Chapter6「蒼穹の心」

phase1「亀裂」

 赤や黄色に色づく木々が、山を彩る。

 地球の木は秋になると色づくのは本当だったのかと、クラーレはその目で見て改めて知った。


 知識としては既にあった。ソラから聞いていたからだ。


 重そうな図鑑をわざわざ宇宙船まで持ってきて、“紅葉”の写真を見せてくれた。更に、秋が舞台だという、お気に入りの小説も紹介してくれた。


 その時のソラは本当に楽しそうで、好きな物語のことについてずっと語っていた。


 ソラは好きなもののことになると、普段の大人しさから一転饒舌で多弁になる。目を輝かせてどこが好きかを懸命に語る姿を見ていると、自分も胸が温かくなった。


 弓を構え、矢を放つ。遠くに設置した木の的に向かって、矢が飛んでいく。だが引く瞬間、この矢は駄目だと感じた。


 予想通り、矢は的の中央から大きく外れた場所に突き刺さった。


 吹き抜けていった涼しい風に、肌寒さすら覚えた。木々がざわめき、小降りの雨のように赤や黄色の葉が落ちてくる。


 手を握りしめると、木で出来た弓の感触が皮膚に強く食い込んだ。予想以上に痛かったのは、それだけ握りしめた際の力が強かったからだ。


 ソラが、自分の弓の練習を見ていたのも。

二人して、体力をつけるために特訓を重ねたのも。

敬語じゃなく話してほしいと強引に頼んで、ソラがしどろもどろになりながら了承したのも。


 全て、つい最近のことだというのに。


 クラーレ以外誰もいない山中を吹く風は、憎たらしいまでに澄んでいた。


「クラーレ」


 勢いよく振り返った先にいたのは、頭部がテレビのシルエットだった。弓をへし折るのではと力んでいた手から、力が抜けた。


「……ハル」


 名前を呼んだだけだったが、ハルは首を横に振った。察しが良い、と思う。本当にスペックが高いロボットだなと、どこか他人事のように感じた。


 足下ではシロが、前脚で地面に落ちた葉をつついていた。

赤や黄色の葉が敷き詰められた大地を物珍しそうな目で見ては、時折鼻を近づけ匂いを嗅いでいる。

 シロの目と同じ緑の色をした植物は、今の時期、山の中からその数をだいぶ減らしていた。


 外で過ごすのが気持ちの良い時期だ、と思った。自分も、体調の良さを覚えている。


 なのに、と思う。思いながら、木漏れ日が差し込む道の向こうに、視線をやる。モミジやイチョウが並ぶ道は、自然と出来たトンネルのようになっていた。


「……来ないな。ソラ」


 今日も。その言葉は声にならず、沈んでいった。


 目を落としたクラーレに代わり、ハルが頭を動かし道の向こうへ視線をやる。


「ああ」

「……明日も、来ないんだろうな」

「……その確率は」

「いい。計算するな」


 数字で表された結果など耳に入れたくなかった。わかった、とハルが静かに答えた。


 ソラが来なくなってから、何日経過しただろうか。


 もともとソラは、ほぼ毎日宇宙船に訪れていた。しかし、それで数日来ない日があったとしても、不安はない。ミヅキやミライがそうだからだ。


 しかし。今、全く拭い去れない強い不安、強い気がかりがあるのは。

 最後に見たソラの姿が、忘れられないからだ。


「ハル。俺は、何をすればいいんだ……?」


 情けなく声が震えていた。自身が被害者の面をしているようで、酷く自己嫌悪を感じた。

 ハルはしばらく頭を伏せた後、一回だけかぶりを振った。


「わからない」

「わからないって」

「私には心が無い。だからソラの心を、本当の意味で理解することは出来ない。そんな状態で分析を働いたところで、何の結果も見込めない答えしか出ない」


 平板な声が、落ち葉と共に地面に降り積もる。


 ピ、とか細い鳴き声がした。尻尾と耳を垂らし、俯くシロの姿がそこにあった。


