phase3「正体発覚」

 美月が家を出ようと階段を下りていったとき、玄関のドアが開いた。現れた穹に、反射的に「お帰り」と言いそうになった。


 しかし、目が合った瞬間。一瞬だけ交わった視線が、すぐに向こうから外された。


 美月のことなど見なかったように、そのまま隣を歩き去り、階段を上っていった。


 その足音を背後で聞きながら、美月はふと、昔のことを思い出した。


 穹との年齢は一つしか離れていない。だからか、自分が「姉」であるという感覚があまり無かった。

 主に自分の都合の良いときだけ姉という立場を引き合いに出すが、基本的に「姉」の自覚は薄かった。


 だが、そんな美月でも、「姉」が濃くなる瞬間があった。


 ずっと小さかった頃の話だ。部屋の隅でうずくまって、泣き続けている穹の姿を見たことがある。


 真っ暗な和室にある箪笥たんすの影に身を潜める穹は、闇に紛れ今にも消えそうに映った。


 慌てて駆け寄ると、穹は最初なんでもないと言っていたが、言い訳が通用する状況でないと悟ったのか、嗚咽おえつ混じりに訴えた。


「幼稚園の皆、僕を無視するんだ。仲間はずれにするんだ。僕のことなんか、誰も見えていないんだよ」

「なんですって!!」


 怒りに委ねて声を荒らげれば、穹は怯えたように身を震わせた。


 穹は本当に大人しい性格をしていた。弟としての生意気な部分は持ち合わせていたものの、その生意気さを他者に向けることはまずなかった。

 その大人しさは、温厚なことは確かだが、舐めてかかりやすいと考える人が現れても不思議ではなかった。


「ぶっ飛ばしてあげる! 誰なのそいつらは!」

「や、やめて。弱虫な僕が悪いんだから……」


 本人にこう言われてしまうと、美月が出来る事は何も無かった。また膝を抱えて泣き出した穹を、傍で見ていることしか出来なかった。

 涙の声の中に、「勇気が欲しい」という掠れた台詞が、時折交ざった。


 耳にした瞬間、体が動いていた。


 穹の嗚咽が困惑したように止まった。美月の腕の中で、穹はわずかに身じろぎした。


 抱きしめながら、美月は言った。


「姉ちゃんには、穹のことが見えているよ。世界中の人間が穹のことを見えなくなったとしても、私には、穹の姿がずっと見え続けているからね! 絶対に!」


 少しして、ありがとう、という穹の声が、耳に届いた。まだ泣いているようだったが、幾ばくか明るくなっていた。


 とんとんと背中を叩きながら、思ったのだ。この“弟”は、私が絶対に守ると。


 成長するにつれ、穹はこんな風に泣かなくなった。それは、強くなったからではなく、泣いている姿を見せなかっただけなのだと知った。


 昔みたいに、影に隠れて、一人で泣いているのは、変わりなかったのだ。


 あの時、穹を守ると確かに思っていた。だが本当は、守るどころか、穹を傷つけていた。


 いつからだろうか。ずっとなのだろうか。


 そのずっとがどれくらいの長い年月なのかわからなくて、美月は自分の足下がぐらぐらと揺れる感覚に陥った。そのまま地の底まで沈んでいくようだった。


 青いノートの時もそうだった。どうして肝心なことに、何も気づけないのだろうか。

 

 





