phase2.1
美月は歩を前に進めた。
一旦歩き出すと、止まらなくなった。
怖くなったのだ。恐怖を覚えたのだ。
自然。未來の言っていたその二文字は、三音は、美月にじわじわと迫り来るような不安をかき立ててきた。
美月は挨拶もなしにリビングに飛び込んでいった。
先に来ていた穹はソファの上でその身をジャンプさせ、ココロは笑顔を見せ、ハルは「ミヅキ、来たのか」とソファに座ったまま言った。
テーブルの上には地球の言語が装丁された本と、地球でない言語が描かれている本が積まれており、穹とハルが膝の上にそれらを広げていた。
美月はそれらに一瞥をしただけで、何も口を開かないまま孵化器の前まで直行した。
ドームの中に存在する卵は、昨日と全く変わらない状態で、青白い輝きを放っていた。
ドームに触れる。つるりとしている。力を込めずに、ゆっくりと撫でる。
卵は、一ミリたりとも動かない。
「ハル、もしかしたら私、間違ってたのかな?」
「何をだ?」
ただごとではない美月を思ってか、ハルと穹が近づく。
「私の見解では、今までにミヅキがいわゆる間違ったこと、を行ったのは、行動パターンから計測するに……」
「違うの」
美月は首を振って止めた。
「卵を拾って、孵化器に入れたことが、間違いだったんじゃないかなって」
「姉ちゃん……?」
穹は心配そうに眉を下げた顔を見せてきた。
美月は卵を見た後、ハルと穹に顔を向け、卵から視線を逸らした。
「自然に任せるべきだったのかなって。余計なことしちゃったのかなって……」
「ミヅキ、一体何がどうしたんだ?」
「だってこの生物、孵化器とかに入れて温めなくても、勝手に孵化するんでしょう?」
「確かにそうだが、世話をして温めたほうが放っておくよりもずっとずっと孵化を成功させる確率が高まるのは、私が計算しなくてもわかるだろう?」
「違うんじゃないかって思う」
美月の所在なさげな手が宙をさ迷い、胸元に落ち着いた。
「だって、孵化する気配が全然無い。それどころか、最近は全然動いてくれない。ハル、もしかしたらこの子……生まれてこないんじゃないんかな?」
未來の言っていた言葉。台詞。それは、もともと美月の心の奥深くに潜んでいた『予感』を、表に引き出させるには充分すぎた。
孵化に失敗しているのではないか、と。
同時に、その理由が自分らにあるのではないか、という考えも。
孵化を促すための機械の中に入れ、人間の手で卵を転がし、人間が発する言葉をかけ続ける。
落ち着いて、一から順番に辿ってみると、卵を自然から隔離された環境に置いてしまっていたのだ。
自然の加護を卵に受けさせたことも、その手を借りたことも、一度も無い。
「ストレスを感じすぎて、それで、そのせいで……」
胸元の手が、頭まで移動する。かきむしろうとしたが、髪の毛の表面を撫でた結
果にとどまった。だらり、とその腕が下がる。
「姉ちゃん、どうしたの? きっと大丈夫だよ。昨日言ってたじゃん。この子はちょっと、外に出るのが怖いだけなんだよ」
「ソラの言うことにも一理ある。どんな生物にも個体差が存在する。このプレアデスクラスターにもな。三日足らずで孵化する卵もいれば、一ヶ月近くかかる個体もいる。一年孵化しなかった卵もあったそうだし」
「ハルさん、プレアデスクラスターのことについて、色々調べてくれたんだよ」
穹が地球の本を見せようと宇宙船に行ったら、ハルがテーブルの上に何やらたくさんの本を積み上げていた。プレアデスクラスターの生態について書かれた文献を、書斎から集めてきたのだという。
「ただ、プレアデスクラスターについての詳細が記録されたものは見当たらなかった。大体が、概要を纏めたものだ。というより、この生物そのものが謎に満ちあふれているんだ。ミヅキ、何かあったと決めつけるのは、早すぎる。判断材料だってなさすぎる。逆に聞くが、もう卵が孵化しない理由はなんだ? 証拠はどこにある?」
「……無い」
