phase4.1

 「絶対にここから動かないでちょうだいね。わかったわね? いいわね? 動いたらどうなるかわかるわよね? いいわね!」

「なんなのよ偉そうに! いい加減わかったから早く行ってきて!」


 猫を追い払うように、しっしっと手で急かす。ビーナスは何度も美月に念を押しながら、トイレの奥に消えていった。


 呆れ果てながら、廊下の壁に背を預ける。そこから見上げた女子トイレの看板を懐中電灯で照らしてみると、看板がすっかり色あせているのが見えた。


 ここまで辿り着いたはいいが、ビーナスはなぜかなかなか入ろうとせず、押し問答が続いていた。苛立っていたのだが、いざこうしてみると、渋るのもわかる気がした。トイレの奥は真っ暗で時折水の滴る音が聞こえてくるし、この色あせた看板の絵が、まるで血に濡れているように見える。


 実はこのトイレこそ七不思議の舞台なのだが、言わないでおいておいた。美月は先程の、ビーナスが杖から出した音波で窓ガラスが粉々に割れるシーンを脳内で再生した。自分の頭があのガラスみたいになるなどわずかだって想像したくない。


 トイレの出入り口付近をぶらぶらと歩き回りながら、美月はふと、他の皆は大丈夫だろうかと考えた。


 皆どこに行ったのか。出会えないだけで、この校舎内にいるのか。だとすると、未來は心霊ものを怖がらなさそうだから、案外平然としているかもしれない。問題は穹だ。穹は心霊ものが大の苦手なのだ。もし一人で校舎内をさ迷っているとしたら、早々に気を失っていそうだ。ハルやクラーレはどうだろうか。怖がっているところは想像できないが、敵に襲われてはいないだろうか。


 考えていた、瞬間のことだ。

 ばあああん、と勢いよく何かを叩きつけるような音が聞こえてきた。ドアを思い切り閉めた時の音と似ていた。何かあったのかと声をかけようとした、直後。


 トイレから誰かが出てきた。一瞬誰だかわからなかったのは、雰囲気が生きている人間とかけ離れていたからだ。幽霊かと思ったその人は、目から生気が消失したビーナスだった。


「いたわ」


 あまりにも抑揚なく、小さな声だったので、聞き取れなかった。え、と聞き返すと、ビーナスはトイレの奥を指さした。


「髪型がボブの人影が」

「おかっぱってこと……? どこに?」

「手前から三番目のトイレの中」


 どうか見てきてほしいという、生命力の消えた中、必死の思いが込められた眼で見られる。抵抗する気も起きず、美月はトイレの中に入った。個室は四つだけで、手前から数えて三番目のみ、ドアが閉まっていた。さすがに開ける時、緊張が走った。震える手と大きくなる鼓動を抑えながら、ドアに手をかける。


 大きな音を立てて開けるが、しかしそこには、トイレが一つあるだけで、他に何もいなかった。


「ええ、本当に花子さん出たのかな……?」


 中を覗き込み、ついでにあの光も探してみようかと思った時だった。


──あと、二つ──


 え、と天井を見上げる。むろん、そこには木の天井があるばかりで、他には何もなかった。


「な、なんで?」


 問いかけても、もちろん、答えは返ってこなかった。






「やっぱりあった!」


 青白い光は、トイレのドアの上のほうにあった。だが、未來が背を伸ばしても、ぎりぎり届かない場所にあった。マーズを呼ぶとすぐに来てくれ、彼女が軽く腕を伸ばしただけで、すぐに光に届いた。


 頭の中に、あと二つという声が反響する。


「今ので確信した。この声、どこかで聞いたような気がするんだ」


 マーズが一つ頷いた。その後で、でもなあ、と苦い顔をして首を振る。


「誰の声かまでは思い出せないんだ。それに最初、あんたとはち合わせてすぐの頃に教室から聞こえてきたぼそぼそした声も、物凄くよく知ってる奴の声に似てたんだよな……」

「物凄く知ってる奴の声?」

「ああ、幼馴染みだ!」


 その人達のことを思い出したのか。マーズの表情が柔らかな笑顔になった。それがふいに消え、堅い表情に変化した。考え込むようにじっと目を閉じていたが、しばらく経った後、意を決したように目を見開いた。


「本当は、作戦だった。こっちが用意したパルサーの反応を、ハルに掴ませるっていうな。今回は本番というより下見で、万一に備えて戦闘能力の高いメンバーで下準備をするっていう予定だった。本番では、もっと色々罠とか用意した状態でおびき寄せるつもりだったんだ」


