phase7「“ここ”で生きる自分」

  7月29日。今日は、未來の誕生日、ということになっている。正確には、地球に誕生した日ではなく、地球の人に未來が初めて見つかった日、だ。


 未來はかねてから、誕生日はこう過ごしたいという要望を、両親に頼んでいた。幸いなことに、今年は珍しく、両親の仕事が当日二人とも休みになった。


 この偶然は、見えない何かからの暗示かもしれないと感じずにはいられなかった。というのも、今年は去年までの誕生日とは、決定的に違う点があるからだ。


 未來は洗面台の鏡に映る自分の姿を眺めた。その首元には、赤い光が灯っていた。


 勾玉に似た形をした石の首飾り。これをつけている未來を見て、人はどう思うだろうか。未來は体を捻りながら、様々な角度から首飾りを付けている自分を見た。


 多分、どうも思わないだろうというのが、率直な感想だった。何しろ、この首飾りと、それをつけている自分の姿に、全く違和感を覚えないのだ。


 もともと未來は、この首飾りをつけることを計算されていた。そう見えてしまうほど、ぴったりと自分に合うデザインだった。実際につけてみなければわからなかっただろう。具体的にどこが合うのかと聞かれたら、答えられない。石の波長と、未來の波長が合っている、とでもいうのだろうか。


「未來、支度できた?」


 母親が洗面所に顔を覗かせた。うん、と返しながら振り返ると、母の視線が首元に移った。


「それ……」

「うん、つけてく。せっかくご馳走食べに行くんだし、おめかしってやつだよ~」


 今まで首飾りは、引き出しの一番奥にしまわれているものだった。誕生日となると、首からかけるどころか、むしろ絶対に目に入れないよう、引き出しに指先一つ触れることもしなかった。


 恐らくそれを知っているであろう母は、優しげな目になり、「いいわね」と言った。


 と、ぐぎゅうとよく聞こえる音が鳴った。未來は顔をしかめながら、お腹に手をやった。


「お母さん早く行こう……? お腹と背中がくっついてる」

「そうしたいのは山々なんだけど、今お父さんがつけてくネクタイで物凄く悩んでいてね……」

「な、無しでいいって! 早く行こうよ、時間が来ちゃうよ」


 張り切る気持ちもわかるのだけど、と未來は、今度は自分の全体像を見てみた。今日着ている服は少し良いもので、母も父も然り。


 誕生日を、友達の店で祝うのだ。楽しみも、気合いも、おのずと高まっていくというものだ。




 誕生日をミーティアでお祝いするつもりだと言ったとき、美月も穹も驚いていたが、それ以上に嬉しがっていた。


 貸し切りとか、ホールケーキとか、色々考えてくれたが、未來は首を振った。あくまでも友人ではなく、ひとりの客として、家族でお祝いしたいのだと言うと、美月と穹は微笑んで、わかったと了承してくれた。


 美月も穹も、知った顔だからといって値引きをするような性格でないことは、これまでの付き合いと、店に何度か行った経験で知っていた。


 午後7時に向かったミーティアも、友人待遇をされるということなく、店の中は通常通りという印象だった。予約をした席が花などで飾り付けられているのも、ミーティアがもともと行っているサービスだ。


 それでも、白いテーブルクロスがかけられ、その上に小さくて可愛らしい花と、バラやガーベラが生けられた花瓶が飾られているのを見ると、今日が特別な日なのだという実感が更に表立って湧いてきた。ますます高揚感で、ふわふわ体が浮くような気持ちになった。


 頼んだオムカレーは、この世界にこんなに美味しいものがあったとは、と衝撃を受けた。萬月屋のお菓子を初めて食べた時以来の衝撃だった。


 何度か行ったとはいえ、実はお茶の時間ばかりで、ちゃんと洋食を頼んだことがなかった。メニューを見て、何度か写真に釣られて頼みそうになったものの、夕食に響くからと我慢していた。自分のその行動が、今とても恨めしくなった。


