2/1 蜜柑と電車

 どうしたって取れない痛みはあり、それが心のかどうかは個人による。わたしは電車に揺られ、ひたすらに遠くをながめて、痛みを紛らわせぬものかと苦難していた。蜜柑を揉みしだき、淡々とすぎる山と、ちらとのぞく海をにらんだ。しかしそうしたつまらぬ策を講じても、膝の疼きはちいともなくならない。


 熱海を目指す電車の旅は、快適とはいいがたい。三が日というのに小田急線おだきゅうせんは鼻につく人混みで、ビールの一杯も飲めたものではない。しかしたどりつく先のことを思えば、それもまた興が乗る。きんと冷えたビールは、我慢すればするほど爽快にこの喉を鳴らすのだ。


 温泉はだれも拒まず、それを癒す。母のような温もりである、そう思えば、だれもがそれを求めて温泉地に赴くのもうなずける。きっとわたしも、かかえた痛みを母の温もりによって包まれ、癒されたいがゆえに、揺られているのだろう。


 藤沢は、小田急線から東海道線とうかいどうせんに乗り換えるとき、のぼらなくてはならない。しかし昇降機を使うのはしゃくだから、意地でも階段を使うのだ。しかしこの膝のせいで一足ずつしかのぼれない。わたしは息も絶え絶え、汗を流していると、うしろから少年が数人、追い越していった。彼らはのぼり終え、一番槍の、帽子をさかさに被った少年が声高らかにこういった。


「あのおっさん、びっこだぜ。だっせえの。ああまでなって生きていたくないぜ、まったくさ」


 わたしは思わずうしろを振りむいた。しかしだれもおらず、少年たちだけがくすくす笑いながら脇を抜けていった。ぐっと拳をにぎり、あの世間知らずに一撃くらわせてやろうかと震えたが、錆びた膝ではどうしようもなかった。


 ようやくのぼり終えると、一息つかなくては足が立たなかった。老いは心底憎い。やり手の商人もそこらの乞食も、おなじように老いて死にゆくのが許せないのだ。いくら国のため人のために働こうと、老いは足並みそろえて迫ってくる。むしろ生真面目に働いた分、世間にもまれ、擦り切れて早死にするなんて、どうも不条理だ。こんな人生は、まったく生きづらくて仕方ない。


 わたしはポケットから蜜柑を取りだし、ひとつ香った。こいつは憎らしくも愛おしい。揉まれれば揉まれるほどに甘さを増していく。もし人間であったなら、どれほどの功績をなせるだろうか。そう思うといやに愛着が湧き、口に運ぶのが惜しくなる。しかし食べごろを逃されては、こいつとてたまったものではなかろう。ああ、憩いだ。逆立った心も、一息ついた。


 やっとの思いで東海道線のホームにたどりつき、壁に寄りかかりながら電車を待った。以前に熱海へ足を運んだときは、隣に妻もいたのだが、今度は代わりに蜜柑がいる。ひさしぶりの大喧嘩だった。他愛もないことだったが、意地が湧いてしまったのだ。


 そしてわたしはここまで逃げ、嫁はこいつだけ寄こした。どういう心持ちか知れないが、当てつけであろうと決めこんでいた。生涯の伴侶はんりょという言葉が意味をなさなくなってからしばらく、こうして彼女が意思を示したのははじめてだった。


 思ってみればそれは、当てつけなどではなかったかもしれない。あいつはずっと無口だったが、思慮しりょ深い女だ。こうしてはじめて行動に起こしたからには、訳があるに違いないのだ。


 向かい側のホームに杖をつく老人と、それを支える婦人の姿が見えた。言葉はなかったが、行動が示していた。彼らは互いを思いあっている。ようやくわたしは思い至った。わたしたちがともにすごした時間こそ、この蜜柑なのだろう。長年連れ添うと言葉では交わせないものが増える。しかしむしろ言葉のみより、奥深くなるものであろう。


 電車に乗りこむと、時間のせいか空いていた。だから周りも気にせず、ビールの代わりに買った缶のコーラをあおった。さきほどの苦しさも、ぴりりとしたのど越しに流されていく。ふたたび蜜柑を取った。


 思えば人生、苦しいことばかりであった。身を粉にして、好かぬ人と関わり、ついにはびっこだと蔑まれた。しかしこの蜜柑を見ていると、どうしてか心も身体も安らぐ。苦しいことばかりであったが、この一瞬こそが生きる意味だと実感する。激流のなかの憩い。その意味すら、わたしの人生のなかで、ほとほと忘れてしまっていた。


 きっと、こうして逃げてよかった。常に肩張り汗流して生きるのは苦しいものだ。わたしは安堵にひと眠り、電車はもう熱海に迫っていた。わたしを笑いものにした少年たちは車両の対角線にいて、海をながめて唸っていた。ふっと笑い、わたしも海をながめてひとつ唸ってみた。日を散らす波はどこまでもつづいていた。


 背の方を見ると、わずかに富士の山がのぞいていた。幽邃ゆうすいだ。わたしはぴんときて、窓枠にコーラを乗せた。それに蜜柑を乗せ、うまく富士山と重ねてみると、なんと縁起のいい。そこにあるのは、世界一大きい鏡餅かがみもちだ。


 まことに人の世は生きづらいものではある。しかしそれでも、よろこびはある。憩いから戻ったら、ひとつ痛みと向きあってやろう。缶に乗った蜜柑を取って、わたしはもう一度それを香った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る