phase1.1

 体中が熱い。じっとりとした嫌な熱さだ。耳の裏までも熱が回っていた。そのくせ、頭は全く動いていない。稼働しない頭を置いて、勝手にクラーレの体が動いた。


 立ち上がり、地面を左足で蹴る。走っている最中にクラーレは、これから向かうべき場所をやっと思い出すことができた。

 腕の中にいるシロは、いつものほんのり暖かい体温よりも、少し冷たかった。それが、自分が熱いせいなのか、それともシロの体温そのものが低くなっているのか、区別がつかなかった。


 口の中が乾く。ずっと体が熱い。どくどくという心音が、うるさく鳴っている。向かうべき場所はわかっているのに、どこをどう歩けばそこに辿り着くのか、すっぽりと頭から抜け落ちていた。


 どっちへ行っても同じような木しか生えていない。同じような蝉の声しか聞こえてこない。目が回る感覚がし、足がふらついた。次の瞬間には、地面に倒れ伏してしまいそうだった。けれども早くしなければという思いが、すんでのところで止めていた。


 しばらく走って、ようやく目的の地である、白く大きな乗り物が見えてきた。よろめきながらスロープを駆け上り、足をもつれさせながら廊下を走り抜け、リビングルームのドアに体当たりする。


 開いた途端、大きな音が響いた。ソファに座っていた面々は、ハルを除き、びっくりしたようにこちらを見た。談笑していた雰囲気が漂っており、ソファで囲まれたローテーブルの上には、筆記用具やノートやテキストなどの他に、人数分のお茶もあった。


 瞬間、クラーレは膝から崩れ落ちた。膝だけでなく体全体ががくがくと震えていた。口も喉も震えており、声が全く出てこなかった。


「どうしたのクラーレ!」


 ミヅキが駆け寄ってきた。顔を覗き込むやいなや、「顔真っ青だよ?!」と口に手をやった。


「誰か水!」


 ミライが頷き、立ち上がったのが見えた。ソラとハルも駆け寄ろうとしているのを、クラーレは手で制した。その手を持ち上げる動作も、異様に重く感じた。


「シ、ロが……」


 言葉は、はあはあと息切れに阻まれて、思うように出てこなかった。しかしミヅキは「シロ?」と聞き返し、続いてクラーレの腕に目線を下げた。その目が、みるみるうちに開かれていった。


「たす、けて」


 くれ、とまで言おうとし、咳によって中断させられた。クラーレは背を丸め、激しくむせた。強い吐き気の波が押し寄せてくるのを、必死で耐える。


「シロ?!」


 ミヅキがシロを受け取った途端、その顔から血の気が引いていった。口をはくはくと動かし、指先が震えている。ソラが両手で口を覆い、ミライが息を飲んで固まった。


「これは……!」


 容態を見たハルが、急いでミヅキからシロを抱いた。孵化するときに使ったといい、今はシロの寝床として使われている、上部が透明なドーム状の機械の中にシロを入れると、手早くスイッチやボタンを押し、操作を施した。


「シロは……」

「かなり、危険な状態だ」


 本当は聞きたくないことを恐る恐る聞いたといったミヅキに、ハルははっきり言い切った。それはクラーレの体にも、恐らくこの場にいる全員の心にも、鋭く突き刺さった。


「今から容態を安定させるための点滴を作る。だが、間に合う確率は五分五分だ。できうる限り、速くする」


 心持ち早口で喋るハルの台詞が、クラーレにはほとんど耳に届いていなかった。クラーレの意識は、ドームの中に敷かれた布団の上で横たわる、シロの姿のみに注がれていた。


 もはやシロは、震えていない。体の動きで、細い呼吸を断続的にしていることが、凝視しているおかげでわかった。


「クラーレに水と氷を。軽い熱中症の症状が出ている」


 入り口のところで座り込むクラーレの横を、ハルが走り抜けていった。ぱたんとドアが閉まり、室内にはシロのいる機械のかずかな稼働音のみが響いていた。


 ココロが、はいはいでシロの寝床に近寄った。見上げるその目には、目の前の機械とシロは、どう映っているのだろうか。


 ミヅキもソラもミライも、一様に青ざめた顔で立ち尽くしている。混乱していて、状況がまだ飲み込めていないことが、表情からわかる。その中で、クラーレの頭は、今頃になって回り出していた。冷静に状況を分析するには程遠いが、ある言葉が脳内に現れて、くっきりとした輪郭を保っていた。