「はああ、ナポリタンもビーフシチューもハンバーグもコロッケも食べたいなあ……」

「そんなにたくさん食べられないでしょ!」

「でも、わかるな。今、なぜ自分の胃は有限なんだろうと感じている」


 母も、父も、この店のことを気に入ってくれたようだ。料理を美味しいと感じてくれてるようだ。それが何よりも、未來にとって嬉しかった。


 一つ口に運ぶ度、同時に幸せを噛みしめていると実感する。心臓の辺りがまず暖かくなって、そこから全身に温もりが広がっていく。足に小さな翼が生えたような心地だった。楽しいはずなのに、気がつけばうっすら涙で滲む目をが不思議だった。


 その気持ちは、食後、デザートであるパンケーキが届いたとき、頂点に達した。


 通常メニューのパンケーキとは違う、特別仕様。生地そのものが分厚く、デコレーションも豪華で、季節の果物やクリームやアイスなどがふんだんに使われていた。チョコソースと、一緒に運ばれてきたカードに書かれた「Happy Birthday」の文字に、未來の涙腺は限界を訴えてきた。その場では堪えたものの、生地を一口食べた瞬間、はち切れた。


 これもミーティアがやっているプランだった。美月と穹が自分の店を大事に主ている理由が、身を以てわかった。


 涙目を片手で隠しながら、「美味しすぎて逆に苦しい」と言いながら食べた。

「気持ちはわかるけど、あんまり泣かないの」「泣いてたら美味しくなくなってしまうぞ」

 両親はそんな未來に、苦笑しながらたしなめてきた。


 最初は美味しいと泣きながら食べていたものの、ほっと落ち着くような温度と味に、未來の心も次第に落ち着いていった。




 「未來」と呼び止められたのは、食事が終わり、帰ろうと店を出てすぐのことだった。振り返ると両手を後ろに隠した美月と穹が立っていた。二人は両親に、「こんばんは」「今日は来て下さり、ありがとうございます」とお辞儀をした。


 挨拶を返した父と母に、未來は先に帰ってもらうよう頼んだ。美月と穹が店内でなく外で話しかけてきたのには、それだけの理由があると感じ取ったからだ。


 未來、美月、穹の三人だけになったところで、もう一度「未來」と美月に話しかけられた。


「誕生日おめでとう!」「未來さん、誕生日おめでとうございます!」


 姉弟揃って、後ろに隠していた手を前に出してきた。それは、ラッピングされた袋だった。

 美月は、黄色い包装紙にピンク色のリボン。穹は、水色の包装紙に緑色のリボン。美月のは丸くて小さく、穹のは四角い形状だったが、中身はさすがにわからない。

 ぱちぱちと、音が出そうな瞬きをしてしまう。


「うちのメニューを食べながら、お客様がお客様だけの時間を過ごしている。その時間を邪魔するのは御法度だからね。だから今渡すことにしたんだ!」

「姉ちゃん、だけど明日になるのも絶対だめって言ってて。僕も同じ気持ちです。これ、プレゼントです!」


 袋を渡され、その重みが伝わってきて初めて、未來は今絶対に言うべき言葉があるのを思い出した。


「美月、穹君」


 そこで一旦切る。強調するために、しっかりと言葉にするために、息を軽く吸い込む。


「ありがとう!」


 ちゃんと言いたかったのに、少し言葉が震えていた。そうしようと思ったわけじゃないのに、自然と顔が、笑っていた。美月も穹も、笑っていた。「どういたしまして!」と、声が重なった。


「あと、もう一つあるんだ」

「全員からですよ」


 そう言って差し出されたのは、本か何かが入っているのだろうかと推測される、赤色のラッピングだった。


「家についたら、ぜひ開けてみて下さいね」

「皆で用意したものはね、ハルや穹や、家族にも相談したんだ。私個人からのはね、自分で言っちゃうけど自信あるから、期待しといて!」

「僕のも、オススメ一点ものですから!」

「穹のセンスは怪しいけどね~」

「ちょっと!」


 今度は声を上げて、笑ってしまった。美月も穹も笑い出した。住宅街の真ん中だというのに、すっかり盛り上がってしまった。




 美月達と世間話をして別れ、家まで戻ってくると、家の前に背の高い人影がいるのが見えた。


 誰だか考える前にわかる。真夏なのにトレンチコートを羽織っているその人影は、頭のブラウン管テレビをこちらに向けた。薄ぼんやりと灰色に光った画面に唯一映っている口が、「ミライ」と動く。


