Part4:地球編・秋
Chapter1「闇の訪問者」
phase1「透明のそら」
穹は、生まれてくるまでに時間がかかったという。
本来なら夜に生まれてくるはずだったのになかなかお腹から出てこなくて、翌日の昼までかかったそうだ。穹の生まれたその日は、雲一つない快晴だった。
つける名前は、別のものが事前に決めてあったという。
が、いざ生まれてくると、父も母も、 「穹」という名前にしようと即断したそうだ。
窓から見える眩い青を見て、この子の名前は穹以外有り得ないと思ったと、聞いたことがある。
空ではなく穹というほうの漢字を使った理由は、それからだいぶ経った後、穹自身が気づいた。
確か、6歳か7歳頃だったと記憶している。
その頃穹は、源七の持っている本を読むのが趣味だった。読むといっても、全く内容はわからない。その頃の穹は、ページを捲る音目当てで、本を開いていた。
その日もいつものように、内容のわからない本を読んでいた。
ぺらぺらぺらと、紙の擦れる独特の音を聞きながら心を弾ませていると、ある単語に目がとまった。どうしようもなく、その一点から目が外せなくなった。
蒼穹。
記されていたその二文字に興味が惹かれた理由だが、おおかた自分の名前と同じ文字が使われていたからだとか、その程度の理由だろう。
その時はわからなかったので、早速源七に、なんと読むのか尋ねた。
そうきゅう、と読むのだと教えてくれた。
青空の別の呼び方だよ、と源七は窓の外を指さした。示す先には、どこまでも続く真っ青な空が広がっていた。
そうきゅう。蒼穹。今まで聞いたことのなかった響きに、穹の胸は躍り湧いた。頭の中でその単語を呼ぶ度に、人知れず興奮を感じた。
なんて格好いいんだろう。いや、格好いいとは違う。なんといえばいいのだろうか。とにかく、凄い。そうだ、凄いのだ。
当時穹が持っていた語彙といったら高が知れている為、そのような安直な感想しか湧いてこなかった。
この感情を、格好いいという言葉以外で表す単語が見つからなかったのだ。
また幼かったため、こんな格好いい言葉の一つを借りている自分も、格好いいなんて思っていた。
今も蒼穹という響きを、格好いいの言葉以外であらわせられる、最適な言葉は見つかっていない。それはずっと変わらない。だが、変わったこともある。
漢字の一つが名前として使われている自分の事を、格好いいとは思っていない。
そう思うようになったのがいつからかは、定かでない。
きっと両親は、青空のように、心の広い、大きな人間になってほしい。
そんな風にして青空に願いを込め、「穹」と名付けたのだろう。
けれど自分は、穹という名前を貰っておきながら、心の狭く、小さな人間になってしまった。
9月になり、暦の上では秋になった。だが現実世界は、まだまだ夏の色に濃く彩られている。
外から聞こえてくる蝉の鳴き声を耳にしながら、穹は何をするでもなく、ぼんやりと窓の向こうに目をやっていた。
穹の周囲を包む教室の喧噪は、がやがやと纏まりがなく、それ単体で聞けばうるさく感じるだろう。
だが穹は、うるさいと感じていなかった。周りの音は、まるで隣室から聞こえてくるように遠く、自分とは関係の無い音に感じるものだった。
まだあまり高くなっていない空が広がっている。毎朝こうして空を見る度に思う。一日が始まった、と。
穹はがやがやとした教室内を見渡した。誰とも話したことのないクラスメート達が、思い思いに過ごしている。しかし一人で過ごしている子はいない。
この席が悪かったのかな、と机の表面を撫でる。窓際の一番奥で、前と隣の席が女の子。
もともと人見知りが激しく人と接するのが苦手な穹にとって、この席順は不運としか言えなかった。中学に上がって早々、出だしで躓いた。小学生時代の数少ない友人が全員違うクラスだったのも、不運が連鎖的に広がっていった結果なのだろう。
5月の時点でクラス内にはいくつかのグループができ、そのどれにも、穹は所属する機会を失った。
はみ出しものとなった穹は、暗黙の掟のように、一人でいることを義務づけられた。クラスが分かれた友人達が、穹に会いにくることはなかった。
小学校とは全然違う空気が流れている。姉が中学に上がっても、それまでと変わらずに楽しそうに登下校しているのを見て、自分でも大丈夫だろうと漫然と思っていた。
