phase1.1

 ぎらぎらとアスファルトを反射する夏の太陽は、今日も今日とて溌剌とした元気を失わない。


 あちこちから聞こえる蝉の鳴き声を耳にしながら、落ちてきそうになった汗を拭う未來は、夏に染まる住宅街を歩いていた。小さな川を渡ってしばらく行くと、現代の家々が並ぶ住宅街の中に突然、過去からそこだけ時間移動をしてきたような、和風で古風な家が現れる。


 きっと昔は、この辺り一帯も、その家のような外見と似たような家が並んでいたのだろう。緑の瓦屋根に、木造だということがすぐわかる二階建て。木の引き戸の上にかけられた若草色ののれんと、外に出されてある檜の看板には、達筆な文字で、『萬月屋まんげつや』と書かれている。


 未來は、大きな満月の絵が一緒に描かれてあるのれんをくぐり、引き戸を引いた。


 中はとてもこぢんまりとしており、小さな盆栽、待つための木の長椅子二脚と、たくさんの種類の和菓子が並べられたショーケースのみが置かれている。ガラスのショーケースの向こうには、少なくとも未來にとっては、見る者に大きくなくとも小さく確かな幸福を与えてくる、色とりどりの可愛らしいお菓子が、きっちりと陳列されていた。


 レジの向こうに店員はいなかった。と、未來が呼ぶ前に、すぐ奥の厨房から、ばたばたと店員が慌ただしそうに出てきた。いらっしゃいませ、と言おうとしていたその女性の目が、大きく、嬉しそうに見開かれる。


「未來ちゃんじゃないの! いらっしゃいませ!」

「こんにちは~! お久しぶりですね~!」


 未來は軽く手を上げ、思わず出てきたにっこりとした笑みを向けた。

 髪をひっつめにし、のれんと同じ色の三角巾とエプロンをつけたこの女性は、店員であり、萬月屋の店長でもある。


「もう本当に暑くて嫌になりますね~」

「そうよね~。家の冷蔵庫にずっと顔突っ込んでいたいわ」

「私は、アイスクリームずっと食べていたいです!」


 店長の橘の様子は、この前来た時とほとんど変わっていないようで、未來は顔に出さないように気をつけながら、胸をなで下ろした。熱中症や夏バテなど、夏の暑さを決して侮ってはいけない。

今忙しく、大変であろう橘のことを考えると、未來はつい不安になってしまう。橘が張り切りすぎの気があることも、その不安に追い風を与えていた。


「えーと、今日は……」


 未來は少し屈み、ショーケースの中を覗いた。右から左、上から下へと眺めた後、よし、と膝を戻す。


「三色団子12本と、あとこっちの小分けの水羊羹ようかん6個、饅頭を12個、それと赤ちゃん用の卵ぼーろを下さい! あとこれも!」


 最後におかきと煎餅がセットになった、中くらいのサイズの箱を指さす。注文を聞き終わった橘は、溌剌とした笑みを浮かべ、「かしこまりました!」と明るく言った。


 包装を待つ間、未來はショーケースの中を見ていた。もうお財布の中を配慮してもこれ以上は買えないが、買えるものなら全種類買いたいと思う。オーソドックスなものは良心的な値段だが、小さく儚く美しい、季節の花の形をした練り切りは、母か父と来たときでないと買えない。


今は眺めるだけで満足し、味を思い出すだけで満足しないといけない。口に入れただけでじんわりと溶けて広がっていく餡子の味を夢想することに夢中になっていたあまり、未來は橘の、「箱の和菓子じゃなくて、本当に良いの?」という台詞を聞き逃してしまった。


 橘は既に包装を負え、和菓子の入った箱を、若草色の紙袋に入れたところだった。聞き返すと、橘は箱に詰められた和菓子が売っている一角を手で指した。どら焼きやカステラ、饅頭などの箱詰めが、木で出来た作り付けの棚に置かれている。