 未來も大きく目を見開いた。ゆっくりと、相手を見据える。


「どうして、打ち明けたの」

「……予想外のことが起きたからだよ。まさかこんな状況になるとは思いもしてなかったんだ。だがそれだけじゃなかった。こうしてあんたと一緒に行動するなんてな」


 ぽちゃん。どこからか、雫の落ちる音が聞こえてくる。


「あたいはどうしても叶えなたいことがあるから、ここでくたばるわけにはいかねえんだ。だから、ありがとうな、未來! あたい頭良くないから、こうやってちゃんと考えるなんてことできなかったよ!」


 見ていて気持ちの良いくらい快活な笑顔を向けてきた。拍子抜けしたような思いを抱いた未來はうん、と浅く頷いた。


「やっぱり、頭も鍛えないと駄目かなあ。一応あたいは石頭なんだけどな。頭も鍛えないと本当の強さは手に入らないだろうなあ」

「強くなって、どうしたいの?」


 恐らく一人言であろうその台詞に、素朴な疑問が湧いた。初戦闘の時も思った。どうして彼女は、強さを求めるのだろうか。


「強くなったら戦うとき、熱くなれるだろ!!」


 マーズはあっさり口を開いた。


「だから不意打ちとか闇討ちとか弱い者いじめとか、あたい、凄く嫌いだ! つまらねえから! 強い相手と熱い戦いを繰り広げないと、こっちも強くならねえだろ!!」

「……熱いね」

 

 真っ直ぐな熱量に、未來は何度か目を瞬かせた。自分には果たして、ここまで熱くなれるものなど、あったろうか。


「だから未來とも戦いたい! ……だが、ここにいる今だけは、確かにあたいとあんたは仲間だ。

ここを出て、“仲間”じゃなくなったら。あたい、頭を鍛えてみようと思うよ。いつか未來と一対一で戦ったとき、すぐ負けるような無様な姿を見せないように」

「あはは。……勝てるかなあ、私」


 全く意図したわけではなかった。なのに、誰がどう見ても弱気な発言を、弱々しい声で出してしまった。


 しまったと口をつぐむも、もう遅い。けれどもマーズは、逆に怒ったような声を出した。


「何を言ってんだ! 未來はこれからどんどん強くなる! もしかしたらあんたの仲間達中で、一番強くなるかもしれない!」


 ばあん、と大きく肩を叩かれる。


「あたいと正面から対峙するその時までに、いっぱい強くなれ!!」


 遠慮なく、手加減もなく叩かれたせいで、その箇所がじんじんと痛む。しかし、未來はこの瞬間、痛みを嫌だと感じていなかった。


「うん。わかったよ!」








「あ、飴、まさかもう無いの?」

「レモン味ならあるよ」

「レモンって霊を寄せ付けない?」

「聞いたことない」

「なんなのよ!!」

「こっちの台詞です!!」


 きーっと音が聞こえてきそうな風に怒るビーナスに、美月も負けじとやり返す。双方睨み合いの状態が続いたが、向こうが肩を落としたのを機に、膠着状態は無くなった。


「胸が気持ち悪い。きっといるわ。間違いなくここにいる。……もう駄目だ、私は」


 先程舐めた塩飴の袋を手の中で握りつぶしながら、ビーナスは何やら呟いている。何がいるのかに対してはぼやかしていたが、はっきりとしたことは、絶対に口に出さまいとする決意を感じられた。


 美月は今自分がいる場所を見回してみた。薬が入っているらしき棚やいくつかの本棚、布団が設置されたままのベッド、机や椅子にストーブ。暗いせいで不気味だが、古い保健室にしか見えず、ビーナスの言う何かがいる気配はしない。


 うう、と屈みながら口を手で抑える姿を見ていると、さすがに心配になってくる。トイレの一件で、更に彼女の血色は悪くなった。休もうかと何度も言ったが、彼女は頑なに首を縦に振らなかった。しかし、次の七不思議の場所である保健室に入った瞬間、糸が切れたようだ。美月が室内を探そうとした途端、部屋の隅に力なく座り込んだのだ。


