phase8「ダークマターの目的」

 8月も、もうじき終わる。それはつまり、夏休みが終わることも示している。あんなに長いと感じていた一ヶ月も、過ぎてしまえば実にあっという間だった。美月は今、時間の流れの残酷さを、ひしひしと味わっていた。


「宿題滅べ! 宇宙から無くなれえ!」


 ばーんとテーブルを叩く。その弾みで、傍に積まれていたテキストやノートがばさばさと倒れていった。美月が現実逃避をしてきた証である塔だ。



 家ではどうしたって本を読んだり料理の研究をしたくなったり、他のことに意識を取られてしまうからだ。だが場所を変えても同じだった。宿題の塔は低くならず、美月の頭は限界を超えた。


 もう逃げ続けることは不可能となり、せめて集中して片付けられるようにと宇宙船に来た。



「姉ちゃん。毎年思うんだけどさ、なんでいつも同じことを繰り返すの?」


 宿題が倒れた拍子に顔をしかめた穹が冷たく言った。彼はちょうど、隣で小説を読んでいた。ページを捲る速度と顔つきからして、ちょうど物語が佳境に入っているらしかった。


 美月は痛いところを突いてきた穹を無視して、カメラをいじっている未來の名前を呼んだ。なあに、と友人は優しく笑いかけてくる。


「確か、宿題7月中におおかた終わらせたって言ってたよね! お願い、写させて!」

「うん! 駄目だよ!」

「そう言わずにさあ! 友達の頼みでしょ!」

「友達って、そういう都合の良い存在じゃないと思うな、私!」


 手を合わせ頭を下げたが、未來の態度はぶれずに一貫していた。美月は振り返り、ココロとシロを膝の上に乗せ呆れた表情でソファに座るクラーレに泣きついた。


「クラーレ! ひどいの! 誰も助けてくれないの!」

「よくわからねえが、自業自得ってやつなんじゃないか?」

「ここに私の仲間はいないの?!」


 頭を抱えてテーブルの上に視線を戻せば、そこにあるのはおびただしい量の現実の山。絶望を伴い、着実に美月を追い詰めている。

 もう嫌だ、もう何も考えたくない、この現実を忘れたい。ごん、と額をテーブルの上に乗せたときだ。がちゃりとドアが開き、ハルがリビングに入ってきた。


「ハルー! ひどいの! 皆誰一人も助けてくれないの! せめてこれ教えてくれない?! 頭が限界!」


 ハルは美月を、いや美月達を一瞥した。それだけで、何かを口にすることはなかった。


 美月はその瞬間かすかに、居心地の悪さを覚えた。

瞬間移動の事故。戻ってきてからというもの、ハルの様子がおかしい。いつもどこか、他のことを考えているように見える。


 一番居心地が悪いと感じるのは、何も言ってこないことだ。

 向こうは、表面上いつも通りに振る舞っているので、あえて言及はしないでおいた。穹も未來もクラーレも、様子を見ているようだった。


 が、そろそろ自分自身に対して、限界を感じていた。もし今日言わなかったら、聞いてみようと決めていた。


「……では、気分転換に、この映像を見るのはどうだ」


 ハルは、両手にそれぞれ何かを持っていた。一つは薄いタブレットのような端末。もう一つは、メモリーカードだった。


「見る覚悟が、あるのであれば」


 美月は、他の皆と目を合わせた。ハルの台詞の意図がわからなかった。


 誰も見る、とは言わなかったものの、見ないとも言ってこなかったため、美月は了承した。視聴する覚悟など全然できていなかったが、必要とも思えなかった。

 ハルは、覚悟して見る者が誰一人もいないことに気づいてるようだったが、浅く頷いた。


 端末をテーブルの上に立て、メモリーを差し込み、指で黒い画面に触れる。刹那、手が止まった。