「お友達皆と一緒に食べるんだったら、お値段的にもあっちのほうがずっとお得よ? 最近いつもケースのほうを買っているけれど……」

「いいんです、いいんですよ!」


 未來は財布を開け、代金をレジ横のトレーの上に置いた。


「水羊羹も麩饅頭も、夏限定じゃないですか! 今しか食べられないものを、皆と一緒に食べたいんです!」


 力説しながら、紙袋を手に取る。和菓子の詰まった箱の重みが、腕に伝わってきた。そっかあ、と橘は柔らかい笑顔で返した。


「また近いうちに来ますね~!」

「ちょっと、そんなにしょっちゅう来て、お小遣い大丈夫?! お財布だけ冬に入っちゃうんじゃないの?!」

「優しいお値段なので、せいぜい秋くらいですから大丈夫ですよ~!」


 ひとしきり笑い合った後、未來は手を振りながら、引き戸を引いた。完全に閉じるその瞬間まで、橘は手を振り返してくれていた。


 鼻歌を歌い、小さな川をまた渡りながら、未來は軽くスキップする。とん、と着地した先で、ふと目の前の視界に、白いものが入り込んだ。


 煙のようにもくもくとした、綺麗な形の入道雲。夏の濃い青空を背景に、見事な大きさのものが浮かんでいる。


 おお、と未來は目を細めながら、デジタルカメラを取り出した。ピントを合わせ、ズームインとズームアウトを繰り返す。夏の雲が、フレームの中に収まる。未來はシャッターを切った。


 撮ったばかりの入道雲を確認し、頭を大きく縦に振る。これはいい。もくもくっぷりが、よく現れている。


 デジカメをしまうと、未來はまた鼻歌を口ずさみつつ、スキップで移動を始めた。目線の先にあるのは、こんもりとした深い緑色の山だ。それを見ると、未来の心のどこかも一緒になって、スキップする。





 裏山にひっそりと場所を借りている、ハルの宇宙船。緑色の自然の中に突如として現れる白い無機物はそぐわないはずだが、未來は既にこの光景に見慣れていた。すいすいとスロープを上るとその先のドアをくぐり、廊下を迷い無く進んでリビングのドアを開ける。


「未來ーーー!!! 助けてーーー!!!」


 至近距離で現れたのは、美月だった。ポニーテールを揺らし、涙目をし、未來の後ろに隠れるようにして飛び込む。


「ハルが鬼! 鬼なの! 悪魔なの!」

「私はロボットだ」


 未來の前に、長身の人影が立つ。頭部がブラウン管テレビの形をしたハルは、手にプリントのような白い紙を持っていた。


「ミヅキには才能がある。伸びしろがある。この問題を解くんだ。最終的に数学を好むであろう結果が9割を超える計算となっている」

「残念でした、私は残りの1割になるんです!!! 何考えてるの一体!!! 馬鹿じゃないの!!! その問題はおかしい!!! 全てがおかしい!!!」


見てみると、紙には数学の問題がずらりと記されていたが、その全てが、どう見ても中学二年生がやる部分ではなかった。


「あのような本を持ってきておいて、興味が無いと言うのか?」


 ハルの指さす先には、ローテーブルの上に置かれている本があった。今だ喚き、ハルと言い合う美月を置いて、近づいて見てみると、その本は、表紙からでもわかる、本格的な宇宙の科学書だった。少し広げてみると、表紙通り、中に書かれていることも難解で、未來にとっては、半分どころか1%も理解できそうにない内容だった。


