phase6.1

 美月は、どんな様子になっているかを窺うことにした。慎重に顔を覗かせると、少し向こうにルベラの後ろ姿が見えた。背中からでも、強い動揺を抱いていることが伝わってくる。その奥に立ち、ルベラと向き合っている人物の顔を、美月は目を凝らして見た。


 どこかで見たような顔だと感じた直後、記憶が蘇った。給湯室に、ルベラを呼びに来た女性。その人が、体の前で手を組み、ルベラの目を見ていた。


「──。──」


 英語で話し出したのを聞き、美月は慌てて、穹から受け取った通訳バッジをつけた。装着する寸前、穹に対し、本当にいいのかと目で尋ねた。頷く穹の目に、先程のような無機質さは宿っていなかった。


「私を追ってきたとは、どういうことですの」


 ルベラが聞いた。凜としており、落ち着き払っている声音だった。相手はそんなルベラの冷静さに動揺を感じているようだった。居心地が悪そうに、顔を俯かせている。


「……最近のルベラさんの行動から、なんとなく察してました。金庫に行こうとしているのだなと」


 聞こえてきた声がちゃんと日本語に翻訳されており、美月はほっとした。美月にとって外国語は、宇宙語と同じほど、全く聞き取れない異次元の言葉なのだ。


「ではなぜ、私が人目を忍んで金庫に行こうとしていたかも、当然わかっていますわよね」

「……はい」


 ルベラの発する声には、明確に厳しさが伴っていた。声からして、ルベラが相手に鋭い目線を投げているのは容易に予想できた。真っ直ぐに背筋を伸ばした途端、相手がびくっと肩を震わせたのが見えた。


「ならば説明をなさって下さいますか。なぜ、貴方は私の指輪を盗み、ここに隠したのです」

「それは!」

「指輪を無くしたのは、私がトイレに行った後。私の後にトイレに向かったのは貴方です。それに、金庫の当番である貴方の挙動がここのところずっと落ち着かないことに、私が気づいていないとでも?」


 どうしてこのような厳しい態度を取っているのか。この一言で、全て合点がいった。未來が耳打ちをしてきた。「あの人が犯人なのかな?」


 わからないという意味を込めて、美月は首を振った。だが胸中では、確信していた。


 追求された女性は、固く目を閉ざし、口を結んでいる。睫毛が、口元が、組んでいる手が、震えている。一見すると、とても盗みを働くようには見えなかった。しかし今は、紛れもない容疑者となっている。ほぼ確実な疑いを掛けられている彼女は、ゆっくりと顔を上げ、目を開けた。


「本当のことを話しても、いいのですか」

「そうするべき義務が存在します」

「……わかりました」


 一つ聞こえてきたのは、息を深く深く吸い込む音。


「確かに私は盗みました。そして隠しました。ですがそれは、盗みたくて盗んだわけではありません。そうしなくてはいけないと、思ったからです」

「どういう意味ですの?」

「聞きますが、ルベラさん、部長のことが好きですよね?」

「え? ……ああ。でも、あの人のことはもう……」

「指輪を盗もうとしていたのは、部長だったのです。ルベラさんの指輪を盗んで、換金しようとしていたんです」


 ルベラの伸びていた姿勢が、少し崩れた。


「……え?」

「証拠もあります。この音声をお聞きください」


 相手が盗聴器のようなものを取り出した。ルベラは相手に近寄っていった。盗聴器から何を聞いているのか美月も耳を澄まそうとしたが、ノイズ混じりでよく聞こえなかった。

 だが微かに、「億はくだらない」「頼めばすぐに渡してくれる」という台詞はかろうじて聞き取れた。思っていた以上に歳がいっているとわかる声だったので、美月は面食らった。


 女性から離れたルベラの背中からは、何も感じ取れなかった。何も考えられていない状態なのか、様々なことを考えるあまり複雑化しすぎて、こちらが感じ取れないのか。


「……貴方はどうして、こんなことを」


 それでもルベラの声は、動じていなかった。そういう振る舞いだとしても、演技だと感じさせなかった。静かに尋ねたルベラに、女性はまた俯いた。


「ルベラさん、あの人のことが本当に好きそうでしたし……。評判というか、名物になるくらいでしたので。言っても、信じてくれないだろうと思いまして」


 女性は深々と、頭を下げた。


「勝手なこと、軽率な行動をしてすみません。この指輪は、絶対に外してはいけない大切なものだと伺ってまして……。とりあえず隠しておいて、後からしっかり話そうと考えていたのです。さっきのを聞いてもわかるとおり、あの人は本気で盗もうとしていましたので……」

