phase2.1

 どれだけビジネス書と睨み合ったところで、現状は良い方向にも悪い方向にも転がっていかない。目の前のページにどういったことが書かれ、何を指し示しているのか理解できていないのだから、当然だ。未來は肩を落とし、本を本棚に戻した。


 手に取る前から、読めないだろうなという匂いが強く漂ってきていたが、万に一つの可能性に賭けた。その結果、万に一つには掠りもしなかった。

 ずっと立ち読みをしてしまってすみませんと、奥にいるこの古本屋の店主に向かって、心の中でこっそり謝る。


 一度人が遠ざかった店にもう一度人を呼び込む方法。美月やハル達に一緒に考えてほしいと頼み、その後各自それぞれ案を考えるということになり、まだ二日しか経過していない。その間に世の学校は夏休みを迎え、未來は本の力を借りるという手段を発見した。


 自分の力で解決せねばと思っていたが、こういうときは先人の知恵を、むしろ積極的に借りていくべきだ。朝食後に突如として思い立つと、すぐに家を出て、目についた古本屋に飛び込んだ。夏の太陽に彩られた外の世界は眩しく、反して本屋の中は、太陽が照らし忘れた場所のように暗かった。


目が慣れてから、しわくちゃの店主にビジネス書の置かれているコーナーを教えてもらい、分厚くていかにも本格的な本を見つけ、取り出して読むこと30分。


 人はおらず閑静で、外からかすかに蝉の鳴き声が聞こえ、壁に掛けられた扇風機が首を振っている。その中で読んだ本に書かれていた単語の数々は、一秒後にはどこを探しても見つからない場所にまで、去っていっていた。


 書いてあることは凄いことだとわかるのに、それを活かせる自信がまるで無い。もう少しわかりやすく解説された本を探してみようかと、本棚の前を歩き出したときだった。


「未來さん?」


聞き覚えのある声の主は、本棚の影から現れた。その手には既に小説らしき本が何冊かあり、いつの間に店に入ってきたのかわからなかった。


「穹君、こんにちは! 偶然だね!」


 挨拶すると、礼儀正しく「こんにちは」とお辞儀を返してくる。


「どうしてここに?」

「そうですね……」


 穹は、未來の後ろにある本棚に視線をやった。

「多分、未來さんと同じだと思います」

「ビジネス書かな? だったらやめといたほうがいいと思うよ。ちんぷんかんぷんだったからさ……」

「そうなんですか……」


がっかりしたように、穹は肩を落とす。


「掘り出し物を探しに来たついでに、良さそうなビジネス書とかがないか見てみようと思ったんです。昨日は図書館に行って、色々そういう商売の戦略みたいな本を借りてみたんですが、やっぱり、難しかったですね」


 掘り出し物を探しに来た、という響きが、やけに特別感を醸し出していた。


「穹君はもしかして、ここの常連さん?」


 ずばり言ってみると、あははと穹は照れくさそうに笑った。


「はい。本が好きですけど、お小遣いには限りがありますし、ずっと新品を買うのは……。でも、新しい本の新規開拓もしたいし。ここは凄いですよ。お宝な掘り出し物が、これまでにいっぱい見つかりました」


懐かしむような目で、店内をぐるりと見回す。だから、と少しトーンの低い声になる。


「未來さんの気持ち、わかるんです。行きつけの、よく行くお店が、無くなってほしくないっていう気持ち」


 ふふ、と穹は穏やかだが、いたずらっぽい笑いを見せる。


「僕も、もしここが閉店なんてなったら、自分の持つ力全部使って、何としてでも阻止するかもしれませんし」

「嬉しいことを言ってくれるねえ、坊主」


 店の奥から、店主の声がかかる。他に人はおらず、ある程度抑えているといっても、会話は筒抜けだった。穹はうろたえ、顔を真っ赤に染める。


「源七さんが坊主を連れてきた、こーんな小っちゃい頃から、ずっと通ってくれているもんなあ」


 店主が、右手の親指と人差し指をくっつけるかくっつけないかくらいで、豆粒のような大きさを作る。


「さすがにそこまで小さくありませんって!」

「冗談だ冗談」


 店主が豪快に笑い飛ばす。いやいやと、帳簿のようなものに目を落とし、鉛筆で何か書き進めながら、片手で頭を掻く。


「特に春頃からはしょっちゅう来てくれているし、こっちは話し相手が出来てとても楽しいよ」


かりかりという、鉛筆の先が紙を引っ掻く音が厳かに鳴る。とても店主には聞こえないような声量で、穹が「そうですね」と呟いた。顔は下を向いており、影が作られている。

 ことん、という、鉛筆が置かれる音が響いた。


「大切なものは心。誰が何と言おうと、わしはこの言葉を信じている」


 店主が両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せる。真っ直ぐな目で、こちらを見つめてくる。きょとんと、未來と穹は顔を見合わせる。


「心を込めてみなさい。自分の中にある思いを全てぶち込む勢いで、な。これが自分の心情だ、とくと目に焼き付けろ、ってな。自信はどんなに混ぜ入れても良いが、迷いはただの一滴も入れてはいかん。絶対にだ」


