやいや、おかしいです。有り得ません有り得ません」


 こんな発言をするなど、有り得ないはずだった。


 ダークマターに、最高幹部社員集団セプテット・スターに従属するのが最大であり唯一の役目である、プルートのコードネームを持つロボット。


 このロボットには、とあるプログラムが原則として埋め込まれるのが決まりとなっている。


 それは絶対的なものであり、例え自分の身に危険が及んだとしても、指示に反することは出来ない構造となっている。


 いついかなる時も、ダークマターに逆らわないというプログラム。


 プルートというロボットが行動する上で、このプログラムの働きが全ての前提ともなっている。アイも例外でなかった。


 逆らわないということは、ダークマターの思想にも反しないことでもある。


 にも関わらず。今日のアイの発言は、ダークマターに、というよりセプテット・スターの思想に反するものだった。反すると考えられる発言だった。


 狙い通り、ソラは孤立している。仲間の間と亀裂が生じている、予定通りの状況になっている。


 なのになぜ、自分はあんなことを。仲直りしてほしいなど。


 アイは盛大に音を立ててパソコンを閉じた。


「……100%おかしい!」


 この思考はなんだ。亀裂を入れるという計画内容に、反する思考では無いか。


 手で頭を何度か叩いたが、今日の自分が明らかに異様な思考を遂げた事実は変わらない。

 アイは隅の方に置いてある大きなトランクを両手で掴み、引き寄せた。


「……博士がメンテナンスを許さないのなら……」


 人間の感情を、普通の人間と同じように察することができるようになったとき。どうも自分の体に、非効率な行動や言動が多発するようになったとき。


 報告をしても、アイを作った博士は、頑なに故障でないと言い張った。メンテナンスの心配は無用と。


 だが今の自分が勝手に行っている思考は、例え故障でなくても、決して無視できない。プルートとしての存在意義に関わる、根本的な問題が発生しているのは間違いなかった。


「私が! やります!」


 このトランクは荷物ではなく、パソコンだった。トランクを開け、パソコンから伸ばしたコードをこめかみに貼り付け、キーボードの音を鳴らす。


「是が非でも故障を見つけて、全体修理を要請するのです!」


 このトランクは、自分をメンテナンスするための専用の機械だった。


 あくまでも簡易用のため、研究所でメンテナンスするより明らかに性能が落ちるものの、ここまで明確な異常が発生していたら必ず伝えてくるだろう。


 今までも異常が無いか、起動して確認してはいた。しかし確認作業が甘かったと、今になって気がついた。


「異常の起きている可能性があるとしたら自己判断プログラムでしょうか……」


 慎重にキーボードを叩きながら、画面に表示される情報を一つ一つ見ていく。

以前と少しでも違うことがあったら見落とさぬよう、つぶさに眺めていく。


「……違う。では一体どこに……」


 正常な項目の並列を見進めていくにつれ、早く異常を見つけなくては、という考えが強まっていく。


 早く異常を見つけて、直さなくては。上に逆らうなどあってはならないこと。


 ソラが皆と仲直りして欲しいなど。元通りの関係性に戻って欲しいなど。

 そんな、今まで積み重ねてきたものを全て崩すような、計画の根幹に反することを考えるなど。


 地球の太陽が東から昇って西へ沈むのが当たり前なように、アイの考えは常識では考えられないことだった。この常識は何が起こってもひっくり返らない不可侵なものだった。


 アイは装着してあるコードを更に強く押しつけた。片手でコードを支えながら、もう片方の手でタイプを続ける。


「直さなくては……」


 早急に直すべき事項だった。自分はプルートとして、考えてはいけないことを考えた。この思考の異常を疑い、起こっている異常の原因を探り、修理をする。

 自分はそう動くべきだったし、それが当然だった。


「直、す……」


 この常識外な思考の原因を探らなくては。直さなくては。そうでないと、自分が自分でなくなっていく。


 アイの両腕から、力が抜けた。


「……なおしたくない……」


 仲直りしてほしい。


「このままでいたい」


 ミヅキとソラが喧嘩して、ミライがのんびりとたしなめる。なんとなく、あの光景を、また見たかった。


 三人の心を、見たかった。


「なおらなくていい」


 自分の発した言葉の意味を、はっきりと理解したその瞬間。みるみるうちに自分の目が、開かれていった。


「何をっ……!」


 何を考えた? 何を考えている?


 おかしい。全てがおかしい。画面に異常が表示されていないことそのものがおかしい。


 どんなに考えても、考えても考えても、何もわからなかった。自分の身に何が起きているか、わからない。わからないのに、考えることがやめられない。


「なんということを……なんてことを、私は……!」


 頭を両手でわし掴み、強く押さえ込む。


 頭脳の片隅で、まだ“自分”は考えている。直さなくていい、と。直らなくていい、と。


 恐らく自分は、壊れている。どこかが壊れている。どこかはわからない。けれども、壊れているのだ。


 壊れているのなら、直すのが道義なのに。


 強く髪を引っ張った。ぷつんと音がし、何かが解けた。かん、と高く小さな音を残した、床の上で小さく跳ね、少し遠くに転がっていった。


 薄いピンク色をしたその物体に伸ばした手は、震えていた。そのせいで、一度掴んだそれを取りこぼしかけた。落とさないように、二度目は強い力で掴んだ。


 手の中におさまった桜のかんざしを、両手で握りしめた。


 顔を上げると、窓ガラスが目に入った。その向こうに、星空が瞬いていた。


 以前あの三人と星を見たときよりも、その数はずっと少なかった。


 数えられそうな量の星は、アイがデータとして保管されている星空よりもずっとずっと、遙かに遠く映った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る