「最初に、謝っておく。今まで黙っていたこと。更にこんな形になったこと。すまない」

「どういうこと?」


 ハルからの答えはなかった。ハルが何か言う前に、映像が再生されたからだ。美月はとりあえず、端末に視線を集中させた。


『宇宙は最初、何もないところから生まれました。時間も空間もない場所に、突如として生まれました』


 最初、画面は黒一色のままだった。音声のみ聞こえてくるそれは男性の声だった。


 その音を聞いて美月は、直前まで宿題をしていたことから、宇宙に関する映像授業か何かだろうかと推測した。


『その時の宇宙は、確かに秩序ある宇宙だった。全てが正しく、間違いという概念そのものがない、理路整然とした宇宙であったのです』


 美月は混乱した。突如話が、哲学的なものになった。ハルの横顔を見たが、ハルは画面を凝視し、映像の詳細を説明することはなかった。


『しかしどうしたことでしょう。今この宇宙は、混沌としています。混沌に満ちています。様々な存在の、様々な考えが絶えず衝突し、火花を散らし合っている。そのせいで争いはずっと続いている。宇宙の、ありとあらゆる、至る所で。それらは収まる気配を、全く見せません』


 喋っている人の声は自信に満ちあふれており、淀みがなかった。一字一句が非常に聞き取りやすく、言っていることはまるでわからないのに、つい真剣に耳を傾けてしまう。


『話は変わりますが。ここにお集まり頂いてる皆様、この映像をご覧になっている皆様は、宇宙一のデータ量を誇る〈マザーコンピューターHeartハート〉が、なぜファーストスターと共にあるのか、考えたことはありますでしょうか』


 徐々に黒一色だった画面がぼやけていき、別の色が混じり始める。端末に、“映像”が鮮明に映し出された。まず大勢の人混みが見えた。その奥に舞台があるのがわかった。屋外に設置されたその舞台の中央に、紫色の髪の男性が立っていた。


 大勢の聴衆がいるが、人混みはピントが合っておらず、ぼやけていた。カメラの焦点は、壇上にいる人物、ただ一人に向けられていた。見据えるように。


『Heartがファーストスターと共にある本当の理由は、未だにわかっていません。しかし、必ず訳は存在するはずです。

Heartに唯一接続することが可能な媒介プログラム〈mindマインド〉が存在し、使用を許されていることが、何よりの証です』


 その人物が話す声には、相手からの反論を許さないような、断固たる響きがあった。だからだろうか。理解できない話でも、うんうんと相槌を打ちながら聞いてしまいそうになる。語る言葉に納得し、共感しそうになる。


 間接的に見ているだけでもこうなのだから、実際に直接見ていたら、完全に男性の語りに飲まれただろう。男性は背が高く、紫紺の瞳には自信の色が浮かんでいた。一方でその目は鋭かった。男性が一瞬カメラのほうを向いたときに目がかち合い、少し身が竦む思いがした。


『私自身の考えとしては、託されたのだと思っています。マザーコンピューターHeartは、ファーストスターに自身を委ねている。一方で一手を間違えれば、見切りを付けられるのは我々自身。

ファーストスターがなすべきことは何か。それは恐らく、Heartの持つ力を、正しくかつ最大限に、有効に使ってみせることでしょう。

Heartを使用しないと成し遂げられないことを、我々がちゃんと見極め、実行に移せるか。それがファーストスターに……ダークマターに課せられた永遠の使命だと、私は考えております』


「ダークマター?!」


 立ち上がった拍子に、体をテーブルの縁にぶつけた。だが痛みは感じなかった。穹が、未來が、クラーレが、愕然と目を見開いていた。彼らと顔を見合わせ、最後に美月はハルの肩を掴んだ。