 この数日、シロも以前と比べて、元気が無い。抱き上げてやると、シロは頭を木々の向こうへと向けた。その目は、誰かを待っている時の目だった。


「俺もわからないよ」


 シロの頭を撫でながら、絞り出すようにそれだけ言う。


 わからない。自分が何をすれば良いのか、わからない。けれど一番わからないのは、自分の鈍さだった。


「僕は皆といて、ずっと辛かった」

「僕と皆さんが、わかり合うことはできないんですよ」


 なぜ、あんなことを言わせてしまうまで、気付けなかったのだろうか。どうして、何も気付けなかったのだろうか。

 ソラに対し、自分は何が出来るのだろうか。それとも、もう、何をするにしても、遅いのだろうか。


「ソラに謝りたい。会って、謝りたい。そう思っているのに、実現させる方法が、何もわからねえんだよ」

「……私もだ」


 押し寄せっぱなしの無力感が、心臓をきつく締め上げる。


 ソラがこの空間から消えた日々がこんなにも苦しいものだったとは、想像していなかった。想像もしたことがなかった自分の甘さを恨んだ。


 風が吹く度に少量の葉が木から手放され、ハルが抱いているココロの頭上に、落ち葉が舞い落ちる。

 真っ白い髪の上に、片目と同じ色をした葉っぱがふわりと降りて、ココロは不思議そうに見上げた。


 ひらひらと降ってくる落ち葉に、小さな手を伸ばす。無邪気さしかない仕草に、少しだけ顔が綻んだ。





 「美味し~……!」


 一口料理を運ぶと、勝手に口が開いた。薄い生地は柔らかくて口の中で溶け、しつこすぎない甘みが心の奥底まで染み渡っていくようだ。


 未來はしばらくフォークを握りしめたまま、体がふわふわと浮き上がる感覚に浸った。


 さすが穹君の好物、さすが穹君の考えたレシピ。


 そういう言葉が口から出てきそうになったことに気づき、未來はフォークを置いた。皿に当たり、無機質な高い音が店内に反響した。


「……穹君……」

「未來ちゃん」


 未來は顔を上げた。テーブルの傍に、美月と穹の母の浩美が立っていた。


「お味はいかがですか?」

「あっ、とっても美味しいです!」

「それは何よりです! 最近よく来てくれて、本当にありがとう」


 ちょうど店内に誰もいないせいか、話しかけてきたらしい。頭を下げた浩美に、未來も椅子に座ったままだがぺこりとお辞儀した。


 未來は頼んでいたカフェオレを一口啜った。ちょうど良い苦味が口に残るクレープの甘みを消していった。


 ソーサーの上に戻すと、穹が考え、新メニューとして提案したクレープへ、本当に、と顔を向けた。


「穹君は凄いなって思います。新しいメニュー考えるって、なかなか出来ない事だと思いますから」

「そうね、ちょっと材料費を考えないところがあるけれど、確かに良いメニューを考えますね」

「私、穹君の料理大好きです!」


 ありがとうございます、と浩美は笑顔で礼を述べた。それで会話が終わるかと思っていたが、浩美は少し考える素振りを見せた後、「未來ちゃん」と少し落とした声で聞いてきた。


「穹と美月に何があったか、知ってますか?」


 つい、大きく両目を見開いた。浩美は「何か知ってるの?」と重ねて聞いた。


「いいえ」


 未來は首を振った。「わからないです」 そう、と浩美は肩を落とした。


 嘘は吐いていない。実際、わからないのだ。


「美月と、穹君に、何が?」

「……二人とも、最近、お互いと全く口を利いていないの」

「全く?」

「ええ。本当にただの一回も……目を合わせることすらもしていない」


 浩美の声には、困惑の色が濃く浮かび上がっていた。


「この前の……体育祭があった日の朝は、二人ともいつも通りだったの。でもその日の夜から、明らかに様子がおかしくて……。何度も尋ねているけれど、二人とも何があったか頑なに言おうとしないし……」


