phase4.1
足がもつれる。息が上がる。胸が苦しい。頭が痛い。それでも構わずに走り続けているのは、止まりたくないからに他ならない。
駆け込むように家に飛び込み、逃げ込むようにして自室のドアを開ける。閉めたドアにずるずると背を預け、ようやく立ち止まれた。一度休むと、体が鉛のように重くなる。
はあはあと乱れる息を直そうとは思わなかった。動けない体に鞭打ち、勉強机まで這って移動する。四つん這いで開けた引き出しの奥から、まるで劇物か何かでもしまわれてでもいるかのように、何重にも厳重に封印された箱を取り出す。
蓋を開け、箱の中に座る赤い首飾りを、鷲掴みにする。
こうして改めて見ると、その石は、生き物の心臓のように脈打っているようだ。そのまま外に出しておいたら勝手に動き出して、次に見た時はいなくなっていてもおかしくないと感じる。
真っ赤なこの石を見ていると、あの時のあの感覚を思い出す。体中が熱くなって、視界が赤くなって、でも根元の一番深いところは、むしろぞっとするほど静かで澄み切っているあの感覚。この石と全く同じだ。赤くて、炎が蠢いているようで、でも決して荒々しすぎず、根幹にあるのは静けさのみ。
手の中にある石は、鼓動に反応するごとく、脈打っているようだった。ほんのりと、熱を持っている感覚もする。
生き物のようなその石を、窓ガラスに向かって一気に投げつけた。
甲高い音がして窓ガラスにぶつかった石は、そのままぽとりと床に落ちる。投げた未來に反撃してくる様子も見せず、転がったままでいる。転がったままの赤い光が、こちらを監視するように照らしている。
未來は気づかぬうちに、両手を頭にやっていた。押さえている場所の下にある頭の血管が、ずくずくと動き嫌な痛みを生み出している。
熱が籠もり、纏わり付くような暑さを含んだ部屋の真ん中に座り込む。暑さと痛みで頭がふらふらするのに、指先一つも動かしたくない。唯一動いているのは、頭だけ。その頭が、頼んでいないのに、記憶の発掘という作業を開始する。
確か6歳か7歳か。それぐらいの頃だった。その頃他に起きたことは断片的にしか思い出せないのに、あの時のことは、それはそれは細かく覚えている。父親と思っていた男性と、母親と思っていた女性の顔。そこから紡ぎ出された台詞。その全てを。
一つの宿題が、未來がそれまで当たり前だと信じて疑わなかった世界を、根底から覆す鍵となった。
お父さんとお母さんから、あなたの生まれてきたときのことを聞き、作文にまとめましょう。そういう課題が出た。
単純にこの宿題は、それによって両親に感謝の念を抱くという、そういう意図によって出されたものだったのだろう。
少なくとも親から、本当はあなたは地球で生まれていない、自分達とは血が繋がっていないのだと、そう打ち明けさせる為に出されたものではないはずだ。
夕食後、未來は宿題のことを言った。説明しながら、こんなことがあった、あんなことが起こったという両親からの話を聞いている自分を想像した。父も母も、なんてことのないように、すぐに教えてくれるだろうと思っていた。それが当然だと信じて疑わなかった。
けれど両親は、望んでいた反応を返してはくれなかった。
ぴんと、冷えた糸が張り詰めるかのような空気に変わった。ふざけた態度は絶対に取ってはいけないと直感した空気だった。父親と母親は、真顔になっていた。
「そこに座りなさい」
いたずらや危ないことをして叱られるとき、いつも母親は最初にそう告げる。だが今回は、今までのどの「座りなさい」よりもとても重くて、ずしりとのしかかってくるような響きを持っていた。躊躇っていると、父が逃げ場を塞ぐように、続ける。
「これは、とても大事な話だ」
未來は、椅子に座った。自分に理解できる話だろうかと、今思い返してみると不安に感じていた。
ダイニングテーブルを挟んで向かい側に腰掛けた両親から聞いた話は、危惧通り、全く理解できない話だった。
今思い返してみると、両親も、6、7歳ぐらいの子にちゃんと理解できるように、言葉を選んで慎重に話している気遣いをしていた。でも、わからなかった。
その日。カメラが趣味の父親が、この町の中学校の裏山に登った。その日は、流星群の極大日だったという。星の姿を自身の脳とカメラに記録するため、父はそれはそれは準備を重ね、勇んで出かけていったのだと、母は言った。
ある程度登り、この辺で撮影しようかと考えた矢先、妙な声を聞いたと、父は言った。
最初は動物の鳴き声に感じたその音は、とても小さかった。妙な胸騒ぎがしてよくよく耳を澄ませてみると、鳴き声というより、泣き声に近いような気がしてきた。急いで音のするほうへ向かうと、そこには球体が落ちていたという。
灰色の、鉄のようで鉄には見えない、少し大きめのボールのような物体。その中から、かすかだが、絶え間なく音が聞こえてくる。ボールを色々いじくっていると、突然その物体がぱかりと割れた。
