phase1.1
7月の上旬は、夏の気配を日増しに濃くさせていく。
肩を回したり、伸びをしたりする穹と未來の後から、ぼろぼろでよろよろの足取りで、美月が出てきた。体幹がどこかに飛んでいったかのように、体全体がふらふらとしている。
「美月大丈夫?」
「心配ないですよ、未來さん。姉ちゃんはいつもこうなるので」
今ここに布団があったら、何の躊躇いもなく自分はそこにダイブし、体を深く沈み込ませていくだろう。穹と未來の会話をどこか遠くで聞きながら、美月は思った。
自分達を守ってくれる代わりに、何かを返したい。ハルのその気遣いは悪いとは思わないが、どうしてそれが、勉学を教えるということに繋がるのか。
休憩を挟んで合計二時間弱。その間は美月にとって、苦痛の一言に尽きた。
苦手な数学とちゃんと向き合って勉強している穹の前で、何度も脱走を図った。姉としての威厳や矜持などどうでも良かった。プライドは完全に捨てていたのに、空しいことに、立ち上がる前に阻止されたが。そうしてみっちり、理系科目を教わった。
さすがにロボットなだけあって、要点を押さえて非常にわかりやすい説明をしてくれたが、することそのものがきついので、わかりやすいかどうかは関係無かった。
これから毎回、ミヅキ達が来る度に教えると、ハルは言った。それを聞いた途端、ハルの姿が鬼か悪魔に見えた。今まで、雑談とかココロやシロと戯れる為だったりとか、そういうリラックスの目的で来ていた宇宙船が、たちまち地獄と化した。
美月は力なく振り返った。岩肌を背後にして、新幹線とスペースシャトルを足して割ったような見た目の白い宇宙船を、呆然と見上げた。
美月の胸中が穏やかではないことを覗けば、他はおおむね平和だった。宇宙船を森のど真ん中から、敵の通信から少しでも逃れられるようにと、少し離れた岩場の影に移動させるということが起こったが、それも滞りなく、深夜のうちに終わったという。
その成果が出ているのかどうかはまだ何とも言えないが、特にダークマターが来る気配もなく、美月達周囲は、平穏に尽きた。
だがひとたび裏山を下りれば、それは違った。
未來と別れ、帰宅した美月と穹が廊下を歩いていたとき、レストラン側から、弦幸と浩美の話し合う声が耳に入ってきた。
「あれは、やっぱり悪戯なのかしら……?」
「にしては随分と手がかかることをするような……。それに、あんなことをした意味がわからない」
美月と穹は、互いに顔を見合わせた。両親が何のことを話しているか、わかったからだ。
数日前、ダークマターのセプテット・スター、ウラノスが襲撃してきた。その際の攻防に、巻き込まれた被害者がいた。それは、戦いの場となった神社にあった、ご神体である岩であった。
攻防の末に、何が起こったか。一言で説明するなら、相手のロボットがご神体に落下した。
そのロボットは、凄まじく巨体だった。下敷きになったご神体は、それなりの巨岩だったにも関わらず、容易く壊れ、木っ端微塵になった。
神社のご神体がぺしゃんこになった事件は、町内で軽く騒ぎになった。何者かの悪戯にしては手が込みすぎてるし、意図が読めない。学校でも、町の中でも、その話題が上った。その中でただ三人、真実を知っている美月と穹と未來は、たらたらと冷や汗を掻いた。
「今どうなってるんだろう、神社……」
「騒ぎはまだ落ち着いてないみたいだよ。なんか責任感じちゃうなあ……」
「悪いのはダークマターじゃないの! こっちが気を遣う必要無い!」
「うーん、でもさあ……」
ごにょごにょと口を動かす穹の気持ちも、わからなくもなかった。あの神社は幼い頃よく遊んだ場所でもあるし、気にならないわけがない。自分達が上手く動いていれば、結果は違ったかもしれないと、一度そう考え出してしまえば、後悔は際限なく沸いて出た。
「美月、穹、ちょっといいかな?」
和室から、源七が顔を出した。少し困ったような顔をしている。
「トイレの電球が切れてしまってたことを思い出したんじゃが、今手が離せなくて……。申し訳ないんじゃが、買ってきてくれないかな?」
「あ、じゃあ私買ってくるよ」
穹は驚いたように、いいの、と聞いてきた。
「うん、いいよ。じゃ、早速行ってくるね」
穹の拍子抜けしたような目を背中で受け止めながら、美月は電球の代金を貰うと、はさっさと支度をし、さっさと出て行った。玄関から出て行くとき、珍しい、押しつけてこないなんてと、穹の呟きが聞こえた。
もちろん、単純な善意などでは、無い。ちゃんと打算が働いた上での行動だ。
この暑い中、おつかいを自ら進んで引き受けるなど、何か思惑でもないと、まず絶対に引き受けない。
商店街まで来ると、家電量販店に向かう前に、美月はある場所に足を運んだ。