「アイのこと、まだ混乱しているか」


 正面のソファに座ったハルからそんな言葉をかけられ、美月は勢いよく顔を上げた。


「当たり前じゃない!」


 はっきりと断言する横で、未來が何度も頷く。美月ほど混乱を露わにはしていないが、未だ動揺しているのことは目を見れば明らかだった。


「だってそんな……どう見ても人間にしか見えない人が実はロボットですって言われても、信じられるわけないよ!」


 美月は早口で訴えた後、視線を宙に這わせた。片手で抑えた頭が、ずきずきと痛む。


「それに、まさかアイが……」


 昨日、唐突に、ハルから「非常に重要な話があるから今すぐに宇宙船に来て欲しい」と連絡があった。

 どういうわけだか、穹は呼ばないで欲しいと付け加えてきた。


 様子がおかしいと思ったが、それ以上にただならぬ気配を感じ取った。急ぎ足で宇宙船に向かい、未來と揃って聞いた話は、やはり到底予測出来たものではなかった。


 アイという子を知っているかと開口一番聞かれ、肯定すると、即座に「そのアイはロボットである可能性が高い」と続いたのだ。


 混乱する間もなく、ハルはそう考える根拠を述べてきた。


 以前町でばったりアイと会った時、その際のアイの言動や行動が、機械の思考回路に基づくものとほぼ同じであったこと。それを唯一であり無二の根拠として説明してきた。


「人間がロボットについてわからないように、ロボットも人間についてはわからない。だが人間が人間を理解できるように、ロボットもロボットを理解できる。わかるんだ。同じだ、と」とも言った。


 ロボットに似た考え方を持つ人間もいるのではないかと、反論したときだった。それまで黙っていたクラーレが口を開いた。


 昨日ソラの家の元まで行った時、アイの姿を見かけたと。

その時、クリアカプセルをつけているはずなのに、目が合った気がしたと。

アイの目が、人間の目にしては、あまりにも無機的すぎる目に見えたと。


 それでもおいそれと受け入れることはできなかった。知っている人が、ついこの前会ったばかりの人が、でなかったなど。


 混乱が一周回って、もはや頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。


 その状態を察したのか、ハルはもう一つ伝えようとと考えていた事があったが、今日はやめておこうと言った。

しかし明日必ず言うので、絶対に宇宙船に来るようにと伝えられ、その場は解散となった。


 家に帰った後も、とても頭の中を整理できなかった。事実を全く受け入れられなかったが、時間経過と共に、頭のどこかで冷静さが取り戻されていくのを感じた。


 信じられない。けれど、ハルがいたずらにこちらを混乱するようなことを言うのはもっと考えにくい。


 AMC計画のことを伝える時も、非常に慎重になり、何度も言うのを躊躇っていたというハルだ。


 ハルがアイをロボットと感じるほど、アイがロボットに似た人間なのか。

本当にロボットなのか。


 思い返してみると、確かにアイは、喜怒哀楽全ての感情に乏しかった。ほぼ無いと言ってもいいくらいだった。

 ハルのような論理的な口調で話し、思考も合理的。冷徹な性格と言うにはあまりにも冷徹で、理論的。


 不思議に思ったものの、そういう人間も中にはいると信じて、疑わなかった。


 その理由は他ならぬ、アイが人間にそっくりすぎたからだ。


 人間に寄せられて作られた人形ではなく、もともと人間だったが人形に変化したと感じるくらい、アイは人間と同じ見た目をしていた。


 どんなに無機的な性格をしていてもロボットという前提が浮かんでこないほど、人間と同じだった。ロボットかもしれないと言われた今、アイを思い浮かべ、まさかと考えるくらいには。


 なので今日の時点でも、混乱は静まっていなかった。一晩程度では何一つ飲み込められなかった。気を抜けば質問攻めになりそうなところを、懸命に堪えている状態だった。


 ハルもわかっているだろうと想像できる中、神妙に口が開かれた。


「まだ混乱している中、今から私が言うことは更に混乱を招く結果になると容易に想像がつく。だが、なるべく早く言っておかなければならない内容のため、伝える。申し訳ない」


 そう前置きした後、ハルは指を一つ立てた。


「アイがロボットであると、昨日言ったな」

「何一つ状況が飲み込めていないけどね! っていうか全然信じられていないんだけど!」


 身を乗り出すと、申し訳ない、と再度謝られた。


「ロボットである仮説を進めると、不可解な事項がいくつも生まれてくる。あそこまで巧妙に人間そっくりのロボットを作ることは、地球の技術では不可能なはずだ。

なのに、どうしてあそこまで人間に寄せた見た目をしているか。そして、なぜ正体を隠しているか、だ」


 一旦考えようとしてみたが、ハルの言いたいことがまるで伝わってこなかった。未來と目を合わせて様子を窺えば、彼女もまさにきょとん、とした表情になっていた。


「ミヅキ、ミライ」


 ハルの隣に腰掛け、それまで顔を伏せていたクラーレが顔を上げた。鋭い目に、意図せずたじろいだ。


「九月の京都でのこと、覚えてるか?」

「も、もちろんです」


 未來が横で何度も頷いた。


 美月と未來が修学旅行に行っている間、ハルとクラーレと穹も、京都へと瞬間移動された事件があった。

 これはダークマターの仕業であり、自分達が知らない間、ハル達は大変な目に遭っていた。


「あの時、襲ってきたネプチューンは確かに言ってたんだよ。プルートがミヅキとミライに妨害工作を行ってるって。だが、俺達が襲われている間、二人の身には何が起こった?」