「だから、ちゃんと休んだほうがいいって何度も言ったのに……。なんでそうしなかったの?」

「……全然平気よ。すぐによくなる」

「言ってる間に顔色悪くなってるじゃない!」


 ビーナスはぶんぶんと、すっかり青ざめた顔を左右に振って否定した。


「こういうときでも、涼しい顔をして、冷静に対処し、なんてことないように解決する。それが、私なのよ。私の、私のキャラなの」

「全部できてないよね?」


 少なくとも、ずっと取り乱しっぱなしの人が言う台詞ではない。美月が呆れ混じりの目で見下ろすと、それを見たビーナスは、ふらふらと覚束ない足で立ち上がった。


「周りの目が求めている印象っていうのがあるの。それを崩してはいけないのよ、私は。皆が求めている私という像に抱く理想図に、私は合わせないといけないの」

「なんか大変だね、大人って」


 ひたすら自分の心のままに忠実に従い生きてきた美月にとっては、ビーナスの言っていることはまさに遠い出来事だった。そのため、明らかに他人事のような声を発してしまった。ビーナスは何か言いたげに目を見開いたが、ふーっと長く息を吐き出し、まぶたを下ろした。


「……そうよ、大変よ。でもしょうがないのよ。結局心のままに生きるなんてことしたって、何の意味もないのだから」


 美月は首を傾げた。心のままに生きることを信条とする美月からすれば、ビーナスの言ってることは全くわからない言葉だった。


「まあでも、私はもともとあなたのことなんてこれっぽっちも信用してないし。だから別に今は、飾らずに過ごしても大丈夫なんじゃない? 無い信用がこれ以上落ちることはないでしょ」


 落ちることはない、と言ったときに上げた手が、たまたま近くに置いてあった本にぶつかり、床に落ちた。どさりと音がした瞬間、ビーナスはぎゃあという悲鳴を上げ、軽く体を跳ねさせた。既視感を覚える驚き方だった。


「穹みたいだなあ、本当」

「……あなたの弟よね、確か」

「そう。今頃どうしてるのかなあ……。怖いのが苦手だし、気絶とかしてぶっ倒れてなきゃいいけど……」


 子供の頃遊びにいった遊園地で入ったお化け屋敷の中で倒れたこともあったし、去年はホラー映画を見ている最中に、ふと気がついたら、気を失っていたなんて事態があった。そんな事例があるだけに、心配だった。ビーナスが自身の髪をいじりながら、口を開いた。


「……はぐれた私の仲間が倒れているのを見つけていたら、介抱されていると思うわよ」

「はあ?! しないでしょ、どんなお人好しよそれ!」


 常識を越えた発言に、勝手に大声が上がる。美月達にとって敵ということは、向こうだって美月達が敵だ。なのになぜ助けるというのか。しかしビーナスは、むしろ美月の言ってることのほうが常識外とでも言いたげな目をした。


「いえ、すると思うわよ。マーズは割とこういう場面ではあまり立場とか考えずに助けるタイプだし、マーキュリーは……まあ、恩を売っておいてあとで良いように利用してやろうっていう打算が働いて助けるだろうし……」

「だ、打算……」


 穹がダークマターと遭遇していないように、遭遇していたとしてもマーキュリーと遭遇してませんように。美月はどこにいるかわからない弟の身を、密かに案じた。


「にしても、そうやって助けるとかはするくせに、ハルのことは追いかけるんだね?」


 意図せず声が低くなる。だがビーナスは怯む様子もなく、事も無げに首を振った。


「別に、ハルに個人的な恨みがあるわけではないのよ。……ただ、そうしなくてはいけない理由があるの」


 何の狙いがあるというのか。もしや、具体的に聞くチャンスが巡ってきたのではないか。好奇心に身を任せ、早速尋ねようとしたが、「ああ、でも」という言葉にあえなく遮られた。


「サターンは……ハルに対して、個人的な憎悪を抱いているような。……気がするわ」

「な、なんで?」

「さあ。サターンの椅子はセプテット・スターで一番上で、そこについているわけだから、それだけに責任感が極まって、かもしれないわ。ま、憎悪の下りも勘だけれど。あの人、基本鉄仮面を被っているから。でも、一番捕獲に熱心なのは確かね」


 サターンにだけは、美月はまだ遭遇したことがなかった。どういう人なのか、全く知らない。しかし、ハルを恨んでいるかもしれないということ、それだけで、得体は知れないが確かな恐怖が、全身を包みこんだ。


 そんな美月を置いて、ビーナスはなんてことのないように「さて」と言った。顔色がそれなりに良くなっていた。


「話してたら落ち着いてきたわ。もう本当に平気よ」

「そう? でも、なんかいよいよ穹っぽいなあ。穹も怖いもの見た時、一人でなんかべらべら喋りまくるもの」


 夏になると、テレビでよく心霊特番が放送される。穹はそういったものを見た時、「これは作り物だから」「フィクションだから」「CGだから」「特殊メイクだから」「血糊だから」などとお経のようにぶつぶつと唱えるのだ。