「ハルさんどうしたんです? 危険じゃないんですか? もし追っ手に……」

「その辺りの警戒はちゃんとしている。平気だ。どうしても、ミライに用事があった」


 なんですと尋ねる前に、小さな箱を渡された。開けてみると、中に穴が多く空いた、スイッチのついた黒い球体が入っていた。


「簡単に言うとホログラム画像だ。スイッチを押すと、星空の画像が映し出される。部屋で使うと、プラネタリウムのようになるだろう。星空は幾つかのパターンを記録してあるから、スイッチを押すと切り替えられる。是非見てみてほしい。ちなみに太陽光で充電される」


 淡々とした説明を聞かせてくる。未来は自分の頭に手を置いた。


「ハルさん、えーと、これは一体……?」

「だからホログラム画像のようなものだ。私が作ってみた。検証やテストは怠っていないが、もし不具合が出たら言ってほしい。誕生日おめでとう、ミライ」

「え、じゃあもしやこれは誕生日プレゼント……?」

「そのつもりだ」


 まるで、仕事の資料を渡すときのような事務的なものだったから、これがプレゼントだという考えに思い至らなかった。何度か瞬きし、慌てて未來は頭を下げた。


「すみません、ありがとうございます!」

「どういたしまして」

「というか、凄いですね! 機械作っちゃうなんて!」

「この程度ならすぐに出来る」

「いや~想像が及びません!」


 ぱちぱちと拍手すると、ハルはまた機械的に「ありがとう」と言った。感情や心が台詞にこもってなくても、未來は嬉しかった。とても。




 自室にて、今日もらったプレゼントの包みを解く。汚くなってしまうのが嫌で、丁寧に解こうとしたら、緊張のあまり手が震えてしまい、なかなか開けるのに時間がかかってしまった。


「わあ!」


 最初に美月のものを開けた。中は、幾つかのヘアピンだった。桜や椿など、和をモチーフにした柄だ。ちゃんと言ったことはないはずなのに、どうして好みがわかったのだろう。不思議だ。


「おお!」


 次に開けた穹のプレゼントの中身は、ブックカバーと栞だった。ブックカバーは赤を基調とした布製で、和柄な草花模様が刺繍されていた。栞には、夏らしくひまわりが描かれていた。

美月はああ言っていたけど、穹のセンスはとても高い。明日ちゃんと伝えて、穹を安心させないとなと考えた。


 最後に、全員からだと言う袋を開けた。


「!」


 星空の表紙。真ん中に窓のように空いた空間。それは、アルバム冊子だった。ページを開く。中は白一色で、肝心の写真は一枚も入っていなかった。その代わり、一枚のメモが挟まれていた。


『このアルバムを、未來の撮った写真でいっぱいにしてね!誕生日おめでとう!

未來さんの写真は素敵だと思います。お誕生日おめでとうございます。

いつもすまない。私に力を貸してくれて、本当に礼を言わなければいけない。誕生日おめでとう』


 一行目は丸くて、やや大きい字。二行目は小さくて少し細い字。三行目はパソコンで打ったような字。


 未來は電気を消し、先程ハルからもらった、ホログラムの機械のスイッチを入れた。


 天井に、床に、壁に、途端に星が映し出される。しかも、画質がとてもはっきりとした、現実に近い夜空の風景だった。あの海で見た星空が、今目の前で再現されている。


 未來はその真ん中で、紙と、アルバムを胸に抱えた。


 去年までの誕生日とは、全然違う。去年まで、誕生日を迎える度、心のどこかが重くなっていた。自分が生まれたとは限らない日を、純粋に祝おうという気持ちになれなかった。本当は何月何日に生まれたのだろうと考えると、ますます息が苦しくなった。


