phase2.1

 その後は何事もなく車は走り、無事に目的地である綾波市に到着した。もう一度クリアカプセルが外れる、などという事態も起きなかった。


 浩美は最初自分の見たものについて、気のせいだと片付けきることができないでいたようだが、美月と穹両名の必死の誤魔化しも重なり、時間が経過するにつれて疲れによるただの見間違いだったのだという結論を出した。


 指定された駐車場に車を停めて公民館に行き、用意された休憩室に荷物を運ぶと、両親は会議室に移動し、美月と穹は自分達で残った。祭りことグルメフェスの出店者達への注意事項諸々の説明会に参加しても、まるでわかりやしない。そもそもここに来た目的が、グルメフェスではない。


 出店者と思しき人達で賑わう公民館を出て、裏手に回ると、ハルと抱っこされているココロ、クラーレとその足下にいるシロ、そして麦わら帽子を被った少女が立っていた。


「いいお天気で良かったね~!」


 未來がぶんぶんと手を振ると、首からかけられたカメラとショルダーバッグが、同時に揺れた。


 海の提案をしたとき、送っていこうかと美月が提案すると、未來は現地集合でいいと首を振った。お父さんについていくから大丈夫だと。その時初めて、未來の父親の仕事が新聞記者だと聞いた。


全くの偶然だったが幸いなことに、ちょうど取材旅行の期間が、美月達の綾波市滞在期間と被っていた。ただずっと仕事なので、未來と行動が被ることは無いし、顔を出すのも難しいとのことだった。


「穹君、随分ぐったりしてるようだけど大丈夫~? 暑さのせいかな」


 未來が少し背を丸め、美月の後ろに立っていた穹の顔を覗き込んだ。


「何でもありません……。行きにちょっと、嫌な予感が当たっただけです……」


 先程から穹はあまり喋らず、口を開いたかと思えば「もう帰りたい……」と主に美月に向けて呟いている。


穹の呪詛など耳には残らない美月は、「さあ行きましょう!」と天へと指を向けた。指した空は澄み渡る青さを持っている。その色よりも更に深い青を誇る場所が、目で確認できる位置にある。


 この公民館の前に道路があり、その向こうに住宅街があり、その奥に、青色が横たわっているのが見える。この距離からでも、水平線は陽の光を反射させ、まるで底に宝石が沈んでいるかのように見事に輝いており、暴力的なまでの青さは瞳に刺さってくる。


「あの海が! 浜が! 潮風が! 波音が! 私を呼んでいる!」

「そのことなんだけどね、美月」


  未來の表情は、笑っていたが、その眉の形が妙だった。足を踏み出す形で振り返った美月は、そのまま固まった。



 美月の記憶にある海の姿は、果て無く輝くものであった。楽しかったという感情で占められているのと、ある程度年数が経って美化されているというのもあるが、記憶の海の青はどこまでも美しく煌めいている。


 海だけでない。足の裏で触る砂浜は程よく熱く、ざらざらの独特の感触がある。綺麗な貝殻や見たこと無い生き物がいる、賑やかな場だった。

肌で感じる潮風も、太陽の暑さも、脳に染み渡る波音も。不快さを引っ張ってくるものは、そこには何一つ存在しない。


 以前海に行った日から、何年か経った。記憶の中の海と、現実の海は、どう違いがあるか。


 今美月は、足で砂浜の暑さを、鼻で潮風の匂いを、耳で波音を、体全体で日光を感じながら、立ち尽くしていた。さっきから開きっぱなしの口の中に、しょっぱい味のする風が絶え間なく飛び込んでくる。


 ペットボトル。使い捨て前提で作られたプラスチック製の容器や袋。網やウキ。

様々な色がある。様々な種類がある。小麦色の砂浜の上は、多種多様な無機物が占拠していた。


それは美月の目にとって、異質なものに見えた。本来、それが存在してはいけない空間に、それが存在すると、景色はちぐはぐなものになる。この異質な空間となりはてた浜辺と、その奥に広がる宝石のごとく輝く青色の海の光景は、継ぎ接ぎする布を間違えたパッチワークのようだった。


「何、これ……」


 自分が言ったと思った台詞は、穹が言ったものだった。


「ここ、こんな場所だったっけ……?」


 違う、と美月は首を振った。ここは違う。数年前、自分達が訪れた海ではない。

多分自分は記憶違いを起こしているのだ。きっと浜辺が違うのだ。もしくは町そのもの。とにかく、この海は違う。全くの別物だ。間違いを探すまでもないほど、記憶の中の海と異なりすぎている。


「私は先についてて、気になって見に行ってみたら、こんな風になってて……」


 風が吹き、足下に捨てられた砂だらけのペットボトルが、ごろごろと転がってい

く。


「お父さんが行きに言ってたんだけど、ここ最近、ゴミが多く漂着するようになったんだって」


 何かの入れ物や袋など。名前はわからないが、一言ゴミだと、簡単にひとくくりに分類できる物体が、四方八方に散らばり、落ちている。


「その時見たけど、釘とかそういうのも結構落ちてたから、凄く危ないよ」


 砂浜に、何かきらきらと光るものが散らばっている。それは貝殻ではなく、太陽に反射するガラスの破片だった。


「どうせこんなことだろうと思った」


 はあ、とクラーレが肩を落とした。


「どこも同じだ。綺麗なままでいられるものなんか存在しない」


 美月の記憶の中にある海の姿は、どこまでも美しく、どこまでも輝いている。今、がらがらという音を伴って、崩壊を起こしている。記憶の海はセピア色に鳴り、モノクロになり、断片的に消失を遂げていく。