 とうとうと、部屋の中に降り積もるような声だった。


「思いを込める。よく言われることだが、でも中途半端はいかん。自分の心を削る思いでやらないと、足りない。だがそうやって出来上がったものには、その人のエネルギーが詰まっている。そのエネルギーは、否応なしに他の人の心を揺さぶるんだ。もし何かを成し遂げたいと思っているなら、やってみるといいかもしれん。ただの、一介の古書店の店主からのアドバイスだがな」


 言うだけ言うと、店主は目を伏せ、未來と穹のことなど忘れたように、鉛筆を持つ手を動かし始めた。


「心……」


 自分が呟こうとして、代わりに言ったのは穹だった。目を閉じ、微動だにしない。見えそうなものを見つけようとしているようだった。未來も同じだった。目を閉じると、暗闇の中で何かが見えてきそうだった。何が見えそうなのかは、わからないのに。



 結局、あと少しのところにどうしても届かなかった。穹は諦めた様子で目を開けると、持っていた本を買いにレジへと歩いて行った。大切そうに買った本を抱える穹と共に、一緒に古本屋を出る。てっきりここで別れるかと思ったが、どういうわけか穹は佇んだまま、歩いて行こうとしなかった。


「どうかした?」

「……聞くまでも無いことでしょうが。未來さんは、萬月屋が大事ですか?」


 迷い無く頷く。一秒もかからなかった。穹は少し笑った。


「ですよね。もう一つの居場所、みたいな風に思える場所ですよね」

「そうだね! もう一個の家に帰ってきたみたいに、落ち着くよ」

「僕も、ここがそうです」


青空を仰ぐように、本屋の看板を見上げる。


「深呼吸することが出来る。息をすることが出来る。家とこの場所は、そうですね、体外にある、肺みたいな場所かもしれません。それと、宇宙船も」


 面白い例えだなと感じた。感想を述べると、ありがとうございます、とはにかんだ。その笑顔が、次の一瞬には薄らぐ。


「余計、落ち着くんです。普段、長い時間、真空にいるので、更に」


 真空。空気の無い場所。けれどもここは地球であって、宇宙ではない。


「真空?」


 聞くと、穹の顔が途端に青白くなった。あの、そのとしどろもどろになっている。失言をしたとき、よく人間はこういう状態に陥る。


「ちょっと気になっただけだよ。地球で、そういう真空みたいな場所、あるかなってさ」


 はあ、と穹が俯いた。顎に手を当て、視線をさ迷わせた後、ゆっくりと息を吐き出す。


「質問ですが……未來さんは、どうですか? 萬月屋みたいに息をすることがしづらい、そういう真空のような場所、ありますか?」

「うーん……」


 色々な場所が浮かんでは消えていく。結果、未來は「ううん」と首を振った。


「空気の善し悪しは別として、私はどこでも息できるかな」


 そうですか、と穹は薄く笑った。どこか寂しそうだった。


「えっと、何か良くないことだったかな?」

「いえ、とんでもないです! むしろ、そっちのほうがずっと良いですよ!」


 手を振って否定してきて、その後に顔を伏せる。


「穹君、息が出来ない場所があるんだね?」


 彼は、まあ、と曖昧に言った。肯定することを躊躇っているようでいて、否定することはどう考えてもできない、というような表情。


「じゃあ未來さんは、学校でも息が出来ているんですね」

「うん。空気は悪いけどね」


 はっきり口に出す。穹が驚いたように目を見張る。そして苦笑した。


「悪い、か。そう、か」


 うんうんと、見えないものに対して頷く。


「じゃあ、大変ですね。お互いに」


 え、と聞き返そうとした。だが詳細を尋ねる前に、穹が新たに口を開いてしまう。


「これは一人言です。未來さんは、聞かないでいいですよ」


 穹は未來から体を背け、体の側面を見せた状態で、話し始めた。


「僕は、息の出来る場所がとても少ないんです。そのせいか、何に対しても、自分から積極的に動くことが出来ない。さっき店主さんが言っていた、心を込めることに対してさえも、怖いと感じてしまう。全てが怖くてしょうがないんです。何よりもまず、立ち向かうより避けたいと思ってしまう」


 くる、と更に顔が未來から背けられる。


「今も、未來さんが羨ましいと感じていることを、心を込めて伝えようとしても、上手く出来ない。肝心なところで踏み込む勇気が、足りていない」


 次に振り向いたとき、穹は笑顔だった。無理矢理作ったような。


「ごめんなさい。つまらない話を。それでは未來さん、また。人を呼ぶ良い方法、僕なりに探してみますね!」


 逃げるように、走って去って行く。その後ろ姿を見送りながら、未來は胸に手を当てた。


 ちゃんと心が込もっていたのではないかと思う。そうでなかったら、こんなに心臓の辺りが妙なことにはなっていない。このざわめきを語源化して、穹に向かって言うとしたら。


 勇気も、そこまで良いものではない。


 そう言おうとして、しかし、やめた。言うとするなら、心をしっかり込めてからだ。


 心か、と腕を組む。店主の言うとおり、込められてなければ薄っぺらく感じてしまう。では、萬月屋に対しても同じだ。


 萬月屋への思い。それを、ありったけ、人を呼び込む方法そのものに組みこむことが出来れば、と感じる。しかし、その方法が不明だ。具体的に、何に対して盛り込めば良いのか。