 今年は、全く違う。今日生まれたとは限らないという気持ちは、まだくすぶっている。でも、今日が誕生日ということになっていて良かったと、感じている。これから7月29日が近づく度、未來は心が浮き浮きしてきて、幸せだと思うようになるだろう。未來は、今日この日付が、大好きになっていた。


 首元に手をやる。堅い感触が、指先に当たる。首飾りをかけていってよかった。本心からそう思える自分に、安堵していた。


 必ず、このアルバムを、写真でいっぱいにしよう。このアルバムを埋める写真は、星でもなんでもない。自分の、友人達の写真だ。自分の、大切な人達の写真だ。


 部屋の中に、美しい星空が広がっている。もしかするとこの中のどこかに、自分の生まれた星もあるのかもしれない。だが、もう空しくも苦しくもならなかった。




 翌日。写真部に行くと、そこには誰もいなかった。未來は奇妙に感じた。誰もいないこと自体は珍しいが不思議でもないのでなんとも思わない。妙と感じたのは、未來の机の上に置かれた、大小様々な色とりどりの箱に対してだ。箱は全部きっちり包装されてあり、リボンが巻かれている。


 なんでここにこんなものが。私物ばかりの部室だが、この何かのプレゼントみたいな私物は、入部して以降初めて見た。それも、どうしてよりにもよって自分の机の上に。


 その答えは、箱の傍に置かれていた封筒の中にあった。中に折りたたまれた紙を見る。そこにはたった一文だけ、『お誕生日おめでとうございます。部員一同より 追伸.星空水羊羹、とても美味しかったです』と書かれていた。


 数えてみると確かに、未來を覗く部員の数と同じだけ、箱が置かれていた。

 気がついたら、未來は笑っていた。声が出そうで、でも出てこないような。誰もいない部室に独り自分の笑い声が響いているという状況にも、またおかしさがこみ上げてきた。


 ひとしきり笑った後、未來は一人で頷いた。


 次、写真部に行ったとき、萬月屋のお菓子を持って行こう。未來はふいに、そう考えていた。大切な友人達と作って、大切な場所で売られているお菓子を、皆に振る舞ってみよう。自分の大切を受け入れて、自分の大事を否定しなかった人達に。


 つと未來は、窓の向こうを見た。青空が広がっていた。入道雲すらもなかった。蝉が大きく鳴いていた。


 空の青さが、こんなにも眩しくて、美しいものだったのかと気づいた時。ほぼ同時に未來は、“ずれ”を感じていないことに、気がついた。


 あの日、それまでの自分の全てが変わった運命の日。父と母に、もう一つ聞いたことがある。どうして自分の名前は、未來なのかを。


 二人は笑った。そこでようやく、真顔ではなくなった。二つ意味があると、言ってきた。


「一つは、あの日を境に、お父さんとお母さんの未来が、光り輝きだしたから」


 学校のクラスメート達の親よりも、歳を重ねている父と母が、笑った。


「もう一つは、あなたの未来は、無限に広がっているから」


 きょとんと、未來は首を傾げた。


「ちょっと難しいことを言うけど、ごめんね。未來の明日は、未來のものなの。誰にも邪魔されない」

「未來のこれから。未来がどうなるか、それは未來自身にもわからない。だから、自分で決めていくんだ」


 未來が何を選んでも、どう選択しても、お父さんとお母さんは、必ずそれを支えていく。


 優しくて、けれども内に秘めた決意を感じる声だった。



 自分は何者なのかを、探すこと。やっと、決意を抱く勇気が湧いてきた気がする。

もうこれから不安になっても、大丈夫だと感じる。自分は自分だと言い切ってくれる存在が、すぐ傍にいるから。


 あの日、美月が話しかけてきて、写真を渡した日。あの日から、歯車が回り出したのかもしれない。裏山にいるハルの存在を知った日。そこからきっと大きく変わっていったのかもしれない。