「ねえこれ何なの?! 何の映像なの?!」

「まだ続いている」


 ハルはこちらを見ずに答えた。非常に簡潔な台詞だった。美月は腰を下ろした。そうせざるを得ない響きがあった。


『私は考えました。自分がすべきこと。誇りを抱き、成すべきことを。そして、答えを導きました』


 男性は一旦目を閉じた。ゆっくりと息を吸い込み、長い時間をかけて吐き出す。


 彼は、何者なのだろうか。正体はわからない。だが、美月は知っていた。この眼光。この瞳。そして画面越しでもわかる、この人物の周りを取り巻く空気。美月は知っていた。同じようなものを、何度も見たことがあるからだ。


『ここに宣言致します! 私は、私達は、この宇宙を導く! セプテット・スターが、ダークマターが、あるべき姿の宇宙を取り戻す! 混沌に満ちた宇宙を正す! 秩序の保たれた、本来の宇宙を取り戻す! 今、私の持つ全てを賭けて、誓います!

それが今日、セプテット・スターのコードネーム〈サターン〉を継承しました、私のすべきこと、成すべきことなのだと! そう決意致しました!』


 画面を一枚隔てた向こう側で、静寂が場をすっぽりと包み込んだ。それが、轟音のような歓声で突き破られた。その場にいないというのに、肌が震えてくるほどの、大きな歓声だった。


 歓声を受けるサターンの顔には、なんの感情も浮かんでいなかった。ただ、目線を真っ直ぐ向けていた。紫色の両目が、こちらを見ている。聴衆の、その向こう側を見据えるように。

 ゆっくりと、画面が暗くなっていく。歓声が小さくなっていく。ぷつん、と糸が切れるように、映像が途切れた。リビングが、あまりにも静かになっていた。


「……おい。今のはなんだ」


 一番最初に言葉を発したのは、クラーレだった。


「今期のセプテット・スター就任式の様子だ。ちなみに撮影者は私だ。人混みに紛れて撮った」

「あんたがか……。えーと、よく撮れてたな」

「ありがとう」


 ハルは端末からメモリーを取り出し、片付けを始めた。


「あれが、サターン……」

「怖いな……。思わず真剣に聞いちゃったよ……」


 未來と穹がそれぞれ言った。美月は頭を上下した。


 完全に飲まれていた。サターンの話す言葉には、たとえば、反論や批判といったことを、一切考えられなくなる力があった。それらを考えるという前提そのものが消えていた。

 直接会ったわけではない。この場にいるわけでもない。なのに美月の体には、冷や汗が滲んでいた。長い時間見ていたわけでは無いのに、声が、目が、ずっと焼き付いているのだ。


「耳慣れない単語が、出てこなかったか」


 ハルから感情のこもっていない声で尋ねられ、美月は我に返った。サターンの登場に意識を持って行かれていたが、確かに映像の中に、今まで聞いたことの無い言葉が混じっていた。


「あった。マザーコンピューターHeartとか、mindとか……。あれは何? わけがわからないんだけど……」


 言いながら、美月は違和を感じた。なぜだろうか。一度も聞いたことがないはずなのに、全く知らないと言い切るには少々の抵抗を感じる。


「今から、説明をする」


 ハルは立ち上がると、テーブルを挟み、美月達の向かい側に移動した。美月、穹、未來、クラーレの顔を、順番に見ていく。一つ一つ、存在を確かめていくように。


「まずHeartについてだが、地球にも、詳細は伝わっておらずとも、概念を知っている者はいるはずだ。その場合、マザーコンピューターHeartではなく、アカシックレコードという名前で伝わっているはずだが」


 あっ、と穹が手を打った。


「確か大予言の!」


  ハルは頷いた。美月も思い出した。忘れていただけで、アカシックレコードのことは知っていた。

 むろん、本当にこの世に存在するとは思っていなかった。存在するしないの前に、そもそも興味の対象から外れていた。だから今の今まで忘れたまま、思い出すことはなかった。どこで知ったかも覚えていなかった。


「Heartは、この宇宙の、元始からのありとあらゆる全ての事象、想念、感情等の情報の全てが記録されている、最大のコンピューターだ。いつどこで何が起こったか。この世界には、どんなものが存在しているか。世界に存在する情報というもの全てが、そこに詰まっている。そしてmindとは、このHeartに接続するためのプログラムのことだ」