 記憶を辿ったものの、これといったものは思い浮かばなかった。つまり、何も起きなかったことの証明でもある。


 何も無かった、という意味を込めて首を振ると、クラーレは目を閉じ一呼吸置いた。


「妨害工作って言うくらいだから、てっきりプルートという奴がミヅキとミライに実害を与えていると思っていた。無意識の内にそう考えてたが……違ってたのかもしれねえ」

「私も、もっと他の可能性を追求するべきだったと、今更気づいた」

「ふ、二人とも、何の話を進めてるの?」


 尋ねた美月に、そして未來に向かって、クラーレは時間をかけて息を吐き出した後、勢いよく顔を上げた。


「ミヅキ。ミライ。言ったよな。プルートの妨害工作はなかった、って。だが、本当にそうだったのか? 俺達が襲われている間、何があった? ?」

「だから何も無かったってば……」


 今一度記憶を辿る。ハル達から聞いた襲われた時間帯、何をしていたか。

 未來が顎に添えようとしていた手を、ぴたりと止めた。


「……アイちゃん」


 一瞬聞き返しかけ、すぐに記憶が蘇った。


「……あ、そうだ! 確かに、アイと会った!」


 本当に偶然、アイと遭遇した。用事があるのだが迷ってしまって目的地に行けないというアイの為、教師達のもとに向かい、その後目的地であるという場所まで案内をした。その際、後日渡そうと思っていた桜のかんざしをあげたのだった。


 思い出せた喜びで手を叩いた。だが、その場の空気は明るくならなかった。むしろ、更に重く沈み込んだ。


「もし、アイが来ていなかった場合……ミヅキとミライは、何をしようとしていた?」

「ハル達のところに行こうとしてたよ? 移動のために変身しようとした瞬間に、アイに声をかけられて心臓が飛び出るかと思った」


 その後コスモパッドに着信が来ていたことにも気づいたが、アイの前で堂々と出るわけにはいかなかった。振り返ってみると、不運が重なった、と思う。


 びっくりしたよね、と未來に同意を求めようとしたときだった。隣にいる友人は、目を見開いた状態で、固まっていた。


 宙の一点を見つめ固まる体は、よく見ると小刻みに震えていた。どんどん顔面が蒼白になっていく未來は、考えるまでもなく、ただならぬ空気を全身から発していた。


 どうしたの、と肩を揺らしても、未來は微動だにしない。混乱して向かいのハルとクラーレを見れば、二人は未來とは全く逆で、落ち着き払っていた。


 そう、とハルが頷く。


「そ、そうって……?」

「アイが来なかったら。ミヅキとミライは私達のもとに駆けつけられていた。よって、私達が危機に陥ることもなかったんだ」

「い、いやいやそれは偶然でしょう? アイのせいじゃ」

「ミヅキ」


 クラーレが鋭い視線を投げかけてきた。


「俺も最初ミヅキ達から偶然会ったっていう話を聞いたとき、少し妙だと感じた。偶然にしては、あまりにも出来すぎてるんじゃないかってな。だがさすがに考えすぎかと思い直した。でも、そうじゃなかった。必然だったんだよ」


 言われたことを理解する前に、次の言葉が発せられた。


「これは、妨害と呼べるんじゃないか?」


 妨害、とゆっくり繰り返す。一瞬、全く知らない単語に感じられた。


 アイが妨害? なぜ? 何の為に?


