phase5「天体観測」
「どうかした? 大丈夫?」
穹に話しかけられるまで、美月は自分がぼんやりしていたことに気づかなかった。
「ううん、なんでもないよ」
だが、なんでもないを信じてもらえていないのは、穹の顔を見ればわかる。何か言いたげな穹から顔を逸らし、美月は部屋の
目線だけ、旅館の窓の向こうにやると、夜の海が見えた。が、目にしても、海があるな、という感想以外を抱けなかった。他のことを考えていて、余裕がないからだ。
「本当にどうしたの?」
てっきりもう行ったと思っていた穹は、障子を閉め、自分の向かいの椅子に腰掛けてきた。声をひそめているあたり、障子の向こうの和室でくつろく弦幸と浩美から、美月を配慮したらしい。
「うん、なんか……。ゴミ拾い、本当にやって良かったのかなって」
居座られて、白を切り続けられる自信はない。観念して、ずっと胸中を渦巻いていた言葉を外に出すと、穹はぽかんと口を開けた。
「え、姉ちゃんが? 一度決めたことを悩んでる? あの姉ちゃんが? え?」
明日は雪かなと、穹は立ち上がって窓に張り付いた。その横顔を睨み付けながら、美月は心の中でため息を吐いた。
ネプチューンに言われた台詞は、今も尚残り続けている。よかれと思って勢いに任せてあの砂浜を綺麗にしたことは、正しかったのだろうか。
昨日のゴミが捨てられたままの現状で、困っている人もいたのだろう。だが、今日来てみたらどうだ。本当に、困っている人はいるのだろうかと感じてしまった。本当に嫌だったなら、迷惑しているんだったら、もっと早くに、明確な形になって表れているのではないか。
汐澤や、彼が連れてきて礼を言ってくれた人達のことを、疑うつもりはない。
けれど、もしかするとこの町全体は、海辺の景観などどうでもいいと、思っているのかもしれない。
そう考えてしまうくらいには、美月は町の住民の、海に対する思いを信じることが難しくなっていた。
「姉ちゃん、ちょっと外出ようよ」
へ、と美月は顔を上げた。穹は窓の向こうを、軽くつんつんと指さす。
「気分転換。父さんと母さんには言ってあるからさ」
あれこれと考える前に、美月は首を縦に振っていた。
部屋を出る際、本当に両親二人は何も言ってこなかった。エレベーターに乗りながら、一体何をしたんだと聞くと、穹は「未來さんのお父さんが一緒だから大丈夫って言っただけだよ」と軽く笑った。二人には既に、ここに未來が父親と一緒に来ていることを伝えている。
「一緒なの?」
「ううん。でも、ハルさん達が一緒だよ」
人気がすっかり少ないロビーを突っ切り、外に出る。夜風は冷たくなく、じんわりと生ぬるかった。海からの風は昼間と変わらずに塩辛く、耳を澄ますと、時折車のタイヤが走り去る以外に、波音が聞こえてくる。
「気分転換って何? 具体的にどうするの?」
「いいからいいから」
何度聞いても、穹は笑ってはぐらかすばかりだった。さすがに苛立ちがつのってきた頃、美月と穹は例の砂浜に到着した。幸か不幸か、夜の闇に紛れているせいで、ちらほらとまぎれているゴミは目に入らない。
「美月ー!」
波打ち際の辺りに敷かれたレジャーシートに座る人影が、手を振ってきた。未來の持つ小さい懐中電灯から生み出される光が、この砂浜で唯一の光源だった。シートにはハルにクラーレ、ココロにシロもいる。
「皆、どうかした?」
「穹君から招集がかかったんだよ~! 姉ちゃんがぼうっとしているから、気分転換に付き合って下さいって」
未來が座ったままレジャーシートの左端まで移動する。その横に穹が腰掛けた。
「いつの間に……」
「気づかなかった? だいぶぼんやりしていたからね」
美月は戦いの後、すぐ旅館に戻り、そのまま眠ってしまった。起きた後も、絵屋でずっと過ごしていた。フェスにも行かなかった。
穹の誘いも断ってまで何をしていたかと聞かれれば、ぼんやりしていたと言うほかない。しかし頭の中は、あの砂浜の件に関することでぐるぐると悩み続けていた。答えらしい答えは出せられないのに、だ。
「それで、気分転換って?」
ハルが、シートの右端にいるクラーレに対し、距離を詰めた。クラーレは不快そうだったが、結局何も言わず、ただ気を紛らわすようにシロの頭を撫でた。
「星だ」
今度はハルが答えた。ハルが空を指で指すと同時に、未來が懐中電灯のスイッチを切った。美月は慌ててシートに座った。ハルと穹の間に出来た、一人分のスペースに腰を落とし、未來がそうしているように、足を伸ばす。そして、示されるがまま、頭を上に向けた。
