phase2「板挟み」
あの日は、海から戻ってきて数日後の夜のことだった。シロを連れて外に出たクラーレは、そのまま宇宙船の上に登って、腰を下ろした。ちょうどよさそうな出っ張りがあり、シロはそれを使って、飛ぶ訓練を始めた。
もちろんその場を離れることなど頭になかったので、クラーレは付き添った。
待っている時間を潰すものを特に持っていなかったので、必然的にやることといったら星を見るくらいしかなくなる。宇宙船の窓からわずかに漏れる程度の明かりで、他の光は全く無い山中。夜風がざわざわと木々を揺らし、活発な虫の鳴き声などが色々聞こえてくる中、目線を真上にやった。
シロの体毛と同じ色の光を柔く放つ、月という天体。その周りに広がる、多くの小さな光。目を凝らさないと見えないが、目が慣れてくれば数多く見えてくる光。
海もよく見えたが、山でもよく見える。クラーレは眺めている内、気づかぬうちに、指で星と星を辿っていた。
あれは確か
指が宙で止まった。自分の頭に突如として浮かんだ記憶の元は、全て海に行った日、ミヅキが言っていたことだ。
「なにやってんだっての……」
長いため息は、夜の闇に紛れて見えなくなる。ため息の音は、闇に潜む虫の声にすぐかき消される。
強引に連れて行かれた海から戻ってきてというもの、何かがおかしい。胸の辺りに、何かがあるのだ。それが何かはわからないが、今までには絶対になかったものが、現在は確かにあるということだけわかる。
新しく生まれた何かは、ミヅキ達と話したり顔を合わせると、より激しく動き出す。その正体が掴めず気持ち悪いし不気味なので、なるべくミヅキ達と会わないように気をつけるようにした。
シロの訓練の付き合いで忙しいとはいったが、建前も少しばかりある。むろん、シロが一人では心配だからというのがはるかに割合を占めているのだが。
多分、どこか調子が悪いのだ。思い込み、滲んだ汗を拭う。
夜でも、纏わり付くような暑さは消えない。しかし昼間よりましだ。昼間の暑さの中訓練したらシロの身に危険が及ぶ。だがずっと屋内にいるのも体に悪い。だから外に連れ出してみたのだが、案の定シロは楽しそうだった。ご機嫌だった。
恐らくそのせいだろう。今日シロは、なかなか訓練をやめなかった。一時間は続けていたかもしれない。
待っているのも大変だったが、それ以上に相手の体力が心配になった。だからもうやめたほうがいいという意味を込めて、出っ張りの上で助走を付けようとするシロを抱きかかえた。途端、シロは唸りを上げ、威嚇してきた。耳はぴんと張り、まだ短い牙を見せたのだ。
手を離すと、しばらくクラーレに対して低い体勢をとったまま唸っていたが、やがて訓練を再開した。君の言うことなんて聞かないよ、とでも言いたそうな背中だった。
クラーレは嘆息し、立てた片膝を使って頬杖をついた。
何がシロをこんなに動かすのか。どうして動けるのか。注意してじっと観察していると、やがてあることに気がついた。シロは出っ張りから飛び出してから着地した際、大体頭を上に向けるのだ。
一秒にも満たずすぐに戻るのだが、なぜその動作を挟むのか疑問に感じた。だがその疑問も、すぐに判明した。
「そうか。これか」
クラーレも上を見る。視線の先に広がるものを見る。こんな光景を見たら、納得できる。
星が光っている。その瞬きは目に見えるのに、どこまで行っても、見えている星全てには辿り着けない。手を伸ばすことは許されているのに、手で触れることは叶わない。伸ばすことすら許されていなかったら、星へ何らかの思いを馳せることもしないのに。
どこまで行っても辿り着けない。だがシロは、行ける可能性を持っている。その身に秘めている。
恐らくシロも、シロの中で、あの時何かが生まれたのかもしれない。夜の海で星を見たとき。生まれたものが何か、シロは理解できている。理解できているからこそ、それに対して距離を埋めるために、今こうして必死に飛ぼうとしているのかもしれない。
月明かりの下、シロの翼の輪郭がぼんやりと光る。なかなかその翼は思い通りに動いてはくれない。けれども確実に、一歩ずつ進めている。
「そうだシロ。頼みを聞いてくれるか?」