 言われた言葉が頭の中でぐるぐるとかき混ぜられ、やがてそれは一つの事実に形を変えていった。


 その瞬間、呼吸の仕方を忘れた。瞬きすらままならないのに、体の震えだけは止まらなかった。


「でも……だとしたら……」

「全ての点と点が繋がる。そう考えられないか?」


 ハルが手のひらをこちらに向け、一つ一つ指を折っていく。


「ロボットの可能性。正体を隠していること。地球で作られた可能性が低いこと。そして、京都での一件。これら全てを繋げていくと、一つの仮説が自然と出来上がらないだろうか」


 一度点と点がつながり出すと、あとは止まらなかった。


「……ハル、あの時言ってたじゃない。ハルが逃亡したとき、〈プルート〉は人型じゃなかったって……」


 言った後で、これは認めたも同然、納得したも同然だと気づいた。自分でも意外なほどに、まさか、とは考えなかった。


 アイが、敵であることに。


「恐らくプルートだけ交代された可能性が高い。セプテット・スターが交代されないままプルートのみ交代、というのは過去なかなか無い事例だが、完全に無いわけでもない。

プルートという役職を課せられる必須条件がロボットである以上は。

新たに高性能なロボットが作られたため、そちらのロボットにプルートのコードネームが移されるという件もいくつか存在する」


「でも、どうして私達に、近づいてきたんでしょうか……」


 項垂れた未來が、か細い声で尋ねた。答えたのはクラーレだった。


「相手がダークマターなら、狙いは一つしかないだろ」

「でもどうして攻撃をせずに……」


 そこまで言った時、未來があっと声を上げた。


「スパイ……」

「私もその可能性が高いとみている。業務補佐を目的の為に作られているプルートが、諜報まで担うとは考えにくいが、全くの不可能でもない」


 ハルは美月と未來の顔を順番に見た。


「今の仮説は、こうだったら分が悪い、という想定の話だ。だが常に最悪のケースは想定しておかなくてはならない。こうだったらまずい状況、その状況が降りかかる可能性が最も高いのは事実だ。

ダークマターが具体的にどういう計画を練っているかわからない。しかし何かが行われようとしていることも、それにより私達が危機に陥る状況になることもほぼ間違いない。

今は幸い何も起こっていないが、これは単に準備段階だからかもしれない。とにかく決して楽観視してはいけない状態にある」


「私達は、どうすればいいんですか?」


「諜報員の可能性が高いなら、その諜報員という立場を根本的に危うくすればいい。距離を取るか、堂々とあなたはロボットで敵でしょう、と告げるのもいいかもしれない。正体がばれたら、これ以上正体を隠して近づくことが出来なくなる」


 未來の表情に苦渋が浮かんだ。美月も、それには躊躇いが湧いた。


 先日会った時、彼女は髪に、渡したかんざしを身につけていた。黒い髪に、小さな桜色がアクセントになり、よく似合っていた。感情の起伏に乏しいが、かんざしを喜んでくれたのだ、と感じた。


