phase1.2

 翌日。一時限目が始まる前の学校内にある掲示板の前で、未來はそこに貼られたものに対して拍手を送りたくなった。実際、手を叩いた。


 掲示板に貼られた、昨日には無かったポスター。それは、萬月屋のことが記された、宣伝ポスターだった。


 のれんや包装の色と同じ若草色を主体にし、三日月などの絵や、幾つかの商品の写真をバランス良く盛り合わせたポスター。絵は母の涼子が進んで描き、写真は未來が撮った。


 色合いにも、文字のフォントやサイズにも、細部に至るまで何度も吟味し、凝ったものにした。地図はなるべく簡潔にわかりやすく書き、商品の写真の下に書いてある説明文に至っても、何度も推敲を重ねた。


 デザイン面では編集者の涼子に、文章面では新聞記者である父の勇一に監修と指導を受けた末に合格を貰ったのだから、まず間違いないだろう。


取りかかり始めたのは、先月、6月の頭だ。下書きを何十枚と作った。何十回と没にしたのもあればなったものもある。納得がいかなくて破り捨てたのもあるし、納得がいったと思っても、両親に意見を仰ぐとNGを出されたものもある。


 授業中、食事中、入浴中、トイレの時、とにかく隙間時間があれば、案を考える時間に充てた。ああでもないこうでもないと、考えに考えを重ねて重ねた。


 その果てに、今こうして、ポスターが形になり、こうして貼っている。制作を諦める気など毛頭なかったが、いざ目の前にすると、心に来るものがあった。


「うわあ!」


 未來がポスターを貼るところを見ていた美月は、見上げながら拍手をした。


「写真も凄く美味しそうに映ってるし、その説明の文だってとてもわかりやすいけど美味しそうに書かれてるし、やっぱり未來は凄いね!」

「えへへ、ありがとう!」


 素直にそう言われると、尚更心が温まる。未來は照れ隠しに頭を掻いた。


「あ、絵はお母さんだよ」

「う、うん。それはもう、わかってるよ。見る前からわかってるよ。本当に」


 美月のそれまでの活発な笑顔が薄れ、挙動が不審になる。理由を考えたが、特に思い当たる節はなかった。


「宣伝ポスターも作っちゃうなんて凄いなあ……。良ければいつか、ミーティアのも作ってくれない?」


 でも、ミーティアは宣伝をしなくても、人気の店だ。お客に困っている様子は見えない。そう言おうとしたが、未來は少し悩んだ末、了承だけした。


授業が始まる時間が近づいてきたため、そこで未來は、美月と共に教室に向かった。廊下を進む途中、背後を振り返った。凝っただけあって、遠目からでも、未來の作ったポスターは目を引かれる。掲示板に貼られている他の貼り紙などと比べても、その差は一目瞭然だった。廊下を歩いていて一番に目に止まるのは、未來のポスターだろう。


 果たしてその中で、立ち止まって内容を読む者はどれくらい現れるのか。読んだ者の中で、実際に萬月屋に行くのはどれくらいか。


 その数が多い場合と、少ない場合、両方考えてみた。けれど浮かぶのは多かった方の場合だけだった。萬月屋に出来る行列。途切れず、伸びていく行列。それはとても甘美に輝く想像だった。




 時間は流れ、昼休みになった。未來はこの瞬間を待ちわびていた。昼ご飯を済ませるなり、教室を飛び出し、走りたいところを怒られないように、競歩で廊下を駆ける。


 辿り着いた先は、掲示板だった。近くにある壁の出っ張りの陰に身を潜め、できる限り息を殺す。ばれないように注意を払いながら、掲示板とその前を行く生徒達の姿を盗み見た。