シロは振り向かない。訓練に夢中だ。クラーレの話など、虫の鳴き声に紛れるほど、どうでもいいことなのかもしれない。その前提で、話を切り出したのだ。
「飛べて、人が乗れるくらいにまで成長したら、俺を乗せてくれないか」
シロの横顔が、月明かりの下で輝く。目がこちらを向いていた。黄緑色の瞳が、じっと見ていた。
「多分空飛んだら、その間だけでも、他のことなんて考えられなくなるだろうからな」
毒。人の目。故郷。今のこと。これから。それら全て、きっと頭から無くなってくれる。束の間でも、何にも悩まない時間を、体験できる。
シロは「ピュ」と短く鳴いた。また、出っ張りの上を走り出し、一気に飛び出す。ほぼほぼ飛距離は出ず、すぐ近くに足がついてしまう。
「ありがとな」
ずっと空を飛んでみたいと思っていた。一度でいい。この体を使って空を飛ぶまでは、どんなに息が詰まっても、体中が悲しみで溢れかえりそうになっても、生きようと思っていた。
一度でいいから、どんな些細なことにも悩まない状態を経験してみたかった。純粋に爽快を感じ、楽しいと感じ、幸せだとしか感じない時間を経験してみたかった。知らずに終わるなんて、絶対に嫌だった。
シロはもしかしたら、その願いを叶えてくれるかもしれない。今まであまり芽生えさせまいと注意してきた“期待”が、ふつふつと現れてきた。“期待”は裏切るものと、身を以て知っていたにも関わらず。
そしてやはり、裏切られた。
布の中に体を突っ込んだり、跳びはねたり、中に置いてる骨のぬいぐるみを噛んで振り回したり。シロはドームの中で、好き勝手にしている。
動きはどれも激しく、ドームの中だけでは狭そうだ。どこからどう見ても、早くここから出たいと言っている。シロはまだまだ遊び盛りだ。こうしてずっと寝床の中にいなければいけないのも酷だろう。
「……我慢するんだ。治りたければな」
聞こえてなくても話しかける。と、それまで忙しなく動いていたシロだったが、急に動きが鈍くなった。布団の上で伏せ、尻尾や耳は力なく垂れている。顔には、明らかに疲れが滲んでいる。
体力は余り余っているように見えるが、まだ意識を取り戻してたったの一晩しか経っていないのだ。口からものを食べることにも慎重にいかないといけない段階なのだ。
今、リビングにはクラーレしかいない。ミヅキ達も来ているが、今は別の部屋だ。シミュレーションルームで、戦闘のトレーニングをしているらしい。ハルもココロを連れて、付き添っている。よって、クラーレが必然的にシロを見ることになっている。というより、自ら申し出たのだ。
「大人しく寝てろ」
言わずとも、シロは寝始めた。その表情はうなされている様子も苦しそうな様子も見せず、実に穏やかで、ほっと安堵する。それは一瞬で、すぐに顔が強張った。
未だに、昨日ハルから告げられたことが信じられない。
嘘を言っているのだと考え、問い詰めたが、「嘘をついたほうがいいという分析結果が出た場合は、ちゃんとそうする。だが、これは嘘ではない。証拠が欲しければ、シロのデータがあるから見せるが」と言われた。見ないと断ると、「疑っていたのではなかったのか?」と聞かれたが、無視してその場から去った。
まだどこかで、嘘だろうという考えは残っている。けれど、証拠が見たいとは微塵も思わない。結局、嘘だと思っているのではなく、思いたいだけだ。
シロの寝顔はどこか幸せそうだ。夢でも見ているのだろう。楽しい夢を見ているのだろう。もし楽しくなくても、悪夢ではない。
そんな風にこうして眠っているシロが、毎日人から愛され、毎日楽しく幸せに過ごしているシロが、どうして大人になれないのだ。真逆にいるであろう自身はもうすぐ大人になるというのに、なぜシロに限って。
「すまないな、シロ」
ドームを撫でてから、後ろに下がる。もう直接触ることは出来ない。撫でることは出来ない。
「あんたは俺を救ってくれたのに、俺はあんたを救えそうもないんだよ」
昨日本を探して読んでみたり、コンピューターで調べてみたりしたが、有力な情報は得られなかった。シロの疾患そのものの記述がまずないのだ。あっても、一番探している治療法の情報は見つからなかった。
自分に、治療法が見出せられるだけの頭脳があれば。そんな無いものをねだっても、無いことには変わりない。