真っ黒だった。無限に広がる闇が、天を覆っていた。その闇の中に、ぽつぽつと、白い光が見え始めた。そこに広がった景色に、美月は息を飲んだ。
一日かかっても数え切れないほどの星。まさしく、無限にあると思われるような星。
永遠に続いているかのような無数の星が、夜空を覆い尽くしていた。右を見ても、左を見ても、後ろを見ても、星はどこまでも輝いている。
前を見たとき、美月は感嘆の息も漏らせなくなった。
夜の闇に慣れた目を凝らすと、海の遙か向こうに、水平線が引かれているのが見える。その線まで、その線を越えて、星の輝きが続いていた。
どの場所を見ても、満天の星空を観測することが出来る。もう暗いとは一切感じなかった。眩しいくらいだった。
それ単体ではかすかな光だというのに、集まると、ここまで眩しい。夜の闇を飾って彩る一方で、夜の闇だからこそ一番に輝くことのできる星の明かり。
砂に波が打ち付ける音にまぎれて、星の瞬く音が、上から一斉に聞こえてきそうな気がした。
頭の中にあった様々な考えや言葉が消えていき、この星空に塗り替えられていく。
テレパシーなど持っていないのに、どういうわけか、他の皆が何を思っているか、手に取るようにわかった。
「うわあ……。ここまでとは思っていなかったな……」
誰に言うでもなく、穹がぽつりと呟いた。思わず口をついて出てしまった、というような言い方だった。
「あああどうしよう……。カメラ持ってくれば良かったな……」
未來が心底悔しそうな声音を発した。だがすぐに、「いっか。ちゃんと覚えておこう」と言った。直前の言い方と真逆で、明るい声だった。
「……」
クラーレは一言も発していなかった。けれど聞こえてくる息づかいからして、すっかり目を奪われているのだろうと想像がついた。
ココロもシロも、両目を星空に向けている。とても小さいのに、星空の全てがわかるような目で、じいっと眺めている。
それとも、小さいからわからないのではという心配は余計な世話かもしれないなと、様子を窺った美月は思った。
純粋無垢なふたりの目には、星空が映り込んでいる。自分よりもよっぽど、この美しさを理解しているようだった。
もっとも、目に星空が映っているのは、ココロとシロだけではない。
見回してみると、全員揃って、頭を上に向けていた。首を回したり、戻す素振りをする者は見られない。何かよほどのことが起きない限りは、こうして永遠に、ずっと目を頭上に注いでいそうだった。皆、そういう顔をしていた。
全員、一人言のように時折口を開くだけで、あとは話をしようとする者はいなかった。
美月はある一点に指を指した。
「多分、あれが天の川だと思う」
全員の視線が、指し示す先に集中した。美月が指した東の空には、一見すると細長い雲がたなびいている姿があった。が、それは雲ではない。星が固まって出来た、夜空を流れる川だ。
「へえ、あれが? 凄いね、よくわかったね! なんでわかったの?」
「夏の大三角を見つけたらすぐだよ」
あそことあそことあそこ、と美月は順番に天の川周囲の星を指さした。
琴座のベガ、鷲座のアルタイル、白鳥座のデネブ。地球ではよく知られた七夕の物語の星。しかし宇宙から来た者にとっては、馴染みのない話だ。
ハルは既に知っていたので、美月はクラーレにかいつまんで七夕の話を聞かせた。話を聞き終わったクラーレは一言、「なんでそのオリヒメとヒコボシは働かなくなったんだ」という感想を述べた。
「ま、まあ恋は盲目とはよく言うし」
「……全然わからない」
わからないのは美月も同じだった。とりあえず苦笑していると、隣から穹が「知ってる?」と顔を向けてきた。
「白鳥座のデネブって、日本ではカササギという鳥の星座なんだよ」
「ふうん、カササギかあ。どんな鳥なんだろ?」
「私、写真撮ったことあるよ! 黒と白の二色の鳥なんだ。今度見せるね!」
その後も美月は、星空を指さしながら、夏の星座がどこにあるか皆に教えた。全員が自分の話に集中し、耳を傾けているというのは、どうにも気恥ずかしい感覚がある。照れくささに負けないようにしながら、自分の記憶を頼りに、乙女座、
「ミヅキ、凄いな。全て正確極まりない。さすがだ」
それまで黙っていたハルが、ある程度説明を終えたところで、突然褒めてきた。