 そうだろうな、と未來は思った。浩美は深く息を吐き出した。


「本当に、二人とも同じくらい頑固だから。二人の友達の未來ちゃんなら、何かわかるかなって」

「ごめんなさい。私にも、わかりません」


 もう一度頭を下げた後、「でも」と呟く。


「多分、私にも、原因が……」


 最後まで言い切る前に、カウベルの音で遮られた。

 入店してきた客に向かって浩美がいらっしゃいませと笑顔で告げ、未來にゆっくりしていく旨、伝えると、接客に戻っていった。


 一人残された未來は、クレープを切り分け、もう一口食べた。傷口に水が染みるような甘さに感じた。


 体育祭の一件以降、美月の様子も明らかにおかしくなっていたいた。表面上こそ、普段と全く変わらず、いつも通りだ。


 しかし、以前までには無かった不自然さを纏っているのを、これという根拠や理屈はないものの、感じ取っていた。


 学校でも宇宙船でも、美月は変わりなく明るく、快活に過ごしている。一緒にいると体育祭の一件など、本当は夢か幻で、実は何も起きていなかったのではと感じるほど。


 が、あの出来事が、紛れもない現実だったのだと、嫌でも痛感する瞬間がある。


 穹の話題を出した時だ。


 少しでも穹のことを話せば、途端に美月の瞳が暗くなる。


 直前までからりと晴れていた空に、突然分厚い雨雲がさして太陽を隠すように。あるいは、いきなり太陽が沈んで、急に朝から夜になってしまったように。


 その話をするな、その名前を出すなと。口にこそ出さないが、全身からそう思っていることが伝わってくる気を放ってくる。


 あそこまで暗い美月の瞳を、知り合ってから今まで一度も見たことが無かった。


 美月の全てをわかっていると言うつもりは無いが、あのような闇を称えた目とは無縁だと思っていた。


 そんな目を見ていると、それ以上何も聞けなくなってしまうのだ。今穹がどんな具合なのかを。


 未來は今、穹のことが何もわからない状況にあった。唯一わかることは、ただ一つ。事態は、何一つ好転していないということだ。


 学校で、穹の姿を見かけることは時々ある。だが、名前を呼び、近づこうとしても、できなかった。


 名前を呼んだことで穹が振り向き、未來の姿を捉えた途端。


 あの、ガラス玉のような瞳を露わにする。底なし沼のような闇を宿した瞳を、ちらりとこちらに投げてくる。


 それきり背を向け、歩き出す。体の輪郭がぼやけた陽炎のような姿で、ゆらゆらと。


 その後ろ姿を見ると、直感が告げてしまうのだ。これ以上、近づくことは出来ないと。


 近づけば消えて、自分の少し遠くに現れるような、蜃気楼のように。穹の存在が、ずっと遠くにあるものに感じてならなかった。


 首から掛けている首飾りを取り出し、紐の先にぶら下がる赤い石を見る。勾玉のような形をした、真っ赤な石。


 手のひらに乗せその赤をじっと見つめていると、やはりこの石は地球のものではないと、なんとなくだが伝わってくる。


 色が、光が、地球の石と異なって見えるのだ。


 どこと聞かれれば答えに窮するが、確実に違うと断言できる。その違いが、自分にわかるということは。


「やっぱり、宇宙人だから……」


 だから、地球人である穹の心にも、気付けなかった。


 そこまで思った所で、違う、と否定した。


 何も関係無い。宇宙人とか、だから地球人の心はわからないとか、そういうのは関係無い。


 それ以上に、“自分”の落ち度だ。穹が密かに、けれどもずっと発していた救難信号に、自分が気付けなかったから。何をしてあげたらいいか、何もわからなかったから。


 わからないから、気付けないから。その理由だけで結局何もしてこなかった、ここにいる未來という人間の落ち度だ。


「鈍感だったんだな、私……」


 昔からよく言われることの一つに、「勘が鋭い」がある。だが、今度誰かからそれを言われたら、訂正を入れなくては、と思った。


 自分は、仲間があそこまで苦しんでいることに気付けなかった、自分達といるのを辛いと感じていたことに気付けなかった、とんだ鈍感な人なのだ、と。


 鈍感なだけに、今穹が何を求めているかもわからない。


 こうして最近ミーティアに通っているのも、心のどこかで、穹に会えるのでは、という期待があるからだった。


 しかしそれは淡い期待だった。望みは薄いと思っていた。案の定、穹が顔を見せに現れたことは、一度も無い。


 未來はカフェオレを飲んだ。その苦味に、なぜだか涙が出そうになった。


 今日もそうして穹に会えないまま食事を終え、ため息を漏らしながら会計を済まし、外に出た。

