phase2.2
伝わったはずがないのに、シロは答えるかのように、ずいと体を寄せてきた。
「……撫でりゃいいのか?」
頭を撫でてみる。生えている角の隙間が、どうやら気持ちがいいらしい。表情が締まりのないものになった。
次に、背中を撫でてみる。顔はそのまま、尻尾がゆっくりと振られている。ここも気持ちいいらしい。
にしても、柔らかい。手のひらに馴染む感触。触ったらその瞬間に、皮膚に吸い込まれていくような。今まで生きてきた中で、初めて触る感触だった。
それに、暖かい。人工的なものとは全然違う。手を通じて、体内に直接染みこんでいくような感覚に陥っていく。
撫でていないほうの片手を、じっと見つめた。この手袋をとりたい。そのまま触ってみたい。そんな欲がわいてくる。
けれども、とったら、シロはどうなるのだろう。きっと、怖がる。きっと、拒絶する。わかっているから、とらなかった。
しばし手を動かし続けていると、もう充分だとばかりにシロが動き、撫でていた手を離すこととなった。
「次はどうすりゃいい?」
シロは、尖った耳をぴんと立てたかと思うと、鼻をひくつかせながら、首をあちらこちらへ向け始めた。どうしたのかと問う間もなく、シロは膝から下りたと思うと、物凄いスピードで駆け出した。
「おい、どこ行く?!」
向かった先は、今いる屋敷の裏手だった。
慌てて追いかけると、シロはすぐに見つかった。そこは想像していたよりも広く、周りを木々が囲む、神聖さの際立つ場所だった。この周りに人の営みがあるということを、忘れそうだった。
そんな場所の中、シロは、巨大な岩の前にいた。
岩の周りにはロープが張られてあり、何やら読めない文字が書かれた看板が立っている。
ロープを跨ぎながら、何やってるんだとシロに近づくと、そのままクラーレは硬直した。
岩にかじりついている。岩に顔を埋め、口を一心不乱に動かしている。マスク越しに見る景色は、間違いなくそんな光景を映し出していた。目の部分を袖で拭っても、景色は変わらない。
「……確かお前、石を食べる宇宙生物だったな。本当だったのか」
シロは体がとても小さく、頼りないし見ていて心配になってくるくらい儚い。なのに今、その儚い生物は、堅そうな岩を、難なく食している。そのままトンネルでも開けてしまいそうなぐらいの食いっぷりだ。がりごりという、脳に直に響く硬そうな音が耳に届く。
自分がこの岩をかじったら、まず間違いなく全部の歯が欠けるだろうな。
クラーレは、紙のたくさんついた、奇妙な縄で縛られている岩を見上げた。縄から垂れ下がるジグザグの紙が、風に煽られてぱたぱたと揺れている。
「……でも、上手そうに食うな。お前」
食べてるものこそ自分にとって異質だが、その顔は実に幸せそのものだ。
美味しそうだなとつい感じてしまうくらい、気持ちよさそうに食べている。
ぐう、とクラーレのお腹の音が、岩の咀嚼音に混じって控えめに鳴った。
そういえば、昨日から今まで、何も食べてない。そういえば、最後に食べたものはなんだったか。
思い出そうとしても、そこだけすっぽり抜けたかのように、空白だった。
もしかしたら、何も口に入れてないのかもしれないな。何かを口に入れる機会はあったが。
脳裏に浮かんできたのは、湯気の立つ、丸い形をした料理。見たこともないものだったが、不思議と惹きつけられた。あの時も、実は死ぬほどお腹が空いていた。だから、あと一歩、気持ちが傾いていたら、全部食していただろう。
結局食べずに出てきてしまったが、一口でも食べておけばよかったと、今になって後悔が押し寄せてきている。
毒は入ってない、君の体質的に合わないものもない、と言ったのはあの妙なロボット。その言葉が信用できなかったというのもある。見てくれ的に、怪しい奴だったから。けれど。
もしあれを食べていたら、多分自分は、もう戻れなくなる。第六感が告げた。その拍子に、傾いていた気持ちが、元に戻った。同時に我に返った。だから、出てきた。料理にも、手をつけなかった。
クラーレにとって、理解の出来ないことが連続して、頭がパンクしてはち切れそうだった。
どうして、普通に話しかけてくる? どうして、食事を出した? ロボットが連れていた赤子。彼女は一体、何をしてきた?