「ミヅキ、危ない!」


 気がつけば砂浜が目の前に迫っていたのを、後ろに引っ張られた。ハルが捕まえてくれた。が、まだ美月の頭は、ぐるぐると回っていた。回って回って、昔どういう海だったかさえも、忘れてしまいそうになっていた。




  美月は立っていることさえままならない状態になった。皆に支えられながらもふらふらとおぼつかない足取りで歩き、縋るような思いで公民館近くにあるベンチに辿り着いた。


「美月~、大丈夫?」

「姉ちゃん、起きなよ。しょうがないよ」


  両側から友人と弟に声をかけられても、一言返す気力も湧かなかった。


「……」


 ちらりと目線を上げた。道路や住宅街の屋根の向こうに、青色が広がっていた。海の色も音も匂いもすぐ目の前にあるのに、手が届かない。その瞬間、また全身の力が抜けた。


「なんなのよ一体……。どうしたってあんなことに……」

「河川からの漂着や、あの場所を廃棄場の一種だと認識した人々が捨てていったのが重なっていった結果、あのように廃棄物でいっぱいになったのだろう」


 目の前に立っているハルが答えてきたが、そういう意味じゃないと暗に批判を込めて、無視をした。


 ハルだけじゃなく、誰に問うても、美月の納得してくれる答えを返してくれる者はいないだろう。


「夏休みのシーズンにはさすがに片付けられるってこともお父さんから聞いたから、その時期に行くとか」

「今! 今! 海を楽しみにしていた私の気持ちはどうなるの!!!」

「我が儘言ってもどうしようもないって」


立ち上がった美月の服の裾を、穹が掴んで引っ張り、また座らせた。今日のこの服も、直前にならないと動かない美月が珍しく、当日の服装をかなり前からあらかじめ選んで用意していたのだ。


「海程度にそこまで必死になれるなんて、逆に羨ましいな」


 羨ましさなど微塵も感じられない口調で、ハルと同じく座らずに立っているクラーレが、腕を組んだ。


「程度? 何言ってるんですか。美月にとっては、大切な場所なんですよ? それを何で土足で踏み込むのですか」


 未來とクラーレの間が、一触即発の空気になる。普段なら止めるところだが、美月は今回ばかりは大きく頷いた。


「そうだよ、その通り! 私は今日この日をとても楽しみにしていたの! この海はね、思い出の場所なの! 砂浜も海も本当に綺麗で! 以前来た時、楽しかった記憶しか無いの! 嫌な記憶が全然無いの! びっくりするほど楽しかったことと、綺麗だったことしか思い出せないの!」


 ベンチをひっくり返す勢いのごとく立ち上がった。一度顔を上げて声を出すともう止まりそうになかった。


「私には珍しく予定表も細かに立てて! 万全の体調で行くために最大限注意して! 昨日は、お腹とか悪くなったりしないように、食べるものにも凄い気をつけたんだよ! それに、てるてる坊主をティッシュ一箱分作った!」


「てるてる坊主を作って翌日願掛け通りに晴れになった日は統計的に判断して非常に少ないから、それは単に時間と物資の無駄遣いだと考えるが」


「はいハルは黙る! 物置からゴムボート引っ張り出してきて、浮き輪とかビーチボールとかも用意して、楽しみすぎて浮かれて先に膨らませるという無駄なことをして! 水着も、死ぬほどねだってなんとか貰えたお小遣いで新調したんだよ! 朝から夕方までかけて選んだやつを!」


「姉ちゃん、そんなことしてたんだ……。全然気づかなかった」


 肩で息をし、切れた呼吸を整える。まだ何か訴えたいことがあった気がするが、何も浮かんでこなかった。どさりと倒れ込むように、もう一度ベンチに腰掛ける。


「一年前から楽しみにしていた限定スイーツが目の前で売り切れていたときとか……。ずっと作ろう作ろうと考えてあれこれレシピ見て予習してて、張り切って凝った料理を作ろうとしたときで、一番大切な材料が欠けているのに気づいたときとか……。その時の気持ちに似ている……」


全て過去に美月が経験したことだ。今回の事件が加わり、三大ショックな出来事ランキングが完成した。もちろん今回の事件がぶっちぎりの一位を飾る。


「でどうすんだ。帰ることもできないし、俺は一体何をすればいい」


 暗に責任を取れという響きが感じられて、美月は言葉を詰まらせた。


「……あそこは、どうかな」


 静かに指を指した先には、掲示板が立っている。その真ん中に、大きなポスターが貼られていた。フードフェスのことが描かれているポスターだった。

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