「貴方……。なんという大胆な……」


 ルベラが手を頭にやり、少しよろめいた。大丈夫ですかと駆け寄る女性を、手で制す。


「どうしてここまでのことをしたのです。貴方がここまでのことをする理由は……」

「いえ。ルベラさんが来てから、私は自分に自信を持つことが出来るようになったのです」


 女性は躊躇いがちに、けれどもしっかりと、微笑んだ。


「ルベラさん、いつも言ってますよね。人は誰でも輝く宝石なのだと。実際、ルベラさんのくださったアドバイスに従ってみましたら、どんどん自分の心が前向きになっていくのを感じたんです。

今でもまだ自分に自信がないことに変わりは無いですが……。

ルベラさんこそ、輝く宝石そのもののようなのに、こんな私の傍にずっといて、ずっと話を聞いて下さいました。誰も聞いてくれなかった私の話に、真剣に耳を傾けて下さった。そんなあなたに、少しでも感謝の気持ちを伝えたかったのです」


 ルベラが、自身の髪をいじりだした。


「た、民の話を聞くのは、当然の責務ですので」

「そういう口調でも、ルベラさんが言うと全然嫌味に聞こえないのが本当に不思議ですが、凄いと思います!」


 急にルベラは、わざとらしく大きな咳払いをした。


「こうして無事に戻ったのです。貴方を責める気は、毛頭ありません。それに、私のことを考えてここまでして下さった。……ありがとうございます。心に溢れる、全ての感謝をお伝えしたいと思いますわ。最大限の敬意を表します」


 ルベラは頭を垂れた。その姿は、優雅で、可憐で、宝石そのもののような輝きを纏っていた。その光を直に当てられた相手はすっかり恐縮し、しきりに手をぶんぶん振った。


「い、いえ! そんな! ……あの、傷ついていないんですか? あの人のこと、好きだったのでは?」

「もう冷めてますので」

「えっ、いつの間に……」

「他に用件はありますか?」

「いえ、ありません。ありがとうございました! それでは!」


 明るい笑顔で去って行く相手を、ルベラは完全に見えなくなるまで見送っていた。行ったことを確認すると、美月達は扉の裏側から出てきた。

 ずっと背中を向けているルベラに、美月はなんと声をかけようか迷った。予想していなかった真実を知った彼女は、どう受け止めているのだろうか。


「ルベラ、良かったね。無事に戻ってきて」

「……あの男……」

「え?」


 とりあえず、終わりよければ全て良しという意味を込めて話しかけてみた。が、返ってきたのは、どすのきいた低い声だった。


「優しそうな紳士のおじ様だと思っていましたのに……」


 地の底から這って生まれてきたような声。あらゆる怒りを凝縮して詰め込んだという声。ぶるぶると拳を強く握りしめるルベラの体から、熱気が帯びてくる。黒いもやを纏っているように見える。と、バイブレーターのように震えていた手が、ふっと緩んだ。


「……私、もう辞めますし、何してもいいですわよね」


 その声は低くなかった。怒りも感じられなかった。むしろ、明るく、楽しそうだった。美月はルベラの前に回り込んだ。瞳の中に、怒りの炎がごうごうと燃え盛っていた。全身の肌が粟立った。冗談じゃなく、命の危険を感じた。自分でなく、ルベラが怒りを向けている相手に対して。


 会ったこともない相手に本気で心配してしまうほど、ルベラの怒りは巨大なものだった。これを全てぶつけられたら、生きてはいられないだろう。


「さっきの人、凄くルベラを尊敬していたようだったよね! なんかわかる気がするなあ、ルベラってとてもお洒落で綺麗だもの! お化粧もしっかりしてるし、服のセンスもいいし、あ、そのベルトのアクセサリーとかとても素敵!!」


 とにかく怒りの矛先を逸らさねばと、美月は早口で褒め言葉を述べた。怒りを宿したルベラの目が、ぎろりとこちらを向いた。息が止まった直後、ルベラの目が優しく細められた。聖母のような微笑みだった。