 シロが苦しんでいるのは、自分のせいかもしれない。自分のせいで、シロは苦しんでいるのかもしれない。


 しばらく、その言葉がぐるぐる回り続けていた。それが消えて、新たな一文が現れたとき、目の前に水が注がれたコップが差し出された。

 水を持ってきたのは、ミライだった。膝を折り、感情の見えない顔で、両手でコップを持っている。クラーレは、受け取れなかった。


 シロはもしかしたら、このまま――。


 後に続く一言が浮かび上がってきた。それは、あまりにも残酷極まりないものだった。


 クラーレはその場でうずくまった。誰の目も見たくなかった。見るわけにはいかなかった。ちゃんとした声が出てこなかった。馬鹿みたいな、呻き声に近い音しか発せられなかった。



 

 うずくまって呻くクラーレに、三人は慌てた様子で駆け寄ってきた。「いいから」とミライのコップをひったくるように奪うと、中の水を一気に飲み干し、シロの傍にいるように言った。


 初めは躊躇っていた三人だったが、「頼むから」と懇願すると、わかったと了承した。


 そして今ミヅキもソラもミライも、寝床の周りに立ち、ドームの中で眠るシロの姿を見つめている。眠っているのではなく、意識を失っている状態なのかもしれない。


 その三人の表情は、こちらに背を向けているのでわからない。クラーレが一人離れたソファに、力なく座っているからだ。


「シロ、負けないで!」「頑張れ、シロ!」「まだ君と見たいものややりたいことがたくさんあるんだよ?!」


 ミヅキ、ソラ、ミライがそれぞれ声をかけている。三人の足下で、ココロも「あ~……」と何やら声を発している。恐らく、ミヅキ達と似たようなことを言っているのだろう。


 クラーレもそうしたかった。とにかく何か言葉をかけていたかった。どうせかけるべき言葉など見つからないだろうが、すぐ傍にいたかった。


 しかし、そんなことできるはずない。クラーレは両肘をそれぞれ膝に付けると、手を組み、その上に額を乗せた。


 ミヅキもソラもミライも、クラーレよりシロとの付き合いが長い。その間、特別で、大切な時間を共有していたはずだ。何より、シロを孵化させたのはミヅキ達だ。

 シロとの何物にも代えがたい時間を、自分は奪ってしまうのだろうか。奪ったのだろうか。瞬間、体中の血が凍り付いた。血液の下を流れる毒液ごと、凍ったようだった。


「すまなかった」


 か細い声でも、ちゃんと聞こえたようだ。ミヅキ達の振り返る気配が伝わった。


「俺が、俺がちゃんと見ていなかった。無理させてしまった。ここまで連れてくるのにも、時間がかかった」


 堰を切ったように、自責の念が頭の中を埋め尽くす。口をついて、今にも出てきそうだ。けれど、それを言うのも違うと思った。今この状況では、何を言い、どんなことをするのが正解なんだろうか。


「俺が悪いんだ。俺のせい。俺のせいなんだ」


 視線が突き刺さる気がする。ミヅキやソラやミライの目が、どんな感情に染まっているか。目線は下を向いているが、それでもよくわかる。怒り、恨み、憎悪。クラーレ本人が、クラーレに対して憎しみをぶつけたくてしょうがないのだ。他者ならば尚更だろう。