だが甘かった。そもそも美月と自分は、根本的なところが正反対なのだ。美月は人付き合いが得意で、穹は人付き合いが苦手。
人付き合いの得意な人間の心は、どうなっているんだろうか。存在を知られていないからこそ人間観察ができるが、いくら観察しても、まるで理解できない。
自分が普通で、周りがおかしいのか。周りが普通で、自分がおかしいのか。穹は十中八九、後者だと考えている。
違う人種のようだ。このクラスには、異星人しかいない。
何を考えているのかわからない。人の心の中がわからない。これは完全に、異界に一人飛ばされた人間の心理だ。
こうしてクラスを眺めていると、人は器用なのが普通の生き物なのだ、と感じる。
巧みに本音と建前を使い分けて、相手がどんな言葉をかけてほしくて何をしてもらいたいかすぐに察知できて。
そんな器用な人間達の集まりが作る輪の中に、穹はどうしても入ることが出来なかった。
声をかけようとすると、頭が真っ白になり、喉が潰されたようになり、足がぴくりとも動かなくなる。
どこまで本心を出して良いか、どこまで演技して良いか、配分が掴めなかった。けれど出来ないと弾かれる。周りが息をするように出来ていることが、穹は出来なかった。
ずっと話しかけられるのを待っていたが、これまで一度もクラスの誰かが話しかけてくることはなかった。
自分は透明人間なのではないか。このクラスにいる生徒達だけ認識できない存在。この場所にいると、そんな突拍子もないことを、真面目に考えてしまう。
自分で自分を見ても、透明人間のような印象を抱く。
自分について自分で考えることに一歩踏み込むと、たちまち暗い沼の中に沈み込んで、捕らわれていくような感覚になる。だから、何も感じまいと律している。そうすると、空っぽで、透明な気分になる。
実際、空っぽな時間を過ごしているのだ。学校で過ごす時間のことを、いる間は短いとも長いとも言い難いが、終わってみるとなんと長い一日だったんだろう、と思う。明日も同じような日が訪れるのかと考えると、一瞬だけ、主張の控えめな絶望を感じる。
ふと気がつくと、今日の授業が終わっていた。
教室を出て行く人達、まだ残る者達。出て行く人達に紛れて、穹は教室を出た。また明日、という声が聞こえてきたが、むろん、穹にかけられたものではなかった。
昇降口を抜け、校庭を歩き出す。
「穹君! 穹君ってば!」
一瞬空耳かと感じたが、馴染み深い声がかけられた。はっと首を後ろに向けた。
「やっほー!」
にっこりと笑う未来が、手をぶんぶんと振っていた。
「未來さん、こんにちは」
「うん、こんにちは~! こうして偶然校内で出会うと、なんか嬉しいね~!」
「はい、そうですね!」
未來の言うとおり、学年が違うからか、校内でばったり出くわすという頻度は高そうで低い。
少し会話した後、というより未來が語る今日あった出来事を聞いてから、穹はこの偶然に乗っ取り、思い切って口を開いた
「今から裏山に行こうと思っているんですが、未來さんはどうしますか? 一緒に行きます?」
うーん、と未來が申し訳なさげに口ごもった。
「今日は写真部の皆と野外で撮影会なんだ~……」
未來は視線を後ろにやった。少し向こうで、同じ写真部の仲間と思しき人達が、未來のことを待っていた。未來はそちらに向かって、親しげに手を振った。
これ以上時間を取るわけにはいかないと、穹は急いで別れの挨拶を告げ、足早にその場を離れた。背後から未來が慌てた様子で、「ごめんね! でも誘ってくれてありがとね!」と早口で言われた。
未來に対しお辞儀で返しながら、校門を出た直後。
また馴染みのある声が、背後から聞こえてきた。その声の主を認識した途端、穹は咄嗟の判断で、傍に生えていた木の陰に隠れた。
木の前を通りかかったのは、美月だった。友人達数名と一緒だった。一緒に下校し、皆と談笑するその様子は実に楽しそうで、美月を取り巻く空気は賑やかだった。
いつもクラスの中で穹が見ている光景。それが目の前で、血の繋がった身内が繰り広げている。
美月は一回も木を見ずに、その場から過ぎ去っていった。
声が遠ざかっていったのを聞き、穹は木陰から、美月の後ろ姿を目で追った。
後ろに弟がいることなど、全く気づく様子を見せない。こちらを向く気配も見せない。美月の背中が、どんどん小さくなっていく。