それで平穏を保とうとしているのかもしれないが、テレビを見ている横でそんな声が流れてきても、うるさくて仕方ない。それで驚かないならまだしも、結局驚くのだから意味がない。


 美月としてはちょっと家族の話を零しただけだった。だがビーナスは、「そう」と意味深長なトーンの声を零した。


「弟のこと、好き?」


 やや落ちた声色で、どこか暗い目で発せられた台詞は、非常に短いものだった。美月は戸惑いを誤魔化せなかった。


「好き、……って……。え、どうなんだろう……。ちょっと頷けない、かも……。……でも、いないのは、想像できない、かな」


 穹がいない。それは、本当に想像できなかった。想像して何かしら感じるならまだしも、最初から想像することそのものが叶わなかった。ビーナスは、目を伏せた。


「そう。大切なのね。……いいわね」


 その台詞に、見逃せない引っかかりが生まれた。美月は首を傾けた。


「あなた、弟欲しいの? それとも、弟がいるの?」

「……弟代わりはね。もういないも同然だけど」


 吐き捨てるような口調だった。ますます引っかかりが強くなったが、 はそんな美月から逃れるように、保健室内を歩き出した。


 おもむろにストーブの前に屈み込むと、蓋を開け、突然中に手を入れた。何をしているんだと、そう聞こうとしたまさにその時。


──あと、一つ。開かずの扉、今こそ開くとき──


 今までと同じ声が、今までにはなかった台詞を述べた。美月は天井を右から左へと眺め、最後に を見た。自分の目が大きく見開かれていることがわかった。


「ここにあったわよ」

「それは、どうも……っていうか、今の何?!」

「私にわかるわけないでしょう」


 それもそうだと、混乱する頭を必死で働かせる。割とすぐに、一つの仮説に思い至った。

まだ行っておらず、調べてもいない場所。


「……地下室だ!」

「……嫌な響きね、何かがありそう」

「いいから早く行く!」


 これで、何かがわかるかもしれない。美月はビーナスをぐいぐい押しながら、保健室を出、廊下を進んでいった。






「なんか今いた!!」

「わあああちょっとお?!」


 保健室内を覗いたとき、そこから見えたストーブの前に、何か黒いもやのようなものが漂っていた。それを発見したマーズの行動はあまりにも素早く、未來が止める間もなかった。あっという間に鞘から剣を抜きながら近寄っていた。赤い剣が右から左へと流れたと思った刹那、鈍く激しく大きな音が轟いた。そこには、真っ二つに割れた、さっきまでストーブだったものがあった。


「斬れてないな、あの黒いもや!!」

「頭鍛えるって言った後にそれ?」


 剣を構えながら周囲を見回すマーズの目は鋭く、完全に敵を探すときのものになっている。未來は廊下の向こうを指さした。


「さっき聞こえてきた声から考えると、次行くべき場所は地下なんだよ、早く行こうよ」

「あたいはあの黒いもやもやが気になる、だから探して斬る!!」

「はいはい、地下にいるだろうから行くよ」

「本当か?!」


 多分、という言葉は、心の中で呟いた。この分では、頭を鍛えるのも難しいかもしれない。少し苦笑が浮かびそうになったのを、慌てて堪えた。







 穹は階段に座り込み、膝を抱えていた。埃などの汚れが衣服に付着してしまうが、そんなことはどうでもよかった。ざらざらとした木の感触が、まるで自分に刺さってくるようだった。


「ないですねえ、あの光」


 背後に立つマーキュリーから発せられる鼻につくような声にも、もはや返事をする気力はなかった。長い長い吐息のみ返す。


 どうして、と頭の中で問う。青白い光を探し求めて歩き回ってみた。七不思議の舞台となる教室なども見つけ出して調べてみたのに、なぜか光は見つからなかった。見つからないまま、カウントだけが減っていく。


 憶測は誤っていたのか。そんなはずはないと思ったが、もし違っていたら。根本からまた考え直さないといけないのではないか。どこから間違えたのか。姿の見えない何かに、悪い方へと振り回されているようだ。