 昼時なだけあって、様々な生徒達が行き交い、廊下の通行量は多い。掲示板前の廊下も例外ではなく、既に把握しきれない程の人数が、短時間のうちに通過した。


 未來は頭の中に描いた。一人がポスターの前で立ち止まり、また一人立ち止まり、やがて人が人を呼ぶごとく、一枚のポスターの前に、大勢の人だかりが出来る。


 それが現実の光景となって現れてくれることを待つ。だがしかし、頭の中の風景は、あくまでも頭の中のものでしかなかった。


 10分が経過した。壁に掛けられてある時計も確認していたので、正確な計測には間違いない。10分とは思えない程、それは長く感じた。が、同時に10分過ぎたと認めてしまえば、あまりにもあっという間に思える。


 その間、本当に色んな人が通り過ぎていった。誰も掲示板の前を通らなかったらという想定もしていたので、それは回避できて、ほっとした。けれども想定外なことが、たったの一つだけある。掲示板の前を通過した誰も、その歩みを止めなかったことだ。


 掲示板にすら目もくれない人もいた。けれど一番多かったのが、ポスターに視線をくれても、一秒と経たずに視線を外されることだ。外された後は、ポスターを見たことも記憶から消えたように、普通の調子で生徒は過ぎ去ってゆく。


 そのわずかな時間の間に、掲示板に何かが貼られていることを知り、その内容を把握し、自らにとって必要な情報であるか否かを取捨選択しているのだ。


 なんという早業だろうかと、未來はまずそこに感心してしまった。顎に手を当て、物陰から掲示板に貼られたポスターを客観的に見る。中学校に貼るわけだから、中学生に人気が出そうなデザインを考え、配慮して制作したのだが、何に問題があったのだろうか。何が足りないのか、あるいは余計なものがあるのか。


見られるという本来の目的を達成していないポスターは、心なしか他の貼り紙よりも、ぽつんと一人で寂しそうに浮き上がっているようだった。


 口から出そうになった吐息を、鼻からゆっくりと出す。渾身の出来と思っていたのは、自分だけだった。ただそれだけのことだ。


一週間後には、別のデザインのポスターに変えよう。変更案を考えながら、その場を去ろうとしたときだった。誰かが掲示板の前に止まったのが、気配で伝わってきた。急いで見ると、そこには3、4名の女子が立っていた。未來は全くと言っていいほど話したことが無いが、同じクラスのグループだった。彼女達の目線は間違いようも無く、未來の作ったポスターに注がれている。


 一気に体温が上がっていく。特に顔が熱い。妙に心臓が早くなる。女子達はなかなか立ち去らない。未來は、自分の鼓動でうるさい中、必死に耳をそばだてた。


「ポスター制作者、星原未來」


 真ん中の子が、アナウンサーがニュースを読むときのような声を上げた。未來の印象としては、意味のあることも意味の無いことも、包み隠さず大きい声ではっきりと、グループの中心になって言うような、美月とは違う印象の活発な生徒だった。そんな人が、ポスターの端のほうに小さく書いたその文字を、どういうわけだか読み上げた。


「じゃあ、誰も行かないよね~!」


 ねえ、だとか、確かに、だとか、そういった声が、取り巻く子達からほぼ同時に上がる。未來は口をぽかんと開けてしまった。自分が制作者であることと、それで誰も行かないことが、どうしても結びつかない。いくら考えても、わけがわからなかった。問題の時点で、矛盾だらけで設定がおかしい問題を解いているようなものだ。


 わからないが、限界点に近づいていく。頭を傾げていると、女子達は悲鳴みたいに高い笑い声を上げながら、去って行こうとする。次の瞬間、未來は物陰から飛び出していた。


「あの、ちょっとすみません!」


 いきなりで驚いたのだろう、女子達は笑い顔がさっと消え、驚愕に尽きる表情を見せてきた。


「ほ、星原さん、い、いつからそこに?」

「えーと、ずっと前からですけど?」


ええと、とかを口々に言いながら、彼女達は未來の前からいなくなりたそうにしている。その空気を察知した未來は、手短に用件を言うことにした。


「そうそう。さっき聞いたんですけど、どうして私が書いたら、誰もこの店に行かないと思うんですか?」


さあっと、よく見なくてもわかるくらい、彼女達の顔が青ざめていく。


「私全然わからないんですよね……。ちょっと考えてみたんですけど、もうどこがわからないのかもわからなくて、考えようにも始まらないというか。

私、何か誰も店に行かなくなるような大層なことをした覚えは全然ありませんし。ああでも、もちろん自分で気づいてないってことも充分に有り得ますよね。

というか、ですよ。好きなものを広めたいって思うのは普通のことじゃないですか。私が何を好きになるのも自由じゃないですか。よって、私がポスターを作って宣伝するのも、普通で自由なことだと思うんです。