「まあ、ありがとうございます。お洒落には気を遣っておりますから嬉しいですわ」


 美月が褒めたのは、腰から下がるチェーンベルトだった。花の形をした、レースのようなデザインをしていた。それをルベラは、労るように触れた。


「もっともこのアクセサリーでは、刺すことも殴ることもできませんけれどね」


 どうしよう、と美月は振り返った。が、他の皆は全員、ルベラから充分すぎるまでに距離を取っていた。


 さあ行きましょう、とルベラが早足で先を歩き始めた。腰から掛けられているアクセサリーが、ちり、と鳴った。







 バルジ内の通路を歩いている最中、いきなり肩を掴まれたにも関わらず、プルートは一切動じずに振り返った。熱感知などで、後ろから誰かが近づいているのは既にわかっていたからだ。人工的な青い目が見つめる先には、ウラノスが立っていた。彼は力なく手を振って挨拶した。


「どうかなさいましたか?」

「これ? ちょっとばたーんとな……」


 ウラノスは点滴をしていた。プルートは形式的に、「大丈夫ですか」と尋ねた。


「だいじょーぶ……。それよりちょっと、手を見せてくれないか……」

「わかりました」


 プルートが片手を差し出すと、ウラノスはそれを手に取り、じっと視線を注いだ。対象物を観察する研究者の目つきだった。手の甲や手のひら、指の一本一本など、細部に至るまで隅々を眺めている。と、ふと感慨深げに息を吐いた。


「本当に人間にそっくりな手だなあ……。感触までそっくりとか……。この出来はいつ見ても惚れ惚れするわ……。俺よりも人間らしい手だったりして……」


 ウラノスは非常に痩せ細っている為、手もほぼ骨と皮だけに近い状態だった。触らずとも見るだけで、その硬さはわかる。

 満足したのか、ぱっと手を離した。ほんの一秒前まで食い入るように見ていたとは思えないほどあっさりとしていた。


「お前の開発者からの用事終わったら来てくれ……。色々調整があるからな……」

「承知しました」


 プルートは礼儀正しく一礼し、その場から立ち去った。ウラノスも行こうと振り返った、その時。


 風が顔にかかり、目の前すれすれに、先端の尖ったものが突き付けられた。それは、傘だった。

 傘の柄を持っているのは、ネプチューンだった。剣のように構え、その先端をウラノスに突き付けているのだ。


 ネプチューンが怒りを抱いていることは一目瞭然だった。緑色の目をかっと見開き、呼吸も荒い。彼女は更に一歩、ウラノスに詰め寄った。


「あなた、一体、何をしていたのですか!」

「……は?」


 何を言ってるんだとばかりに、ウラノスは眉根を寄せた。理解されていないことに更に腹が立ったのか、ネプチューンは更に目を見開いた。


「なんであんなにプルートの手を触っていたのですか! 汚らわしいです! そんなに気安く女性の体に触れてはいけないのですのよ! 常識がなっていません!」


 ウラノスとしては、プルートのアンドロイドとしての完成度を技術者としての目から見て評価していただけであって、よってネプチューンの言い分は全く理解できないものであった。彼は鬱陶しそうに頭を掻いた。


「何言ってんだお前……」

「自覚がおありにならないと?!」


 非常に高く、大きな声が発せられた。それは反響し、しばらく廊下内にネプチューンの声がこだました。


「うるさ……」

「ならばわたくしが、あなたのその曲がりに曲がってこんがらがった状態で固まってしまった性根を! 今ここで! 叩き直しますわ!!」


 ウラノスは両耳を押さえ、目を閉じた。


「頭と耳が痛くなる……。お前喋るな。うるさい……」


 一瞬ネプチューンは息を失った。微かな沈黙の後で、また「はあああ?!」と、周囲に響き渡るほどの声を発した。


「最低限の常識を身につけていないあなたに対して注意をする、人として当然のことですわ! それをうるさいの一言で片付けてはいけませんことよ! 本来ならしたくないのですのよ、こんな手を煩うこと! 嫌がらずにちゃんと全うしようとするわたくしに、むしろ感謝をしてほしいぐらいですわ!」

「ぜんっぜんありがたくないから、放っておいてくれ……」

「わたくしの善意を無碍むげにすると?! 」

「は、それにどれほどの価値が?」

「……なるほど。粛正しなくてはならないようですわね!!」


 彼女は一旦間合いを取った。かと思うと、一気に踏み込み、距離を詰めてきた。ウラノスが舌打ちをしながら避けようとしたときだった。


「何を騒いでいるんだ、お前達は!」


 鋭い声が降ってきた。びくり、とネプチューンの動きが止まった。ウラノスはネプチューンの後ろに立っている人影を捕らえると、勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべた。