「ピイ!」
意識の底に沈みそうになっていたクラーレを引っ張り上げたのは、甲高い鳴き声だった。
「ああ、すまん……。もう食わなくていいのか?」
岩に目を向けてみると、シロが食べたであろう、下の方が、ぼこっと凹んでいた。
シロがすっぽり隠れられそうな奥行きのあるへこみだ。食べた量は絶対シロの体積を超えてるだろうに、シロはけろっとしている。
この体、どういう仕組みをしているのか。クラーレは少し、この生き物が怖くなった。
「ピ! ピ!」
シロは食べた直後だというのに元気だった。うろうろと足下を歩き回っていたり、ぴょんぴょんと飛び跳ねたりと、忙しない。
「何すりゃいいんだ……。遊べばいいのか?」
途端に、シロがくるりとクラーレの顔を見た。偶然かもしれないが、クラーレには、当たりだと言ったように見えた。
「わかった……つってもなあ」
遊ぶといっても、何をすればいいんだろうか。こんな小さな生き物と遊んだ経験などないから、見当もつかない。
ただ、このシロに似た生物が好きな遊びは、知識として知っていた。クラーレは地面を注視しながら歩き、やがて目についた木の枝を手に取った。
細すぎず、軽すぎず、小さすぎず。ちょうどいいサイズだった。シロ、とクラーレは声をかけると、こちらを向いたシロへ、ぽいと軽く枝を投げた。枝は弧を描きながら、シロの体を越えて地面に落ちた。
犬という生き物はこの遊びが大好きだと聞いたが、こいつはどうだろうか。
様子を見守ろうとした瞬間、シロはダッシュで枝の元へ走って行き、口に咥えつ
つ綺麗に方向転換し、クラーレの足下へ突進していった。
検討するまでもなく、シロはこの、“とってこい”が好きなのか。
枝を受け取ると、クラーレは自然と、手がシロの頭の上に伸びていた。
「ピイ、ピイ!」
「わかったわかった。……ほれ、行ってこい」
ちぎれそうなまでに尻尾を振りまくるシロを宥めながら、クラーレは枝を投げた。
投げた枝を捕まえる為、またシロは出発する。そしてすぐに戻ってくる。
この繰り返しが、しばしの間、行われた。
シロの体力には底が見えず、全く飽きないようだ。腕が疲れてきたが、それでもクラーレは、シロが疲れるまでしようと思っていた。
腕の疲れも気にならないほど、シロのこの姿を見ていたいと感じていたのだ。
自分は今、目の前のこの生き物に必要とされている。
枝を投げて、その枝を咥えてシロが戻ってくる度に、その思いが強くなっていく。
真綿に包まれ押し込められていくような、じわじわとした実感がわいてくる。そのことにクラーレは、言いようもない感情を覚え始めていた。
泣きたいような。何を言いたいかまるでわからないけれど、何かを口に出して叫びたいような。泣きたいような。
またシロが戻ってきた。はっはっと舌を出して呼吸しながら、陽光をそのものを称えたような輝きの目で、見上げてくる。
こういう、何もわかっていない奴が一番苦手だ。
クラーレの頭はそう思考し、クラーレの手は、シロの頭を撫でていた。
「……?」
木々が、それまでと異なる、激しい音を立て始めたのは、その時だった。
首を上に向けてみる。背の高い、クラーレ達を見おろしている木。その葉が、揃いも揃って、ざわざわと音を立てている。まるで意思が宿っているように、荒れ狂っている。
もう一度投げようと構えていた枝が、手から滑り落ちた。そこでクラーレは、自分の体に力が全然入っていないことに気づいた。
首を下に戻した。シロが震えていた。耳も尻尾も垂れ下がり、ぶるぶると震えている。クラーレは力のこもらない腕で、シロを両手で抱きしめた。
ここだけ台風でも来たかのように、強風が吹き荒れている。木々だけでなく、屋敷の屋根も唸り声を上げている。
ふ、とそれまで晴れていたはずの視界が、曇った。見上げ、その目の前の物体に、クラーレは言葉も呼吸も失った。
それまで上空を覆っていたはずの青空が見えなかった。代わりに見えたのは、空を飛ぶ乗り物だった。
「……あ……やっと見つけた……」
円盤のような乗り物。そこから声が聞こえてきた。
逃げなくては。走らなくては。勘と経験が大声を上げて喚き散らしているのに、クラーレは座り込んだまま、指先一つ動かなかった。
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