 そしてこれから、更に変われるかどうかは、自分にかかっている。


 その“未来”がどうなるか、わからない。だけどきっと、なんとかなるだろう。

 今も自分は、この星に生きている。それは、誰にも変えられない事実である以上。






 “出張”で成果を一つも上げられなかったこと、その場の判断を上手く出来ず感情に流されたことは、案の定サターンから強い叱責を受けるには充分すぎた。


 やっぱりあの人怖いなあと、首を軽く回しながら、社内の廊下を進む。「なぜ冷静な判断ができなかった?」と低く聞かれても、上手く答えられない。あの時はただ、頭の中が白くなって、気がついたらああなっていた。そんなことを説明しようものなら、更にあの鋭い目で睨んでくるのは目に見えていたから、黙っていた。


「マーーーキュリーーー!!!」

「うおっ!」


 背中から強い衝撃を受けて、思わずよろめいた。何事かと振り返ると、両手を突き出したマーズの赤い瞳と目が合った。


「な、なんだいきなり叩いてきて!」

「叩いたんじゃない押したんだ!! それよりもマーキュリー! あんた、未來と戦ったんだって?!」

「え? ああ、まあ……」


 マーズは怒っているようだった。彼女が未來のことを特別ライバル視しているのは知っており、だからこそ今回の出張オ詳細を言わなかったが、やはり情報は入ってきたようで、簡単にばれてしまった。


「どうだった! 強かったか?!」

「いやまあ……一人でだいぶ頑張ってたなっていう感じか?」

「おおおおおお未來っ…………!!!」


 マーズは両目を輝かせた。闘志に燃えているらしく、体全体が小刻みに震えている。


 こんな風にマーズは未來のことを意識しすぎるあまり、サターンに出張を頼み続けた結果、「本来の目的を忘れるな!」と強い叱責を受け、出張を止められているのだった。


「マーキュリーはずるい!!! 羨ましい羨ましいずるいずるいずるい!!!」

「痛い痛い叩くな殴るな!」

「羨ましい羨ましい!!!」

「話聞け!」


 悔しさが溜まったのか、そのせいでぽかぽか、というには随分と力が強くぼかぼか殴ってくるマーズをどうにか諫めようと格闘していると、「ちょっと」と冷静な声がその場に現れた。


「二人とも廊下のど真ん中で何やってるのよ」


 ビーナスは髪をかき上げながら、呆れたように言った。


「おおおビーナスちゃん! マーキュリーがずるいから叩いてるんだ!」

「どういう状況下よくわからないけど、この糸目野郎がずるいのはいつものことでしょう」

「お前な……」

「あ、そうだ糸目野郎」

「まだそれ使うのかよ」

「……これ、届いてたわよ」


 ビーナスが手にしていたものを渡してくる。なんだろうと見た瞬間、自分の顔が強張っていくのが伝わった。


「あなたに手紙よ」


 そう短く付け足したビーナスは、ふいと目を逸らした。誰からの手紙かは、聞かなくてもわかっている。こういう、封筒に入れて紙で自分に届けてくる相手など、たった一人しかいないからだ。


 ビーナスは視線をわずかにさ迷わせた後、「その」と珍しくしおらしい口調を発した。


「……返事、いい加減、出したほうがいいんじゃないの?」


 マーキュリーは何も答えなかった。代わりに、更に珍しくマーズまでも、控えめに頷いた。


「あれだろ、世話になったんじゃなかったのか? せっかく、向こうから連絡が来ているんだ。せめて少しくらいでも、手紙書くべきなんじゃないか?」


 口を開いていた。自分でもわかるほど、冷たい声が零れてきた。


「“人のこと言える立場か?”」


 幼馴染み二人は口を閉じた。示し合わせたようにお互いの目を見やり、小さな吐息を出す。


「……だからこそ、だ」

「ええ。だからこそ、よ」


 自分の目が、声が、きっと鋭くなっているのだろうと感じる。“心”があると言われている辺りがそうなっているのだから。幼い頃から何度か経験してきたことだから、もう知っている。