「……いつもこうだ。肝心なところが締まらない」

「なんです急に」


 心の中で思ったことが、口をついて出てしまったようだ。案の定突かれた。なんというしょうもないミスかと自分でも呆れる。


「……つくづく僕は要領悪いなあと思っただけにすぎないですよ」


 黙秘するのもできない気がして、素直に言った。自分でもわかるほどの投げやりな口調だった。


「けれど、要領を良くすることも出来ない。どうしようもない。何もわからない。そう思っただけのことです」

「急にうずくまるから何事かと思ったらそういうことですか。ははあ、なるほどなるほど」


 他人事のような口ぶりに、かすかな怒りが湧く。きっとこの人には、縁の無い悩みなのだ。


「どうせ、いかにも世渡り上手そうな君にはわからないでしょうけどね」

「貶されてるのか褒められているのか判断しにくいですねえ」

「……好きなほうに取ってください」

「なんか言い返してこない穹さんを相手にしていると落ち着かないですね」

「率直に言って煩わしいので黙っててください。疲れた」


 怒りは空しさへと姿を変えた。自分が嫌で嫌でどうしようもなくなる。目を閉じると、当たり前だが目の前が真っ暗になった。ずっとこの暗闇に浸ってたいなと感じたときだった。


 こつ、と階段を一段下りる音が響いた。目を開け隣を見上げると、マーキュリーが笑顔で見下ろしていた。


「ここにこんなにも頼りになる大人がいるというのに、なぜ穹さんは一人で解決しようとしているのです?」

「頼りになる大人ってどこにいますか、全然見当たりませんけど。とても信用出来なくて絶対に心を開けない大人ならすぐ横にいますが」


 見下ろされている感覚が不愉快すぎる。その感情を込めた目で睨んだが、マーキュリーは事も無げに、首を横に振る。


「いいえ! 私ほど! 私ほど頼りになる人はいません! 文武両道ですし、器も広いですし、人より器用で基本なんでもそつなくこなせる、世を渡ることが得意な完璧に近い人間ですので!」

「よくもそんな根拠の無い自信をべらべら喋り倒すことが出来ますね。逆に凄いです」


 どうしたらそこまで自分を好きになれるのか。侮蔑の視線を送ってやると、ふふ、と含み笑いを浮かべてきた。


「これくらいしないと、人は必ず下に見てくるんですよ。侮ってくる、舐めてくる、つけ込んでくる。そうならないために、胸を張り、自信を漲らせた自分を見せるのです」


 穹は座っており、相手は立っているため、実際に相手は、文字通り穹を下に見ている。それが急に癪に思えてきて、穹は思い切りマーキュリーのいるほうとは反対方向を向き、完全に顔を逸らした。だがマーキュリーは、気にした様子を見せなかった。それが更にかんに障った。


「自信なんて、随分とまあ簡単に言ってくれますね。……所詮、できる人の意見だ。申し訳ないですが、参考にはなりません」


 できる人とできない人では、根本が違う。初めから違う。できるものなら、とっくの昔にやっている。やっていないのは、どうあがいても、できなかったからだ。


「……まあこれ、昔、師範から教わった処世術なんですけどね。さっきの台詞も、師範の言葉なんです」


 ややトーンが落とされた声音が気になって振り向くと、マーキュリーは真顔だった。笑っていなかった。が、穹が見ていると気づくと、口元に笑みを浮かべ、自分自身のお腹に向けて指をさした。


「人など結局、腹の中で何を飼っているか、わかったものじゃありませんからね。こう、例えばすぐ激昂してすぐ勝負を挑んでくる人とか……。些細なことで怒って人を蹴り飛ばしてくる人とか……」

「急にどうしたんですか、っていうかどこ見て言ってるんですか」

「失礼しました、知り合いのことを思い出していました」


 目が細いのでよくわからないが、なぜかこの瞬間、マーキュリーがとても遠い目を浮かべているように感じた。


「ともかく、人の本心など、そう見抜けられないものです。穹さんなど良い例では?」

「良い例なのは君のほうだろ」

「そうそう。私の抱く本心など、もしかすると知らぬが仏っていうものかもしれませんよ?」


 でしょうね。という意味を存分に込めて、穹は頷いた。知った方がいいのかもしれないが、率直に言って、あまり知りたくないと思う。


──あと、一つ。開かずの扉、今こそ開くとき──


「開かずの扉、って……まさか、地下の?!」


 前触れ無く聞こえてきたその声は、今までの台詞と明らかに違った。穹は最後の七不思議を思い出した。地下にはまだ、行っていなかった。


「向かうべき場所がわかりましたねえ。手間が省けました」

「はあ。……じゃあもう、とっとと行きましょう」

「ええ、穹さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る