 秋の涼しい風を肌に感じた途端、また吐息を漏らしそうになった、その時。


 レストランの向かいに立つ電柱の影で、何かが蠢くのが見えた。


「ミ、ミライ?!」


 未來も目を瞬かせて驚いたが、人影は未來以上に驚いたようだ。

素っ頓狂な声を上げながら、影から出てきた。


「クラーレさん、こんなところで何をしてるんですか~?」

「い、いやそれはこっちの台詞だ。あんたこそ何を」

「私はここにおやつを食べに来たんですよ~?」

「そ、そうか、そうだよな、店から出てきたんだもんな、うん……」


 一人で納得し一人で頷いているクラーレに、未來は首を傾げた。


「クラーレさん、なんでそんなところに? 電柱の影だなんて……。張り込みですか? ストーカーですか?」

「言っとくがどっちも全然違うからなっ!」


 かっと目を見開き声を上げた後、その元気が急に消滅し、クラーレはゆっくりと息を吐き出した。


「……ソラの様子を、知りたくてだな」


 目を逸らしながら、小さく言った。納得がいった未來は、俯いた。しばしその場に、沈黙が落ちた。


「……だが、俺は地球人離れした見た目をしているだろ? ミライみたいに店に入っていくことは出来ないし、かといって家に入ってソラに直接会うことも……」


 言葉が途中で切れた。その表情は苦悶に満ちていた。わかります、と未來は言った。


「直接尋ねるのは、私にも出来ません。何を言えば良いかもわからないし、会っても、もしかしたらそれは、穹君にとって辛いことなんじゃって思うと……」


 こうやって店に通う以外のことが、できなかった。

 何か穹に関する近況を得られるのではと、そういう一抹の期待を抱いて店を訪れること以外、何も出来なかった。


 遠回りがすぎることは、自分がよくわかっていた。


「私達、穹君に対して、何が出来るんでしょうか……」

「……俺も、知りたいよ」


 クラーレは唇を噛んだ後、自分の中にある感情を鎮めるように、深く息を吐き出した。




 「あっ、見つかった!」


 えへへと笑いながら、ソラは宝物のようにそっと一冊の本を抜き取った。「やっぱり古本屋さん良いな」としみじみ口にする。


 「幸せそうですね」とアイが言うと、ソラはまあね、と辺りを見回した。


 古びた紙の匂いと埃の匂い。新品とは言い難い本が並ぶ場を、ソラは愛おしそうに眺めた。


 知り合ってからややあった頃に、よく行くのだというこの古本屋を紹介されたとき、ソラは「この場所は宝島なんだ」と言っていた。


「欲しいけど絶版になっちゃった本とか見つける事が出来るし、今は売られてないけど、自分の好みに凄く合うものを見つけられるし。本当にここは宝島だよ」


 目を輝かせて言った後、でもね、とソラは苦笑した。


「いくら言っても姉ちゃんはわかってくれないんだよ。何それって言うだけ。本当、失礼するよね」


 怒っている素振りこそ見せていたが、人の感情が察せられるようになった今ならわかる。ソラは、間違いなく、楽しそうだった。どこか幸せそうだったのだ。


「ここはね、僕にとっての宝島だから」


 いつかの時と同じ言葉を口にした。アイはまた頷いた。


「わかります。古本屋にいるときのソラ、とても楽しそうですから」

「あ、わかってくれる? 嬉しいな」


 こちらに向かって笑った後、視線を前に戻し、ふいに俯いた。「……姉ちゃんはわからなかったから……」


 こちらの耳に届かせたいのかそうでないのか判別出来にくい声量だったが、しっかりとアイの耳は捉えた。すかさず聞いた。


「何かあったのですか?」

「えっ?」

「最近のソラ、どこかおかしいです。以前と違うと、明らかに判断できます」


 狼狽したようにソラの目が泳いだのも一瞬のことだった。ゆっくりと瞳から光が消えていき、それと並んで動揺の感情も薄れていった。


「そうかもしれない」

 どこかぼんやりとした声だった。

「もしや、ミヅキさんやミライさんとの間に、何かあったのですか」

「どうしてそう思うの」


 尋ねてきたソラは、どういう感情を出しているか全くわからない目をしていた。

 根拠は存在するが、ソラに対しては言えないものだった。

 だからアイは「勘です」と答えた。


「近頃、意図的にミヅキさんやミライさんの話題を避けているように見受けられたので」

「そっか……」


 そんなにわかりやすかったか、とソラは自嘲的に笑った。


「何があったのです」

「……何が、あったんだろうね」


 ソラはどこを見ているのかわからない目で宙を見つめ、誰にともなく言葉を発した。恐らく、自分でも自分の心が整理がつかない状況にあるのだろうと考えた。