 そのアイに面と向かって突き付けるのか。正体のことを。


「待って下さい」


 その時だ。未來が音を立てず立ち上がった。見上げた未來の横顔は、先程よりも更に顔色が悪くなっていた。しかし真っ直ぐに、ハルとクラーレを見据えていた。


「穹君には」


 未來がその名を口にした瞬間。時間が、一気に止まったように感じた。


「どうして穹君には言わなかったんですか、今の話。どうして穹君、今日ここに呼ばなかったんですか?」

「証拠がないからだ。今言った仮説の物的証拠が一つもない以上、ソラは信じない」

「だけど!」


 未來は一歩分詰め寄った。テーブルに足がぶつかる音が響いたが、気づいていないようだった。


「アイちゃんと一番仲良しなのは穹君です! アイちゃんは、穹君に一番近づいてるんですよ!」


 クラーレが浅く頷いた。


「俺も見た。一昨日、ソラがアイといるところ。……元気そうだった。仲良さそうだった」


 未來が息を飲む音が聞こえた。あるいは、自分が息を吸った音だったのかもしれない。


「じゃあやっぱり、危ない。穹君が、今一番危ないですよ!」


 勢いよく立ち上がっていた。そのまま足音を鳴らして、部屋の隅まで向かう。

 そこに置かれた揺りかごの傍に座り、中で眠るココロと、揺りかごの下で丸まって眠るシロを見下ろした。


 このふたりを見ているといつも心が落ち着いてくるが、この時は、ずっと心臓の音がやかましいままだった。


「……未來。今の穹は私達の言うこと、信じないよ」


 発した声が自分のものと思えなかった。確かに聞き慣れているにも程がある自分の声であるはずなのに、全く知らない人の声に感じた。


「もし証拠っていうのがあっても、信じないよ。だってもう、私達のことを信じてないんだもの。どんなことであっても、私達の言うことなら、何一つ聞かないと思う」


 何も考えなくても、勝手に台詞がすらすらと出てくる。


 背を向けているので未來とクラーレがどんな表情をしているかわからないが、絶句の音は聞こえてきたので、そういう表情をしているのだろう。


 ぱちり、とシロの目が開いた。大きなあくびをしながら緑色の目が美月を見た途端、シロの首が傾げられた。誰かを心配しているときと同じ仕草だった。


「言ってたでしょう。穹、私達といてずっと辛かったって。あれが穹の本心だったんだよ。嘘偽りのない穹の心の声。ずっと本当の心を隠してたんだよ。私のことだって……」


 最近、ちゃんと穹の声を聞いていない。父や母、祖父と話している声はちゃんと聞こえてくるが、自分に向かって発せられる穹の声を、体育祭の日から、一回も聞いていない。


 穹の目も、ちゃんと見ていない。見ようとしても、すぐに逸らされるからだ。だが自分に対してどういう感情を抱いているかは、逸らされる直前の目を見ればわかる。


 あれぞまさに“闇”だ。夜のようだとか、そういう他のものに例えられないような、闇そのもの。


 その奥にどういう感情を抱いているかは、暗闇が濃すぎて見えない。だがわかる。あんな無機質な瞳を向けることができている時点で、わかる。


「私が姉じゃない方が良かったって、ずっと思ってたのに、その素振りを欠片も見せなかったんだよ。穹のこと何もわからない。こんなに上手くそんなこと隠してた時点で、私、穹のこと信じられないよ」