「サターン助けて~……。なんか襲われてるんだよ、俺……」


 本気で助けてほしいと思っていないことが明白だったためか、サターンは怪訝そうにした。だが、今だに傘を突き付けた状態で固まっているネプチューンの背中に、声をかけた。


「……ネプチューン、一体何をしている。セプテット・スターともあろうものが、このダークマター専属機関バルジという場で声を荒げるなど」


 ネプチューンは両手で強く傘を握りしめ、その場を去ろうとした。だが、足を止めた。止めざるをえない響きがあったのだ。

 構えていた傘を下ろすと、ウラノスのことを手で指した。


「この非常識な殿方に注意をしていらしたのですのよ? あなたにはモラルもマナーもないと。ですから、わたくしが教育をしようと進言したのです。何も間違ったことはしていませんわ」

「にしては、行動が過激すぎている。それに、非常識はお前にも言えるぞ。ここでどれだけの研究員が働いていると思っている。上に立つ者として、品位を落とすようなことはするな」


 ネプチューンは頭を抑え、長く息を吐き出した。何度か目を瞬きしていくうちに、頬全体に染まっていた怒りの色が、薄らいでいった。


「……確かに、思慮深さに欠けていましたわね。浅はか極まりない行動でしたわ。失礼致しました。……ウラノスさんも」


 渋々だったが、ネプチューンはウラノスにも頭を下げた。うん、と上から頷くウラノスがどうしても見下しているように感じられて、また怒りを抱きそうになった。


「わたくし、用事がありますので、これで」

「それは私用か?」


 また怒りが爆発する前にと、ネプチューンはさっさとこの場を去ってしまいたかった。だがサターンは、的確に問うてきた。ネプチューンは振り向かずに、「すぐに終わりますから、済ませたら仕事に戻ります」と静かに言い残し、廊下の奥に消えていった。


 用事が私的だと暗に言われ、サターンは苦い表情になった。ふふ、とウラノスが力ない笑いを零した。


「あいつもまだ子供だもんなあ。可愛いもんだ、そう思わないかあ……?」

「例え何歳であっても、常に立場を弁え、役目を成し遂げ続けなくてはいけない。彼女は責任感が非常に強いが、まだまだ甘い部分が多い」

「わ~。厳しい厳しい……」


 点滴の管をつつきながら笑うウラノスに、サターンは厳しい光の宿る目を向けた。


「だがネプチューンの言うことは正論だ。ウラノス、お前の非常識さは目に余るものがある。最も矯正すべき箇所だ」


 ウラノスは冷笑した。軽く壁に寄りかかり、サターンの紫色の目を見上げる。


「俺に常識を期待するんだあ。無駄な時間と労力を使うなあ……」


 他人事な物言いに、サターンは苦しげに息を吐き出した。


「なぜいつも、素行を改める素振りすらも見せないのだ」

「自分のことは自分がよくわかってるってね。それに俺が常識を持ったら、この天才ぶりがかなり消えると思うな……。鋭さが無くなってな、鈍くてつまらないものになるんだよ」

「常識があっても、才能や感性に磨きを持ったままの者はいる」サターンは背を向けた。


「〈Heartハート〉の点検の時間だ。行け」


 ウラノスは頷き、壁から離れた。


「はいはい。今日の様の機嫌はどうかねえ……。ま、悪かったら、この宇宙は終わるけど」


 直後、何かを思いだしたように吹き出した。


「そういやあサターンさあ。セプテット・スターの就任式の時さあ。随分とまあ大層なこと喋ってたなあ……。宇宙がどうたらこうたらってさあ……。そんなことわざわざ考えてるなんて、本当に面倒臭い奴だなあ……」


 サターンが振り返った。眼光の鋭さが、更に増していた。刃など比べものにならないほど、鋭利な目。


「貴様は、自覚に欠けている」


 ばっさりと一刀両断するような口調だった。相手に口を開かせまいとする気迫を纏っていた。


「なぜ、Heartがあるのだと考える? 我々が、ファーストスターが、託された存在だからではないのか? 宇宙を導いていくという使命を背負っているからではないのか? 始まりの星は、選ばれた星なのだと。自覚を持て、ウラノス。常に肝に銘じながら生きていけ」