中にいたのは、まだ生後間もなそうな、赤ちゃんだった。父は、急いで赤ちゃんを連れて、下山した。
「その子が、未來だ」
父は言った後、目を伏せた。母は見えない何かに対して逡巡するような素振りを一瞬見せた後、真っ直ぐに目を向けてきた。
「ここからが、もっと大切な話なの」
一年後。つまり未來が一歳ぐらいの時。平均的に見れば、赤ちゃんはそろそろ言葉を喋り始める頃。未來も例に漏れず、言葉を発した。
それを聞いた父と母は、しばらく言葉を失った。それは、我が子が初めて喋ったからという、感動から来たものではなかった。
未來が発した言葉は、父にも母にも、聞き取れなかった。それは、日本語ではなかった。英語でも、他の外国語でもなかった。それは、地球のどこにもに存在しない言語だった。
しばらくの間、未來はその地球のものではない言葉を喋り続けた。だが段々とその頻度は少なくなっていき、代わりに地球の言語を使うことが多くなっていったという。
何ていう風に言ったのだと尋ねたが、真似が出来ないと、父も母も悲しそうな顔をした。こんな風に喋ったと再現する方法がどうしてもわからない、どういう声を発せれば再現できるかわからないのだと。
自分は、何を喋ったのだろうか。最初、地球のものではない言語で、何を言おうとしたのだろうか。
自分は赤ちゃんのとき、裏山にいたのを、お父さんに見つかった。初めて喋った言葉が、地球の言葉ではなかった。
小さな頭に入ってきた情報を、小さい頭なりに懸命に纏め、要約した。要約しても、わからなかった。
ちょっと待ってなさいと父が席から立った。程なくして戻ってきたとき、手に小さな箱を持っていた。未來の前に置くと、母と頷き合い、開けてみなさいと言った。
未來は両手で蓋を開けた。開けるとき、ゆっくりゆっくり伸ばした手は、小刻みに震えていた。
中に入っていたのは、一つの首飾りだった。真っ赤に燃える、炎のような石の首飾り。勾玉のような形をした、石の首飾り。
「それは、赤ちゃんの未來の首に、かけられていたものだ」
未來は、そこから目を離せなかった。けれど、触ってみようとも、ましてやつけてみようとも、考えなかった。
「間違いなく、未來にとって、一番大切で、大事なもののはずよ」
「絶対になくさないように、ちゃんとしまっておくんだ」
その時の両親は、言葉で形容しきれない表情をしていた。ある程度大きくなった今でも、あの時の両親がどんな表情をしていたか、上手く例える言葉が見つからない。
「じゃあ、私の、誕生日は?」
今言うべきことじゃないだろう。でも未來は、それ以外、聞きたいことがなかった。思いつかなかった。
「お父さんが、未來を見つけた日。お父さんとお母さんが、初めて未來と出会った日」
その日が、7月29日だったんだよ。両親は、告げた。
本当はあのとき、あの箱を開けたくなかった。箱の中身なんて、見たくなかった。でも、できなかった。訴えることが出来なかった。なぜ嫌なのか、己相手にも、上手く説明できなかったからだ。
ただ、今なら、わかる。未來は頭から手を離した。
開けてしまえば、元に戻れなくなる気がしたからだ。昨日までの自分と、何かが決定的に変わってしまう。昨日までの自分と、永遠にお別れしなくてはいけなくなると、わかったからだ。
開けたくなかった自分。開けてほしかった両親。家族との間に“ずれ”を感じたのは、これが初めてだった。
自分の中にある常識と、周囲の人々の中にある常識が食い違っていると感じたことが、それなりにある。本来なら、全く無いか、少ないで終わることが、それなりに存在してしまっている。
なぜ今それを言うのか。なぜ今それをするのか。事あるごとに、周囲からの不満を感じる。そういうとき、心のどこかでいつも言うことがある。しょうがないじゃないか、と。自分は、地球の生まれではないのだから。
なまじ地球での生活のほうが圧倒的に多い。だから、それなり、でとどまっている。けれどもそれなり、の溝は、小さいようで深く、確実に存在する。壁のように隔たっている。
こちら側にいる未來は、あちら側に行く事が出来ない。あちら側から、こちら側に来る人は、滅多にいない。
未來は立ち上がった。その瞬間、ぐにゃりと視界がひしゃげたが、我慢して石の元にへと歩んだ。
落ちている石を拾う。持ち主にどんな感情や悩みを与えているかまるで知らない石を、拾い上げる。
どこにあるかも、姿も、名前も知らない、自分が生まれた星を、故郷と感じるほどの思い入れは全く無い。
だが、生まれてからほとんどの時間を過ごしたはずのこの星を、故郷と感じることもできない。そう考えてしまう事実が、一番胸を締め付ける。
そうやって締め付けて、息をできなくさせているる原因は、この石に詰まっているのだ。これがある限り、一つの事実がついて回る。自分は地球人ではないという事実が、忘れたくても忘れられず、影のように一生付きまとう。それによってもたらされる全ての苦しみからも、一生逃れられないことを意味している。