これだと提示できる証拠などどこにも無いし、論理的に説明できる根拠も無い。
でも、だ。
「でも、不安だよ……」
孵化が成功する根拠も無ければ証拠も無いのは、同じことだ。
「その気になれば確率を計算することはできるが、材料が少なすぎて、今の私には正確な結果を出すことはできない。だから、様子を見よう。今私達にできることは、それしかない」
「そうだよ。まだ七日じゃないか。一緒に待とうよ。ね?」
美月は消え入りそうな声で、そうだね、と卵に一瞬だけ視線を走らせた。
すると。
「あ~」
「ココロ? どうした?」
ハルの腕の中から、ココロがじたばたと身をよじらせた。
孵化器にぴんと手を伸ばし、握ったり開いたりを繰り返している。
「卵が気になるの?」
ハルはテレビの頭を捻りながら、ココロが触ることが出来る距離まで孵化器に近寄った。
ココロはぺたり、とその手を吸盤のように接着させ、すぐに離し、またつけている。
「あう~あ~」
遊んでいるのか、それとも話しかけているのだろうか。
美月の表情だけでなく、その場の空気も和らいだ。
ココロは何の疑いも持っていないのだ。この卵の中にいる命と会えるということに。
どこまでも真っ直ぐで無垢な瞳。卵を見つめるその目を見つめているうちに、身を襲ってきた不安が、薄れていくのがわかった。
「うん、確かにそうだね。待っていよう。まだ、不安に思う時じゃないよね」
美月が再び、ドームを撫でさすった時だった。
ぐらり。卵が揺れた。
美月は口をぽかんと開けた。穹は何度も瞬きした。
穹は駆け出した。大した距離の無い孵化器のドームに飛びついた。
美月はすぐに顔を近づけた。が、横からやってきた穹に場所を奪われた。
我先に押し寄せ合いながら、隙間も無いほどに顔をくっつけ、目の周りの筋肉が痛くなるまで目を見張り、中を覗いた。
だが、ドームに白く曇った箇所が二つ出来るまでくっつけていても、卵が再び動くことはなかった。
「見た、穹?」
「うん、見た」
「やはりな。ミヅキ、これで君の不安も、少しは軽減されただろう」
体を離す。ドームの真っ白な跡が、境界線徐々にぼやけていき、溶け込むようにして薄らいでいく。
いつも通りの孵化器、いつも通りの動かない卵の姿が、そこにあった。
「私見たわよ。近寄っていった時の、穹の顔」
急に何をと言いたげに、穹がわずかに首を傾げた。
「ハルも見たでしょ?」
「うん。目を大きく開いて、口も閉じることを忘れていて、足はもつれさせていたのに、手は必要以上に振っていた」
「ええ、嘘でしょ?!」
穹は自分の顔をぺたぺたとさわり、手と足を凝視した。
「最初は卵のこと怖がってくせに……」
「いやそれ言うなら姉ちゃんこそ! ハルさん、姉ちゃんの顔見てました?!」
「見ていた。ソラ以上に目を大きく見開いていた。血管も浮き出ていた。あれは確か、ソラの持ってきた本に書かれていた、“般若”と呼ばれる者の顔と似ていた」
「ほら!」
ぶふっといういやに場違いな音が、その場で発生した。
発生源とみられるミヅキは、腹を左手で押さえ、口と鼻を右手で覆っていた。
小刻みに震えていた手が離れた瞬間、けらけらと大きな笑い声が、リビングの室内に満ちた。
「なんかおかしい……!」
「何がだ?」
「必死さが!」
ハルは「必死さ、必死」と口の中で何度も繰り返している。
それがますます、美月にとっては、おかしく感じた。
「はあ、面白い! あなたも早くおいで。外の世界は面白いことでいっぱいだからさ!」
美月はまだお腹を抱えていた。穹はふふっと微笑みを口元に浮かべていた。
ココロは腕をぶんぶんと振りながらはしゃいでおり、ハルはまだしきりに首を捻っていた。
卵がまた、わずかに動いた。
だがあまりにも小さな動きだったせいで、気づいた者は誰もいなかった。
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