 目を伏せているのも、失礼極まりないことだ。頭では理解しているのに、首が上に向いてくれないのだ。皆と視線を合わせる勇気が、情けない甘えによって阻まれている。


「俺なんかがシロと仲良くなってしまったから、だから」

「今、そんなことを言っている場合ですか?」


 冷水を浴びせられたような心地がして、反射的に顔を上げていた。ミライが真っ直ぐこちらを見ているのが、一番最初に目に入った。その目には、憎悪も何も、宿っていないようだった。むしろ水を渡してきたときのように、感情のわからない、冷静な目つきだった。


「君がそんなこと言ってても、何も変わらない」


 それきり、ミライは寝床のほうに顔を向けた。入れ替わりで、ソラがクラーレのことを見、ぽつりと一人言のように小さく呟いた。


「とにかく、ハルさんを待ちましょう」


 すぐに顔が伏せられる。最後に、ミヅキがクラーレのほうを向いた。


「……言わないでよ。仲良くなってしまった、とか。シロに失礼」


 三人の声は、全員震えていた。今にも泣き出しそうなときの震えだった。悲しんでいるのに、辛いはずなのに、その矛先を、誰にもぶつけようとしない。クラーレは、また視線を下げてしまった。


「頼むから」


 自分自身の、組んだ手が視界に映る。声が出てこないと思っていたのに、すんなりと出てきた。


「俺のせいだって、言ってくれ」


 今まで、これほどまでに、憎悪を向けられることを望んだことはなかった。逆に、今責められなかったら、自分はどこかが崩れてしまう気がした。


「言わないよ」


 ミヅキの台詞に、クラーレの足下ががらがらと落ちていく感覚がした。死罪を宣告されるときの絶望とは、こういうものなのだろう。目の前が真っ暗になって、闇に包まれたようだった。




 頭がずくずくと脈打ち、胃の辺りがむかむかとしていて忙しない。地獄のような時間だった。シロの様子を見たいのに、見ることが出来なかった。クラーレはずっと顔を伏せたまま、ハルを待っていた。体の震えを抑えることが出来なかった。体中が寒くて寒くて、どうしようもなかった。


 ミヅキもソラもミライも、ずっとシロに声をかけ続けていた。その声も体も、クラーレと同じように震えているのに、離れようとしなかった。ココロも、その場から離れなかった。


 自分が同じ立場で合ったら、途中で逃げ出していたかもしれない。見守ることが、できなかったかもしれない。一瞬ミヅキ達の様子を見やって、感じた。


 願う権利なんてないのに、早く来てほしいと、ハルの到着を待ちわび続けた。永遠に続くと思われた時間は、ドアの開く音により、停止した。弾かれたように、クラーレだけでなく、全員の視線がハルに集まる。


 ハルは小走りで寝床の機械に近づくと、いくつかの操作をした後、一つのスイッチを押した。機械に何かを入れるための小さな穴が開くと、ハルはそこに持っていた点滴を入れた。


「これで大丈夫だよね?」


 ミヅキが弾んだ声でハルを見上げた。ところがハルは、ゆっくりと首を左右に振った。


「はっきり言うと、安心できない。助かる確率は、まだ半々だ。これで容態が安定しなかったら……」


 そこで「いや、やめておこう」と口が止まった。はっきりとしたことを言ってはいけないという判断が下されたのだろうが、何が言いたかったかは充分すぎるほどわかってしまった。その証拠にミヅキの顔がどんどん曇っていく。ソラもミライも、顔を伏せ、誰の目も見ようとしない。


「あとは、シロ次第だ」


 それは、冷酷無慈悲な一言に聞こえた。もはや外の力に頼れないということ。シロの力を信じるしかできないということ。ミヅキがこちらを向き、「こっち来なよ」とクラーレを手招きした。


 気がついた時には、何かに誘われるように立っていた。一歩一歩が妙に重かった。


 非常に遅い足取りに、ソラが小さく「大丈夫ですか」と聞いた。クラーレの体調の悪さに対する気遣いも入っているようだった。頷くついでに目線を下にさげ、そのまま寝床に近寄った。