 やっぱり。やっぱり心は、厄介な存在なのだ。人間に災いを運ぶものなのだ。


 自分の考えた事に対して、自分で頷いていたときだ。それまで黙っていたソラが、口を開いた。


「でもわかることは一つあるよ。前のようには、戻れないってことだ」


 やはり感情の無い声で、ゆっくりと言った。


「本当に、何が……」

「……立ち話は、ちょっと。割と長いし。……というか、あまり聞かない方がいい話だと思うよ。間違いなく面白くない話だし……」

「いいえ」


 首を振って否定した。


「面白くないかどうかなどどうでも良いです。私が知りたいから知りたいのです。もし差し支えないようであるならば、お話し下さいませんか」


 それに、と続ける。


「少しでも話せば楽になれる可能性が高いですよ。今のソラ、とても苦しんでいるように映ります」


 ソラは目を見開いた。時間をかけて瞬きを繰り返し、ありがとう、とか細い声で笑った。無理矢理作ったような笑顔だった。


 この会話は、それで終わった。だがアイの中では終わっていなかった。


 ソラが苦しんでいるように映ったこと。これは正しい。実際、ソラが、少なくともプラスの感情を今現在抱いていないことは確実だった。


 だが、発言そのものは、明確な根拠に基づくものだった。


 あの日。体育祭があった日。


 その日から送られてきたソラの脳波は、それまでと明らかに異なるものだった。感情の揺らぎも、明らかに異なるものだった。


 脳波の波長等、数値の上で判断するに、ソラは何か心に大きな傷を負ったのではという推測が導き出された。


 今日実際に会ってみて、推測はほぼ確実なものとなった。だがまだ完全ではない。確率を100%にするには、ソラの口から聞かなければならなかった。


 ソラと、ソラの仲間との間に、亀裂が生まれたのではないかという、憶測。


 送られてきたデータに、あそこまでの脳波の、感情の乱れが示された理由は、それ以外考えつかなかった。


 わかってはいる。わかってはいるのだが。


 本当にそうなのか、という疑いが、自分の中にあった。本当に、この人達の間に、亀裂が入るなんて事があるのだろうか。そんなことは、有り得ないのではという考えがあった。


 ただしこの考えは客観的に判断した結果ではない。瞬時に湧いた、要するにあまり思考を使わず考えたものだ。なので信憑性に欠いている。


 そもそも自分は、ソラ達のことを、データとしてしか知らないのに。本当の意味で、全てを知っているわけではないのに。


 用事は終わったはずなのに、なかなか本棚の前から動こうとしないソラの様子を窺った。


 ソラは、棚の一カ所に視線を注いでいた。


 辿ってみると、そこには、星空の写真が表紙の本があった。宇宙に関係する本だった。


「買わないんですか?」


 ソラはゆっくりと首を振って、否定を示した。


「アイ」


 さながら自分と同じ、機械のような目で。ソラが、こちらを見た。


「アイは、僕の、味方?」


 すぐに答えられなかった。黙っていると、ソラの目に感情が湧いてきた。焦りや、悲しみの感情だった。アイは頷いた。


「そうですよ」


 そう、と言ったソラの目から、見えていた焦りや悲しみの感情が消えていく。


「……じゃあ、いずれ、ちゃんと言うよ」

「お待ちしております」


 軽く頭を下げたアイは、実際は、別の言葉を口にしそうになっていた。


 違う。自分は味方ではない。


 そんなことを言えば、計画は全て水泡に帰する。なのになぜ、そう言いそうになったのだろう。


 ただ、少なくとも、味方かと尋ねられ、肯定したとき。心臓コアがある当たりに、針で刺されたような痛みが生じた。それは確かだった。





 「ああくそっ!」


 自分はなんて役立たずなんだ。クラーレは手近にあったブロック塀を殴った。


 堅い感触の直後に、手全体に痛みが伝わった。だがそんなことはどうでも良かった。


 自分が影に立つ電柱の目の前にあるのは、ミヅキとソラの家だ。


 それを、クラーレはずっと見上げていた。見上げるしか出来ない自分に、途方もない虚脱感を抱いた。


 こうして様子を見に来て何になる? 自問自答が止まらず、それでもただ黙ってソラを待っていることは出来なかった。


 そうして黙って待っている間に、ソラが本当にいなくなってしまう気がしてならなかった。

 そう思うと、いても立ってもいられなくなった。


 だからこうして、ほぼ毎日家の前まで来ては、何も出来ずにそのまま宇宙船に帰るという、全く意味のない行動を繰り返している。