「へ、へえ……」


 説明されても、全くといって良いほどぴんとこなかった。あまりにも壮大すぎて、理解できる範疇を超えていた。

 穹と未來の様子を見ると、二人ともぼんやりとした顔つきをしていた。


 もはや、疑うや信じるの次元ではなかった。それほどまでにハルから告げられたことは突拍子もなく、広大すぎた。


「クラーレさん、知ってました?」

「どこかで聞いたことはあるな。実はこの宇宙に存在するもの全てを記録し管理している存在がいる、っていうのは」


 そうかあ、と未來は上の空で頷いた。


 よくよく考えてみれば、宇宙人と全く関わりのない地球に生きてきて、Heartという宇宙にあるコンピューターの概念は伝わっていたのだ。

 地球ではアカシックレコードに形を変えていたが、それでも概念は伝わっていた。自分が想像する以上に、Heartというコンピューターは、凄まじく巨大な存在なのかもしれない。


 ハルが、わずかに頭を下に向けた。床を見つめる姿は、まるで何かを堪えてる人間のように映った。


「……本題に入るのだが。今から説明することに対して、本当に告げて良いものか、何度も考えた。言えば、皆は間違いなく混乱する。恐怖に陥らせる。そういう結果が出ていた。だから、なるべく言いたくなかった」


 美月は周囲を見回した。穹と、未來と、クラーレと目が合った。各々おのおの、戸惑いが瞳の中に浮かんでいた。微弱ながら、ここから先の話を聞くことに対する恐怖の感情も見えた。なのに美月と目が合うと、全員首を縦に振ったのだ。


 美月はハルのほうを向き、皆と同じように、頷いた。ハルは頷き返した。覚悟を決めたように。


「ダークマターは、ある計画を遂行しようとしている。それを私が反発したため、追われる羽目となっている。それは言ったな」


 言葉を返す代わりに、また頭を上下に振った。どんなことであれ、今何かを口に挟むことをしてはいけないと、直感が告げていた。


「私は、反発して逃亡をしようと判断したとき、逃げ切れる可能性を計算した。結果は、絶望的な数字が算出された。それも当然だ。巨大な組織からたった一人で逃げるなど、無謀極まりないこと。もし、ダークマターの計画が別のものであったのなら、私は行動を起こさなかった。決して」


 妙に部屋が静かだと思った。いつも好き勝手に室内を動いているシロが、じっと足下で座っているからだ。ハルは一人一人に顔を向け、じっと見つめてきた。非常に慎重で、ゆっくりな動作だった。


「……けれど、この星に来てから。具体的に言うと、ミヅキ達に出会ってから。逃げ切れる可能性の数字が、少しずつ、本当に微弱ながら、上がってきているんだ」


 今の台詞は、自分達が役に立てていることが、明に示されていた。美月は、自然と笑っていた。穹は恥ずかしさのほうが大きそうだった。未來は胸に手を当てていた。クラーレは軽くそっぽを向いていたが、微妙に顔が赤くなっていた。


「この事実を受け止め、私は考えた。このような無謀を起こした理由を打ち明けようと。言う時期が来たのだと。

今から言うことは、全て紛れもない真実だ。それを、耳にする覚悟はあるだろうか」


 誰も何も言わなかった。この場を離れる者は、誰一人としていなかった。完璧な覚悟を抱いている者はいないだろう。それでも、生半可な気持ちでいる者もいないはずだ。美月は皆の目を見て、感じ取った。


 それでもハルは待った。充分な時間をかけて待った後で、一つ呼吸を吐き出した。


「ダークマターは、ある計画を進めている。それが、これだ」


 ハルは、テーブルの上に置いてあった一枚の紙に、ペンを走らせた。


「AMC計画……」


 ペンが置かれたとき、紙の上には黒いインクで、そう書かれていた。見易いように大きく記されていた。アルファベットが三つ並び、その後に漢字が二つ続いている。ただそれだけ。だがどういうわけか、その文章から、底知れぬ不気味さを感じた。