「うん、凄いよ! 私も、全然星座とか気にせずに写真撮ってたけど、今度からそういうのも気にしてみようかなと思ったしさ。とても面白いよ!」
と、未來も同調してきた。
ええ、と美月は頭を掻きながら、まあねと口の端を上げた。
「なんてったって、おじいちゃんから教わったからね!」
小さい頃から、源七によく、星座の図鑑を見せてもらい、その位置や探し方などを教わっていた。自分でも図鑑を持っているくらいだった。が、源七の持っている宇宙の図鑑は更に分厚くて本格的なもので、内容など半分どころか少しも理解できなかったのに、美月はよく借りてページを開いていた。
今年の5月の、あの流星群の日以降、しょっちゅう図鑑を開くようになった。いつも復習しているので、メジャーな星座はそらで言える程にはなった。
恐らく星が違えば、名付けられている星座も変わってくるだろう。この地球の星空を飾る星座は、この地球の夜空でしか見えない特別なものだ。星そのものは、まさか自分達が、動物や道具などに例えられていることなど、知りもしないのだ。
美月は上を向き、ふいにそんなことを思った。
少し手を伸ばせば、あの星の輝きに届きそうだ。手を伸ばして掴んだら、手のひらの中にきらきらと輝く光がいくつか、くっついていそうだなとまで考えた。
しかし、実際に手を伸ばして握っても、空気しか掴めなかった。こんなに目の前にあるのに、実際に触るためには、果てしなく長い距離を移動しなければいけない。
見るだけで、満足しなければいけない。だがどういうわけか、見るだけで、満足できる煌めきだった。
「星を見るというのが、気分転換に最適なのは、不変的なのだな」
ふいに、それまであまり喋らなかったハルが、口を開いた。一人言なのかそうでないのかわからず、とりあえず美月も皆も、黙って様子を見ていた。
「昔、故郷の知人と一緒に、よく星を見た」
ハルはテレビ頭を上に向けていた。テレビ画面に、幾多もの星が映り、反射している。美月は昨日、ハルにはトレンチコートが似合うと勧めた知人の話を思い出した。恐らく、同一人物だろう。
「最初は、根を詰めすぎていた知人に気分転換が必要だと考え、天体観測に誘った。だが、拒否された。
宇宙の研究は専門分野の人が行っている。中途半端な知識しか持たない自分達が中途半端に宇宙力学を考察しても、ただの時間の浪費。そう言われた」
ええ、と思わず美月は驚きの声を上げていた。この世に星を見ることに対してそこまで言い切る人がいるとは信じられなかった。
随分きっぱりとものを主張する人らしい。案外怖い人なのではと思うと、無意識の内に背中がびくついた。
その反応を知ってか知らずか、ハルが続けて言った。
「こんな友人だが、性格そのものはいつも非常に明るくて、感情豊かだったんだ。仕事が忙しいと、時々こうなるというだけだ。友人は、一度決めたことは何があっても決して曲げないで、諦めずに押し通そうとする性質を持っているからな。
だからこちらも、気分転換の重要さと、星を観測することに対する利点を客観的な視点から延々と述べていたら、渋っていたが、最終的に向こうが折れた」
でしょうね~、と、穹が薄笑いした。
クラーレに通訳機やクリアカプセルを渡そうとしたとき、受け取ろうとしない彼に対し、ハルは理屈と合理をとうとうと述べ続けるという行為に走った。反論の時間も与えずに語り続けるあれは、大抵誰でも折れるだろう。
その時の事を思い出したのか、クラーレの眉間に皺が寄った。
「もともと、友人は星が好きだったんだ。だから一度観測を始めると、夜が明けるまで友人は星を見続けていた。集中しすぎるあまり、朝日が昇り始めるまで気づかなかった。
普通に観測して記録を取ったり、天体の距離を計ったり、新種の天体を探してみたり、適当な星を決めて、その星の文明をどう開拓していくか、どういう開発ならよりスムーズに進むかといった多くのシミュレートを行ったり、色々やった。全く何もせず、ただ星を眺めている時間もあった。いずれにせよ、どれも私と天体観測をやっていると、時間が光のように過ぎていく、と友人は言っていた」
わあ、と美月は声を上げた。ハルの故郷に、そんな仲良しの友人がいるとは知らなかった。
「凄いね、いいお友達なんだね!」
なので思ったことをそのまま伝えた。しかしハルは、テレビ頭を傾けたのだった。
「どうなのだろうか」