「はいはい……」


 煩わしそうに視線を逸らしたウラノスに何か言いたげであったが、サターンは何も言わなかった。これ以上は時間の無駄と判断したのか、大きくきびすを返し去って行く。


 どこからか微かに金属の擦れるような、ちり、という音が鳴った。





 プルートは規則性を寸分狂わせない足音で、廊下を歩いていた。その間も、プルートは目まぐるしく演算を続けている。いかにして効率よく与えられた業務をこなしていくか。瞬時のうちに計算を繰り返し、結果を算出し、不要な答えは捨てる。そこには一切、無駄という概念がない。その思考が足と共に、ある一室の前で一旦止まった。


 ヒューマノイド開発部門のフロアの最奥。その部門の責任者に指示された場所がここだった。専門的な機具や機械が他部門よりも多く存在する、プルートのようなアンドロイド専用のメンテナンスルームだった。


 そこに入っていこうとした時だ。たたた、という足音が、廊下を駆けてきた。真後ろで立ち止まったその者は、「プルート!」と大きな声を投げてきた。


 ネプチューンが、息を切らして立っていた。はあはあと呼吸を乱しながら、背を屈めている。


「や、やっと会えましたわ……」

「どうかなさったのですか」


 ネプチューンは質問に答えたそうに口をぱくぱく動かしていたが、乱れた息が出てくるばかりで、言葉は発せられていなかった。深呼吸を繰り返し、やっと落ち着くと、彼女は顔を勢いよく上げた。


「わたくしと、またお茶会をして下さいませ! あまりこれは言いたくないのですが、言いますわ。命令です!」


 プルートは、一回瞬きをした。その後で、ゆっくりとお辞儀をした。


「承りました」

「本当ですか!」


 ぱあっとネプチューンの顔が、途端に笑顔になった。走ってきてまだ疲れが残っている状態だというのに、そんなものは吹き飛んでしまったかのようだ。弾む声で日取りや段取りなどを決めると、ネプチューンは輝く瞳で、プルートを見てきた。


「本当にありがとうございますわ、プルート。わたくし、とても胸が一杯ですわ! お茶会、楽しみに待っていますね!」


 喜びを体全身で表現しながら、ネプチューンは去って行った。


 彼女の喜びの感情指数がなぜ上がっているのか。プルートは考えたが、今思考するべきことではないと判断した。無駄な思考は省くべきなのだ。そもそも、無駄な思考というものが出来ないプログラムになっている。


 プルートは部屋の中に入った。十数台もの端末機に囲まれた室内に、稼働中のそれらの間を忙しなく移動する、白衣を羽織った熟年の女性がいた。その人間は、プルートの入ってきた物音に気づき、振り返った。顔に微笑が浮かんだ。


「久しぶりね、〈アイ〉。元気にしていた? 体の具合はどう?」

「問題ありません、デイジー博士」


 答えた途端、デイジーは少し寂しげな表情を浮かべた。


「たまには顔を見せてよ。ゆっくりお話ししたいのに、寂しいじゃない」

「申し訳ありませんが」


 デイジーの口が、ひゅっと閉ざされた。頼りなさげな眉をしていた表情が、どんどん弱々しくなっていく。


「顔を見せるのは、業務と関係ない事例だと判断しているため、出来かねます。それに対する利点が見つけられないので、行う必要性が無いためです。それともう一つ」


 何かしら、と小さな声で、相手は尋ねてきた。


「ダークマターやバルジ内では、私のことは製造ネームではなく、コードネームのプルートとお呼び下さい。何度もお願いしたはずですが」


 そうよね、とデイジーは俯いた。向こうが呼んだはずなのになかなか本題に入らなかったため、プルートが先に言うことに決めた。


「メンテナンスをお願い致します」


 ええ、とデイジーは慌てた様子で頷いた。「それじゃあ、そこに入ってね」


 部屋の中央におかれている、卵形の大きな白いカプセルを指さした。メンテナンス用のポッドだった。プルートがそこに入ると、デイジーは扉を閉めた。


 ポッドの中で、プルートは考えた。

デイジーは、いつもプルートのことをアイと呼ぶ。どうしてコードネームで呼ばないのか。いつもアイと呼んだ後には、瞳を曇らせるのか。


 プルートには、どうしても理解できなかった。

 けれども優先すべき事項ではないと、解決を先送りにすることを決めた。ポッドが機械音を唸らせ始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る