 目を閉じる。蝉の鳴き声がにわかに遠くなる。


 萬月屋への気持ち。それは、懐かしくなって、楽しくなって、嬉しくなって、心が温かくなって、幸せになる。それがごちゃ混ぜになって、一つに纏まる。萬月屋に行くと、そういう気分になる。似たような気分を、つい最近も味わった。あれはいつだったろうか。


蝉の音が大きく、近くなる。目を開いたとき、太陽の光が眩しくて、一瞬世界が真っ白で何も見えなく感じた。


 未來は振り返り、古本屋の扉を開けていた。さすがにびっくりした様子の店主を置いて、本棚のある一角を探す。


 つい最近も、同じような気持ちを味わっていた。真っ黒な空に無数に輝く小さな光。あれは、夜、星を見たときだ。一人じゃなく、大勢で。皆と呼んでひとまとめに出来る人達と共に。


 星を見たときと、萬月屋に行ったときの気持ち。この二つを合わせてみたら、どうなるのだろうか。




 未來という子が本を何冊か買っていって、しばらくした頃。店主があくびをしながら伸びをしたちょうどその時、扉が開いた。


 またもや未來か穹が戻ってきたのだろうかと見てみると、それは違った。そもそも子供でなく、大人であった。清涼感ある雰囲気に、スーツを着こなし、清潔に整えられてある身だしなみ。どこを取っても、不快な印象は窺えない。ただ、一つ、気になる点があった。


 髪が、青色に染まっていたのだ。そのような髪色をした人は、今まで見たことが無い。


 そういう色にあえて染めているのだろうかと思い、本棚の前を歩く男性をよく見てみたが、後から染めた風にはどうしても見えなかった。信じられないが、もしかすると地毛なのかもしれない、という結論に至ったとき、レジ前に一冊本を手にした男性が立った。いつも通り淡々と値段を告げ、金銭を受け取り、品物である本を渡す。


 それで全部終わり、この青い髪の男性も去って行くと思っていたが、違った。


「心を込めることが大事、ですか……」


 突如として、男性がそう言ってきた。今し方、子供達に向けて言った台詞だった。


「……なぜそれを」

「いえ、ほら、そこに」


 警戒心を抱いて聞くと、あっさりと男性は壁の一点を指さす。そこには、趣味の書道で書いた、“心を込める”という文章が掛けられていた。


「書いたものを飾っているということは、座右の銘というやつなのでしょうねえ、と」


 疑ったことを恥ずかしく感じ、店主は苦笑いした。


「ああ、実はそうなんだ。親からの受け売りでな」


 そうですか、そうですか、と男性は神妙に頷く。


「……本当に、信じているのですか? 心が大事なのだと」


 優しげな笑みをたたえたまま、妙に静かな声で、尋ねてくる。店主は少し考え、頷いた。


「ああ。何度も経験してきたからな。大切を伝えるとき。好きを伝えるとき。心を込めるだけ込めれば、相手の心には届く。大小はあれど、必ずな」


 おや、と男性は目を丸くした。


「懐かしいですねえ。似たような言葉を、小さい頃からよく言われたものです。両親と、それと、私の先生からも」

「へえ、そうなのか!」


 自分が親から教わり、以来昔からモットーとしていた言葉が、この男性にも、同じく親から先生から教わっていた。思いもがけぬ共通点を見つけ、自然と胸が高鳴っていく。


「お前さんも、もし何か成し遂げたいことや伝えたいこと、とにかく何かしたいことがあったら、心を込めてみるといい。それだけに自分の全てを注ぎ込む、っていうくらいな。そうすれば、きっと失敗はすまい。もし例え失敗したとしても、後悔するなんてことは有り得まいよ」


 ついつい、饒舌になってしまった。それなりに長い話だったが、その間男性は、全く嫌そうな顔などせず、そうですかと笑顔のまま、何度も相槌を打った。生返事ではなく、本当に話を聞いているときの、しっかりとした反応だった。


「なるほど、なるほど。言いたいことは、よく理解できました」


 髪色は不思議だが、本当に嫌なところが一つも無い、感じの良い青年だ。店主は話を聞き終わり、何回も浅く頷くこの男性に対し、嫌な感情は一片も抱いていなかった。


「ですが、どれほど自分の信念や伝えたいことを詰め込んでも、伝わらないときは決して伝わらないものなのですよ」


 見てるとこっちまで笑顔になってくる、完璧な笑顔。そこからさらりと放たれた否定の言葉に、店主の頭がぴたりと回転を止める。


「私は、失敗をして、後悔もした側の人間なのでね」


 芝居がかった口調では無い。にもかかわらず、人間が発したとは思えない程、無機質な口ぶり。


呆然としている間に、男性はでは、とにっこりとした笑みを見せて、店から出て行った。全てが幻だったのでは。そう思わずにはいられないほど、現実離れした時間だった。

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