何を言っているかわからず、美月は同じように首を傾げた。するとおもむろに、ハルが上を見上げた。
「実に見事な星空だ」
突如前触れも無く話題が変わり、つい美月は「え?」と聞き返した。だがハルは、話題を戻す素振りを見せない。
「民家の明かりといった光源も少なく、船の明かりも無い。新月だから、月明かりにも遮られない。絶好の観測条件下だ」
「うん、綺麗だよね。私ここまでの星空見たの、久しぶりかも」
「あ、僕もです。本当に美しい星空ですよね」
「こんなに素敵な星を見られるなんて、私思ってもみませんでしたよ!」
と。ハルが口を閉ざした。「綺麗、か」と言い、一拍置かれる。
「星の光、量といった情報から分析し、他の観測条件の星空と照らし合わせ、統計的に判断すれば、この星空は人の目にとって、綺麗という感情を抱く景色だと、判断することができる」
「えーと、ハル、さっきから何の話をしてるの?」
「綺麗は美的感覚を充分に満足させる様子を指す。美しいはいつまでも接していたいと感じるほど、快く感じられる様子を指す。素敵は心を惹きつけられ、優れていると感じる様子を指す」
伸ばしていた腕を下ろし、ココロの背を撫でる。
「充分に理解している。が、それを私は、私自身のものとしては、理解ができない」
ハルのテレビ画面に映る星は、美月としては息を飲むほどの美しさを感じる。しかし、全く同じものを見ているのに、ハルは感じ方が異なる。
「友人、とは一言に言っているが、正直、“友情”を自分のものとして捉えることができないんだ。わからないんだ。だが友人は、私を友と見なして、ずっと接し続けてきていた。
だから時々考えるんだ。私と友人同士だったことは、その人間にとって本当に良かったのだろうか、と」
ハルは、昔の知人の話ですらも淡々としていた。そこに何の感情も読み取れなかった。
美月は瞬きし、穹と未來とクラーレを見た。クラーレに至ってはすぐ逸らされ、視線を星に奪われてしまったが、全員、同じような目をしていた。同じようなことを言いたいのだとわかった。
「でも、ハル」
代表として、美月は全員分の気持ちを声に乗せた。
「ハルとの時間は、その人にとって、何にも代えられないものだったんじゃない?」
ハルが美月を見た。テレビ画面に、美月自身の顔が入り込んでいる。
「そうだろうか」
その口ぶりは、妙にあどけない感じがした。研究者が疑問を尋ねるというより、幼い子供が、親に少し不思議に思ったことを聞き返すときの口ぶりに、似ている気がした。
だから美月も、うん、と優しく頷いた。
「だって、私達が、そうだもの」
「そうか」
ハルは浅く、ゆっくりと頷いた。
「そうだったら、それはとても望ましいことだ」
音も立てずに、ハルは上を見た。それを合図に、美月も穹も未來もクラーレも、天上を見始めた。
地球から見えない星だって数多く存在する。こんなに星がいっぱいあるのに、まだまだ更にいっぱいある。
手のひらをうんと広げ、目一杯腕を伸ばしてみた。その手の部分だけすっぽり覆われているというのに、全然星には届きそうも無い。
そんなに遠い星は、一体具体的に、どれだけ離れているのだろうか。その向こうは、どうなっているのだろうか。
ハルと、ハルの知り合いという人がかつてやったシミュレーションが、ずっと引っかかっていた。
朝になっても星空を見るのをやめようとしなかったハルの知人の気持ちが、よく理解できた。
空にはやはり、無数の輝きが煌めき続けている。目に見えなくても、明日も輝き続けているのだろう。美月はそう感じた。
「また、皆で一緒に星を見ようよ! こうやってさ」
ぽっと浮かんで、自然に口から出た提案だった。
穹が大きく、「うん!」と頷いた。「見ましょう!」と、未來が拳を突き上げた。
「星はいつでも見れるんじゃないのか?」
「クラーレ、それはいつでも一緒に見て良いよってこと?」
「……全然違う」
美月が聞くと、ふてくされたようにクラーレはそっぽを向いてしまった。
「できない話だが、もし私に心があれば、この景色を綺麗だと評したのだろうな」
ふと、何か新しいものを見つけたように、ハルが言った。
それでもう充分なのでは。美月はそう言おうとしたが、結局、そうだねとだけ返した。
流れ星が流れなくとも、全ての願いや夢を聞き、包み込んでくれるような夜だった。
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