「美月、これどうしたの?」

「おじいちゃんから借りたんだよ……。この前海行って帰ってきた日からちまちま読んでるけど、でも少ししか読み進められてないっていうか」


 割り込むように、ハルが横から言う。


「あれを読むことを苦と感じていないのなら、ミヅキには間違いなく才能がある。眠らせておくには非常に勿体ない。目覚めさせなくてはいけない」

「眠ったままでいいですーーー!!!  できるはずない、嫌だ!!!」

「安心しなさい、私がちゃんと教える」

「いーーーやーーー!!!」


 ソファに座る穹は、テキストを広げながら、姉の挙動に対して煩そうに白い目を向けている。何とかして下さい、と未來に目配せしてきた。


「美月、頑張ろう! 私も頑張るから!」


 ぽん、と美月の肩に手を乗せる。美月は唇を噛みしめながら、真っ青になった顔をぶんぶんと横に振った。


「じゃあ、ちゃんとやるって今言ったら、この和菓子を食べさせてあげるよ!」


 紙袋を掲げると、美月の顔に血色が戻ってきた。


「やったー! 未來最高! じゃあ食べよう!」


 打って変わり、美月は万歳をして飛び跳ねている。最初に美月を自宅に招いたときに出したこの和菓子は、美月から好評を得た。絶賛していた美月には、さぞ効くことだろう。


「美月、ちゃんと勉強もやるんだよ?」

「わかってるわかってる」


 お皿を用意しに向かう美月の後ろ姿を見ながら、本当にわかっているのかなあ、と未來は首を傾げた。

 ソファに座っていたココロが、楽しそうに笑った。




 リビングから、「美味しー!」と大きな声が上がる。声の主は美月で、皿に盛った水ようかんと麩饅頭が、一口分減っている。


「饅頭は凄くもちもちだし! 水羊羹は冷たくて甘くて、最高だし! 団子は言わずもがなだし! おかきとお煎餅も!」


 穹も一口お茶を飲んだ後、水羊羹を掬って食べ、「未來さん、とても美味しいです!」とはにかんだ。


 ココロは、ココロ用にと買った卵ぼーろを、もくもくと食べている。手が止まらないことからして、何よりにまっとした顔からして、美味しく食べているようだ。


 ふふんと未來は胸を反らせながら、お茶を啜った。


「あれ。ハルさん、このお茶、緑茶みたいな味がしますね!」


 水出し緑茶と見せかけて、湯飲みに入っているお茶は、ハルが用意した宇宙産の茶葉から淹れられたものだ。


「葉は全く違うが、性質や成分は微妙に似ている。馴染み深い味だろう」

「緑茶と比べると少し苦いような……。でも、お茶菓子と合う味付けになってますね!」


ところで、と未來は室内を見回した。いつも大体いる存在が、今日に限って抜けている。


「シロはいないんですか? ……クラーレさんも」


 大事なほうはシロのほうだが、未來は一応クラーレのことも聞いた。


「なんか、揃ってクラーレの部屋にいるよ」


  団子の串を持ちながら、美月が答えた。ハルも合わせて頷く。


「来ないかと聞いたのだが、断られた」

「おふたりとも、一体何をしているんです?」

「シロは、海に行ってからずっと、飛行の練習をしている。クラーレは、それにずっと付き添っているんだ」

「外でも訓練するらしいけど、日中はさすがに暑いから屋内で、少し暗くなったら外で練習しているんだって」


 何してるのかはわからないけどね、と美月はもぐもぐと団子を頬張る。


訓練かあ、と未來は麩饅頭のもちもちした食感を噛みしめながら、シロの翼を思い浮かべた。そういえばこの前海に行ったとき、ずっと飛ぶための練習と思しき行動をとっていた。


「じゃあ、この残った和菓子、おふたりに渡しといてくれますか?」

「わかった」


 正直な気持ちを包み隠さずに言うなら、クラーレの分も買うのはあまり気が進まなかった。しかしかといって、省く程の恨みもない。袋ごと渡すと、それを見ていた美月は「クラーレ食べるかなあ……?」と、団子のなくなった串を皿に置いた。