列に並び、やっと辿り着いたカウンターの前で、お待たせ致しましたの声と共に受け取ったもの。
陽の光を反射させて輝く、翡翠色の液体。その中には、いくつもの水泡が漂っている。夏の果物がトッピングされた、メロンソーダ。天の川を模したような星形の小さな砂糖菓子が、ソフトクリームの上に飾り付けられているのが特徴だ。
自分のお小遣いから代金を渡して店から離れると、アイスの白と緑のコントラストに、しばし見とれた。
7月から、毎年夏限定のフレーバーが発売されていたことを、すっかり忘れていた。忘れていた美月は自分自身に腹が立ったが、今は思い出して良かったと、そう思うことにした。
穹を連れてきても良かったが、今年初のこのフレーバーを、まずは一人で堪能したかった。
うっとり見とれている内に、アイスの形が少しずつ歪んできた。慌ててスプーンで掬ってあむ、と口に入れると、包み込むような柔らかいバニラとミルクの甘みが、ふんわりと広がっていった。
目についたベンチに腰掛け、舐めたり、アイスと混ぜてくすんだ緑色になったソーダを飲んだりしていく。太陽の日差しが激しい故、食べるスピードも自然と上がっていく。じりじりとした外側の暑さを和らいでくれるかのようなアイスとジュースの冷たさが、大変心地いい。
アイスに刺さってあるウエハースを引っこ抜いてかじりながら、これだけはどんなに夏バテしていても食べられるかもしれないなと、美月は誰にともなく頷いた。
ふと、シロのことを思い出した。シロの体も、このアイスと同じような、真っ白な色と、緑の目をしている。
シロは、なんでも食べることが出来る。ぱっと見犬のような見た目だが、人間の食べ物も普通に食べられることができる。今度は、シロと一緒に食べるのもいいかもしれない。シロは気に入ってくれるだろうか。石だったら確実に気に入って食べてくれるが……。
石といえば、シロが、例の神社のご神体をかじって食べてしまったことについては、かなり驚いた。あの岩をかじれるシロの歯は、一体どうなっているのか。
そんなことをしたシロには今のところ祟りのようなものは起きていない。だが……。
ごくり、と全て飲み干すと、美月は立ち上がり、カップをゴミ箱に捨て、電化量販店のある方角へと歩き始めた。
電球を買ったら、ちょうど近くだし、あの神社に行ってみよう。野次馬根性と、罪悪感と、シロのことを一応もう一度謝っておいたほうがいいかもしれないという思いからだった。
周りを木々に囲まれているだけあり、蝉の鳴き声が町と比べて一層多かった。四方八方から、ありとあらゆる種類の蝉の鳴き声が、休む間もなく聞こえてくる。さすがにうるさいなと美月は顔をしかめながら、神社の階段を上った。
境内には誰もいなかった。蝉の気配はうんとするが、人の気配はない。それが更に、厳かさを際立たせていた。
美月は本殿に向かって頭を下げ、胸中でシロが勝手にご神体を食べたこと、そしてご神体を壊してしまったことを詫びた。
お賽銭も入れておいたほうがいいかと、賽銭箱まで近づいた、その時だった。
どこかから音がした。それは人間が葉っぱや土を踏む音に聞こえた。
顔を動かし、音の出所を探ると、それは本殿の後ろ、ちょうどあのご神体がある場所から聞こえてきたのだとわかった。
誰かいるのだろうか。ここの神社の人だろうか。
美月は全く疑問に思わないまま、そちらへと足を運び、その先に顔を覗かせた。
もともと岩があったのかわからない程粉々になった、かつてご神体があったはずの地面の周りに、立ち入り禁止を意味するロープが張られている。
その中に、誰かがいた。
自販機よりも高い、長身の人影。肩までの長さがある髪と、髪の両サイド部分を三つ編みにしていることからか、どこか異国情緒な雰囲気が漂っている。
加えてその髪の色は、くすんだような深い緑色だった。染めた色には見えない、自然な色味をしている。
さすがにわかる。もうわかる。確証が無くとも証拠が何一つ無くとも、わかる。
髪色がどうこうではない。雰囲気。取り巻く雰囲気と、空気の流れでわかる。
くるり、とその男性は振り向いた。片方の目は、片方だけ伸ばされた長い前髪で隠れていた。
見えているもう片方の目は、橙色をしていた。男性の瞳に、美月の姿が映る。
「きみ、もしかして」
「あなた、ダークマターでしょ?」
橙の瞳が驚いたように揺れた。同時に、頭髪の両側面に結ばれた三つ編みも揺れた。
「どうして、わかったの?」
くら、と美月は目の前の景色が回ったように感じた。暑さは、恐らく関係無い。
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