だから私も、普通に作って普通に貼っちゃったんですけど、もしかしたらまずかったですかね? 私、何かしちゃいましたかね? この店の不利益になるようなこと。皆さんを行きたくないとかって、思わせちゃうようなこと。

だったら一大事ですし、申し訳なさ過ぎるので、よければ是非教え」


 気がついた時には、目の前には誰もいなかった。話が長すぎて、飽きたのだろうか。意外と気が短いのかなあと、解釈することにした。




 放課後。未來は帰らずに、廊下を歩いていた。ある部屋の前で立ち止まり、引き戸を開ける。


「こんにちは!」


 大きな声で挨拶する。だが、それに返ってくる言葉は無い。いつも通りだ。今日もいつも通りで良かったと、未來は安心した。


部員が撮った写真の他に、プランターや虫かご、粘土細工などの彫刻や絵画、大量のカメラが一緒になって飾られている部屋。ずっと時計が針を刻む音が聞こえ続け、たまに時計よりも小さな一人言が聞こえてくる部屋。未來のいる写真部は、こういう部だった。


写真部は現在、5人の部員で成り立っている。皆それぞれ、被写体を撮るジャンルが一貫しており、被ることも、他を撮ることもない。本人も、未來を含めた周りの人物達も、写真の担当は○○、と言っている。


虫が中心の動物担当、三年生男子。

写真を撮るよりも彫刻を彫ったり絵を描いたりしているほうが圧倒的に多い人物担当、三年生女子。

実際に食虫植物も込みの花を持ってきては部室で大量に育てている植物担当、二年生男子。

カメラをカメラで撮ることをこよなく愛すカメラ担当、一年生男子。


 未來以外の写真部の面子を説明しろと言われたら、こう聞かせる。逆に、それ以外のことは全くと言っていいほど知らない。部員同士で会話を交わすことが、まず滅多に無いからだ。


 挨拶も無ければ写真のことについて語り合うことも無い。むしろ写真の話題は御法度という空気すら流れている。皆それぞれに確固たる自分のポリシーを持っていて、それを土足で踏み荒らされたり、否定されることを何よりも恐れ、地雷としているのだ。


 相手の境界には一歩も踏みいらない。けれども自分の境界には一歩たりとも足を踏み入れるな。そういう暗黙のマナーが存在する。


 部の全体的な空気がそんなだから写真部といっても、それぞれ集まって、各自自由なことをしているだけだ。部室から勝手に出て写真を撮りに向かう者、撮影の勉強をする者、自分の作品や尊敬する写真家の写真集をひたすら眺め続ける者、写真は一切関係なく、虫を育てたり花の世話をしたり彫刻を彫ったりする者など、様々である。


 やりたいことがあったら一人で遂行し、来たいときに来て、帰りたくなったら帰る、それを可能としている部活だ。部員一丸となって何かに取り組む、というのはこの部屋に限って言えば、ただのおとぎ話にすぎない。


 並べられた机に、4人がそれぞれ座り、皆未來のわからない何かと向き合っている。未來も席につき、図書室から借りてきた星の写真集を開いた。


 一枚一枚、じっくりと時間をかけて、ページを捲る。映っている星や銀河や星座に関する説明も一緒に書かれているが、それは読んでいない。見ているのは、写真のみだ。


 そうしていても、この場にいる誰も、何も聞いてこない。何をしているのかと理由を尋ねられることもなければ、面白いかと感想を求められることもない。ただ、一応聞かれたときの為に、答えは用意していた。