ひゅう、と風が吹いた。雲が移動し、太陽の光が美月を照らし出す。穹のことは、照らしていない。
完全に美月が見えなくなってから、穹は天を仰ぎつつ、歩き始めた。いつもより、足を前に出すことが重く感じた。9月の空は、変わりなく澄んだ青色を見せている。
すっかり登り慣れた裏山を歩いて行きしばらくすると、見慣れた白い巨体が見えてきた。今や宇宙船は、穹にとって秘密基地と化している。事実誰にも知られていないのだから、秘密基地のようなものだ。
宇宙船内に入ると、無意識の内にほっと息が零れた。家とはまた違う、“帰ってきた”と感じる場所。友人の家に来た時ともまた違うし、図書館などに来た時ともまた違う感覚を覚える。
こんにちは、とリビングのドアを半分開けて中を覗くと、クラーレと目が合った。クラーレは目を見開き、持っていたハタキを落とした。
「だ、大丈夫ですか?!」
「すまねえ、大丈夫だ。いらっしゃい、ソラ。……ま、居候の分際が言う台詞じゃないがな」
駆け寄る前に、クラーレはなんてことのないようにハタキを拾い上げた。やや自嘲的に、「あんまり格好良くないところを見せてしまったな」と笑った。
「掃除中ですか?」
「ハルに頼まれてな。あとココロの世話も」
ソファの横に置かれた揺りかごの中で、ココロが寝ていた。シロが興味深そうに、上空をくるくると飛び回っている。
「ハルな、今研究中だとかなんだとかで、実験室に籠もってんだよ。頑張るよな」
台詞に反してクラーレは、尊敬しているようには見えなかった。肩をすくめ、呆れたように息を吐く。
「道具の開発や実験も大事なことだからやるのは良いんだが、効率がどうたらとかでその間に家事を頼んでくるのがな……。この後洗濯しなきゃならないし」
「あはは……。でもちゃんとやるんですね、クラーレさん」
優しいですね。そう言おうとして、穹は止めた。恐らくクラーレは、そう言われても嬉しいと感じないだろう。
そんな穹の心などわかるよしのないクラーレは、まあ、と一つ瞬きした。
「頼まれた以上は、な。そういやハルから伝言だが、書斎とキッチンは自由に使っていい、だとさ」
「わかりました。ありがとうございます!」
リビングを後にしようとした時だ。あ、とクラーレが大きな声を発した。
「そうだ、茶を忘れてたな。今淹れてくるからちょっと待ってろ」
「いえ、平気ですよ! 大丈夫です! お気になさらず! お構いなく! 僕さっきお水いっぱい飲んじゃって、多分淹れてもらってもお腹に入らないと思うんです! だから平気です!」
クラーレは附に堕ちない表情をしていたが、あまりにも必死な穹に、わかったと頷いた。
実は嘘だった。クラーレに用事がある以上、更に手間を増やすわけにはいかないと瞬時に感じたのだ。
掃除などの手伝いを申し出たが、クラーレは「俺に頼まれた用事だから、他の奴らの手を煩わせるわけにはいかない」との一点張りで、譲ってくれなかった。仕方なく穹はその場を離れることに決めた。お礼を告げ、リビングを後にすると、ハルの書斎に向かった。
書斎には、たくさんの本が並べられている。いつ来ても、その量に圧倒されてしまう。しかもハルは、ここにある本が全てではなくて、倉庫にまだあると言っていた。それも含めると、ちょっとした図書館を開けるのではないだろうか。
全て本は地球の蔵書ではなく宇宙のものだ。ハルと知り合って以降、穹は読むなど考えもしていなかった宇宙産の本を読むという事態を実行してしまった。
あの時の凄まじい高揚感は、いまだに覚えている。
だが今日ここに来たのは、本を読むためではない。
書斎内の机につくと、穹は持ってきた冊子を広げた。黒色が大人っぽい鍵付きのノート。
一見日記帳のようだが、全く違う。日記とは違い、現実ではなく、虚構が記されているもの。
いわゆる、“自分が格好いいと思う言葉”などが記されている。単語と単語を組み合わせて格好いいと感じる響きを見つけると強い興奮を感じるし、心が弾んでくる。嫌な事も、苦しい事も、その間は忘れて、言葉探しに没頭することが出来る。
けれど世間的には、穹が格好いいと思うものは“痛いもの”として認識されている。不思議には思うが、周りがそうなのであれば、無理に意見を押し通すこともないと考えており、このノートの存在は内緒にしていた。