なぜだろう。ただ普通に生きていたいだけなのに。静かに生きていたいだけなのに。
手中の石を、握りしめた。割れてくれないかと願いながら、力を入れた。皮膚に食い込んで赤くなるくらい力を入れても、石はきょとんとしていて、ヒビ一つ入らなかった。
どうしてこれを大切に持っていたんだろうか。持っているんだろうか。
ふいに、そんな疑問が湧いた。それは、素朴で、単純極まりないなものだった。そして同時に、この疑問には、ちゃんとした答えが自分の中に無いと気づいた。
未來は次の瞬間、窓を開けていた。夏の風が一気に入り込んできた。その熱気を切り裂くように、勢いよく腕を振った。
手の中から、小さな赤い光が飛び出す。外の眩い光に紛れて、それはどんどん遠のき、視界から消えていく。宙を舞っていたその石は、やがてすぐに、完全に見えなくなった。
未來は、消えていった方角を見つめた。
あの石がどこに行こうが消えようが、もう何も関係無い。これでいい。もうどうでもいい。やっと自分は、解き放たれるのだ。
窓ガラスを閉めようとした手に、力が入った。
「未來ー!」
すぐ下から、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。この時の感情を一言で言うなら、拍子抜けと呼ぶべきだろう。
窓の下を覗き込むと、こちらを見上げてくる美月の姿があった。目がつり上がり、眉間に皺が寄っている。
「だめだよ!」
美月は不機嫌そうな声を出した。人差し指を、ある方向に向けて指す。そちらは、さっき未來が投げた、あの石が飛んでいった方角だった。
「ポイ捨てはだめ! よくない! 海でのこと、忘れたの?!」
腕が組まれる。眉間に寄っていた皺が、ふっと消える。
「ちゃんと探さなきゃ、だめだよ!」
凜とした声だった。まるで、水をかけられたようだった。自分の頭が、縦に動く。その動作が意味することを理解するまで、それなりの時間を要した。
石が飛んでいった方向は、見ていたので大体わかっていた。それによって、どの辺りに落ちたかも見当がついていた。とはいえ、この辺りのはず、と向かった先は、あんなに小さいものを探すには、範囲が広かった。
「私はこっちを探してみるから。未來はあっちを探して。今穹も呼んだから」
黙って頷き、美月と別れる。
美月が探してと指定してきたのは、以前ここにあったおもちゃ屋が閉店し、取り壊されたまま、空き地になっている場所だった。
敷地内は広めで、周囲を木に囲まれており、中央にも木が一本生えている。住宅街の奥まった所にあるこの空き地は、全く手入れされている様子がなく、草ぼうぼうで伸び放題になっていた。
この中から、あるかどうかもわからない石を探し出すのは、物の例えではなく、本当に骨が折れるだろう。思わずげんなりとため息を吐き出す。心底嫌だったが、未來は少し屈んで、石の持つ赤い光を探し始めた。
美月の言うことももっともで、確かにポイ捨てはよくない。石を見つけたら、改めて、ちゃんとした方法で手放そうと決めていた。
広めの空き地内を歩きざっと見たが、見つからなかった。そこで今度は、ある程度目を凝らしつつ、伸びきった草と草の間を覗くようにして、ゆっくりとした足取りで見ていった。
照りつける太陽の光は容赦なく、地面に目を向けて石を探すという単調極まりない行為に、余計に暑さが助長される。
はなからそのつもりなどなくても、どんどん苛立ちが募っていった。おまけにその怒りを向ける先がないものなのだから、タチが悪い。息を吐き出して、なんとか鎮めようとしたときだった。
爪先に、何かが当たる感覚があった。ころんと丸く、堅い。足先で大きさを判断した未來は、期待に染まる瞳で地面を見た。
そこにあったのは、くすんだ灰色をした、どこにでもある普通の石だった。勾玉みたいな形もしていなければ、おどろおどろしい赤色もしていない。
勢いよく、その石を蹴り飛ばした。石は弧を描きながら、遠くの草陰に飛んでいき、見えなくなった。
その瞬間。風の流れ。空気の質。それらが、微妙に変化したことが、伝わってきた。
「随分と、行儀が悪いんですねえ」
背後から声がかかったのと、振り返ったのはほぼ同時だった。そこには、背の高い狐目の男性が、にこにこと笑いながら立っていた。
「誰? ……聞かなくてもわかるけど」
未來はさりげなく後ろに下がりながら、相手の男性を上から下まで慎重に観察した。
第一印象は爽やか、という風で、人に不快感を与えない好青年といった感じだが、どこか違和感を覚える。
疑う余地もなく、未來は更に体を堅くし、一歩後退した。この風の流れや空気の質の正体を、未來は既に知っている。
「ああ、そういえばあなたとは初対面でしたっけ。これは大変失礼をしました。私、セプテット・スターのマーキュリーと申します」
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