 自分にしかわからない苦しみ。それがどれだけ厄介な代物か、クラーレなりにわかっているつもりだった。


 他者に理解されがたい苦しみは、相手が理解しきれていないのにわかったような口を利いてくると、ますます苦しみが深くなる。


 今のソラは、まさにその苦しみを抱えているのだと感じていた。

 なのでクラーレは、ソラに対し、軽率に言葉をかけることができなかった。今は一人にしておくべきなのだと、何も出来ない自分に言い聞かせていた。


 そこまで考えた所で、違うと首を振った。今のソラは、ではない。ずっと前からだ。ずっとソラは、一人で苦しさを抱え込んでいた。


 なぜ、気づかなかったのだろう。自分が気づかなかった結果が、今の状況なのでは。自分のせいなのでは。

 もし、ソラがいなくなったら。あの空間からソラが消えてしまったら。皆の中から、ソラが欠けてしまったら。


 クラーレは両腕で頭を抱えた。


「嫌だ、考えたくねえっ……!」


 駄々をこねるようにかぶりを振っても、事態が変わるわけではない。それでも首を振り続けた。


 皆の中から、誰かが消える。考えるだけで、叫び出したいほどの恐怖心に駆られた。


 早く何とかしなければ。だが、何とかとは、なんだ。


 解決策は見えず、焦燥感ばかりが募っていく一方だった。


 と。微かにクラーレの耳が、聞き覚えのある声を拾い上げた。弾かれたようにそちらを向くと、道の向こうから、ソラが歩いてくるのが見えた。


 無意識の内に走り寄ろうとして、寸前で止まった。誰かと一緒なのが見えたからだ。青い目を持ち、長い黒髪をハーフアップにした少女と歩いていた。


 慌てて電柱の陰に隠れた後、クリアカプセルをつけているのだからこそこそしなくていいことに気づいた。それでも、出て行くことはなんとなく憚られた。


 影からこっそり様子を窺った。距離感の気安さや親密さからして、どうやら友人の間柄らしかった。


 楽しそうに、笑って何かを話しているソラに、クラーレは体の強ばりが溶けていくようだった。


 とりあえず元気そうだ。安堵のあまり、微笑した時だった。


 ソラがおもむろに隣を歩く友人から視線を移し、前を向いた。途端、はっきりと、目がと目が合った。クラーレが息を飲んだ次の瞬間だった。


 ソラの目が、変わった。闇が光を覆い尽くしていくように、見る見るうちに暗い瞳になった。


 笑っていたソラの顔から、表情が消えた。そしてソラは俯いた。目を逸らしたような動きに見えた。


 深い谷底に突き落とされた感覚になった。


「ソラ、どうされたのですか」


 友人が尋ねた。涼やかと言えば聞こえは良いが、どこか無機的な冷たさを帯びた声に感じた。


「ううん、何でもないよ。それじゃまたね、アイ」

「はい、また」


 家の前までつくと、ソラは軽く笑いながら手を振って、玄関の向こうに消えていった。


 その間一度も、こちらを見ることはなかった。意図的に視界に入れることを避けているのだと思えてならない不自然さだった。


 やはり、と俯いた。やはり、まだ、会ってはいけない段階なのだ。ソラは自分のことなど、見たくもないと思っているのだ。


 奥歯を噛みしめながら、顔を上げた。家を見たあと、立ち去ろうとした時だった。


 ソラが家に入るのを見送っていたアイと呼ばれた人が、同じく立ち去るつもりなのか振り返った。一瞬肩が跳ねた。瞬間、碧眼が、クラーレの姿を捉えた。


 目が合った。


 なぜだかそう感じた。すぐさま、そのはずはないと否定する。しかし完全にこの考えを拭い去ることは出来なかった。


 アイの目は、クラーレがいる方向を、しばらく見つめていた。


 しばらくと言っても、クラーレがそう感じただけで、実際は数秒にも満たなかったはずだ。


 だがその数秒間、自分がいる方向を見ていた。自分が見えていなければ、そこには何の変哲もないブロック塀しかないはずなのに。


 ふいにアイは目を伏せ、その場から立ち去った。


 あんな無機質な瞳を持った人間がいるのか。クラーレは少しの間、呆然としていた。

 何の感情も宿っていないような、瞳の奥に心が無いような。


 感情表現に乏しいともまた違う気がする。しばらくどういうものに例えたらいいか考えを巡らせた。すぐに答えは出た。


 まるで、人形のような目なのだ。


 作り物のような無機的な両目は、確かに、自分を捉えているように感じたのだ。

 姿を消しているはずの、自分を。

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