ただ、見たい人がいるならすぐに見せるし、見つかって読まれても別に良いと感じていた。自信ある“格好いい単語”を、あわよくば人に見てもらいたい、という願いが微かにあった。
しかし。絶対に見られたくないものはある。決して見られてはいけないもの。宇宙船にすら持ってきていない秘密が、まだある。
家に置いてあるその存在のことを考えながら、今回も何か新しい言葉を生み出そうと、ノートに向き直った。
書斎を借りることはハルにあらかじめ連絡しておいていた。図書館など、本がたくさんある場所は精神が静まる。特に秘密基地のような位置づけになっている宇宙船の書斎ともなれば、安心感が相乗して集中力が増す。
他のことについての思考に深く浸っていると、それがとっかかりとなって、ふいに新しいアイデアが湧く。穹は今回、親しい人達について思考することを決めた。
先程も感じたが、クラーレは、本当に優しい心の持ち主だと思う。壮絶な境遇にありながら、どうしてあんな優しい心を失わずにいられたのだろうと、尊敬を通り越してただ不思議だ。
もし毒も何も無かったら、無愛想な口調や態度も無かっただろう。さぞ人当たりの良い青年になっていて、色んな人から好かれる人生を歩んだのだろうと思う。穹がいつもクラスで眺めてる中で、多くの人達の中心にいる存在のように。
けれどもしもはもしもで、境遇は変えられない。クラーレは優しいが、あの境遇のせいで、心の内に穹ではとても理解できないであろうものを抱えている。理解しようと一歩踏み込むことすらおこがましく感じてしまう程、計り知れないもの。
なので穹は、いまだにクラーレに対し、距離を縮めることに躊躇いを覚えていた。もう怖くもなんともないが、親しくなって気が緩んだとき、クラーレの心を荒らし、傷つけるようなことを何気なく口にしてしまったらと考えると、身が竦む。
ハルには、そういう躊躇いはない。常に理論的で合理的なのは、絶対にぶれないだろうなという頼もしさがある。
だけど気安く付き合える相手ではない。頼りがいが逆に、大人と子供という境界線が敷かれているようで、そこを超えることが憚られてしまうのだ。
未來は多分、どんな場所でも自分の生きやすい道を見つけることができる人だろう。
未來、ちょっとクラスで浮いてるんだと、美月がぽつりと漏らしていたことがある。確かに未來の独特ののんびりとした自由な空気は、喧噪で埋まるクラスの空気には合わないかもしれない。しかし未來は気にせずに、我を貫けるタイプだろう。
未來はいつも笑顔で人当たりが良さそうだが、実は掴み所が無い。笑顔は紛れもなく心からのものであるためわかりにくいが、その実巧妙に本心を隠せているのではないか。
未來ならこう思うだろうな、と考えることは出来るものの、その後で本当に? と、わずかだが疑心暗鬼が生じる。未來とは穹の中で、そういう風に映っている。
美月は。そう考え出したとき、頭が一瞬止まった。脳裏に、先程の光景が鮮明に浮かんでくる。太陽の下で、楽しそうに友人達と歩く美月の姿。
美月は、明朗活発をそのまま体現したような人だ。猪突猛進で、社交的で、積極的。多くの人数を纏めるのも上手い。
常に心のままに生き、その心には裏も表も全く無い。腹の中を探っても、無駄骨を折るだけに終わる。
穹は自分の両手を広げ、手のひらを眺めた。この皮膚の下を流れているのは、確かに美月と同じ血。血が繋がっている、両親の育て方も分け隔て無いものだった。なのにどうして、自分と姉は、こんなに異なっているのだろうか。
まだ来ていない、明日のことが脳裏に浮かぶ。
また、今日と同じような一日になるのだろうか。窓から空を眺めて過ごして、終わるのだろうか。誰にも声をかけられず、一人で過ごすのだろうか。
いや、と頭を振る。学校ではそうかもしれない。しかし、少なくとも今日とは違うはずだ。それは断言できる。
明日には、予定が入っているからだ。
気分を一新しようと、穹は立ち上がり、書斎を後にした。
クラーレに、お茶を出すことは断ってある。つまり、キッチンに誰かが入ってくる可能性は低い。
穹は、キッチンへと向かった。
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