「余計なお世話だ」


 背を翻し、足早に去って行く。背後から、静かな声がそっと投げられた。


「そうね、突っ込みすぎたわ……」

「……すまなかったよ……」


 どうすれば、この“心”が落ち着いてくれるのか。方法がわからなかった。だからマーキュリーは、歩む速度を速めた。



 目に止まった資料室の中には、幸か不幸か、誰もいなかった。


 封を開ける手は震えていて、慎重に破ったものだから、取り出すのに時間がかかってしまった。読むのは、それ以上の時間を要した。


 最後の一行まで手紙を読み終えたとき、気がつけばマーキュリーは、全身の力が抜けていた。更に、その場に座り込んでしまっていた。


 手が震える。さっきから、ずっと震えている。とても苦しい。どこが苦しいのか不明なのが余計に苦しいと感じる。


「本当に、申し訳ありません……」


 今、手紙を書いたら、きっとその言葉ばかりを綴ってしまうだろう。まだ書けない。今は返事をまだ出せない。


「ごめんなさい……。先生……」


 絞り出すような声を発しても、本人には届きやしない。


 先生と呼ぶと、体の奥が鷲掴みにされたようになる。顔を手で覆う。手紙に皺が出来てしまったと感じるも、もう遅い。真っ暗闇に覆われた視界の中に、一つの人影が見えてくる。


 長い水色の髪を、一つに結わえた男性。あの人は、今も、あの髪型をしているのだろうか。


 そんなことが、気になってしまう。気になるけれど、今回も聞けないまま、返事を出せずに次の手紙が届く。自分はここで、そう生きていくのだろう。これからも。


 だが、“今”だけだ。“時”が来れば、必ず出す。直接会いに行って、その時面と向かって、ごめんなさいと告げる。絶対に。




『マーキュリーへ

うっかり本名を書きそうになっちゃうな。実際、一度書き損じたよ。

元気にしてるかな? 体調とか崩していないかな? 趣味を楽しむ時間はある? ダークマターの中でもセプテット・スターの仕事って特に激務だって聞くから、正直不安なんだ。ちなみに私は大丈夫。毎日楽しくやってるよ。

君の仕事の調子はどうだい? 私が教えたこと、きちんと役立ててるか? ただ従うだけじゃ駄目だよ。応用してアレンジして、自分のものに昇華するんだ。

でもこの前の特集観る限りでは、その辺は大丈夫そうかな。ちゃんと仕事出来てるみたいで、素直に誇らしい。現役時代の私にはまだまだまだまだ及ばないけどね! もっと精進しなよ!

っていうかあの特集の君、気取りすぎじゃない? ああいうキャラだったかな。昔はもっと、いつもしかめっ面で棘のあることばかり言ってて、何かって言うとすぐ私につっかかってきていた。それが、今では……。(思い出し笑いが止まらないどうすればいいんだ)

な~んか違う人見てるみたいだったな、なんてね。画面越しだけど、ちゃんと弟子の姿見られて良かった。本音言えば、直接会いたいけどね。それは仕事もあるし難しいだろうから、いつかでいい。

が、これだけは言う。というか書く。

なんで、返事をくれない? 一行でもいいって、何度書けばわかるつもり?

私正直、君がここまで薄情者だったとは思いもしてなかったよ! 一体何様? 君何様? こんなに素晴らしい大先生を敬おうっていう気は微塵も無いわけ? 弟子時代も尊敬してなかった風だったけどね、ここまで返事ゼロって、もう人としてどうかと思うよ。私、今までで一体何通手紙出した?

こうしてわざわざ紙にペン使って手書きで書いてるのはね、私はここまでしてますっていうアピールなんだよ? 答えようという気がないのはどうしてだい?

まさかお客様にもそういう相手とってないよね? だとしたらさすがの聖人の私も怒る。……でも、他ならぬ君のことだ。そこは大丈夫だろう。

じゃあ、体調に気をつけて。毎日ちゃんと寝てちゃんと食べるように。また手紙書くね。

どーせまた返事来ないだろうけど、こーして手紙送っちゃうんだよなあ。

シアンより

ps.仕送りする暇あるなら一言でも返事書いて出したらどうだい?!』

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