「正式名称は、こうだ」


 AMC計画という並びの下に、再びすらすらと何かを書き始めた。手を用いてペンで書いているというのに、まるでパソコンで打っているように、ハルの書く文字には歪みも癖も一切なかった。


All Mind Controlオールマインドコントロール計画。略して、AMC計画」


 正確な文字で書かれたその一文は、あまりにも機械的で、冷え冷えとしていて、全てを突き放す字に見えた。


「先程も言ったようにHeartは、この世界全ての情報という情報が記録されているコンピューターだ。

しかし単に記録されているだけでは無い。記録されているということは、その記録されているデータを、好きに書き換えたり、削除したり、上書きしたりも出来る。

書き換えや削除などの機能を請け負っているのが、媒介プログラムであるmindだ。書き換えや削除を行えば、その通り、宇宙全てに反映される」


 ハルは手に持っていたペンを持ち替え、指で摘まむ形に変えた。


「例えば、このペンという存在の情報を削除したら、その瞬間に宇宙からペンというもの全てが消える。いや、消えるのではない。もともとそれが存在しない世界になるんだ。

削除する規模も変えられる。今私が持っているペン一つだけを消すこともできるし、ペンという概念、ペンという存在そのものを削除することもできる。

どちらの場合でも、ペンは最初から無かったことになる。だから誰もペンが無いことを不思議に思わない。それが当たり前の世界に置き換えられるからだ。

Heartによる書き換えや削除とは、そういうことだ。よって、混乱が起きる心配はゼロなんだ」


 美月は、ハルが持っているペンを凝視した。普通のどこにでもあるようなボールペンだった。どこにでもあることが当たり前のこのボールペンが全てが消えて、それを疑問に感じないことなどできるのだろうか。本当にそんなことができるのだろうか。


 未來がそういえば、と指を立てた。


「写真とかのデータをパソコンで整理するとき、データをコピーしたり、貼り付けをしたり、切り取ったり削除したりします。もしかしてそれと同じような感じですか?」

「おおむね同じだ。違うのは影響の及ぶ範囲と、一部を除き一度変更をしたら、取り消しが出来ない点だ」

「戻せないんですか……」


 未來は呟き、また黙った。


「その点を踏まえた上で、言おう。ダークマターはHeartに接続し、ある情報の、上書きを行おうとしている」


 ハルが、ボールペンを机の上に置いた。その手を、体まで運んでゆく。そして、心臓の辺りで、手を止めた。ぺたりと、手のひらで、その部分を覆う。


「心だ」


 反射的に、美月も自分の心臓の辺りを、手で覆った。他の皆も、心臓の辺りに目を落としたり、手で触ったりしていた。


「この宇宙上に存在する、全ての生命の持つ、心。当然それは、Heartに記録されている。Heartに記録されている、心という概念。生命によって、一つ一つ異なる心という概念。

それらを全て、し、する。これが、AMC計画の内容だ」


 ハルの声が、低くなる。


「そうなるとどうなるか? 全ての人間が、同じことを考え、同じように行動し、同じことを思うようになる。設定された以外のことは、皆考えられないようになる。行動できなくなる」


 感情のない台詞が、一つ一つ、降ってくる。降ってきた言葉は溶け込まずに、積もってゆく。


「もっと簡単に言うならば。考える。思う。感じる。それら全ての自由が、奪われる。

頭の中では、何を考えても自由という言葉があるが、その自由が、奪い去られる」


 ハルはわかりやすく説明しようとしているのだろう。難解な言葉は使っていない。それはわかる。けれども、わからない。

 美月達が全く飲み込めていないことを理解しているだろうが、ハルは補足をつけずに、淡々と続けた。


「Heartで書き換えれば、心の自由が無い世界を、誰も不審に思わない。Heartで書き換えられれば、になるからだ。だから誰も混乱しない。反乱も起きない。心に自由があったという事実そのものすら、人々の頭から、宇宙から、完全に消え去る。無かったことにされる」