「恐らく食べるだろう。食事も出せば毎食完食している」


 ハルの見解に、ええ、と穹が軽く仰け反る。


「い、以外と律儀なんですね」

「言動に変化は全く無いがな。頼んだ家事も、いつの間にかきっちり終わらせている」

「で、でもさ、やっぱりクラーレ食べないんじゃないかな? ね?」


 美月の様子は、妙に落ち着きがない。先程からちらちらと紙袋と、空っぽになった自分の皿の上と見比べている。それを目撃した未來は、頭の中でぴんという音がした。


「美月、おかわり欲しいなら実際に萬月屋に買いに行ってね。切実に」


う、と相手は途端に言葉を詰まらせた。


「ご、ごめん……。そういえば、未來に教えてもらった萬月屋、最近行けていなかったなあ……。また行かなくっちゃ! もっと食べたいもの!」


 次の瞬間未來は、音を立てて乗り出していた。テーブルが鳴るのもお構いなしに、「お願い!」と手を合わす。


「絶対行って! 特にこの水ようかんと麩饅頭は夏限定ですから、お早めに!」

「うん、わかった。近いうち、っていうか今日行くよ!」


と。「さて」と、ハルがことりと音を鳴らし、空になった湯飲みをテーブルの上に置いた。


「勉強の時間だ」

「あああ忘れてたああああ!!!」

「和菓子も食べ終わったしな。良い頃合いだろう」


 全員分の皿は、すっかり空になっている。穹が鞄にしまったテキストや筆記用具などを、再び取り出し始めた。


「全然良い頃合いじゃない! 助けてーーー!!! ココローーー!!!」

「あ!」


 ぺち、とココロは小さな手と手を合わせた。違う!と美月が叫ぶ。


「美月、ガンバだよ!」


 渾身の気持ちを込めたガッツポーズを送ったつもりだ。しかし美月の顔色は青白く、エールが届いた様子は見せなかった。





 美月は燃え尽きどころか、その灰すらも残っていないような現状となっている。顔面蒼白でソファにもたれかかる友人の姿を見ると、さすがに未來も胸が痛くなった。


「み、美月、よく頑張ったよ。凄いよ!」


 美月の口が動いた。恐らくありがとうと言ったのだろうが、喉が潰れたような声のせいで、何を言っているかよく聞き取れなかった。その声で、美月はまた何か言った。耳を澄ましてみると、どうやらハルに対する台詞のようだ。「やっぱりだめだったじゃない」という風に聞こえた。


「だが、解けたではないか」

「そうだよ、姉ちゃん。全部は無理だったけど、出来たんだからいいじゃん」

「よくない!」


 突如美月はソファから勢いよく立ち上がった。


「半分も無理だったし! もう頭がなんにも考えられないよ! むしろこれ馬鹿になったんじゃない?!」

「残りは教えるから、明日やろう」

「ここは地獄か!!! そんでハルは鬼か!!!」

「私はロボットだ」


ぎゃーと叫ぶ美月に、穹は一歩体を引いた。反対に未來は、一歩美月に近寄る。


「美月」

「何?!」


 美月は首をこちらに回してきた。コマが回転するような速度と動きに近かった。未來はゆっくりとした口調で言う。


「絶対行ってね。萬月屋。いつ食べられなくなっちゃうか、わからないんだから」


 へ、と美月は目をぱちくりさせる。


「ああ、羊羹と饅頭のことね? わかってるよ、絶対行くって。っていうか、今日行く気満々だもん。だって糖分が! 切れてるし! 脳が栄養不足状態だし!」


またもやぎーと唸りだした美月に、穹は「ハルさん、書斎に行ってますね」と、まるで逃げ出したいようなそわそわとした口ぶりで言った。


「それじゃ、私帰りますね! また!」

「あ、あれ、もう帰るの? 一緒に運動でもしない? シミュレーションルームで訓練しようよ」


 どうやら美月はそのつもりだったようだ。コスモパッドを取り出し、左手首に装着をしている。


「うん、用事があるんだ」

「そう、わかった。じゃ、また明日、学校で」

「ミライ、気をつけて帰るように」

「未來さん、また!」


  最後にココロに見送られ、未來は宇宙船を後にした。


 山を下りると、蝉の大合唱も少し小規模になる。太陽は元気を衰えさせておらず、思わず未來は吐息を吐いた。


 やや歩いたところで立ち止まり、方向転換をする。行き先は、小さな川だった。そこを渡る。少し行くと、萬月屋が見えてくる。その前で立ち止まり、未來は木枠の嵌められたガラス窓から、中を覗いた。


 中には誰もいない。小さくも綺麗な和菓子のショーケースの向こうで、橘が一人立っている。引き戸を見つめるその目は、沈んでいる。


 未來は窓から離れた。そのまま、家の方向へ歩き出す。


 やっぱり親に連れてきてもらおう。値段が高めの、練り切りを買ってもらおう。


 未來は、どうやって母の涼子に買ってもらう説得をどういう言葉にするか、脳内であれこれと考え出した。


未來は一度振り返った。萬月屋は小さくなっていた。


 美月は、今日行くと言っていた。それを思うと、少し安心する。胸の辺りが軽くなる。けれど、ぼやぼやしている暇は無い。未來は真っ直ぐに目を向けた。

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