「美月っ!」


 こちらに駆け寄る音が鳴り響いた。その足音は自分のすぐ後ろで止まった。肩に強い力の籠もった手が置かれた。


「だから放っておいてもいいって言うの?!」

「ミライ!」


 焦燥感が強く表れたクラーレの声が続いた。だが未來は、肩から手を離さなかった。更に強く肩が掴まれた。


「今の状況! 穹君、本気で何をされるかわからないんだよ! どんなに後悔しても手遅れなことが、起きるかもしれないんだよ!」


 肩にかかっていた力がふいに消えた。背後のやりとりからして、クラーレが未來をたしなめ、どかせたようだった。


 ココロの目が開いた。騒ぎのせいで起きてしまったのか、困惑げに青と赤の目をあちらに行ったりこちらに行ったりさせた。

 気配を察したのかハルがやってきて、ココロを抱きかかえた。


 揺りかごの中が空っぽになっても、美月はそこから視線を外すことが出来なかった。未來の言葉が頭の中で鳴り続けて、体の自由を奪っていた。


 体がどんどん重くなっていく。それに呼応するように、体温が徐々に下がっていく。寒さを感じる。


「わたし」


 発した声は、やはり自分のものとは思えなかった。聞き取れないほど震えていた。


「どうして、あんなこと、言ったんだろう」


 自分の声が、頭から離れないのだ。あの時穹に言った言葉が、延々と脳裏にこだまして、薄れてくれないのだ。


 こんな格好良くない弟、欲しくなかったと言ったこと。穹が、弟じゃない方が良かったと言ったこと。


 何度考えてもわからないのだ。ただの一度も本気で思わなかったことを、なぜ口に出せたのだろうか、と。


 背が勝手に丸まっていく。喉の奥から、形のない何かがせり上げてくる。


「穹、ひどいんだよ。謝らせてもくれないの」


 何度も何度も言おうとしてるのだ。ごめんなさいと。けれど一番最初の一音すら言わせてもらえない。


 目が合った途端、顔を背けられる。向けられた背から、二度と近づくなという訴えが体の芯まで響いてくる。それを感じてしまうと、言葉が出てこなくなる。


 遠い、と思う。穹が遠い。


 自分の一番近くにいたと思っていた弟が、実は果てしなく遠い所にたった一人でいたのだと、つい最近になって気づいた。


 どんなに手を伸ばしても届かない。一歩たりとも、近づくのを許してくれない。


「そらッ……!」


 揺りかごの縁を両手で掴んだ。涙が零れていた。勝手に流れ出した涙は、なかなか止まらなかった。


 いつの間にか、ハルもクラーレも未來も、周りに集まり、床に座っていた。それなのに皆の名前を呼ばず、この場にいない弟の名前を呼び続けた。


「美月。美月は、本当は、どう思ってるの?」


 未來の手が、肩に乗った。先程とは違い、優しい手つきだった。


「いつもみたいに、自分の心に正直になれよ。それが、ミヅキの生き様だろ」


 クラーレの言葉に吹き出しかけた。確かに自分は、心を偽ることも隠すことも出来ない。自分の心、と心臓に手を置いてみる。


 もともと隠すことができない仕様になっている自分の心。目を閉じなくてもすぐにわかった。

 ずっと思っていたことだったから、答えが出るのは自分でも驚くほどあっという間だった。


「穹はわからないって言ってた。私達の心が。私もそうだ。穹の心が、最近まで全然わからなかった。わかってなかった。

だから、もう遅いかもしれないけど、今からでもわかりたい。穹が、私のことを信じられないなら、その分、私が穹を信じたい」


 ずっと一緒だったのに、自分は穹のことを何一つもわかっていなかった。穹が心の底で何を抱えていたか、ずっと知らなかった。

 こんなに鈍感な姉に、嫌悪感を持つのは当たり前だろう。


「穹が、私のことを凄く嫌いでも」


 腕で両目を乱暴に拭う。震える声を意地で抑えて、心の底から声を吐き出す。


「だけど私の弟を傷つけるのは、誰であっても許さない!!」


 何も知らなかった自分がこんなことを言う価値は無いのかもしれない。だが、嘘はどうやってもつけない。これ以上、穹を守りたいと思う心を、偽れなかった。


 一気に立ち上がる。周りに座っていたハル達の顔を順番に見下ろした。


「ミヅキらしい、と考える」


 一人頷くハルに、指を向ける。


「あ、でも、証拠が一つも無いのに疑ってかかるのはどうなんだろう。違ってたら、アイに凄く失礼だと思わない?」


 話を進めてきたものの、この仮説が成り立つのは、アイがロボットであることが前提条件となっている。

 もしロボットでも何でもなく、人間だった場合、何もかもが的外れになる。


「あなたはロボットでしょう! って突き付けといて違ったら、それこそ最悪のケースになるじゃない。もし私だったらぶち切れるよ!」

「それもミヅキらしい考えだ」


 すると、クラーレが苦い表情になり、腕を組んだ。


「言ってる場合か? ハルがこう言ってるくらいだし、ほぼ間違いないんじゃないか?」


 でも、と言う前に、未來がクラーレの肩を軽く叩いた。


「実は私、ロボットとは考えにくいんです。だってアイちゃん、この前会ったとき、珍しく感情を露わにしてたので」

「感情な……」


 美月も印象に残っている。星を観測しに向かったとき、穹がアイをかかろうとしたお湯から庇った。


 その際、突如アイは声を荒らげたのだ。自分には感情が無い、心が無い、庇う価値などないと叫んだのだ。


 叫ぶことそのものが感情のある証だと考え、その時は否定した。しかし今思うと、あの時アイは自分で、自分の正体を言ったことになるのかもしれない。


 だが引っかかる。ハルという例を見ている以上、あの一面を見せたアイがロボットだと信じるには、あと一歩の所で疑いがかかる。


 機械に、感情を抱くことがあるのか。

 機械と人間。改めて考えてみると、決定打となるほど異なっている部分はどこなのか。


「うん。よし。じゃあ未來、アイに会おう!」

「あ、いいね!」

「いや待て会ってどうすんだよ! 危ないだろ!」


 クラーレに派手に突っ込まれたが、美月としては他に妙案が思い浮かばなかった。本人がいないところで思考を巡らせても、何もわかるはずがないと思った。


「だって会えば何かがわかるかもしれない! あとは、なるようになれで考える!」


 まずは会ってみよう。何かが始まるにしても、全てはそれからだ。美月は、意を固めた。

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