 ハルは心臓の辺りに置いた手を、とんとんと叩いた。


「お腹が空いたから、あれを食べたい。気になるから、あの本が欲しい。綺麗な景色だと感じたから、写真に撮っておきたい。この生き物が可愛いから、撫でたい」


 異形頭のロボットは、ずっと美月達のことを見ていた。一度も俯いたり、逸らしたりしなかった。


「これら全て、自由に思えなくなる。その自由がないことが、当たり前の世界になるんだ」


 部屋の酸素が薄くなっているのでは。美月はそう感じた。先程から、上手く呼吸が出来ないのだ。その理由が、自分が知らず知らずのうちに息を浅くしていたからだと気づいた。


「これが、ダークマターが行おうとしている計画。私が反発した計画の内容だ」


 どくん、どくん。脈が徐々に大きくなっていく。聞いている間はむしろ、止まってしまったのではと感じるほど静かだったのに。速いとはまた違う。心音の一つ一つが大きく、深く、重いのだ。


「なんで、そんなこと、を……?」


 他にいくらでも聞きたいこと、聞かなければいけないことがあるはずだ。だが口から出たのはその疑問だった。動機は。ダークマターの動機は。ハルは躊躇いもなく口を開いた。


「秩序だ」


 その単語と、今までの話が結びつかず、軽い混乱を起こした。既に混乱状態の渦中にいるというのに。


「誰もが同じことを考え、同じように行動し、管理される通りに動けば、犯罪諸々は無くなる。事件も事故も、争いも飢えも、人々を悲しませ、苦しませる全てのものが消えてなくなる。

完璧な秩序の保たれた平和な世界。その宇宙を作るため、というのが、ダークマターが計画を遂行しようとしている目的だ」


「秩序の保たれた、平和な世界……?」


 声が震える。震えを止める術がわからない。


「確かにAMC計画が成功すれば、平和な宇宙が訪れる計算になっているんだ。私自身も何度も計算したから、確実だ。

人々が持つ心は、人々によって違う。違いから、“ずれ”は生じる。そのずれは、争いの元となる。不幸の原因となる。

ずれ、隔たり、差、溝、違い。これらそのものが起きない世の中になれば、確実に争いも飢えも、何もかもが無くなる。ダークマターの言い分は正しいんだ。それは覆せない事実だ」


 ここでハルは視線を逸らした。遠くを見るように、星でも眺めるように、頭を上に向けた。

 でも、と美月は言おうとした。だが、続けて言う言葉は決まっていなかった。まるでそれに続くように、ハルは口を開けた。


「だが。朝はこれを考え、昼はこれを思い、夜はこれを感じる。決められた以外のことは、考えてはいけない。そもそも考えられない。

“その他大勢の人々”と全く同じ行動を取る。何かを見たり聞いたりしても、“その他大勢の人々”と全く同じことしか感じない。


……心のある生き物が、組みこまれたプログラム通りにしか動けない、ロボットのようになるんだ。


そんな風に、心を管理される。自由を奪われる。思考を束縛されたも同然になる。自由があった事実すら消失する。束縛されている現実を誰も知らない世界になる。

そのような宇宙は、絶対訪れてはならない。訪れれば必ず、破滅する。私は、分析と計算の末、そういう結果を出した」


 何かに刺さるような感覚がした。もしかするとハルかもしれないと思った。ハルの無いはずの目が、鋭く刺さってくるような感覚がする。あるいは室内の空気が、鋭さを帯びているのか。


「心は、管理していいものではない。決して、心は管理されてはいけない。秩序と引き換えに心の自由を差し出すなど、間違っている。心は、自由であるべきもの。だから私は、計画の妨害を決めたんだ」

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