 何をしているのと聞かれれば、探している、と答える。そこで何を、と加えて聞かれたら、一つの星を、と続けて答える。


 星空を見る。ある一点で、急に目線が止まる。体の全細胞が、全神経が、無数にある星の中のとても小さな星に対し、騒ぐ。全く知らない星なのに、自分の家を見つけたみたいに、とても懐かしく感じる星。ここだ、と、根拠が無いのに理解する。そういう瞬間を、ずっと待っている。


 では、そうやって星を見るの面白いかと聞かれたら、首を振る。星を見る動機がそんなだから、正直言って、全く面白くない。


 しかし、いくら待っても、誰も話しかけてこない。未來はそれが、ありがたかった。


 次のページを捲り、写真を見る。ゆっくりゆっくりを心がけながら、視線を滑らせていく。映る星達の中に、見た途端体に電流が流れるような衝撃を起こす星は、見当たらない。


 楽しくないなあと、偽らずに感じる。この前皆と海で星を見た時は、あんなに楽しかったというのに。




 写真集を読み、カメラの本を少し読み、勉強の予習復習を軽くしておき、ポスター変更案を考えてノートにある程度書いた所で、未來は席を立った。


 「皆さん、さようなら!」と声をかける。もちろん返事はない。ただなぜか、全員バネみたいな動きで頭を上下させた。


 廊下を歩きながらしばらく経ち、あれは会釈だったのではと思い立った頃。


 自分の教室から、何か声がするのが耳に入った。何の気なしに見てみると、昼休みの件の女子達が、固まって何やら話をしていた。

何一つも興味が湧かなかったため、そのまま通り過ぎようとしたときだった。星原、という単語がちょうど聞こえてきた。条件反射で、足が止まる。


「昼間の態度、あれは何よ! 天然でも気取ってるつもり?」

「男子に受けるとでも思ってるんじゃないの? でも、あれじゃあ逆効果よね~」


 ねえ、と口々に声が上がる。天然とは具体的に何のことを指しているのか、未來はわからなかった。


「変人の集まりの、変人のための写真部の中でも特に変って噂のあの子が勧める店なんて、誰も頼まれたって行かないでしょうよ」


 甲高い笑い声が教室を抜け、廊下まで届き、反響する。


 自分の噂を図らずも知り、さすがに未來は困惑した。普通に過ごしてるだけなのに、どこが変なのだろうか。昼のように直接言おうとして、ふと、なぜ誰も行かないとわかるのかと思った。もしやエスパーだったりするのだろうか。だとしたらちょっと興味があると、未來は更に耳を澄ませた。


「話すこと全部全然噛み合わなくて、周りと合わせること全然しなくて、全部自分優先の自分勝手で、わけがわからないことばかりやったり言ったりしてさあ」


 耳を澄ませなくとも、彼女達は誰もいないと油断しきっているのか、大きな声で喋っている。


「本当に、宇宙人と話してるみたい」


 その台詞は、右耳から入ってきて、脳の真ん中でつっかえた。そんな感覚がするほど、その言葉は大きく、堅く、鋭かった。形の無いものなのに、形状を感じた。


「だから皆、あの子が怖くて怖くてしょうがないのよ。だから誰も近寄らないの」


 廊下に響き、頭でこだまする笑い声を背に、未來はその場から歩いた。目に入ってくる景色が、どういうわけだか、色が無い。先程まで普通に見えていた色が、すっぽりと抜け落ちて、掠れて見える。


 あるいは、自分にはそう見えるだけかもしれない。地球人と違う目には、そう映るだけかもしれない。


 学校を出てからも、地面のどこを見ても、色が薄れて見えてしょうが無い。とても気持ち悪い。縋るように、首を上に向ける。


 その先には、青が広がっていた。どこまでも澄み渡り、目に刺さるほどの、眩しい青色。終わりを感じない高さを塗る青色は、とても濃く、鮮やかだった。


どうしてわかったの。そう言ったら、どうなっていただろうか。


 地球の空の下に立つ、生まれの星が不明の宇宙人という。この空の青さと、自分の存在のセットは、いびつで、矛盾をはらんでいるように感じた。

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