 クラーレはドームに手を合わせた。ドーム越しに、目を閉じ横になるシロの姿が、間近で見えた。


 ドームに当てている手のひらと、シロの体は、ちょうど重なっている。そこを撫でると、シロの体を撫でているように見える。しかし、あくまでもそう見えているだけだ。伝わってくる感触はドームのつるつるした無機質なものだけ。シロのふわふわした毛並みではない。


 もう誰もシロに話しかけてはいなかった。縋るような目で、ドームの中のシロを見つめ、自分の心を落ち着かせるために、泣き出しそうな声で一人言を呟くのみ。

 大丈夫、大丈夫と、ミヅキが続けて、呪文を唱えるみたいに何度も繰り返す。


「大丈夫……。だってシロは強い。私達の中で、一番強い力持ってるから。大丈夫、大丈夫……」


 こんな状態だが、ミヅキもソラもミライも、完全な絶望には染まっていないようだった。シロの持つ力を信じている。それに希望を賭けている。


 できるか。クラーレは心の中で吐き捨てた。


 目はずっと閉じられたまま。ちゃんと呼吸が出来ているかどうかも怪しい姿。こんな姿を見て、どうやってシロは大丈夫だと信じることが出来るというのだ。


 そんな簡単に、何かを信じられるはずがない。信じるという行為は、自分が傷つくことを招く行為。今までの経験の中で、思い知ったことだった。


 また地獄のような時間が流れた。

ただ一度、ココロが寝床を撫でたときに「あ~」と言っただけで、それ以外の音は発生しなかった。ミヅキ達も大丈夫という呪文も唱えなくなり、ひたすら黙ってシロを見つめ続けていた。


 あと一秒後、もう一秒後には、何かが変わるかもしれない。何か、最悪なことが起きるかもしれない。危ないからとココロを遠ざけにいったハル以外、皆そういう強い恐れを抱いた表情をしていた。


 そして、その時は、何の前触れも無く訪れた。


 苦しそうだった、シロの顔。そこから徐々に、力が失われていくのが目に入った。

「シロ?!」


 ミヅキ達がドームに飛びついた。即座にハルが駆けつけてきた。

機械に取り付けられたパネルをしばらく見ていたハルは振り向くと、いつも通り抑揚のない声で、結論を述べた。


「バイタルが、安定してきている」


 時が止まったようだと思った。外ではなく、自分の中を流れる時が。ハルの台詞に、誰一人として反応を返さなかったが、ハルは機械をいじりつつ、続けた。


「二ヶ月近く、プレアデスクラスターの間近にいて時間を共有していたのが、功を奏した。おかげで一般に流通され、公開されている書物やデータの範囲ではわからないプレアデスクラスターの生態や体の情報を知ることが出来ていたし、それによって、今の状態に合った点滴を制作することが出来た。

だが、やはり危うかった。この結果は、君達が信じた、シロの持つ生命力が招いたんだ」


 一歩、二歩。クラーレが後ずさる。瞬間、水が溢れだしたように、歓声が室内を埋めた。

「シローーー!!!」「良か、良か、った……!」「うああやったあああ!!!」


 ミヅキもソラもミライも、思い思いに跳びはねたり、両手を上げたりし、最終的に名前を呼びながら、シロが寝ているドームに抱きついた。


「静かにしなさい」というハルの声などまるで届いていない。結局強引に三人を剥がしにかかったハルを見ながら、クラーレだけただ一人、離れた場所で立ち尽くしていた。棒にでもなった気分だった。


 結局、信じられなかった。自分を受け入れてくれたシロを、信じることが出来なかった。


 シロをここまで追い詰めたのは、一体誰なのか。それを思うと、皆に交じって喜ぶことなど出来なかった。どだい、それが許されるはずもなかった。何よりも、喜ぶことができない自分に、クラーレは一番憎悪を抱いた。

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