今まで何をしてきたのだろうか。考え出すと体が全く動かなくなるから考えないようにしていたことが、頭に浮かんだ。
恩も返せない。それどころか仇で返しかけた。今まで、何をしてきたのだろう。してきたことが、思い出せない。
体が冷えてきた。心臓がうるさい。息が上手く出来ない。ひゅっと、息にならない息を吸ったときだった。
「疲れたな……。姉ちゃんも未來さんもまだトレーニングできるとかどうなってんだろ」
そんな声が、ドアの向こうから聞こえてきた。「僕は運動より読書だな」と同時に、ドアが開く。そこから現れたソラは、こちらと目が合うなり、体を緊張したように跳ねさせた。
「ど、どうも、クラーレさん……」
黙っていると、普段ならすぐ逸らされるソラの視線が、おずおずとといった調子はいつも通りとはいえ、今日はなかなか外れなかった。
「あの……気になるんですか? 本」
なんだと言おうとしたときだ。ソラはローテーブルの上に置かれた本を指さした。ソラが今日持ってきたという本だ。
「もしよかったら貸しますよ? 僕この本大好きなんです。ロボットが旅するお話で……」
気になるのではない。目に映っただけだ。本があることすら気づかなかった。視線の先にたまたまそれがあっただけだ。
説明しようとしたのに、口から出た言葉は、全く違うものだった。
「あんたがシロを可愛がるのは、姉に流されて、か?」
穹の目が見開かれ、やや眉間に皺が寄った。
「全く違います! 何言ってるんですか一体……!」
一歩前に出てくる。声は自分と話すときのような、怯えや弱々しさは薄れていた。
「そうか。なら、シロのこと見ていてほしい」
「え……?」
怒りから、拍子抜けを食らった顔に変化していく。
「俺はちょっと出る」
何か詳しいことを聞かれる前に、クラーレはぽかんとするソラの傍を通り、リビングのドアノブを握る。何か言いたげな気配を背中で感じたが、そのまま部屋を出た。
これをつけるのも久しぶりなのではないか。クラーレは、ずっとしまっていたマスクを部屋に行って取り、そのまま外に出た。顔に被せると、それまで広かった視界が一気に狭まり、全体的に窮屈になる。
どうやら地球ではこれと似た形状のマスクをペストマスクと呼ぶらしい。昔流行った病気を防ぐため、医師はそのペストマスクをつけていたのだと。書斎にあった本から得た情報だ。
だとすれば自分がつけても違和感は無い。自分こそが一番似合うかもしれない。
自分の毒を外に出さないようにするため。その例えとこのペストマスクは、よく合っているのではと感じた。
今日も今日とて蝉はうんざりするほど元気だ。木漏れ日のせいか、植物も更に元気な状態に映る。太陽も木々の向こうに広がる青空も非常に眩しく、生命力に溢れた自然の中を歩いている。なのに、思考は泥に沈んでいるようだった。
頭の中全てがぐるぐると回っているような思考状態だった。だから外に出て歩いていれば、それも纏まるのではと考え、衝動的に飛び出した。
「あっつ……」
が、纏めるどころかむしろ何も考えたくなくなってきた。暑さで脳が溶けそうだった。
我慢して、宇宙船から結構離れたところまで歩いてはみたが段々と暑さで苛立ってきた。こんな状態ではまともな思考などできるわけがない。
「まじでなんなんだよ俺は……」
自身の浅はかさを悔やみながら、もう戻ってしまおうと舌打ちしたときだった。
がさっ。そんなかすかな音が、耳に届いた。
この蝉の鳴き声の中聞こえたということは、音との距離は近い。慎重に歩を進めながら、クラーレはすぐ目の前に生えていた木の後ろを覗き込んだ。
「きもちわる……」
その向こうに、誰かが背中を見せ、木の根元にうずくまっていた。その人物は、皺だらけの白衣に、寝癖でぼさぼさの灰色の頭をしていた。見覚えのある外見の人物だった。
「おえ、最悪……。なんだこの暑さまじ無理」
低く、ゆっくりしており、纏わり付くような声。クラーレはその声にも、聞き覚えがあった。
クラーレの気配に気づいたのか、その人物はちらりと首だけ振り向かせてきた。
隈の出来た、濁った水色の目。ウラノスは心底不機嫌そうに、「何?」と言ってきた。
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